(1)『晋宋書故』に「古より易占いには転式の方法がある。即ち栻であり、占者が用いる盤である。」とある。『史記』巻一二七「日者列伝」に「栻盤を回転させて、筮の状を正す。」とある。索隠に「式とは即ち、栻のことである。回る、回転する、という意味である。栻の形は、上の円が天を象り、下の方は地に倣った。これを用いて天綱を回し、地の辰(東南東)の方角に付け加えたので、故に旋栻と言った。棊とは、筮の状のことであり、棊を正すとは恐らく、卦を作ることを言う。」とある。索隠を見ると、世説新語の文学篇に馬李長(馬融)は転式の方法を用いて康成(鄭玄)を追跡したが、即ちこの方法を用いたのである、と言う。現在では術数に奇門六壬があり、太陽が黄道十二宮のある宮にある日の、地球のある時刻に影響が及んで現れて出て来たのに巡り会う、時空の状況と五行の関係を占うには、盤を回して占うが、恐らく古の前代から伝えられていたのだろう。これは『漢書』巻三十「芸文志」に「羨門式法」とあり、『隋書』「経籍志」に「〔桓安呉〕式經一巻、六壬式經雜占九巻、六壬釋兆六巻」とあるが、この式法と六壬とは即ち、同じ内容の別称である。『宋書』巻五十七「蔡興宗伝」に「郢州府参軍となり、彭城の顔敬は星盤を用いて蔡興宗のために占うと、言った。『亥の年に三公となり、官名には「大」の字があるが、引き受けることはないでしょう。』」とあり、『宋書』巻九十七「夷蛮伝」に「百済王の餘毗は、餘毗に『易林』と『式占』を与えることを上奏して要求すると、太祖は一緒に餘毗に与えた。」とあるが、これは晋宋以後に、その書は尚、存在したので、それで『顔氏家訓』「雑芸篇」に、「私は嘗て、『六壬式』を学び、世間の優れた方士に出会って、『龍首』・『金匱』・『玉軨變』・『玉歴』(宋本の注に別の本に玉變、玉厯と作る)等十冊ばかりを捜し集めたが、これらに対して詳細に研究を行なっても却って、効果はなく、すぐさまこのために後悔を感じた。」とあり、また「世に伝わる陰陽術数に関する書物は皆、凡庸な者の手よって出ているので、言葉は野卑で浅薄であり、効力は少なく、嘘が多い。」とある。『顔氏家訓』のこの論を読むと、現在の奇門六壬の書物は、およそ考察が不足している。
(2)『太平御覧』巻十九に引く『晋書』は「申約」を「申條」と作る。
(3)『太平御覧』巻十九に引く『晋書』は「折掘」を「折握」と作る。
(4)「呂光載記」は「王詳」と作る。
(5)「呂光載記」は「王氣乞機」と作る。
(6)郭黁の予想どおり、姚氏の後秦は義熙十三年(417)に東晋の劉裕に滅ぼされた。