(1)「閻鼎伝」によると、梁緯のほかに梁緯の弟である北地太守の梁粛や撫夷護軍の索綝も攻撃に参加した。閻鼎は雍県に敗走したが、氐族の竇首によって殺された。「孝愍帝紀」によると、後日梁緯は散騎乗侍になったが、建興四年(316)七月、劉曜の攻撃を受けて死亡した。梁粛は馮翊太守になったが、建興三年(315)十月、劉曜の攻撃を受けて敗走した。
(2)『資治通鑑』巻八十九注に引く『考異』によると、『晋春秋』では「段凱」と作る。
(3)「孝愍帝紀」や「劉琨伝」では「趙冉」と作る。「孝愍帝紀」によると、趙冉は建興二年(314)七月に麹允に撃破され、流れ矢に当たって死亡した。
(4)「青白城」は「孝愍帝紀」でも同じく作るが、「劉聡載記」では「黄白城」と作る。『後漢書』巻七十二「董卓伝」によると、黄白城は董卓の部将の李傕が董卓死後の長安争乱の際に後漢の献帝を移そうとした城で、池陽県にあった。
(5)「孝愍帝紀」によると、麹允の自殺は建興四年(316)十一月であった。
(6)焦嵩が救援に赴いたことは「孝愍帝紀」に見える。