(1)『太平御覧』巻六五五に引く『晋書』は「曇瞿」と作り、「瞿」と「霍」の字形を事細かに見ると、相似るも誤っている。
(2)『晋書校文』巻四に「曇霍伝に拠ると、『高僧伝』巻十一に『偸髪利鹿孤は建和二年十一月、曇霍は河南から来て平西に至った。』と見える。」とある。ここでいう「傉檀の治世」は誤りである。
(3)『高僧伝』巻十一に「人が曇霍に服を贈ると、曇霍は受け取るとすぐに、地面に投げ捨て、或は川の中に放り投げたが、間もなく服は自ら所有者に帰ると、少しも汚れてなかった。」と作る。
(4)『高僧伝』巻十一に「歩くと風の如く速く、頑丈な者が曇霍を追っても、常にへたばって追い付かなかった。」と作る。
(5)『高僧伝』巻十一に「暫くすると、すぐさま錫杖の在り処を理解した。」と作る。
(6)『高僧伝』巻十一に「晋の義熙三年、傉檀は勃勃に誅殺されると、南涼の地は戦乱になり、行方知らずとなった。」とある。