(1)『北堂書鈔』巻一二六に引く王隠『晋書』に「韓友は字は先,廬江郡舒県の人である。」と作るが誤りで、名の一文字は合っているが、「景」が脱字である。
(2)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「鄧子林」と作る。
(3)『太平御覧』巻三五九に引く王隠『晋書』に「王睦は病気で卒したが、すでに〔魂を招き〕、魄を呼び返す儀式をし終えていた。家の者は韓友が王睦を占うのに従うと、絵を描くための紅い色の板に、太陽と月を描かせて、遺体の枕元に安置させ、また、虎の毛皮と馬の鞍のあおりを絵の上に平らに敷かせると、王睦はすぐに息を吹き返して全快した。」と作る。
(4)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「攻」は「祈」と作る。
(5)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「布袋は葱の葉に風を吹き入れた様に大きく膨張し、そこで破裂してしまった。」と作る。
(6)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「布袋を開いて中を見ると、一、二斤もの毛(6)が入っていて、形は狐の毛のようだった。」と作り、また巻九〇九に引く『王書』に「二、三斤」と作る。
(7)一つに「千」と作る。
(8)永嘉年間は永嘉七年(313)4月に建興に改元しているので、韓友が卒したのは永嘉六年(312)から永嘉七年(313)3月までの間ぐらいと考えられる。