update:2005.10.01  担当:スート
文立
人物簡介
  文立(?〜二七九?)は字を広休といい、巴郡臨江県(現在の四川省忠県)の人である。太学に遊学して[言焦:035976]周に師事し、顔回にたとえられた。蜀・魏・晋の三王朝に仕えたが、蜀では尚書に至り、魏では秀才に推挙されて郎中となった。晋では諸葛亮・蒋[王宛:021069]・費[示韋:024775]らの子孫を推挙し、故国の人民の慰撫に勤め、武帝の信頼も厚く、衛尉にまで昇進した。旧蜀臣のなかで最も優遇された人物といえよう。咸寧(二七五〜二七九)の末年に卒去した。なお、『華陽国志』巻第十一「後賢志」にも文立の伝があるので参照されたい。
本文
  文立字廣休,巴郡臨江人也。蜀時游太學,專毛詩、三禮,師事[言焦:035976]周,門人以立爲顏回,陳壽、李虔爲游夏,羅憲爲子貢。仕至尚書。蜀平,舉秀才,除郎中。泰始初,拜濟陰太守,入爲太子中庶子。上表請以諸葛亮、蒋[王宛:021069]、費[示韋:024775]等子孫流徙中畿,宜見敘用,一以慰巴蜀之心,其次傾呉人之望,事皆施行。詔曰,「太子中庶子文立忠貞清實,有思理器幹。前在濟陰,政事修明。後事東宮,盡輔導之節。昔光武平隴蜀,皆收其賢才以敘之,蓋所以拔幽滯而濟殊方也。其以立爲散騎常侍。」
 文立は字を広休といい、巴郡臨江県の人である。蜀の時代、太学に遊学して『毛詩』と『三礼』(周礼・礼記・儀礼)を専攻し、[言焦:035976]周に師事した。門弟子たちは、文立を顔回にたとえ、陳寿と李虔(李密)を游夏にたとえ、羅憲を子貢にたとえた(1)。仕官すると尚書にまでなった。蜀が平定されると、秀才に推挙され、郎中の官を授けられた。泰始(二六五〜二七四)の初年、済陰太守を拝命し、中央に入って太子中庶子となった。上表して、諸葛亮・蒋[王宛:021069]・費[示韋:024775]らの子孫は中原の地をあてもなく彷徨っておりますので、ぜひとも彼らに官位を授けて登用され(2)、一つは巴蜀の人々の心を慰撫し、一つは呉の民の期待をこちらに向けさせるのがよろしゅうございましょう、と請願したところ、事柄はみな施行された。詔勅にいう、「太子中庶子の文立は、信念がかたく清実であり、仕事をするには深く考えて道理を見極めることができる。前に済陰郡にいたときには政治は整って明らかであり、のちに東宮に従事してからは補佐して導くという礼節を尽くした。その昔、光武帝が隴蜀を平定した折、その地の賢才をみな登用して官位を授けたというが、それはおそらく、埋もれてしまった人材を抜擢することによって他郷を救うことができる、ということであろう。そこで文立を散騎常侍に任ずる。」
  蜀故尚書[牛建:020078]爲程瓊雅有徳業,與立深交。武帝聞其名,以問立,對曰,「臣至知其人,但年垂八十,稟性謙退,無復當時之望,不以上聞耳。」瓊聞之曰,「廣休可謂不黨矣,故吾善夫人也。」時西域獻馬,帝問立,「馬何如。」對曰,「乞問太僕。」帝善之。遷衞尉。咸寧末,卒。所著章奏詩賦數十篇行於世。
 蜀のもとの尚書である[牛建:020078]為郡の程瓊は上品で徳行があり、文立と深い親交があった。武帝はその名を聞き、文立に下問した。それに答えて言うには、「臣はこの上なくその人物を存じておりますが、しかしながら年は八十歳になろうとしております。性質はもとより控えめであり、かつての誉は望むべくもありません。そのような理由で御報告しなかったのです。」程瓊はこの話を聞くと、「広休はへつらわないので、それゆえ私は彼を称賛するのだ」と言った。当時、西域より馬が献上された。帝は文立に下問した、「馬はどうすればよいか。」答えて言うには、「太僕に御下問されますよう。」帝はこの対応をよしとした(3)。衛尉に昇進し、咸寧の末年に卒去した。著述した上奏文・詩・賦あわせて数十篇は、世に伝わっている。

更新履歴
2005.10.01:第一版。
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