(1)『太平御覧』巻十一に引く『前秦録』には「沙公西域沙門也」とあるが、「沙公」は「渉公」の誤りと考えられる。
(2)『高僧伝』巻十一に「苻堅の建元十一年(375)に長安に到る。」とある。
(3)体内の汚れた気を吐いて、きれいな気を吸いこむ修行法。『荘子』刻意篇第十五に「吐故納新,熊經鳥申,為壽而已矣」とある。
(4)『高僧伝』巻十一に「この句の下に『咸歎其異(皆その尋常ならざる光景に歎息をもらした)』の四文字が続く。」とある。
(5)『高僧伝』巻十一に「建元十六年(380)十二月になっても、僧渉の病に変化はなく、苻堅は僧渉の死にとても嘆き悲しんだ。僧渉が卒した七日後に僧渉の神霊奇異を試すため、棺を開けてみたが、遺体はどこにも見当たらず、ただ遺体に着せた衣服が残っているばかりであった。」とある。
(6)『高僧伝』巻十一に「建元十七年(381)の四月から六月に掛けて苻堅は食事を二度と減らすことなく、和やかな気分を取り戻して、心配を払拭したが、七月になり再び龍(それとも雨?)が降りると、苻堅は言った。「中書の朱肜が言うことには、『もしも、渉公が天河に於いて聖人とならば、私がどうして憂慮などしようか。この呪術は深遠にして、実に空前の奇跡である。』」