(1)字と本籍には異説もある。『太平御覧』巻四一に引く『羅浮山記』に「鮑静は字を子玄といい、上党郡の人である。」とあり、『太平御覧』巻六六四に引く『神仙伝』に「鮑靚は字を太玄といい(『晋書斠注』は「太元」と作る)、琅邪郡の人である。晋の明帝の時代の人。葛洪の妻の父。陰君よりその尸解法を授かる。一説には鮑靚は上党郡の人で、漢の司隷校尉の鮑宣の後裔という。」とある。今本『神仙伝』には鮑靚の伝はない。また「葛洪伝」では鮑靚のことを「南海太守上党鮑玄」としている。「鮑玄」は「鮑太玄」の脱字と考えられるが、鮑靚の別名という可能性もなくはない。本籍については本伝以外は上党郡の人とするものが多く、『晋書斠注』は上党郡と曲陽が近いので本伝の「東海郡の人」というのはおそらく誤りであろうと見解しているが、曲陽は次注のとおり4県があり、東海郡に近い県もあるので、誤りとするには根拠が足りないと考えられる。
(2)曲陽は「地理志」には冀州趙国の「下曲陽県」、冀州常山郡の「上曲陽県」、揚州淮南郡の「西曲陽県」の3県が挙げられているが、『後漢書』志第二一「郡国三」によると、東海郡の隣の下邳国に「曲陽県」があった。
(3)内学は緯書の学、外学は経書の学のこと。『資治通鑑』巻五二注に「東都の諸儒は七緯を内学となし、六経を外学となす。」とある。
(4)河図・洛書のこと。河図は伏羲の時に黄河から出てきた龍馬の背に描かれていた図のことで、伏羲はこの図を基に易の八卦を作ったという伝説がある。洛書は禹の時に洛水から出てきた亀の背に描かれていた書のことで、禹はこの書を基に洪範九疇を作ったという伝説がある。河図・洛書といえばこの二つの伝説で有名だが、ここでの河図・洛書はこれとは別で、緯書の代名詞。
(5)南陽国の中部都尉のことだが、職務等の詳細は不明。
(6)「葛洪伝」によると、葛洪は南海太守であった鮑靚に師事し、鮑靚の娘を妻とした。
(7)王機(289〜315)は字は令明といい、長沙郡の人。詳細は「王機伝」参照のこと。
(8)「王機伝」によると、王機は反乱を起こしたが、陶侃の征討軍に敗れて、敗走中に病死した。しかし埋葬された死体を斬首され、その二子も誅殺されたので、本伝で「誅殺された」と記述したと考えられる。
(9)陰長生のこと。陰長生は後漢の陰皇后の一族だったが、道術を学んで仙人になったと伝えられる。詳細は『神仙伝』参照のこと。『太平御覧』巻六六三に引く『道学伝』には鮑靚が陰長生と逢った逸話が記されている。