(1)『太平御覧』巻七五七に引く袁宏『羅浮山疏』に「単は善と作る。」とある。『高僧伝』巻十に「単道開は姓を孟といい、敦煌の人である。」とある。『法苑珠林』巻二七に「趙の国の僧侶である単〔道開〕を、或いは善〔道開〕の字と作り、単道開はどこの人か分からない。」とある。『隋書経籍志』・史部雑伝類に康泓が撰した『道人善道開伝一巻』がある。
(2)『高僧伝』巻十に「冬に衣服を脱いで裸になり、夏の暑さにも昼夜を問わず寝ることはなかった。」とある。
(3)『高僧伝』巻十に「五穀を食せず、柏の実を食していたが、柏の実は入手し難いので、松脂を服し、その後、細石子を数日に一回、一回に数個を服し、ある時には、幾許かの生姜を食した。こうして七年が経過した。」
(4)『高僧伝』巻十に「南安に到ると一人の子供を仏門に入れさせて沙弥とし、年齢は十四にして教えを授受し、脚力は単道開に及ぶことができた。」とある。
(5)『高僧伝』巻十に「その時に太史が石季龍に進言した。『仙人星が現れておりますので僧侶が国に入境することでしょう。』見知らぬ者がいたのならば、申し上げるよう、広く州に勅令を発した。当年の冬、十一月には秦州刺史が〔単道開に〕送って行くことを進言し、意見を書面で進呈した。
(6)『高僧伝』巻十に「照徳と作る。」とある。
(7)『高僧伝』巻十に「寺の僧の住居には八、九尺位の高さにまで部屋を重ねて造り、その上には菅を編んで十斛の体積の竹籠の如く、禅を行う部屋を拵えて、常にその部屋の中で座禅を組んだ。」とある。
(8)『高僧伝』巻十に「仙の道を樂しむ者が沢山来て、単道開に教えを請うが、単道開は一切それに対して回答せず、詩句を説き、言った。『私はすべての苦に対して同情し、仏門に入ったのもこの世界をより善きものにしようとしたからであり、この世界をより善きものにするには学ぶことに明るくなくてはならず、学ぶことに明るければ悪事を退けることができる。山中では食糧から遠く、入手し難いので、この穀断ちを計らったが、仙人の仲間を集ったのではないので、くれぐれも口外なさらぬよう。』」とある。
(9)『高僧伝』巻十に「単道開は眼の患いを治癒することができ、秦公の石韜の目を治した時、薬をつけると少し痛がり、石韜はとても驚いたが、果たしてその効能があった。」とある。
(10)『高僧伝』巻十に「石季龍の治世の大寧元年(349)に単道開は門弟と南方に移動し許昌に到った。石季龍の子は自分の兄弟の子と殺し合い、鄴都は大変な混乱に見舞われた。」とある。
(11)『法苑珠林』巻二七に引く『別伝』に「昇平三年(359)に羅浮山に行き、その年の七月に卒した。」とある。
(12)『高僧伝』巻十に「興寧元年(363)に陳郡の袁宏は南海太守となった。」とあり、『太平御覧』巻七五九に引く袁宏『羅浮山疏』に「単道開の遺体は石洞の北側の壁の下に安置され、姿は朽ち果て、只、白骨があるだけであった。その昔、都においてこの道士を知ったが、このことを聞いた人を感激させた。その学業と徳行は尋常ならざるものであったので、当然、解脱したであろう。石洞の中では先ず、器皿に香を盛ってあり、掃除と焼香がしてあった。」とある。『晋書校文』巻四に「袁宏伝によると吏部郎を経て東陽郡守となり、官位は南海太守に任命されないまま卒した。」とある。『高僧伝』巻十に「単道開伝に亦、『〔陳郡の袁宏は〕南海太守となる。』と作る。」と記載されたが、「皆、康泓の撰した伝である。」と〔付け加えたら〕よいであろう。(単道開伝は『晋書』の他に、『隋書』経籍志に康泓の撰した単道開伝があり、区別するためであろうか?)
(13) 『高僧伝』巻十に「袁宏は讃辞を述べた。『秀でた者は稀なることを寄せ付けるように、徳があると一人孤独ではない。遠くに隠遁する人は崖を遥かに眺め、音楽を演奏して入り、飛ぶように神仙たちがこの地に戯れ集まる。林に遺された靴は千年に一度履かれるのだ。』」『高僧伝』及び『法苑珠林』巻五九に康泓による単道開伝の讃辞がある。本伝によれば讃辞の言葉は無いのだが、この句は康泓が『高僧伝』を用い、それをそのまま採用した句であるが、未だに削除されていない。