(1)「張昌伝」によると、張昌は部将の陳貞らに長沙郡等を攻略させた。
(2)「陶侃伝」によると、万嗣は若き日の陶侃を見てその素質を見抜いた。『晋書斠注』に引く『北堂書鈔』巻七十三に引く『晋中興書』によると、万嗣は降伏せず、張昌は万嗣を斬ろうとしていた。
(3)『北堂書鈔』巻七十三に引く臧栄緒『晋書』によると、譙王司馬承が湘州令になると、易雄は主簿になった。
(4)『北堂書鈔』巻七十三に引く臧栄緒『晋書』によると、落城し、配下が逃亡すると、易雄は官服を脱いでしもべの姿となり、自ら労役を買って出た。
(5)『晋書斠注』に引く『北堂書鈔』巻一〇三に引く鄧粲『晋紀』には、「但雄力弱,不能扶翼本州匡救國難,以此慙恨耳。」とある。
(6)『資治通鑑』巻九十二によると、易雄が殺害されたのは王敦が挙兵した年である永昌元年(322)。