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update:2021.01.11 担当:菅原 大介
晋書巻八十九
列伝第五十九
易雄
人物簡介

易雄(?〜322)は字を興長といい、長沙郡瀏陽県の人である。郡の主簿の時、張昌の乱に遭遇し、長沙太守の万嗣を救って有名になった。孝廉に推挙され、州の別駕となるも辞職し、後に舂陵令となった。永昌元年(322)、王敦が挙兵すると、湘州刺史の譙王司馬承に応じて抗戦したが、王敦配下の魏乂に破れた。いったんは釈放されたが、後日夢占いのとおり殺された。

本文

易雄は字を興長といい、長沙郡瀏陽県の人である。若くして県の官吏となったが、自らの身分が低いことを考え、出世の道もなかったので、頭巾を脱いで県門に掛けて立ち去った。そこで法律を学んでしきたりを実際に行い、豪族と交際したので、州内で次第に評判となった。郡に仕えて主簿となった。張昌が反乱すると(1)、〔長沙〕太守の万嗣を捕らえ、いまにも斬ろうとしたので(2)、易雄は是非について賊と論争した。賊は怒り、易雄を引きずり出して斬るよう大声で命じたが、易雄は動ずることなく礼を失しない態度で進み出た。賊はもう一度易雄に声をかけて質問すると、易雄は当初のように対応した。このようなことが三度あると、ついに賊は易雄を赦した。このようにして万嗣は釈放されることになり、易雄は名を知られることとなった。孝廉に推挙され,州の主簿となり(3),別駕に昇進した。自分は地位の低い家柄で、別駕に長く留まるのは良くないと考え、辞職して家へ帰った。後に舂陵令となった。

〔湘州〕刺史の譙王司馬承はすでに王敦と仲違いをしていたので、挙兵して朝廷に駆けつけようと謀っていた。易雄は司馬承の命令を受けて近隣や遠方に檄文を送り、王敦の罪悪を列挙し、県内に募兵を発表すると、数日のうちに民衆千人が集まり、食料を背負い武器を携えて易雄に従った。司馬承はすでに籠城していて、湘州内は荒らされた後であり、城壁や堀も完全ではなく、兵士や物資は欠乏していた。王敦は魏乂と李恒を派遣して易雄を攻めさせると、易雄は指揮下の兵士を激励し、幾週も防戦し、士卒の死傷者は数多かった。力尽きて落城すると(4)、易雄は魏乂に捕らえられたが、意気は盛んで、恐れの表情はなかった。武昌に送られると、王敦は使者を遣わして易雄に檄文を示して責めさせた。易雄は言った。「間違いなく自分が発したものだ。惜しむらくは私の官位が低く力は弱く、国家の災難を救うことが出来なかったことだ(5)。王室がもし焼かれるのであれば、私はどうして生きていけようか。今日殺されたとしても、忠義の鬼神となることができれば願うところだ。」王敦はその言葉の正しさに恐れをなし、易雄を釈放した。人々はみな祝福したが、易雄は笑って言った。「昨夜夢で車に乗ったが、傍らに肉が引っかかっていた。そもそも肉には必ず筋があるが、筋は斤であり、車の傍らに斤があるというのは〔「斬」という字になり〕、私が殺されるということだ。」まもなく王敦は易雄を殺させた(6)。当時話を聞いた人で嘆き悲しまないものはいなかった。

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