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update:2021.04.18 担当:劉 建
晋書巻九十五
列伝第六十五
陳訓
人物簡介

陳訓(生没年不詳)は字を道元といい、歴陽郡の人である。若い頃から多くの神秘的な学問を学び、探求に尽きることはなかった。孫晧に仕えて奉禁都尉となり、呉が滅ぶと諫議大夫を拝命したが、職を辞して故郷に戻った。八十歳余りで卒した。

本文

陳訓は字を道元といい、歴陽郡の人である。若い頃から秘術、天文学、暦数の計算、陰陽学、気象占いを好んで、〔探求に〕尽きることなく、殊に風占いを得意とした。孫晧は〔陳訓を〕奉禁都尉として、気象占いをさせた。孫晧の政治は冷酷であったので、陳訓は孫晧が必ず負けると知っていても、敢えて進言しなかった。銭唐湖(1)が雪解けを迎えた時、ある者は太平の世となり、皇帝は洛陽に入ると言った。孫晧は陳訓に尋ねると、陳訓は言った。「私の所で気象占いを占うことができますが、銭唐湖のある辺境の地ではできません。」後ろに退くと〔陳訓の〕友に対して言った。「皇帝が洛陽に入るとは、今にも死が差し迫っている事であるのだから、吉兆ではない。」やがて呉国は滅んだ。陳訓は慣例に従い住居を移し、諫議大夫を拝命した。まもなく職を辞して故郷に戻った。

陳敏が反乱を起こすに及んで、弟の陳宏(2)を歴陽太守として遣わすと、陳訓は同郷の者に言った。「陳の一族には皇帝を象徴する気数に吉兆がないので、近い将来に必ず滅亡するでしょう。」陳宏はこのことを聞くと、陳訓を斬ろうとしたが、陳訓の同郷人の秦璩は陳宏の参軍であったので、陳宏を説得して言った。「陳訓は風占いを得意としているので、試させるべきでしょう。もし当たらなければ、その時に斬り捨てても、遅過ぎることはないのだから。」そこで陳宏は陳訓を赦した。その時陳宏は歴陽にて東征参軍の衡彦を攻めていたので、陳訓に尋ねた。「城には何千人いるのだろうか?これを攻めれば打ち勝てるだろうか?」陳訓は牛渚山に登り、雲気を観察して吉凶を占うと、言った。「わずか五百人しかおりません。しかしながら攻めるべきではありません。攻めるとすれば必ず負けるでしょう。」陳宏は再び激怒して言った。「五千人で五百人を攻めてはいけない理由がどこにあるのか?」将軍を遣わして攻めたが、結果は衡彦に敗れ、やっと陳訓の道術を信じ、陳宏は陳訓を優待した。

都水参軍である淮南郡の周亢はかつて陳訓に官位について尋ねると、陳訓が言った。「あなたは、卯年には都に近い郡を司る官位を授かるでしょうし、酉年には〔儀仗兵や護衛兵を従えて、〕曲がった柄の蓋傘をもつことになるでしょう。」周亢は言った。「もしも、言うとおりならば、互いに推薦され抜擢されることになる。」陳訓は言った。「好い官職とは言えないが、ただ糊口を凌ぐだけのことです。」その後、周亢は結局、義興太守、金紫将軍となった。当時劉聰と王弥が洛陽に侵攻していたが、歴陽太守の武瑕は陳訓に言った。「国家や人々はどのようになるだろうか?」陳訓は言った。「胡人が三度接近して破壊し、国家は負けて、皇帝は野垂れ死にするでしょう。今は未だ、そのようにはなっていないのですが。」その後、懷帝や愍帝の二人の皇帝は結局、平陽で残酷な目に遭った。ある者は陳訓に来年の吉凶について尋ねると、陳訓は言った。「揚州刺史は死するでしょうし、武昌郡は大火に見舞われ、北部方面を司る将軍もまた、死するでしょう。」その〔予測した〕時に至ると、劉陶や周訪も皆、卒し、武昌郡は大火に見舞われ、数千軒の家を焼失した。そのとき甘卓が歴陽太守となったが、陳訓は自分の親しい者に言った。「甘卓は頭が低く、見下したりしないが、〔甘卓の〕人相を占うと、〔剣の〕刀を軽視すると〔いう結果が〕出たし、又、目は血走ってもおり、自ら疎遠になり引き籠って、十年間は現れないが、必ず兵器によって死するだろうから、軍隊を率いずに逃亡した方がよいでしょう。」甘卓は結局、王敦によって誅殺された。丞相の王導は重病になり、いつも心配であったので、陳訓に尋ねた。陳訓は言った。「あなたの耳は真っ直ぐ肩に垂れているので、必ず長生きしますし、また大変貴重〔な耳〕でもありますが、子孫は江東の地に於いて繁栄するでしょう。」結果は〔陳訓の〕言ったとおりになった。陳訓は八十歳余りで卒した

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