(1)『太平広記』巻一四に引く『十二真君伝』ほか諸書に「字は世雲」とある。
(2)今本『捜神記』には「濮陽郡の人」、『太平御覧』巻四一三に引く『捜神記』には「蜀郡の人」、『太平広記』巻一四に引く『十二真君伝』には「家は予章郡武寧県」とある。
(3)この逸話から呉猛は二十四孝の一人に数えられている。
(4)『太平広記』巻一四に引く『十二真君伝』には「南海太守の鮑靖(鮑靚の誤りと考えられる)に師事した」とあるが、本伝及び他書には見えない。『太平広記』巻一四に引く『十二真君伝』には許遜は呉猛に師事し、三清法要を伝えられたとある。
(5)『捜神記』には次のとおりある。「後將弟子回豫章,江水大急,人不得渡。猛乃以手中白羽扇畫江水,横流,遂成陸路,徐行而過。過訖,水復。觀者駭異。」この話は呉猛の有名な逸話の一つであるが、ほかには同じく『捜神記』に見える死んだ干慶を復活させた話などがある。干慶は『捜神記』の撰者である干宝の兄であり、「干宝伝」によると、干宝が神秘的な事象に興味を抱いた要因の一つにこの兄の復活があるという。
(6)「庾亮伝」によると、陶侃が死ぬと、庾亮は江・荊・予三州刺史になったが、「成帝紀」によると、その年月は咸和九年(334)六月。『太平御覧』巻六六三に引く『述異記』は庾亮が呉猛を招いた時を「咸康中」としている。