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update:2021.01.11 担当:劉 建
晋書巻九十五
列伝第六十五
麻襦
人物簡介

麻襦(生没年不詳)は本籍や姓名については不明である。常に麻地の服を着て、通りで食物などを恵んでもらっていた。弁論が他の人より優れていた。石虎の治世に捕縛され、仏図澄と再会し、数百年の出来事を終日、話し合った。その会話は難解なものであった。

本文

麻襦はどこの人なのかわからなく、姓名もはっきりしない。石季龍(石虎)の治世に、魏県の市場の通りで食物などを恵んでもらい、つねに麻地の短衣を纏い、布の腰巻を穿いていたので、当時の人々は彼に麻襦というあだ名を付けた。弁論が他の人より優れていたが、その様子はまるで常軌を逸しているようであり(1)、米穀を恵んでもらっても食べず、いつも必ず通りにばらまき、天馬に餌を与えていると言った(2)。趙興太守の籍状は麻襦を捕縛して石季龍に送致した。

これより前に、仏図澄は石季龍に言った。「国都の東、二百里の地から某月某日、非常の人が一人送致されるが、その者を殺してはいけない。」予言どおり本当に送致された。石季龍は〔麻襦と〕対話したが、ほかに何も言わず、ただ「陛下は一柱殿下で亡くなられるであろう」と言うばかりだった(3)。石季龍は〔麻襦の発言の真意を〕解明できず、〔麻襦を〕仏図澄へ送った。麻襦は仏図澄に言った。「その昔、〔後漢の〕光和年間(178〜184)にまみえてから、現在に至った。西戎(4)が天命を授かっ〔て中国を支配し〕たが、その定められた期間が終わり、終末を迎えるのだ。金は離れて土に消され、辺境の荒涼とした地方は服従できず、辺境の荒地に住む民は従うことはなく、登仙の修行をする者も追い払われたのだが、ああ、もうおしまいだ、などと思うことはないのだ。辺境の異民族の子孫が増えていき、今まさに彼らが中原に大量にやってきた。好い事がある時というものは想い到らぬもの、歓び(5)も長きにわたるだろう。」仏図澄は言った。「天は回り、運命は尽き、(易の)「否」卦はきっと防げず、九木(6)にとって水は困難であるのに、鎮める手段がなかったのだ。道理を深く理解する知恵のある者が現世にあるといっても、事物の根本をしっかりと成さなければ、衰退するものだ(7)。久しく人間界で過ごしていると、こんな厭な事が多くて煩わしい。仙境に登り、無欲、無為の世界で会って、戯れ遊ぼうではないか。」この二人の言っていることを誰も理解できなかった(8)。石季龍は駅馬を派遣して〔麻襦の〕郷里の県に送還しようとしたが、〔麻襦は〕すでに城を出て、歩いて行くことを請い、そして言った。「私は行く所があるので、あなたは合口橋に行って〔私を〕待っていてほしい(9)。」使者は言葉に従って馬を疾走させたが、合口橋に着くと、麻襦はすでに先に橋に着いていた。

その後、慕容儁は石季龍の死体を漳水に投げ入れたが、橋の支柱に引っ掛って流れずにいたので、当時の人は「一柱殿下」というのがこのことであると思ったのだった。元帝が江東で即位するに及んで、「天馬(10)」に符合すると思ったという(11)

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