(1)三国呉の参謀の虞翻、字は仲翔のことと考えられる。
(2)『太平御覧』巻七三〇に引く崔鴻『十六国春秋』「南燕録」に「太史公の黄泓の容貌は温和で善良であり、慕容徳に対して言った。『閣下は人相占いを先ず臣下に対して行い、その後に君主に対して行うべきです。しかし、恐らく小官は死んで閣下に会うこと無く、昇天するだけでしょう。』」とある。『十六国春秋』では「慕容徳」と作るが、本伝の「慕容垂」とは異なる。
(3)「慕容垂載記」によると、慕容垂は太元八年(383)に自立して燕王を自称しているので、このことから算出すると、黄泓の没年は太元五年(380)となる。ただし、『資治通鑑』巻一〇五では慕容垂の自立は太元九年(384)となっているので、黄泓の没年は太元六年(381)と算出される。