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晋書巻九十一
列伝第六十一
文立
人物簡介

文立(?〜279頃)は字を広休といい、巴郡臨江県(現在の四川省忠県)の人である。太学に遊学して譙周に師事し、顔回にたとえられた。蜀・魏・晋の三王朝に仕えたが、蜀では尚書に至り、魏では秀才に推挙されて郎中となった。晋では諸葛亮・蒋琬・費禕らの子孫を推挙し、故国の人民の慰撫に勤め、武帝の信頼も厚く、衛尉にまで昇進した。旧蜀臣のなかで最も優遇された人物といえよう。咸寧(275〜279)の末年に卒去した。なお、『華陽国志』巻十一「後賢志」にも文立の伝がある。

本文

文立は字を広休といい、巴郡臨江県の人である。蜀の時代、太学に遊学して『毛詩』と『三礼』(周礼・礼記・儀礼)を専攻し、譙周に師事した。門弟子たちは、文立を顔回にたとえ、陳寿と李虔(李密)を游夏にたとえ、羅憲を子貢にたとえた(1)。仕官すると尚書にまでなった。蜀が平定されると、秀才に推挙され、郎中の官を授けられた。泰始(二六五〜二七四)の初年、済陰太守を拝命し、中央に入って太子中庶子となった。上表して、諸葛亮・蒋琬・費禕らの子孫は中原の地をあてもなく彷徨っておりますので、ぜひとも彼らに官位を授けて登用され(2)、一つは巴蜀の人々の心を慰撫し、一つは呉の民の期待をこちらに向けさせるのがよろしゅうございましょう、と請願したところ、事柄はみな施行された。詔勅にいう、「太子中庶子の文立は、信念がかたく清実であり、仕事をするには深く考えて道理を見極めることができる。前に済陰郡にいたときには政治は整って明らかであり、のちに東宮に従事してからは補佐して導くという礼節を尽くした。その昔、光武帝が隴蜀を平定した折、その地の賢才をみな登用して官位を授けたというが、それはおそらく、埋もれてしまった人材を抜擢することによって他郷を救うことができる、ということであろう。そこで文立を散騎常侍に任ずる。」

蜀のもとの尚書である犍為郡の程瓊は上品で徳行があり、文立と深い親交があった。武帝はその名を聞き、文立に下問した。それに答えて言うには、「臣はこの上なくその人物を存じておりますが、しかしながら年は八十歳になろうとしております。性質はもとより控えめであり、かつての誉は望むべくもありません。そのような理由で御報告しなかったのです。」程瓊はこの話を聞くと、「広休はへつらわないので、それゆえ私は彼を称賛するのだ」と言った。当時、西域より馬が献上された。帝は文立に下問した、「馬はどうすればよいか。」答えて言うには、「太僕に御下問されますよう。」帝はこの対応をよしとした(3)。衛尉に昇進し、咸寧の末年に卒した。著述した上奏文・詩・賦あわせて数十篇は、世に伝わっている。

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