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update:2021.05.23 担当:劉 建
晋書巻九十五
列伝第六十五
王嘉
人物簡介

王嘉(生没年不詳)は字を子年といい、隴西郡安陽県の人である。容貌が醜く、外見は丈夫そうではなかったが、しかし賢くて英知に満ちていた。少数の者が王嘉の言葉を理解することができたが、事が起きた後は全て、予言したとおりになった。姚萇が長安に入ると、姚萇の相談役を強要されたが、後に姚萇の怒りを買って殺された。苻登から太師を追贈され、文と諡された。『牽三歌讖』を創作し、『拾遺録』十巻を著した。

本文

王嘉は字を子年といい、隴西郡安陽県の人である(1)。王嘉は動作が軽快であるが、容貌が醜く、外見は丈夫そうではなかったが(2)、しかし賢くて英知に満ちていた。王嘉は面白おかしく談笑するのを好み、五穀を食べず、好い服は着なかったが、清らかに無心になって吐納をしても、世間の人とは交際しなかった。王嘉は東陽谷に隠居すると、断崖に洞穴を掘って居住したが、王嘉の授業を受けた門弟が数百人おり、皆も洞穴に住んだ(3)

石季龍の治世の末年に、王嘉は彼の弟子と離れ、長安に着いたが、密に終南山に隠居すると(4)、藁葺小屋を建てて住んだ。王嘉の弟子は〔王嘉の居所を〕耳にすると又、王嘉の後に付き従ったので、そこで、王嘉は倒獣山に引っ越した。苻堅は度々、王嘉を召し出したが、王嘉は応じなかったので(5)、爵位のある貴族や位の高い高官より位が下の者は皆、自ら王嘉に謁見しに行ったが、王嘉を好きで崇め尊ぶ者は、王嘉を手本としない者はいなかった。王嘉にこの世のことを尋ねると、王嘉は全て質問に沿って、答えが出て来た。王嘉は比喩を作るのを好み、まるで酷い冗談のようであったが、まだ起きてもいない事に話が及ぶと、言葉はまるで予言のようであり、当時、少数の者が王嘉の言葉を理解することができたが、事が起きた後は全て、王嘉の予言したとおりになった。

苻堅は間もなく南方に出征しようとしたが、使いを遣わして王嘉に問い質した。王嘉は言った。「金剛の火は強い。」そして使いの馬に乗り、衣冠をきちんとすると、東へゆっくりと歩いて百歩数えると、馬に鞭打ち、反対にに駆けて行くと、服を脱ぎ、帽子や靴を投げ捨てて帰り(6)、馬を降りて寝床に入っても、一言も話さなかった。使いの者は帰って報告したが、苻堅は理解できなかったので、再び使いを遣って王嘉に問い質して、言った。「我が国の国運はどうでしょうか?」王嘉は言った。「未央(いまだ尽きず)。」人々は皆、縁起の良い話だと考えた。次の年の癸未には、苻堅は淮南において打ち負かされたが、いわゆる未年にして殃(わざわい)ありということであった。人を占うのは、心にて見るのであって、心に至らなければ隠れた形を見ることはできない。服は未だ衣紋掛けにあり、靴や杖は未だあったが、ある者が王嘉の服を下ろそうとすると、結局は届かなかったので、爪先で立って踵を起こして取ろうとすると、衣紋掛けは一層高くなったが、しかし部屋は却って大きさは変わらなかったし、靴や杖もそれぞれ同じであった。

姚萇は長安に入った後、苻堅のあのような礼儀を用いて王嘉に対応すると、王嘉に自分に付き従うように強制したが、どんなことでも全て王嘉に質問した。姚萇は苻登と対立すると、王嘉に尋ねた。「私は苻登を誅殺して、天下を平定できるでしょうか?」王嘉は言った。「略(ほぼ)できるでしょう。」姚萇は腹を立てて言った。「出来るのだったら出来る、と言いなさい。略(ほぼ)とはどういうことだ!」そして、〔姚萇は〕王嘉を誅殺した。以前、釋道安は王嘉に対して言った。「思いがけない出来事が正に、大き過ぎる時には、高飛びした方がよいでしょう」王嘉は答えて言った。「あなたはやはり、先に行って下さって、私は負債があるので、行くことができません」間もなく道安は逃走すると、この時に王嘉は誅殺されたのだが(7)、これが〔王嘉の〕言うところの『負債』のことであった。苻登は王嘉が亡くなったのを聞くと、壇を設けて泣いて弔い、太師の称号を贈ると、諡名を文とした。姚萇が亡くなった後に、姚萇の子の姚興は字を子略といったが、やっと苻登を誅殺したので、これが王嘉の言った『略(ほぼ)できるでしょう。』ということであった。王嘉の亡くなったその日に、ある者が隴山の辺りで王嘉を見かけた。王嘉の創作した『牽三歌讖』は、事後に全て予言したとおりになったので、以後、数代は尚、広く世に伝わった(8)。王嘉にはまた、『拾遺録』十巻があり、記載されている事柄は奇怪なものが多く、現在も世に伝わっている(9)

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