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update:2021.01.11 担当:劉 建
晋書巻九十五
列伝第六十五
黄泓
人物簡介

黄泓(284?〜380?)は字を始長といい、魏郡斥丘県の人である。黄沈の子。天文占いや神秘的な術に長けていた。慕容廆の支配下に入ると、軍事や国政に意見を述べ、慕容皝に対して石虎の敗退を予言し、慕容儁には重要な官職を授けられて重んじられ、寵愛された。前燕で太史霊台諸署統・給事中に至り、平舒県五等伯に封じられたが、前燕が滅ぶと郷里に帰り、太元五年(380)頃卒した。享年九十七。

本文

黄泓は字を始長といい、魏郡斥丘県の人である。〔黄泓の〕父の黄沈は天文占いや神秘的な術に長けていた。黄泓は父から学問を授かり、すぐれて巧みではるかに理解が深く、そのうえ経書や史書などの多くの書物を広く読み、その中でも礼記や易経に精通していた。黄泓は生まれつき真面目で勤勉であり、礼に適わないことはしなかった。永嘉の乱の時、黄泓と渤海郡の人の高瞻は一緒に幽州に避難し、黄泓は高瞻に忠告して言った。「王浚は愚昧で、暴虐であるので、最後にはきっと成功できないだろうから、進退を考慮して、長期の居場所を画策したほうがよいだろう。慕容廆の〔執行する〕刑罰も政治も清く明らかに秩序だっていて、素直に人材を招き、その上、予言の言葉では帝王は東北の方角から出現すると言ったが、もしかしたらそうかもしれない。私たちは一緒に彼の支配下に入り、共同で事業を打ち立てるのが最も好いだろう。」しかし、高瞻は〔忠告を〕聞き入れなかった。黄泓は一族を率いて慕容廆の支配下に入ると、慕容廆は客人としての礼遇で接待し、黄泓を参軍に抜擢し、軍事や国政について、常に黄泓に尋ねた。黄泓は事の成り行きについて、分かりやすくはっきりと述べ、すべて正確であり、誤りは無かった。慕容廆はいつも言った。「黄参軍は私の仲翔である(1)。」

慕容皝が〔慕容廆の〕位を継ぐと(333)、黄泓は左常侍に昇進し、史官を兼ね、甚だ重んじられた。石季龍(石虎)が慕容皝を攻撃すると、慕容皝は遼東へ逃げる準備をしたが、黄泓は言った。「侵入してきた敵には敗北の気があるので、憂慮することなどありません。二日も過ぎないうちに、石季龍は必ず負けるでしょう。急いで軍隊を整え配置し、追撃の準備をしなければなりません。」慕容皝は言った。「現在、敵はこんなに勢いがあるのに、あなたは彼らが必ず敗走すると言うが、私には信じられん。」黄泓は言った。「陛下が仰った勢いとは、人のなせることであって、臣が申し上げた彼らが必ず敗走するとは、天が決められた事であるので、疑うに値しません!」その時になると、石季龍は果たして敗退し、慕容皝は黄泓を、なおいっそう貴重だと思った。

慕容儁が王に即位すると(349)、黄泓は従事中郎に昇進した。慕容儁は冉閔が乱を起こして、中原において謀計をめぐらすつもりであるのを聞き、この事を黄泓に相談した。黄泓は慕容儁に行動するよう勧め、慕容儁は黄泓の忠告を聞き入れた。慕容儁が皇帝を僭称すると(352)、黄泓を進謀将軍・太史令・関内候とし、ほどなくして奉車都尉・西海太守を加え、太史令を兼ね、開陽亭候とし、さらに平舒県五等伯に封じると、〔黄泓は〕いつも慕容儁の身辺に付き従わせ、重大な事柄については相談して決断を下した。霊台令の許敦は黄泓が寵愛を受けていることに嫉妬して、慕容評に媚び諂うと、異なった意見を作って黄泓を中傷したので、〔慕容儁は〕黄泓に太史や霊台を全て統括させ、さらに給事中の官職を加えた。黄泓は許敦にいっそう好い対応をしたので、許敦は黄泓の中傷をやめ、改心した。

慕容暐が敗北すると(370)、黄泓は年老いたことを理由に帰郷し、嘆息して言った。「燕国は必ず中興するが、それは呉王においてなので、私の年齢ではそれを見るには年を取り過ぎているのが残念なだけだ(2)。」〔黄泓は〕九十七歳にして卒した。死後三年経つと、偽の呉王の慕容垂が自立した(3)

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