(1)「霍原伝」によると、劉沈は父の劉岱が霍原を推挙しようとして果たせなかったため、燕国の大中正になると、父の遺命を受けて霍原を二品に昇格させた。また霍原の二品昇格については「李重伝」にも言及がある。
(2)「王隠伝」によると、王瑚は字を処仲といい、王隠の兄。「王湖」や「王胡」と作る本もあるが、「王瑚」が正しいと考えられる。
(3)この計略は、侵攻してきた攻撃軍から防衛対象を救援するために、攻撃軍を直接攻撃するのではなく攻撃軍の本拠地を攻撃して攻撃軍を本拠地に撤退させるという『史記』巻六五「孫子呉起列伝」に見えるいわゆる「囲魏救趙」の計。
(4)衛博は『資治通鑑』では「衙博」と作るが、そうであれば「恵帝紀」太安元年五月の条に見える司馬顒の将の衙博と同一人物である可能性がある。
(5)「恵帝紀」によると、劉沈が挙兵したのは永興元年(304)正月。
(6)『文選』巻三八「薦譙元彦表」注によると、「三之節」の「三」とは「父・師・君」。