(1)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「性格は沈着冷静にして、思考能力があり、若い頃に儒生となり、占いを得意とした。」とある。
(2)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』には下に「意甚惡之」の四文字がある。また『太平御覧』巻八八五に引く『捜神記』は劉柔を誤って「劉來」と作る。
(3)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』は「三寸」を「二寸」と作る。
(4)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』には「使」の字の下に「夜」の字がある。
(5)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「母親は病が重くて、夏侯藻は夜中の内に淳于智のところで占ってもらいに行った。」とある。
(6)『捜神記』は「狐が咆哮した場所にある樹の下で、泣いてしまう。」と作る。
(7)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』は「必出」を「畢出」と作っているが、『晋書斠注』は「必」は王隠『晋書』に従って「畢」と作るべきとする。
(8)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』は「而崩」を「暴崩」と作る。
(9)『太平御覧』巻九一〇に引く王隠『晋書』は「沐猴」を「弥猴」と作り、「他の者にアカゲザルを叩かせた」を「他の者にアカゲザルを抱かせては叩かせた」と作る。
(10)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』には「三日」の下に「三夜」の二字がある。
(11)『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』に「あなたは神霊と互いに通じ合う心をもっていますし、こちらの鮑瑗先生は貧しい読書人でありますが、貧困で多くの苦難に満ちていており、出世をして身分が高くなるかどうか、鮑瑗の八卦見をしてはいかがでしょうか。」とある。
(12)『太平御覧』巻一八〇に引く王隠『晋書』に「淳于智は鮑瑗を占い、卦が現れると、鮑瑗に対して言った。『あなたの住宅を建てたのは女子工か。』鮑瑗はそうだと言った。淳于智はまた言った。『その人は死んでいるか?』鮑瑗はそのとおりと言った。淳于智は言った。『その人はあなたの住宅に適切ではない。すでにその身は害されたのだから、あなたを困らせるでしょう。』」とある。
(13)『太平御覧』巻一八〇に引く王隠『晋書』に「まもなく新しい馬の鞭を折った者がいるはずなので、直ちに鞭を買って帰り、この桑の樹に掛けて、」とある。また、『太平御覧』巻四八四に引く『晋中興書』も「新しい馬の鞭」と作る。
(14)『太平広記』巻二一六に引く『独異志』は「直ちに鞭を買って帰り、東北の桑の樹に掛けると、病気を患わず、三年後には財産を手に入れるでしょう。」と作る。
(15)『太平御覧』巻四八四に引く『晋中興書』は「千万の金銭を手に入れ、」と作る。また、『太平御覧』巻七二七に引く王隠『晋書』は「十万」と作る。
(16)『太平御覧』巻三五九に引く王隠『晋書』及び巻四八四に引く『晋中興書』はいずれも「そこで家業の発展に用いられ、」と作る。
(17)『北堂書鈔』巻一〇三に引く王隠『晋書』には「応詹は若い頃病気が多かったので、淳于智は一枚の護符を作って応詹に着けさせて、『応詹を護衛するものは誰だ。秋の空と春の空よ、着けて回れ。万寿限りなし。』と言わせると、ほどなく全て効果があった。」とある。
(18)『元和姓纂』巻三には「淳于智は司馬都督となった」とあるが、『晋書斠注』は「都」の字は誤りとする。
(19)「恵帝紀」によると、楊駿が誅殺されたのは永平元年(291)三月。「楊駿伝」によると、楊駿の誅殺後に孟観らは楊駿の親党を誅殺したとあるが、親党の中に淳于智も含まれていたと考えられる。