(1)『論語』「衛霊公第十五」に「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て人を成すこと有り。」とある。
(2)『史記』巻八十一「廉頗藺相如列伝」に「死を知るは必ず勇あり、死するは難しからざるなり、死を処するが難し。」とある。
(3)嵇紹は蕩陰の戦いに敗れて恵帝の側近が散り散りになる中、恵帝の乗る輿から離れずに身を挺して守って死んだ。「嵇紹伝」を参照のこと。
(4)卞壼は蘇峻の反乱の際、背中を負傷しながらも力戦して戦死した。「卞壼伝」を参照のこと。
(5)桓雄は王敦の反乱の際に譙王司馬承が捕まると、童僕となって司馬承に随行した。「桓雄伝」を参照のこと。田叔は前漢の人物で、趙王が罪を得て連行される際に罪人の姿をして随行した。『漢書』巻三十七「季布欒布田叔伝」を参照のこと。
(6)周崎は王敦の反乱の際に譙王司馬承の命令で援軍を求めに城から出たが、王敦配下の魏乂に捕らえられた。魏乂から味方を落胆させる情報を流すよう脅されたが、反対に味方を勇気づけたため、魏乂に殺された。 「周崎伝」を参照のこと。『春秋左氏伝』宣公十五年の条によると、解揚は春秋時代の宋の人で、宋が楚に包囲された際、援軍を求めに向かい、帰途に捕まって楚に送られた。楚から宋に落胆させる情報を言うよう脅かされたが、脅しに屈せずに勇気づける情報を伝えた。
(7)羅企生は前の上官の殷仲堪を破った桓玄に臣従しなかったため、桓玄に殺された。「羅企生伝」を参照のこと。丁穆は苻堅に捕らえられて長安に連行された後、長安襲撃を計画したが、発覚して殺された。「丁穆伝」を参照のこと。
(8)辛勉は懐帝とともに平陽に連行されたが、劉聡に臣従しなかったため、毒酒を飲むよう迫られると、自ら飲もうとしたので、劉聡にその忠節を認められた。「辛勉伝」を参照のこと。吉挹は魏興太守として魏興を守っていたが、苻堅の部将に敗れて捕らえられ、食を絶って死んだ。「吉挹伝」を参照のこと。
(9)張禕は恭帝が琅邪王の時の朗中令であったが、恭帝が即位した後、劉裕から恭帝に鴆毒を飲ますよう命じられたので、自ら飲んで死んだ。「張禕伝」を参照のこと。
(10)王諒は交州刺史として赴任すると、交州を牛耳っていた梁碩を誅殺しようとしたが、逆に梁碩の攻撃を受けて敗れた。梁碩は王諒の持つ節を奪おうとして拒まれたので、右腕を切り落としたが、王諒は落ち着いて右腕などたいしたことがないと言い返した。「王諒伝」を参照のこと。