(1)占いの方法。亀の甲羅を用いるのを卜、蓍萩の茎を用いるのを筮と称し、数は気数、術は方術を指す。
(2)『太平御覧』巻七二六に引く王隠『晋書』は「未者」を「来者」と作る。
(3)この段落はほぼ同文が『太平御覧』巻七二六に引く王隠『晋書』にある。
(4)『太平御覧』巻六九四に引く王隠『晋書』には次のようにあり、本伝と記述が若干異なる。「歩熊字叔羆,好學兼術數。趙王倫辟熊,熊言『倫死不久,不足應。』有人告倫,倫遣圍之。熊使諸生着己裘南走,圍者皆奔之,熊密從北道走,得脱。」
(5)「成都王司馬穎伝」によると、永興元年(304)、左衛将軍の陳眕らが恵帝を奉じて10万以上の軍勢で進攻してくると、司馬穎は逃げようとしたが、歩熊は「動かないでください。南軍(恵帝の軍)は必ず敗れます。」と進言した。司馬穎は部下の意見を求めて交戦を決意し、蕩陰の戦いで恵帝の軍を撃破し、恵帝を確保した。しかし東嬴公司馬騰が烏丸族を率いて進軍し、司馬穎軍をうち破ると、司馬穎は鄴から敗走し、関中に奔った。「恵帝紀」によると、司馬穎が鄴から敗走したのが永興元年(304)なので、歩熊が誅殺されたのもこの頃と考えられる。