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update:2021.01.11 担当:劉 建
晋書巻九十五
列伝第六十五
単道開
人物簡介

単道開(259頃〜359?)は敦煌郡の人である。無欲恬淡であり、山中に籠り、修行を続けた。百歳余りで卒した。弟子によって葬られ、袁宏はその墓所を訪れて、讃辞を送った。

本文

単道開は敦煌郡の人である(1)。いつも麻地の衣服を着て、ある者は〔単道開に〕絹織物の服を贈り物にしたが、〔単道開は〕すべて着ることは無く、暑さや寒さも事とせず、昼夜を通して寝ることは無かった(2)。常に細石子を服用し、多い時や少ない時でも、一日に一回、数個を服用した(3)。山中に居住するのを好み、山に棲む木々の諸神は怪異な姿を現して、〔単道開を〕試したが、終始怖がる様子はなかった。

石季龍(石虎)の治世の時、〔単道開は〕西平より来ると、一日に七百里を行き、その中の一人の見習い僧は年が十四歳であったが、脚力は単道開に匹敵した(4)。秦州に着くと、鄴に送るよう奏上したので(5)、石季龍は仏図澄に〔単道開と〕話をさせたが、〔単道開を〕言い負かすことはできなかった。〔単道開は〕当初、鄴城の西側にある仏門の法綝の祠に居住したが、その後、臨漳の昭徳寺に移住した(6)。寺の僧の住居には八、九尺の高さにまで部屋を重ねて造り、その上には菅を編んで禅を行う部屋を拵えて、常にその部屋の中で座禅を組んだ(7)。石季龍は私財や物資を十分に施したが、単道開は〔受け取らず〕全部を他の者に施行した。〔単道開に〕教えを請う者がいたが、単道開は決して答えなかった(8)。一日に数個を守って丸薬を服用し、大きいものは梧桐の実くらいであり、薬の成分には松脂、生姜、肉桂、伏苓の気が含まれており、いつも紫蘇茶を一、二升飲むだけであった。〔単道開は〕自ら目の病気の治療をすることができると言ったが、〔果たして〕治療は効目があった(9)。単道開の行動を観察すると、まるで神がいる様であった。仏図澄は言った。「この道士は国情の栄枯盛衰を観取している。もし退去するならば、恐らく大混乱に見舞われるだろう(10)。」石季龍の治世の末期になると、単道開は南の許昌に渡ったが、まもなく鄴では大きな戦乱が起こった。

升平三年(359)に都(建業)に到り、その後、南海に来ると、羅浮山に上り、俗世間から抜け出して、茅草を覆った小屋に、ひっそりと独居した。百歳余りで山小屋において卒した(11)が、門弟に〔生前、自分の〕遺体は石洞の中に安置するよう伝えていたので、門弟は石洞へ移し入れた。陳郡の袁宏は南海太守となると、弟の袁穎叔、および仏門の支法防とともに羅浮山に上り、石洞の入口に近づくと、単道開の遺体は生きているようであり、香や燈火を〔供える〕器皿はなお未だあるのが見えた。袁宏は言った。「僧侶の学業や徳行は群を抜いており、まさに蝉が殻を脱ぐようだというしかない(12)。」そこで袁宏は〔単道開に対し〕賛辞を書き綴ったのである(13)

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