(1)『高僧伝』巻五「道安伝」に、洛陽人と作るが、『地理志』をこと細かに見ると、隴西郡には安陽県はなく、苻秦が置いた所ではないか、と疑う。
(2)『高僧伝』巻五「道安伝」に「容貌は貧弱で、丈夫そうではなかった。」と作る。
(3)『北堂書鈔』巻一百五十八に引く車頻『秦書』に「東陽谷で断崖に洞穴を掘って居住をしたが、王嘉に付いて学んだ者は各々、一つの洞穴を持ったので、結局、数百の洞穴になった。」とある。
(4)『高僧伝』巻五「道安伝」に「初めは加眉谷で教育した。」とある。
(5)『高僧伝』巻五「道安伝」に「苻堅は大鴻臚を遣いにやると、召し出したが就任しなかった。」と作る。
(6)『高僧伝』巻五「道安伝」に「詐って東方に向って数百歩行くと、それで靴や帽子を投げ捨て、服を脱ぎ捨てると、馬を疾走させて帰って行った。」と作る。
(7)『高僧伝』巻五「道安伝」に「姚萇が正に王嘉を誅殺した日になると、隴山の辺りで王嘉を目撃した者がおり、その上、姚萇に手紙を送っていた。」とある。
(8)『高僧伝』巻五「道安伝」に「人間の善や悪について、王嘉は口から出まかせに、答えた。言葉はまるで予言の様に可笑しく、事が起きた後の多くは、王嘉の予言した通りになった。隋志をこと細かに見ると、王子年歌一巻とあり、多分その書のことであろう。」とある。
(9)『玉海』に引く書物に「晋の王嘉は拾遺記十巻を著わしたが、梁の蕭綺は序に言った。『元々は十九巻の書物であるが、後に損なわれて完全ではなくなると、蕭綺は選定して十巻とした。』」とある。『続談助』一巻に「虞羲は王子年拾遺録を作った。」とある。『郡斎読書志』に「晋の王嘉の著書の百二十篇は、伏羲以来の不思議な話や前世の話、奇怪な話を掲載したが、本書は散逸して完全ではないので、梁の蕭綺は不完全である部分を拾い上げて、編集すると集めて記述した。」とある。