update:2005.10.01  担当:永一 直人
晋書巻九十六

 列伝第六十六

  列女

本文
  夫三才分位,室家之道克隆;二族交歡,貞烈之風斯著。振高情而獨秀,魯册於是飛華;挺峻節而孤標,周篇於焉騰茂。徽烈兼劭,柔順無愆,隔代相望,諒非一緒。然則虞興嬀汭,夏盛塗山,有娀、有娎廣隆殷之業,大姙、大姒衍昌姫之化,馬鄧恭儉,漢朝推德,宣昭懿淑,魏代揚芬,斯皆禮極中闈,義殊月室者矣。至若恭姜誓節,孟母求仁,華率傅而經齊, 樊授規而霸楚,譏文伯於奉劍,讓子發於分菽,少君之從約禮,孟光之符隱志,既昭婦則,且擅母儀。 子政緝之於前,元凱編之於後,具宣閨範,有裨陰訓。故上從泰始,下迄恭安,一操可稱,一藝可紀,咸皆撰録,爲之傳云。或位極后妃,或事因夫子,各隨本傳,今所不録。在諸偽國,暫阻王猷,天下之善,足以懲勸,亦同搜次,附於篇末。
  そもそも天・地・人があるべき場所に分かれてからというもの、夫婦の道は苦難の末にさかんになった。ふたつの血族がうち解けて交わると、厳しくもおこない正しい気風がじつに顕著となった。〔女性が〕気高い心をふるってひとり傑出したとき、魯は花を飛ばすように官位を授けた。厳しい節義に抜きんでてひとり目立ったとき、周は豊かな実を結ぶように記録した。〔彼女たちの〕立派な業績は、うるわしさを兼ねそなえており、〔彼女たちの〕心根はやさしく素直で、道を外れることがなかった。〔彼女たちのような人物は〕時代をへだててもあい望まれており、十把一絡げにできないことは明白だ。そうだとすれば、虞(舜)が興ったのは嬀水のほとり(1)〔で堯のふたりのむすめをめとったから〕であり、夏がさかんになったのは塗山氏(2)がいたからである。有娀氏と有娎氏(3)は殷の王業を広めてさかんにし、大姙と大姒(4)は姫氏の王化を広めさかんにした。馬皇后と鄧皇后(5)は他人にうやうやしく自分はつつましくして、漢朝の徳義をおし広めた。卞皇后と甄皇后(6)は立派でしとやかであって、魏代のかぐわしい美名を宣揚した。これらはみな宮中の奧にあって礼をきわめ、奧部屋で義をことにする人たちである。このうえなく若くして恭姜(7)は再嫁しないことを誓い、孟子の母(8)は仁を求めた。華氏(孟姫)(9)は守り役を率いて斉をおさめ、樊姫(10)はきまりを授けて楚〔の荘王〕を覇者とした。〔敬姜は〕文伯が剣を奉じさせたことをそしり(11)、〔子発の母は〕子発が兵士に豆を分配していたことを責めた(12)。少君(13)は礼法にしたがっておこないを引き締め、孟光(14)は隠遁の志を示した。彼女らはすでに女性のきまりをあきらかにし、かつ母たる模範をほしいままにしている。子政(劉向)(15)が以前に彼女らの事跡を〔『列女伝』に〕あつめ、元凱(杜預)(16)が後になって〔『女記讃』を〕編んだのは、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなうためである。そのためさかのぼっては泰始年間(二六五~二七四)から、下っては恭帝・安帝の時代まで、ひとつにはたたえるべき行いを、ひとつには記すべき技芸を、みなぜんぶ選んで収録し、これを伝のいわれとする。位を極めた后妃の場合や、夫のもとで処理されているときは、おのおのもとの伝のあるところに従い、今は採録しない。〔五胡の〕偽の諸国があって、しばし王化の道がはばまれたが、天下の善たるものは、それでも悪を懲らして善を勧めるのに充分なので、また同じく次に探し出し、篇末に付け加えた。
羊耽妻辛氏
  羊耽妻辛氏,字憲英,隴西人,魏侍中毗之女也。聰朗有才鑒。初,魏文帝得立爲太子,抱毗項謂之曰:「辛君知我喜不?」毗以告憲英,憲英歎曰:「太子,代君主宗廟社稷者也。代君不可以不戚,主國不可以不懼,宜戚而喜,何以能久!魏其不昌乎?」
  羊耽の妻の辛氏(17)は、字を憲英といい、隴西郡の人で、魏の侍中の辛毗のむすめである。聡明博識で目端が利いていた。かつて、魏の文帝(曹丕)が太子として立つことができると、辛毗のうなじを抱いて「辛君にはわたしの喜びがわかるまい?」といった。辛毗は憲英に告げると、憲英は「太子は、君主に代わって宗廟や社稷をまつる者です。天子に代わって心をくだかなくてはいけないし、国の主となるのをおそれなくてはいけないのに、心配するところを喜んでいたのでは、どうして長続きできるでしょう!魏はそれでは繁栄しないのでしょうか?」と嘆いていった。
  弟敞爲大將軍曹爽參軍,宣帝將誅爽,因其從魏帝出而閉城門,爽司馬魯芝率府兵斬關赴爽,呼敞同去。敞懼,問憲英曰:「天子在外,太傅閉城門,人云將不利國家,於事可得爾乎?」憲英曰:「事有不可知,然以吾度之,太傅殆不得不爾。明皇帝臨崩,把太傅臂,屬以後事,此言猶在朝士之耳。且曹爽與太傅倶受寄託之任,而獨專權勢,於王室不忠,於人道不直,此舉不過以誅爽耳。」敞曰:「然則敞無出乎?」憲英曰:「安可以不出!職守,人之大義也。凡人在難,猶或恤之;爲人執鞭而棄其事,不祥也。且爲人任,爲人死,親昵之職也,汝從衆而已。」敞遂出。宣帝果誅爽。事定後,敞歎曰:「吾不謀於姊,幾不獲於義!」
  弟の辛敞が大将軍曹爽のもとで参軍となった。宣帝(司馬懿)が曹爽を誅殺しようとして、曹爽が魏帝(曹芳)に従って出たときに城門を閉じた。曹爽の司馬の魯芝が、府兵を率いて関を斬りやぶって曹爽のもとに赴こうと、辛敞を呼んで同道を求めた。辛敞はおそれて、「天子が外におられるのに、太傅(司馬懿)が城門を閉じたので、人は太傅が国家の不利益をはかろうとしていると言っています。そんなことがありうるのでしょうか?」と憲英にたずねた。憲英は「知ることのできないことというのはありますが、わたしが今回のことをはかりますに、太傅はまずそうせずにいられないのでしょう。明皇帝(曹叡)が崩御なさるに臨まれて、太傅のひじをつかんで、後のことを委ねられました。このときの言葉はまだ朝士の耳に残ってます。なおかつ曹爽は、太傅とともに信託されて任を受けられましたが、ひとり権勢をもっぱらにして、王室に対して忠義でなく、人道に対して正直ではありません。この挙に曹爽が殺されるだけにすぎないでしょう」といった。辛敞は「それなら敞は出ないほうがよろしいか?」といった。憲英は「どうして出ないでいられましょう!職分を守るのは、人の大義です。そもそも人は危難にあっても、それでもなお職分に気を配るものです。人のために鞭をとるものがその仕事を捨ててしまうのは、不吉です。それに人のために任にあるものは、人のために死ぬのが、親しく信任されたもののつとめです。おまえはついていくだけですよ」といった。辛敞はこうして出ていった。宣帝はやはり曹爽を誅殺した。事件が落ちついたあと、辛敞は感嘆して「わたしが姉に相談しなかったら、あやうく徳義にそむくところだった!」といった。
  其後鍾會爲鎭西將軍,憲英謂耽從子祜曰:「鍾士季何故西出?」祜曰:「將爲滅蜀也。」憲英曰:「會在事縱恣,非持久處下之道,吾畏其有他志也。」及會將行,請其子琇爲參軍,憲英憂曰:「他日吾爲國憂,今日難至吾家矣。」琇固請於文帝,帝不聽。憲英謂琇曰:「行矣,戒之!古之君子入則致孝於親,出則致節於國;在職思其所司,在義思其所立,不遺父母憂患而已。軍旅之間可以濟者,其惟仁恕乎!」會至蜀果反,琇竟以全歸。祜嘗送錦被,憲英嫌其華,反而覆之,其明鑒儉約如此。泰始五年卒,年七十九。
  その後、鍾会が鎮西将軍となると、憲英は「鍾士季(会)はどうして西方に出立するのですか?」と耽の甥の羊祜にいった。羊祜は「蜀を滅ぼそうとしてのことです」といった。憲英は「鍾会はことがあるとほしいままにふるまいます。人の下につく生き方を長く続けることはできないでしょう。わたしはかれが別の野心を持っていることをおそれているのです」といった。鍾会は出発しようとして、彼女の子の羊琇を参軍にしようと願い出た。憲英は心配して「過日わたしは国のために心配しましたが、今日は難儀がわが家にやってきました」といった。羊琇は文帝(司馬昭)に対して固辞したが、帝は聞き入れなかった。憲英は「行くのなら、このことに気をつけなさい!いにしえの君子は、家に入ると親に孝行し、出ると国に臣節を尽くしたものです。職務にあってはそのつかさどるところを思い、徳義にあってはその立脚するところを思って、父母に心配をかけさせませんでした。軍隊の間でやっていくには、優しさと思いやりがあるのみです!」と羊琇にいった。鍾会は蜀にたどりつくとやはり反乱したが、羊琇はけっきょく無事に帰ってきた。羊祜がかつて錦織りの夜着を彼女に送ったことがあったが、憲英はその華美なことを嫌い、これを裏返しにしてしまった。彼女の明察倹約ぶりはこのようなものであった。泰始五年(二六九)に亡くなり、享年は七十九だった。
杜有道妻嚴氏
  杜有道妻嚴氏,字憲,京兆人也。貞淑有識量。年十三,適於杜氏,十八而嫠居。子植、女韡並孤藐,憲雖少,誓不改節,撫育二子,教以禮度,植遂顯名於時,韡亦有淑德,傅玄求爲繼室,憲便許之。時玄與何晏、鄧颺不穆,晏等毎欲害之,時人莫肯共婚。及憲許玄,内外以爲憂懼。或曰:「何、鄧執權,必爲玄害,亦由排山壓卵,以湯沃雪耳,奈何與之爲親?」憲曰:「爾知其一,不知其他。晏等驕侈,必當自敗,司馬太傅獸睡耳,吾恐卵破雪銷,行自有在。」遂與玄爲婚。晏等尋亦爲宣帝所誅。植後爲南安太守。
  杜有道の妻の厳氏は、字を憲といい、京兆郡の人である。おこない正しくしとやかで、見識と度量がそなわっていた。十三歳のとき、杜氏にとつぎ、十八歳でやもめ暮らしになった。子の杜植、娘の杜韡はそろって小さいまま残された。憲は若かったけれども、再婚しないことを誓い、ふたりの子どもをいつくしみ育てて、礼儀や節度を教えたので、杜植は成長すると世に名が知られるようになった。杜韡もまたつつましく、傅玄が後妻として求めたとき、憲はすぐさまこれを許した。ときに傅玄は何晏、鄧颺との関係がおだやかでなく、何晏らがいつも傅玄を害そうとしていたので、当時の人々で婚姻に賛成する者はいなかった。憲が傅玄の求婚を受け入れたので、杜家の内外の人々はおそれ心配した。ある人が「何晏、鄧颺が権力を握っており、必ずや傅玄は害されるでしょう。また山を押しのけて卵を押さえつけ、湯を雪にそそぐような無駄なおこないをするだけです。どうして傅玄と親戚になろうとするのです?」といった。憲は「あなたはその一を知っていますが、その他を知らないのです。何晏らはおごり高ぶって贅沢をしており、必ず自ら敗亡するでしょう。司馬太傅(司馬懿)のようすは獣が眠りについているだけで、わたしは卵が破れて雪が溶けるのを恐れるからこそ、自然なとおりに行うのです」といった。そのまま傅玄と結婚させた。何晏らはまもなく宣帝(司馬懿)により誅殺された。杜植はのちに南安太守となった。
  植從兄預爲秦州刺史,被誣,徴還,憲與預書戒之曰:「諺云忍辱至三公。卿今可謂辱矣,能忍之,公是卿坐。」〔一〕預後果爲儀同三司。玄前妻子咸年六歳,嘗隨其繼母省憲,謂咸曰:「汝千里駒也,必當遠至。」以其妹之女妻之。咸後亦有名於海内。其知人之鑒如此。年六十六卒。
  杜植の従兄の杜預が秦州刺史になったが、誣告されて、召しもどされた。憲は杜預に書を与えて「はずかしめに耐え忍べば三公に出世するとことわざに言います。あなたは今いわゆるはずかしめを受けていますが、よくこれを我慢なさい。あなたは大臣の座につけるでしょうよ」と戒めていった。杜預はのちにやはり儀同三司となった。傅玄の前妻の子の傅咸が年六歳で、かつてその継母に従って憲にご機嫌伺いしたことがあった。憲は「おまえは千里を走る名馬です。必ずや遠くにたどりつくでしょう」と咸にいった。憲の妹のむすめをかれにめあわせた。傅咸もまたのちに天下で有名になった。彼女の人を見る鑑識眼はこのようであった。享年六十六で亡くなった。
王渾妻鍾氏
  王渾妻鍾氏,字琰,潁川人,魏太傅繇曾孫也。父徽,黄門郎。琰數歳能屬文,及長,聰慧弘雅,博覽記籍。美容止,善嘯詠,禮儀法度爲中表所則。既適渾,生濟。渾嘗共琰坐,濟趨庭而過,渾欣然曰:「生子如此,足慰人心。」琰笑曰:「若使新婦得配參軍,生子故不翅如此。」參軍,謂渾中弟淪也。琰女亦有才淑,爲求賢夫。時有兵家子甚俊,濟欲妻之,白琰,琰曰:「要令我見之。」濟令此兵與羣小雜處,琰自幃中察之,既而謂濟曰:「緋衣者非汝所拔乎?」濟曰:「是。」琰曰:「此人才足拔萃,然地寒壽促,不足展其器用,不可與婚。」遂止。其人數年果亡。琰明鑒遠識,皆此類也。
  王渾の妻の鍾氏(18)は、字を琰といい、潁川郡の人で、魏の太傅の鍾繇の曾孫(19)である。父の鍾徽(20)は、黄門郎となった。琰は数歳にして文章をつづるのをよくし、成長すると、かしこくて度量が大きく上品で、古典を広く渉猟して記憶していた。顔かたちの美しさをとどめ、歌をうたうのを得意とした。礼儀作法は手本にしっかり当てはまっていた。王渾にとつぐと、王済を生んだ。王渾がかつて琰とともに座っていたとき、王済が庭先を走り過ぎたので、王渾は喜んで「生まれた子がこのようであれば、人の心は慰められるものだ。」といった。琰は笑って「もしわたしが参軍どののところにとついでいれば、生まれた子はこんな程度ではなかったでしょう」といった。参軍とは、王渾の中の弟の王淪のことである。琰のむすめもまた才知にすぐれてしとやかであり、賢い夫を求めていた。ときに兵家の子にたいそうすぐれた者がいて、王済はこの人にめあわせたいと思い、琰に相談した。琰は「わたしにその人を見せてください」といった。王済は兵と小者たちが雑居しているところに連れていった。琰は帳の中からこれを観察し、まもなく王済に「緋色の衣の人がおまえの選んだ人ではないか?」といった。済は「はい」といった。琰は「この人の才能は飛び抜けてすぐれているが、環境が悪いので齢を早く取ってしまい、その才能を開花させられないでしょう。婚姻を結んではいけません」といった。こうして止めた。その人は数年してはたして亡くなった。琰が物事の善悪を見抜き将来まで見通す見識は、みなこのようなものであった。
  渾弟王湛妻郝氏亦有德行,琰雖貴門,與郝雅相親重,郝不以賤下琰,琰不以貴陵郝,時人稱鍾夫人之禮,郝夫人之法云。
  王渾の弟の王湛の妻の郝氏(21)にもまた徳義にかなった行いがあり、琰は貴族の出だったけれども、郝氏といつも互いに親しみ尊重しあっていた。郝氏は身分がいやしいからといって琰にへりくだろうとせず、琰も身分が高いからといって郝氏の上に出ようとしなかった。ときの人は鍾夫人の礼、郝夫人の法といってたたえた。
鄭袤妻曹氏
  鄭袤妻曹氏,魯國薛人也。袤先娶孫氏,早亡,娉之爲繼室。事舅姑甚孝,躬紡績之勤,以充奉養,至於叔妹羣姊之間,盡其禮節,咸得歡心。及袤爲司空,其子默等又顯朝列,時人稱其榮貴。曹氏深懼盛滿,毎默等升進,輒憂之形於聲色。然食無重味,服浣濯之衣,袤等所獲祿秩,曹氏必班散親姻,務令周給,家無餘貲。
  鄭袤の妻の曹氏は、魯国薛県の人である。鄭袤は先に孫氏をめとったが、早く亡くなって、曹氏を後妻として求めた。みずから糸をつむいで働いて舅や姑を養う費用にあて、かれらにたいへん孝行に仕えた。義理の姉妹たちの間でも、礼節をつくしたので、みな喜び満足していた。鄭袤が司空となり、その子の鄭默らがまた朝廷の官の一員として名をあらわしてくると、時の人はかれらの栄耀尊貴なふうをたたえた。曹氏は勢力がさかんなことを深くおそれ、鄭默らが昇進するごとに、心配するようすを声と顔色にあらわした。そういうわけで食事は贅沢をせず、服は洗濯したものを着た。袤らが得た俸給は、曹氏が必ず親類や縁続きの人々に分け与えて、できるかぎりあまねくばらまかせたので、家には余分な財産がなかった。
  初,孫氏瘞於黎陽,及袤薨,議者以久喪難舉,欲不合葬。曹氏曰:「孫氏元妃,理當從葬,何可使孤魂無所依邪。」〔二〕於是備吉凶導從之儀以迎之,具衣衾几筵,親執雁行之禮,聞者莫不歎息,以爲趙姫之下叔隗,不足稱也。太康元年卒,年八十三。
  かつて、孫氏は黎陽に埋葬されていた。鄭袤が亡くなると、相談する人々は、孫氏は亡くなって長く経っているのでいっしょにするのは難しいだろうと、合葬させたがらなかった。曹氏は「孫氏は先妻でいらっしゃるのだから、道理からいっても陪葬されるべきです。どうしてひとり魂を寄る辺なきままにさせておけましょうか」といった。そこで吉凶導従の儀(22)をととのえて先妻の遺体を迎え、祭式のための衣服や夜着や机や敷物を用意し、親しく雁行の礼(23)を執り行ったので、聞いた者は嘆息しないではいられなかった。思うに趙姫が叔隗の下についた故事(24)と比べても、たたえるに足りないだろう。太康元年(二八〇)に亡くなり、享年は八十三だった。
愍懷太子妃王氏
  愍懷太子妃王氏,太尉衍女也,字惠風。貞婉有志節。太子既廢居於金墉,衍請絶婚,惠風號哭而歸,行路爲之流涕。及劉曜陷洛陽,以惠風賜其將喬屬,屬將妻之。惠風拔劍距屬曰:「吾太尉公女,皇太子妃,義不爲逆胡所辱。」屬遂害之。
  愍懐太子(司馬遹)の妃の王氏は、太尉の王衍のむすめであり、字を恵風といった。貞淑で折り目正しい志をもっていた。太子が廃されて金墉城にうつされたので、王衍は離婚を願い出た。恵風は号泣したが実家に帰され、帰路を行くのに涙を流した。劉曜が洛陽を陥落させると、恵風をその将軍の喬属に賜ったので、喬属は彼女をめとろうとした。恵風は剣を抜いて属を遠ざけて、「わたしは太尉公のむすめで、皇太子妃だ。反逆者の胡族に辱められるような不義をなすものか」といった。喬属はかくして彼女を殺してしまった。
鄭休妻石氏
  鄭休妻石氏,不知何許人也。少有德操,年十餘歳,郷邑稱之。既歸鄭氏,爲九族所重。休前妻女既幼,又休父布臨終,有庶子沈生,命棄之,〔三〕石氏曰:「奈何使舅之胤不存乎!」遂養沈及前妻女。力不兼舉,九年之中,三不舉子。
  鄭休の妻の石氏は、どこの出身の人か知られていない。若いのにかたい道徳心を持っていると、十数歳のころに、村里は彼女を評した。鄭家にとつぐと、親族に重んぜられた。鄭休の前妻のむすめがまだ幼く、また鄭休の父の鄭布が死の床にあって、庶子の鄭沈が生まれたので、これを捨てるよう命じたが、石氏は「どうして舅のお子をなきものにさせようか!」といった。そのまま鄭沈と前妻のむすめを養った。力があっても子どもには恵まれず、九年のうちで、三たび死産であった。
陶侃母湛氏
  陶侃母湛氏,豫章新淦人也。初,侃父丹娉爲妾,生侃,而陶氏貧賤,湛氏毎紡績資給之,使交結勝己。侃少爲尋陽縣吏,嘗監魚梁,以一坩鮓遺母。湛氏封鮓及書,責侃曰:「爾爲吏,以官物遺我,非惟不能益吾,乃以增吾憂矣。」鄱陽孝廉范逵寓宿於侃,時大雪,湛氏乃徹所臥新薦,自剉給其馬,又密截髮賣與鄰人,供肴饌。逵聞之,歎息曰:「非此母不生此子!」侃竟以功名顯。
  陶侃の母の湛氏(25)は、豫章郡新淦県の人である。かつて、陶侃の父の陶丹が申しこんで妾とし、陶侃が生まれたが、陶家は貧しくて身分も低く、湛氏はいつも糸を紡いで金品を用だて、自分を犠牲にして交際を結ばせた。陶侃は若くして尋陽県の役人となったが、かつて魚捕りのしかけを見張って、ひとつぼの鮓(すし)を母に贈ったことがあった。湛氏は鮓を封じて手紙を送り、陶侃を責めて「おまえが役人になって、官のものをわたしに贈っているようでは、わたしを益することができないばかりか、かえってわたしの心配を増やしているのですよ」といった。鄱陽の孝廉の范逵が陶侃のところに泊まったことがあったが、ときに大雪となったので、湛氏はそこで寝所のすみずみまで新たに敷きつめなおし、自ら馬をさばいてふるまい、またひそかに髪を切って隣人に売り、酒のさかなとごちそうでもてなした。范逵はこれを聞いて嘆息して、「この母がいなければこの子は生まれなかったろう!」といった。陶侃はついに功名が世にあらわれた。
賈渾妻宗氏
  賈渾妻宗氏,不知何許人也。渾爲介休令,被劉元海將喬晞攻破,死之。宗氏有姿色,晞欲納之。宗氏罵曰:「屠各奴!豈有害人之夫而欲加無禮,於爾安乎?何不促殺我!」因仰天大哭。晞遂害之,時年二十餘。
  賈渾の妻の宗氏は、どこの出身の人か知られていない。賈渾が介休の県令となったとき、劉元海(劉淵)の将軍の喬晞に攻め破られ、任地で死んだ。宗氏は顔かたちがすぐれていたので、喬晞は彼女をめとろうとした。宗氏はののしって「匈奴のけだものめが!どうして人の夫を害しておいてその上無礼を加えようというのか、ああどうしてなのか?どうしてわたしをつかまえて殺さない!」といった。そこで天を仰いで大声で泣いた。喬晞はかくして彼女を殺してしまった。ときに年は二十あまりだった。
梁緯妻辛氏
  梁緯妻辛氏,隴西狄道人也。緯爲散騎常侍,西都陷沒,爲劉曜所害。辛氏有殊色,曜將妻之。辛氏據地大哭,仰謂曜曰:「妾聞男以義烈,女不再醮。妾夫已死,理無獨全。且婦人再辱,明公亦安用哉!乞即就死,下事舅姑。」遂號哭不止。曜曰:「貞婦也,任之。」乃自縊而死。曜以禮葬之。
  梁緯の妻の辛氏は、隴西郡狄道県の人である。梁緯が散騎常侍になると、西都が陥落し、劉曜に殺された。辛氏がことのほか美貌であったので、劉曜は彼女をめとろうとした。辛氏は地に突っ伏して大いに泣き、顔を見上げて「男は正義感の強いこと、女は再婚しないことと、わたしは聞いています。わたしの夫はすでに死に、ひとり命を全うする道理がありません。そのうえ婦人を再び辱め、殿はまたどうして用いようとされるのですか!いますぐにでも死んで、舅や姑に仕えさせていただきたくお願いします」と劉曜にいった。そのまま号泣してやまなかった。劉曜は「貞婦である。身の処し方は任そう」といった。そこで自ら首をくくって死んだ。劉曜は彼女を礼をもって葬った。
許延妻杜氏
  許延妻杜氏,不知何許人也。延爲益州別駕,爲李驤所害。驤欲納杜氏爲妻,杜氏號哭守夫尸,罵驤曰:「汝輩逆賊無道,死有先後,寧當久活!我杜家女,豈爲賊妻也!」驤怒,遂害之。
  許延の妻の杜氏は、どこの出身の人か知られていない。許延が益州別駕となったとき、李驤に殺された。李驤は杜氏を妻にしようとした。杜氏は号泣して夫の死体を守り、李驤をののしって「おまえたち逆賊は道徳心がないから、死に早い遅いがあれば、さぞ長生きがしたかろう!わたしは杜家のむすめで、死んだって賊の妻になぞなろうか!」といった。李驤は怒って、そのまま彼女を殺してしまった。
虞潭母孫氏
  虞潭母孫氏,呉郡富春人,孫權族孫女也。初適潭父忠,恭順貞和,甚有婦德。及忠亡,遺孤藐爾,孫氏雖少,誓不改節,躬自撫養,劬勞備至。性聰敏,識鑒過人。潭始自幼童,便訓之忠義,故得聲望允洽,爲朝廷所稱。
  虞潭の母の孫氏は、呉郡富春県の人で、孫権の族孫のむすめである。かつて虞潭の父の虞忠にとついだ。慎み深く従順で、心根正しく穏和であって、女性としての深い徳をもっていた。虞忠が亡くなったとき、遺児はたいそう小さく、孫氏は若かったけれども、再婚しないと誓って、自らいつくしみ養って、成長するまで懸命に働いた。生まれつき賢くて物分かりがよく、物事の善悪を人よりはっきり見分けた。虞潭は幼いころより、まず忠義を教えられてきたので、このためあまねく広い声望をえて、朝廷にたたえられた。
  永嘉末,潭爲南康太守,値杜弢構逆,率衆討之。孫氏勉潭以必死之義,倶傾其資産以餽戰士,潭遂克捷。及蘇峻作亂,潭時守呉興,又假節征峻。孫氏戒之曰:「吾聞忠臣出孝子之門,汝當捨生取義,勿以吾老爲累也。」仍盡發其家僮,〔四〕令隨潭助戰,貿其所服環珮以爲軍資。於時會稽内史王舒遣子允之爲督護,孫氏又謂潭曰:「王府君遣兒征,汝何爲獨不?」潭即以子楚爲督護,與允之合勢。其憂國之誠如此。拜武昌侯太夫人,加金章紫綬。潭立養堂於家,王導以下皆就拜謁。咸和末卒,年九十五。成帝遣使弔祭,諡曰定夫人。
  永嘉(三〇七~三一二)の末年、虞潭は南康太守となった。杜弢の謀反に遭うと、部下を率いてこれを討った。孫氏は死を賭けて忠義をはたすよう虞潭を励まし、そろってその資産を傾けて、戦う兵士たちに食糧を送り、虞潭はこうして勝つことができた。蘇峻が乱を起こしたとき、虞潭は呉興を守っていたので、また割り符を借りて蘇峻を征伐した。孫氏は虞潭を戒めて「忠臣は孝子の門から出ないとわたしは聞いています。おまえは生を捨てて義を取るべきです。わたしが老いているからといって足手まといにしてはいけません」といった。そのうえ家の召使いをことごとくつかわして、虞潭に随行させて戦いを助けさせ、彼女の着けているおび玉を換金して軍資とした。ときに会稽内史の王舒が子の王允之を派遣して督護としたので、孫氏はまた虞潭に「王府君(舒)は子どもを派遣して征伐させています。おまえがどうしてひとりそうしないことがありますか?」といった。虞潭はすぐに子の虞楚を督護として、王允之と軍勢を合流させた。彼女の国を憂うる志はこのようなものであった。武昌侯太夫人の位をいただき、金章紫綬を加えられた。虞潭が家に養堂を立てると、王導以下の人々がみな敬意をはらって面会におとずれた。咸和(三二六~三三四)の末年に亡くなり、享年は九十五だった。成帝は使者をつかわして弔いその霊をまつった。諡を定夫人といった。
周顗母李氏
  周顗母李氏,字絡秀,汝南人也。少時在室,顗父浚爲安東將軍,時嘗出獵,遇雨,過止絡秀之家。會其父兄不在,絡秀聞浚至,與一婢於内宰猪羊,具數十人之饌,甚精辦而不聞人聲。浚怪使覘之,獨見一女子甚美,浚因求爲妾。其父兄不許,絡秀曰:「門戸殄瘁,何惜一女!若連姻貴族,將來庶有大益矣。」父兄許之。遂生顗及嵩、謨。而顗等既長,絡秀謂之曰:「我屈節爲汝家作妾,門戸計耳。汝不與我家爲親親者,吾亦何惜餘年!」顗等從命,由此李氏遂得爲方雅之族。
  周顗の母の李氏は、字を絡秀といい、汝南郡の人である。年若く実家にいたとき、周顗の父の周浚は安東将軍となっていた。周浚がかつて猟に出たとき、雨に遭って、絡秀の家でやり過ごそうとした。たまたま彼女の父兄が不在だったが、絡秀は周浚がやってきたと聞いて、ひとりの端女とともに奧で猪や羊をさばき、数十人のごちそうをそろえた。たいそう手際が行き届いていたにもかかわらず、人の声が聞こえなかった。周浚が怪しんで奧をのぞかせると、たいへん美しいひとりの女の子が見えただけだった。周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。彼女の父兄は許さなかったが、絡秀が「家門が病みおとろえているというのに、どうしてひとりのむすめを惜しむのでしょうか!もし貴族と姻戚となれれば、将来大きな利益をねがうこともできるでしょう」といったので、父兄はこれを許した。こうして周顗と周嵩と周謨を生んだ。周顗らが成長すると、絡秀は「わたしが節を曲げておまえたちの家の妾となったのは、実家のためを計っただけです。おまえたちがわたしの実家と親しくしないのなら、わたしはまたどうして余命を惜しみましょう!」と彼らにいった。周顗らは母の命に従ったので、これにより李氏はとうとう貴族となることができた。
  中興時,顗等並列顯位。嘗冬至置酒,絡秀舉觴賜三子曰:「吾本渡江,託足無所,不謂爾等並貴,列吾目前,吾復何憂!」嵩起曰:「恐不如尊旨。伯仁志大而才短,名重而識闇,好乘人之弊,此非自全之道。嵩性抗直,亦不容於世。唯阿奴碌碌,當在阿母目下耳。」阿奴,謨小字也。後果如其言。
  〔晋の〕中興のとき、周顗らはそろって高い地位に列した。かつて冬至に酒を置き、絡秀はさかずきをかかげて三人の息子に与えて「わたしは長江を渡った当初より、落ちつく場所もないものと思ってきました。意外にもおまえたちがそろって高い身分となり、わたしの目の前にならんでいるのをみると、わたしはもう何の心配がありましょうか!」といった。周嵩が立ち上がって「おそれながらおっしゃるとおりではありません。伯仁(周顗)の志は大きいですが才能はとぼしく、名は重きをなしていますが識見はくらく、人の悪いところに乗じるきらいがあります。これは自らを全うする道ではありません。わたくし周嵩は性格が愚直で人と衝突するきらいがあり、また世に容れられないでしょう。ただ阿奴だけが平凡でものの役に立たないので、母上のそばにいることができるでしょう」といった。阿奴は、周謨の幼名である。のちにやはり周嵩の言ったとおりになった。
張茂妻陸氏
  張茂妻陸氏,呉郡人也。茂爲呉郡太守,被沈充所害,陸氏傾家産,率茂部曲爲先登以討充。充敗,陸詣闕上書,爲茂謝不克之責。詔曰:「茂夫妻忠誠,舉門義烈,宜追贈茂太僕。」
  張茂の妻の陸氏は、呉郡の人である。張茂が呉郡太守となって、沈充に殺されると、陸氏は一家の財産を傾けて、張茂の部曲を率い先頭に立って沈充を討った。沈充が敗れると、陸氏は宮廷をおとずれて意見書をたてまつり、張茂が勝利できなかった責任を陳謝した。詔に「張茂の夫妻は忠誠で、一門挙げて正義心が強い。張茂に太僕の位を追贈するのがよかろう」といった。
尹虞二女
  尹虞二女,長沙人也。虞前任始興太守,起兵討杜弢,戰敗,二女爲弢所獲,並有國色,弢將妻之。女曰:「我父二千石,終不能爲賊婦,有死而已!」弢並害之。
  尹虞のふたりのむすめは、長沙郡の人である。尹虞がさきに始興郡太守に任ぜられたとき、起兵して杜弢を討ったが、戦い敗れて、ふたりのむすめは杜弢に捕らえられた。そろって国有数の美貌をもっていたので、弢は彼女らをめとろうとした。むすめたちは「わたしの父は郡太守ですから、どうあっても賊の妻になることはできません。死あるのみです!」といった。杜弢はそろって彼女らを殺した。
荀崧小女灌
  荀崧小女灌,幼有奇節。崧爲襄城太守,爲杜曾所圍,力弱食盡,欲求救於故吏平南將軍石覽,計無從出。灌時年十三,乃率勇士數十人,踰城突圍夜出。賊追甚急,灌督厲將士,且戰且前,得入魯陽山獲免。自詣覽乞師,又爲崧書與南中郎將周訪請援,仍結爲兄弟,訪即遣子撫率三千人會石覽倶救崧。賊聞兵至,散走,灌之力也。
  荀崧のすえむすめの灌は、幼くして非凡なふしがあった。荀崧が襄城郡太守になると、杜曾に包囲されて、味方が弱く、糧食も尽きてしまった。もと部下で平南将軍の石覧に救援を求めようと思ったが、抜け出る方法がなかった。灌はときに年が十三だったが、そこで勇士数十人を率いて、城の囲みを越えて夜中に脱出した。賊はすばやく追いすがってきたが、灌は将士を督励して、かつ戦いかつ進み、魯陽山に入って逃れることができた。自ら石覧のもとを訪れて援軍を求め、また荀崧の手紙をつくって南中郎将の周訪に救援を請い、義兄弟のちぎりを結ばせた。周訪はただちに子の周撫に三千人を率いさせて石覧と合流させ、ともに荀崧を救援した。援軍が来たと聞いて賊が逃げ散ったのは、灌のはたらきである。
王凝之妻謝氏
  王凝之妻謝氏,字道韞,安西將軍奕之女也。聰識有才辯。叔父安嘗問:「毛詩何句最佳?」道韞稱:「吉甫作頌,穆如清風。仲山甫永懷,以慰其心。」安謂有雅人深致。又嘗内集,俄而雪驟下,安曰:「何所似也?」安兄子朗曰:「散鹽空中差可擬。」道韞曰:「未若柳絮因風起。」安大悅。
  王凝之の妻の謝氏(27)は、字を道韞といい、安西将軍の謝奕のむすめである。かしこくて見識があり、弁論の才能があった。叔父の謝安がかつて「『毛詩』はどの句が最も優れているだろうか?」と尋ねたことがあった。道韞は「(尹)吉甫は頌(賛美詩)をなし、清風のようにおだやかです。仲山甫は永懐(永遠の思い)で、その心を慰めます」とたたえた。謝安は雅をもつ人であってはじめて行きつく深遠な境地だといった。またかつて親族が集ったとき、急ににわか雪が降ってくると、謝安は「何に似ているだろうか?」といった。謝安の兄の子の謝朗は「塩を空中に散らすのになぞらえるべきでしょうか」といった。道韞は「柳絮が風によって舞い上がるのに及びますまい」といった。謝安はたいそう喜んだ。
  初適凝之,還,甚不樂。安曰:「王郎,逸少子,不惡,汝何恨也?」答曰:「一門叔父則有阿大、中郎,羣從兄弟復有封、胡、羯、末,不意天壤之中乃有王郎!」封謂謝韶,〔五〕胡謂謝朗,羯謂謝玄,末謂謝川,皆其小字也。又嘗譏玄學植不進,曰:「爲塵務經心,爲天分有限邪?」凝之弟獻之嘗與賓客談議,詞理將屈,道韞遣婢白獻之曰:「欲爲小郎解圍。」乃施靑綾歩鄣自蔽,申獻之前議,客不能屈。
  かつて王凝之にとついで、実家に帰ったとき、楽しくなさそうにしていた。謝安は、「王(凝之)どのは、逸少(王羲之)の子で、悪くない人物だが、おまえは何が恨めしいのかね?」といった。答えて「一門の叔父には阿大(謝安)、中郎(謝万)がおられ、従兄弟たちにはまた封、胡、羯、末がおりますが、まさか天地の中に王君〔のようなだめな人〕がいるとは思いませんでした!」といった。封とは謝韶のことであり、胡とは謝朗のことであり、羯とは謝玄のことであり、末とは謝川のことである。みなその小字(幼名)である。またかつて謝玄の学問が進まないのをけなして、「雑事に心をとらわれているのですか、天分に限りがあるのですか?」といった。王凝之の弟の王献之が、かつて賓客と談議して、詩文の理論でやりこめられそうになった。道韞は端女をつかわして王献之に申し上げて「あなたのために囲みを解こうと思います」といった。そこで青いあやぎぬの幕をほどこして自分を覆い隠し、議論の展開に先立って王献之に申しのべると、客はやりこめることができなかった。
  及遭孫恩之難,舉厝自若,既聞夫及諸子已爲賊所害,方命婢肩輿抽刃出門,亂兵稍至,手殺數人,乃被虜。其外孫劉濤時年數歳,賊又欲害之,道韞曰:「事在王門,何關他族!必其如此,寧先見殺。」恩雖毒虐,爲之改容,乃不害濤。自爾嫠居會稽,家中莫不嚴肅。太守劉柳聞其名,請與談議。道韞素知柳名,亦不自阻,乃簪髻素褥坐於帳中,柳束脩整帶造於別榻。道韞風韵高邁,敍致清雅,先及家事,慷慨流漣,徐酬問旨,詞理無滯。柳退而歎曰:「實頃所未見,瞻察言氣,使人心形倶服。」道韞亦云:「親從凋亡,始遇此士,聽其所問,殊開人胸府。」
  孫恩の乱に遭遇したが、立ち居振る舞いは落ちついていた。夫と諸子がすでに賊に害されたと聞くと、そのとき婢に命じて輿をかつがせ、刃を抜いて門を出て、乱兵がいくらかやってくると、手ずから数人を殺して、そこでようやく捕らえられた。彼女の外孫の劉涛がときに年数歳で、賊はまたこれをも害そうとしたが、道韞は「問題は王家にあり、どうして他族に関わりがありましょうか!どうしてもそのようなことをするというなら、私が先に殺されるがましです」といった。孫恩はひどく残虐であるが、彼女の言葉を聞いて態度を改めて、劉涛を殺さないことにした。この事件以後は会稽でやもめ暮らしをしていたが、家中は厳しくおごそかでないことがなかった。太守劉柳は彼女の名を聞いて、ともに談議したいと願い出た。道韞はもともと劉柳の名を知っていたので、険阻なところを苦にもせずやってきた。そしてもとどりにかんざしを刺しただけの飾り気ない姿で、とばりの中に座った。劉柳は贈り物を用意し身なりを整え、別の長椅子で〔威厳を〕つくろった。道韞は人柄がみやびやかで抜きんでてすぐれており、述べるおもむきは清らかで上品であった。話の先が家のことに及ぶと、興奮して嘆き、涙がつきなかった。問われたことに余裕をもって答え、言葉のすじみちが滞ることがなかった。劉柳は退いて「本当に近頃は見ることのないようなかただ。言気を仰ぎ見ると、人の心と形をともに従わせてしまう」と嘆いていった。道韞はまた「親族が亡くなってからというもの、はじめてこのような方にお会いして、その問われるところを拝聴すると、とりわけ人の胸中を開いた心持ちがします」といった。
  初,同郡張玄妹亦有才質,適於顧氏,玄毎稱之,以敵道韞。有濟尼者,游於二家,或問之,濟尼答曰:「王夫人神情散朗,故有林下風氣。顧家婦清心玉映,自是閨房之秀。」道韞所著詩賦誄頌並傳於世。
  かつて、同郡の張玄の妹もまた才能と性格がすぐれており、顧氏にとついだ。張玄はいつも道韞に匹敵する女性として彼女をたたえていた。王・顧の両家で遊んだ済尼という者がいて、ある人がこのことを尋ねると、済尼は「王夫人は心情が明るくほがらかで、生来林の下に風があるようなさっぱりしたおかたです。顧家の妻は心の清らかなこと玉に映った影のようで、学芸にすぐれた才媛でいらっしゃいます」と答えていった。道韞の著した詩賦誄頌(28)はそろって世に伝えられた。
劉臻妻陳氏
  劉臻妻陳氏者,亦聰辯能屬文。嘗正旦獻椒花頌,其詞曰:「旋穹周迴,三朝肇建。靑陽散輝,澄景載煥。標美靈葩,爰採爰獻。聖容映之,永壽於萬。」又撰元日及冬至進見之儀,行於世。
  劉臻の妻の陳氏は、またかしこくて弁が立ち、文章をつづるのを得意とした。かつて元旦に「椒花頌(さんしょうの花を讃える)」を献上し、その詞に「天幕をめぐって周回し、夏殷周の三王朝がはじめて建国されました。春の太陽は散り輝き、澄んだ景色が広がりかがやきます。こずえに美しく霊妙な花、ここに取ってここに献上します。おかんばせがこの花を映せば、天子さまには長生きされましょう」といった。また元日と冬至の進見の儀で〔詩文を〕選んで、世に行われた。
皮京妻龍氏
  皮京妻龍氏,字憐,西道縣人也。年十三適京,未逾年而京卒,京二弟亦相次而隕,既無胤嗣,又無朞功之親。憐貨其嫁時資裝,躬自紡織,數年間三喪倶舉,葬斂既畢,毎時享祭無闕。州里聞其賢,屢有娉者,憐誓不改醮,守節窮居五十餘載而卒。
  皮京の妻の龍氏は、字を憐といい、西道県の人である。年が十三で皮京にとつぎ、年が越えないうちに皮京が亡くなり、皮京のふたりの弟もまた相次いで亡くなったので、そのまま後継ぎとするものもなく、またひとしきり世話をする親もなかった。憐は彼女が嫁いできたときの衣装を金に換え、自ら機織りをして、数年間に三度の喪を挙げて、葬り終わると、時節ごとの祭祀を欠かすことがなかった。村里は彼女が賢いと聞いて、しばしば求婚するものがいたが、憐は決して再嫁することがなかった。節を守って質素に暮らし、五十歳あまりで亡くなった。
孟昶妻周氏
  孟昶妻周氏,昶弟顗妻又其從妹也。二家並豐財産。初,桓玄雅重昶而劉邁毀之,昶知,深自惋失。及劉裕將建義,與昶定謀,昶欲盡散財物以供軍糧,其妻非常婦人,可語以大事,乃謂之曰:「劉邁毀我於桓公,便是一生淪陷,決當作賊。卿幸可早爾離絶,脱得富貴,相迎不晩也。」周氏曰:「君父母在堂,欲建非常之謀,豈婦人所諫!事之不成,當於奚官中奉養大家,義無歸志也。」昶愴然久之而起。周氏追昶坐,云:「觀君舉厝,非謀及婦人者,不過欲得財物耳。」時其所生女在抱,推而示之曰:「此而可賣,亦當不惜,況資財乎!」遂傾資産以給之,而託以他用。及事之將舉,周氏謂顗妻云:「一昨夢殊不好,門内宜浣濯沐浴以除之,且不宜赤色,我當悉取作七日藏厭。」顗妻信之,所有絳色者悉斂以付焉。乃置帳中,潛自剔緜,以絳與昶,遂得數十人被服赫然,悉周氏所出,〔六〕而家人不之知也。
  孟昶の妻の周氏。孟昶の弟の孟顗の妻もまたその従妹である。二家はともに財産が豊かであった。かつて、桓玄は平素から孟昶を重んじていたが、劉邁がそしってぶち壊しにしたので、孟昶が知ると、たいそう〔桓玄の信頼を〕失ったことを恨んだ。劉裕が〔桓玄を撃つため〕起兵しようとしたとき、孟昶とともにはかりごとを定めた。孟昶は軍の食糧として供するため、財物を散じつくしたいと思った。かれの妻は並でない婦人だったので、大事を語ることができた。そこで彼女に「劉邁がわたしを桓公にそしったため、わたしは一生落ちぶれて暮らすか、決断して賊となるかしなければならない。君は幸いにも早いうちにその縁を切ることができる。〔苦境から〕脱けだして富貴を得ることができたら、またよりをもどしても遅くはないよ」といった。周氏は「あなたの父母は堂におられ、つねならぬはかりごとを立てようと望んでおられます。どうして〔わたしごとき〕婦人が止められましょうか!もし大事が成らなければ、なんの官でみなを養っていくべきでしょうか。義とは後戻りしない決心なのです」といった。孟昶はうちひしがれたようすで長くぼうっとしていたが、起きあがった。周氏は孟昶を追って座り、「あなたのご様子を見ておりますと、わたくしが財物を得たいだけにすぎないと思われているのではありませんか」といった。そのとき彼女が生んだむすめを抱えていたので、むすめを押しやって「これも売ることができます。また何を惜しむべきでしょうか。ましてや資財など!」といった。そのまま資産を傾けてかれに給し、かれの用いるままにゆだねた。起兵のことが決行されようというとき、周氏は孟顗の妻に「きのう見た夢はとりわけ良くないもので、家の中は洗いすすぎ身を清めて不吉を除くべきでしょう。さらに赤色はよくないので、わたしはすべて選び取って七日のあいだしまいこんで隠しておくのがよいと思います」といった。孟顗の妻はこれを信じて、所有する赤いものをことごとく集めて手渡した。そこで〔周氏はそれらを〕帳(とばり)の中に置き、ひそかに自ら綿を切り取ってできた赤い衣を孟昶に与えた。こうして数十人を得ると服を着せて赤く燃えるごとくであった。〔これらのことは〕すべて周氏から出たのであるが、家人はこのことを知らなかった。
何無忌母劉氏
  何無忌母劉氏,征虜將軍建之女也。少有志節。弟牢之爲桓玄所害,劉氏毎銜之,常思報復。及無忌與劉裕定謀,而劉氏察其舉厝有異,喜而不言。會無忌夜於屏風裏制檄文,劉氏潛以器覆燭,徐登橙於屏風上窺之,既知,泣而撫之曰:「我不如東海呂母明矣!既孤其誠,常恐壽促,汝能如此,吾讐恥雪矣。」因問其同謀,知事在裕,彌喜,乃説桓玄必敗、義師必成之理以勸勉之。後果如其言。
  何無忌の母の劉氏は、征虜将軍の劉建のむすめである。若くして折り目正しい志をもっていた。弟の劉牢之が桓玄に殺されたので、劉氏はこのことを思うたびに、いつも報復を考えていた。何無忌が劉裕とともに〔桓玄打倒の〕謀を定めると、劉氏は何無忌の挙動がおかしいことに気づいて、喜びながらも言わなかった。ちょうど何無忌が夜に屏風の裏で檄文を推敲していたとき、劉氏はこっそりと蝋燭の明かりを器で覆い、ゆっくりと腰掛けに登って屏風の上からこのようすをのぞき見した。〔密事を〕知ったのち、泣きながら息子を撫でて「わたしは東海の呂母(29)の知恵にも及びません!すっかり真情にそむいて、いつも寿命が縮まることを恐れていました。おまえがこのようなことを成し遂げられたら、わたしはかたきの恥をそそぐことができます。」といった。そこでその謀に同心している者のことを問いただし、事〔の中心〕に劉裕がいることを知るとますます喜び、そこで桓玄が必ず敗れ義軍が必ず成功する道理を説いて、義軍への勧誘につとめた。後にやはりその言葉のとおりとなった。
劉聰妻劉氏
  劉聰妻劉氏,名娥,字麗華,偽太保殷女也。幼而聰慧,晝營女工,夜誦書籍,傅母恒止之,娥敦習彌厲。毎與諸兄論經義,理趣超遠,諸兄深以歎伏。性孝友,善風儀進止。
  劉聡の妻の劉氏は、名を娥、字を麗華といい、偽朝(漢)の太保劉殷のむすめである。幼いころから物わかりがよくてかしこく、昼は女の手仕事をし、夜は書籍を口ずさんでいた。守り役の女性はいつもこれを止めていたが、娥は習いおさめてますます励んだ。兄たちと経典の解釈を議論するたびに、意義理解は深遠で、兄たちは深く感服していた。性格は親を大切にしてつき合いがよく、身のこなしはめりはりが利いてよろしかった。
  聰既僭位,召爲右貴嬪,甚寵之。俄拜爲后,將起[皇鳥:047086]儀殿以居之,其廷尉陳元達切諫,聰大怒,將斬之。娥時在後堂,私敕左右停刑,手疏啓曰:「伏聞將爲妾營殿,今昭德足居,[皇鳥:047086]儀非急。四海未一,禍難猶繁,動須人力資財,尤宜愼之。廷尉之言,國家大政。夫忠臣之諫,豈爲身哉?帝王距之,亦非顧身也。妾仰謂陛下上尋明君納諫之昌,下忿闇主距諫之禍,宜賞廷尉以美爵,酬廷尉以列土,如何不惟不納,而反欲誅之?陛下此怒由妾而起,廷尉之禍由妾而招,人怨國疲,咎歸於妾,距諫害忠,亦妾之由。自古敗國喪家,未始不由婦人者也。妾毎覽古事,忿之忘食,何意今日妾自爲之!後人之觀妾,亦猶妾之視前人也,復何面目仰侍巾櫛,請歸死此堂,以塞陛下誤惑之過。」聰覽之色變,謂其羣下曰:「朕比得風疾,喜怒過常。元達,忠臣也。朕甚愧之。」以娥表示元達曰:「外輔如公,内輔如此后,朕無憂矣。」及娥死,偽諡武宣皇后。
  劉聡が帝位を僭称したのち、彼女を召しだして右貴嬪とし、たいそう寵愛した。にわかに皇后に立て、彼女を住まわせるための[皇鳥:047086]儀殿を建てようとしたところ、その廷尉の陳元達が強く諫言したので、劉聡はたいそう怒り、かれを斬ろうとした。娥はときに後堂にいて、ひそかに側近に命じて刑の執行を止めさせ、手ずから意見書をたてまつって「伏して聞きましたところではわたしのために宮殿を営もうとなさっているとか、いま昭徳殿に身を置いていますので、[皇鳥:047086]儀殿は急ぐ必要がありません。四海(天下)はいまだ統一されず、禍や災難はまだ頻繁に起こっているのですから、人力や資産を動かしもちいるときには、もっとも慎重にならなくてはなりません。廷尉のことばは、国家の政治の大局にかなうものです。それは忠臣の諫言であり、どうして身のためでしょうか?帝王がこれを遠ざけても、また身をかえりみることにはならないのです。わたしが陛下に申し上げたいのは、上には明君が諫言を納れる盛事をたずね、下には暗君が諫言を遠ざける災禍に怒るということです。廷尉をすぐれた爵位で賞し、廷尉を封土でもって報いるのがよろしいでしょうに、どうして意見をお容れにならないだけでなく、かえってかれを殺そうとなさるのですか?陛下がこれわたしのためにお怒りになってなさるのであれば、廷尉の禍はわたしより招いたものです。人は怨み国は疲弊して、罪はわたしに帰するでしょう。諫言を遠ざけ忠臣を害するのも、またこれもわたしのせいでしょう。いにしえから国を敗亡させ家を失わせるに、婦人から始まらなかった例はありません。わたしはいにしえの事跡をみるたびに、食事を忘れるほどの怒りを感じてきましたが、どんな意があって今日わたしが自ら同じことをやるのでしょう!後人がわたしを見るのに、またわたしが以前の亡国の婦人たちを見たのと同様であれば、また何の面目があって髪を飾ってお仕えしておれましょう。陛下を誤らせ惑わせた罪をふさぐためにも、この堂で死なせていただくようお願いします。」と申し上げた。劉聡はこれを見て顔色を変えて、その群臣たちに「朕は病気にかかっていて、喜怒の感情がふつうでなかった。陳元達は忠臣である。朕はこのことをたいへん後悔している」といった。娥を顔見せして「外朝で公のようなものが助けてくれて、内朝でこの后のようなものが助けてくれれば、朕は心配することがない」と陳元達にいった。娥が死んだとき、偽朝の諡を武宣皇后といった。
  其姊英,字麗芳,亦聰敏渉學,而文詞機辯,曉達政事,過於娥。初與娥同召拜左貴嬪,尋卒,偽追諡武德皇后。
  その姉の英は、字を麗芳といい、またかしこくて物わかりが早く、学問を渉猟して、詩文をつくってたくみに論じ、政治にも通暁しているようすは、娥にも勝っていた。かつて娥とともに同じく召されて左貴嬪に任ぜられ、まもなく亡くなり、偽朝により武徳皇后と諡を追贈された。
王廣女
  王廣女者,不知何許人也。容質甚美,慷慨有丈夫之節。廣仕劉聰,爲西揚州刺史。蠻帥梅芳攻陷揚州,而廣被殺。王時年十五,芳納之。俄於闇室撃芳,不中,芳驚起曰:「何故反邪?」王罵曰:「蠻畜!我欲誅反賊,何謂反乎?吾聞父仇不同天,母仇不同地,汝反逆無状,害人父母,而復以無禮陵人,吾所以不死者,欲誅汝耳!今死自吾分,不待汝殺,但恨不得梟汝首於通逵,以塞大恥。」辭氣猛厲,言終乃自殺,芳止之不可。
  王広のむすめは、どこの出身の人か知られていない。顔かたちがたいへん美しく、気概は男まさりのふしがあった。王広が劉聡に仕えて、西揚州刺史となった。南方異民族の将軍の梅芳が揚州を攻め落とすと、王広は殺された。王氏はときに十五歳で、梅芳は彼女を妻にしようとした。彼女は不意をついて暗い部屋で芳を討とうとしたが、当たらなかった。梅芳は驚いて起きて「どうしてさからうのか?」といった。王氏はののしって「けだものめ!わたしこそさからった賊を殺そうとしているのに、どうしてわたしがさからったというのか?父の仇とは同じ天を戴かない、母の仇とは同じ地を踏まないと、わたしは聞いている。おまえはよしなくも反逆し、人の父母を害し、しかもまた無礼にも人を痛めつけようとしている。わたしが死なずにいるのは、おまえを殺したいがためだけだ!いま死ぬのはもとよりわたしの天分で、おまえが殺すのを待ってはいられない。おまえの首を道端にさらすことができなかったのがただ心残りだが、死んで大いなる恥をふさごう。」といった。語気はげしく、言い終えると自殺した。梅芳はこれを止めようとしてできなかった。
陝婦人
  陝婦人,不知姓字,年十九。劉曜時嫠居陝縣,事叔姑甚謹,其家欲嫁之,此婦毀面自誓。後叔姑病死,其叔姑有女在夫家,先從此婦乞假不得,因而誣殺其母,有司不能察而誅之。時有羣鳥悲鳴尸上,其聲甚哀,盛夏暴尸十日,不腐,亦不爲蟲獸所敗,其境乃經歳不雨。曜遣呼延謨爲太守,既知其冤,乃斬此女,設少牢以祭其墓,諡曰孝烈貞婦,其日大雨。
  陝婦人は、姓と字が知られていない。年は十九であった。劉曜のとき、陝県でやもめ暮らしをしていた。叔母にたいそうまめまめしく仕えたので、その家は婦人を再婚させようとしたが、この婦人は自ら顔を傷つけて再嫁しないことを誓った。のちに叔母が病死すると、その叔母にむすめがあって夫の家にいたが、以前この婦人から暇をもらおうとしてもらえなかったことを恨んでいたので、婦人がむすめの母を殺したのだと誣告した。役人は真相を察することができず、婦人を処刑した。ときに鳥の群れが死体の上で悲しい鳴き声をあげ、その声はたいへん哀れだった。盛夏に死体を十日さらしたのに、腐らなかった。虫やけものも傷つけることがなく、そのあたりはついに年中雨が降らなかった。劉曜が呼延謨を派遣して太守とすると、婦人の冤罪であることが知られた。誣告したむすめを斬って、生け贄を捧げて婦人の墓をまつり、諡して孝烈貞婦といった。その日、大雨となった。
靳康女
  靳康女者,不知何許人也。美姿容,有志操。劉曜之誅靳氏,將納靳女爲妾,靳曰:「陛下既滅其父母兄弟,復何用妾爲!妾聞逆人之誅也,尚汚宮伐樹,而況其子女乎!」因號泣請死,曜哀之,免康一子。
  靳康のむすめは、どこの出身の人か知られていない。姿かたちが美しく、操が堅かった。劉曜が靳氏を誅殺すると、靳氏のむすめを妾として後宮にいれようとした。靳氏は「陛下はすでにわたしの父母兄弟を滅ぼしておしまいになり、またなんでわたしを用いようとなさるのですか!反逆者を誅殺すると、宮殿を汚した樹でさえ斬るとわたしは聞いています。ましてやその子女を斬らないことがありましょうか!」といった。号泣して死を願ったので、劉曜はこれを哀れんで、靳康の一子を赦免してやった。
韋逞母宋氏
  韋逞母宋氏,不知何郡人也,家世以儒學稱。宋氏幼喪母,其父躬自養之。及長,授以周官音義,謂之曰:「吾家世學周官,傳業相繼,此又周公所制,經紀典誥,百官品物,備於此矣。吾今無男可傳,汝可受之,勿令絶世。」屬天下喪亂,宋氏諷誦不輟。
  韋逞の母の宋氏は、どこの郡の人か知られていない。家は代々儒学を伝えて名を挙げていた。宋氏は幼いとき母を失い、宋氏の父が自ら彼女を養った。成長すると、『周官』の読みと意味を伝授して、彼女に「わが家は代々『周官』を学んで、伝える仕事を継承してきた。これはまた周公が決められたことで、基本的なきまりや古い詔、百官の等級分類、ここに備わっている。わたしには今伝えるべき男がいないので、おまえがこれを受けるべきだ。決しておまえの代で絶やしてはいけないよ。」といった。天下が争乱のさなかにあっても、宋氏は暗誦することをやめなかった。
  其後爲石季龍徙之於山東,宋氏與夫在徙中,推鹿車,背負父所授書,到冀州,依膠東富人程安壽,壽養護之。逞時年小,宋氏晝則樵採,夜則教逞,然紡績無廢。壽毎歎曰:「學家多士大夫,得無是乎!」逞遂學成名立,仕苻堅爲太常。堅嘗幸其太學,問博士經典,乃憫禮樂遺闕。時博士盧壼對曰:「廢學既久,書傳零落,比年綴撰,正經粗集,唯周官禮注未有其師。竊見太常韋逞母宋氏世學家女,傳其父業,得周官音義,今年八十,視聽無闕,自非此母無可以傳授後生。」於是就宋氏家立講堂,置生員百二十人,隔絳紗幔而受業,號宋氏爲宣文君,賜侍婢十人。周官學復行於世,時稱韋氏宋母焉。〔七〕
  そののち、石季龍(石虎)のために山東へ移住させられることとなった。宋氏は夫とともに引っ越しのさなか、小さな車を押し、書を授けた父を背負って、冀州にいたった。膠東の富人の程安寿を頼ると、程安寿はかれらを養い庇護した。韋逞はときに年少であったが、宋氏が昼にはたきぎ取りをし、夜には韋逞を教えて、しかるに糸つむぎの仕事もやめることがなかった。程安寿はいつも感嘆して「学問をする家には士大夫が多いが、このようなのはおるまいか」といっていた。韋逞はかくして学問が成り功名を立てて、苻堅に仕えて太常となった。苻堅がかつてその太学に御幸し、博士に経典のことを質問して、礼楽に欠落があるのを残念がった。ときに博士の盧壼が答えて「学問がすたれてすでに長らく経ち、いにしえの書や注釈もさびれてしまいました。近年になってつづり撰ばれて、正しい経典はおおよそ集まったものの、ただ『周官礼注』にまだその師がありません。私見として申し上げれば、太常韋逞の母の宋氏が代々学問の家の女で、その父の学業を伝え、『周官』の読みと意味を習得して、今年八十になり、耳目も支障がないので、この母以外に後学の諸生に伝えることのできるものはおりません」といった。そこですぐに宋氏の家に講堂を立て、学生百二十人を置き、赤いうすぎぬの幕を隔てて授業をおこなった。宋氏を号して宣文君とし、端女十人を賜った。周官の学が再び世に行われ、ときに韋氏宋母(韋母宋氏の誤り)と称された。
張天錫妾閻氏薛氏
  張天錫妾閻氏、薛氏,並不知何許人也,咸有寵於天錫。天錫寢疾,謂之曰:「汝二人將何以報我?吾死後,豈可爲人妻乎!」皆曰:「尊若不諱,妾請效死,供灑掃地下,誓無他志。」及其疾篤,二姫皆自刎。天錫疾瘳,追悼之,以夫人禮葬焉。
  張天錫の妾の閻氏と薛氏は、そろってどこの出身の人か知られていない。ともに張天錫に寵愛を受けた。張天錫が病のために床につくと、彼女たちに「おまえたち二人はどうやって私に報いてくれるのか?わたしの死後、他人の妻になるのがよいか!」といった。ふたりは「お上がもし亡くなるようなことがあれば、わたしたちは命を捨て、地下を掃除してさしあげること、誓ってほかの志を持っておりません」といった。張天錫の病が重くなると、ふたりの姫はともに自刎した。張天錫の病が癒えると、彼女たちを追悼し、夫人の礼で葬らせた。
苻堅妾張氏
  苻堅妾張氏,不知何許人,明辯有才識。堅將入寇江左,羣臣切諫不從。張氏進曰:「妾聞天地之生萬物,聖王之馭天下,莫不順其性而暢之,故黄帝服牛乘馬,因其性也;禹鑿龍門,決洪河,因水之勢也;后稷之播殖百穀,因地之氣也;湯武之滅夏商,因人之欲也。是以有因成,無因敗。今朝臣上下皆言不可,陛下復何所因也?書曰:『天聰明自我民聰明。』天猶若此,況於人主乎!妾聞人君有伐國之志者,必上觀乾象,下採衆祥。天道崇遠,非妾所知。以人事言之,未見其可。諺言:『雞夜鳴者不利行師,犬羣嘷者宮室必空,兵動馬驚,軍敗不歸。』秋冬已來,毎夜羣犬大嘷,衆雞夜鳴,伏聞廐馬驚逸,武庫兵器有聲,吉凶之理,誠非微妾所論,願陛下詳而思之。」堅曰:「軍旅之事非婦人所豫也。」遂興兵。張氏請從。堅果大敗於壽春,張氏乃自殺。
  苻堅の妾の張氏は、どこの出身の人か知られていない。はっきりと善悪を区別し、才知と識見があった。苻堅が江左(江東)に攻め入ろうとすると、群臣は固く諫めて従わなかった。張氏は進言して「天地が万物を生み、聖王が天下を馭すると、わたしは聞いています。その性質にしたがわないで、のびやかにいられるものはありません。だから黄帝が牛に寄り添って馬に乗ったのは、その性質によるものです。禹が龍門をうがって、黄河の大量の水を流させたのは、水の勢いによるものです。周の后稷が多くの穀物の種をまき、苗を植えたのは、地の気によるものです。殷の湯王が夏を滅ぼし、周の武王が商を滅ぼしたのは、人の欲によるものです。それゆえに拠りどころのあるものは成功し、拠りどころのないものは失敗します。いま朝臣の上下はみないけないと言っておりますのに、陛下にはまた何の拠りどころがあるのでしょうか?『尚書』では『天が聡明なのは我が民が聡明なのによっている』(30)と言っています。天でさえこのようであるのに、どうして人主がそうでないことがありましょうか!人君が国を討とうという志をもつときは、必ず上に天のしるしを観察し、下に多くのきざしを採るとわたしは聞いています。天の道は気高く遠大であって、わたしの知るところではありません。人間社会の事柄できざしを言えば、まだそのよろしいものを見ていません。諺に『鶏が夜に鳴くのは行軍に利がなく、犬の群れが吠えると必ず宮殿の部屋は空っぽになり、兵が動揺し馬が驚くと、軍は敗れて帰ることがない』と言います。年の暮れがやってきて、夜ごとに犬の群れが大いに吠えたて、多くの鶏が夜に鳴き、厩舎の馬が驚いて逃げようとするのがひそかに聞こえ、武器庫の兵器に物音が立っています。吉凶のことわりは、実にわたしごときが論ずるところではありませんが、陛下にはこのことを詳しく思いおこしていただくようお願いします」といった。苻堅は「戦争のことは婦人の関わり合うところではない」といった。そのまま兵を起こした。張氏は従軍を願い出た。堅がやはり寿春で大敗すると、張氏は自殺した。
竇滔妻蘇氏
  竇滔妻蘇氏,始平人也,名蕙,字若蘭。善屬文。滔,苻堅時爲秦州刺史,被徙流沙,蘇氏思之,織錦爲迴文旋圖詩以贈滔。宛轉循環以讀之,詞甚悽惋,凡八百四十字,文多不録。
  竇滔の妻の蘇氏は、始平郡の人であり、名を蕙、字を若蘭といった。文章をつづるのを得意とした。竇滔は、苻堅のとき秦州刺史となり、砂漠の地にうつされた。蘇氏は夫を思い、機織りをしながら回文旋図の詩(31)をつくって竇滔に贈った。ぐるぐると転がしながらこれを読むと、詞はたいそうもの悲しいもので、およそ八百四十字、文の多くは記録に残されなかった。
苻登妻毛氏
  苻登妻毛氏,不知何許人,壯勇善騎射。登爲姚萇所襲,營壘既陷,毛氏猶彎弓跨馬,率壯士數百人,與萇交戰,殺傷甚衆。衆寡不敵,爲萇所執。萇欲納之,毛氏罵曰:「吾天子后,豈爲賊羌所辱,何不速殺我!」因仰天大哭曰:「姚萇無道,前害天子,今辱皇后,皇天后土,寧不鑒照!」萇怒,殺之。
  苻登の妻の毛氏は、どこの出身の人か知られていない。意気盛んで勇ましく騎射をよくした。苻登が姚萇に襲われて、とりではすでに陥落したのに、毛氏はなお弓を引きしぼって馬にまたがり、数百人を率いて姚萇と交戦して、おびただしい人々を殺傷した。しかし衆寡敵せず、姚萇に捕らえられた。姚萇が彼女を後宮に納めようとしたので、毛氏はののしって「わたしは天子の后だ。どうして賊の羌に辱められたりしようか。なんで早くわたしを殺さないか!」といった。そこで天を仰いで大声で泣いて「姚萇は無道で、さきに天子(苻堅)を害し、今は皇后を辱めようとしています。皇天后土、どうかご覧にならないでいただきたい!(32)」といった。姚萇は怒って、彼女を殺した。
慕容垂妻段氏
  慕容垂妻段氏,字元妃,偽右光祿大夫儀之女也。少而婉慧,有志操,常謂妹季妃曰:「我終不作凡人妻。」季妃亦曰:「妹亦不爲庸夫婦。」鄰人聞而笑之。垂之稱燕王,納元妃爲繼室,遂有殊寵。偽范陽王德亦娉季妃焉。姊妹倶爲垂、德之妻,卒如其志。垂既僭位,拜爲皇后。
  慕容垂の妻の段氏は、字を元妃といい、偽朝(前燕)の右光禄大夫段儀のむすめである(33)。年若いときからしとやかでかしこく、高い志をもっていた。いつも妹の季妃に「わたしはどう終わっても凡人の妻にはなりませんよ」といっていた。季妃もまた「わたしもやはりふつうの男の妻にはなりませんとも」といった。隣人はこれを聞いて笑っていた。慕容垂が燕王を称すると、元妃をおさめて後妻とし、こうして格別の寵愛があった。偽朝の范陽王の慕容徳もまた季妃をめとった。姉妹はともに慕容垂、慕容徳の妻となって、ついにその志のとおりとなった。慕容垂(後燕世祖)が帝位を僭称したのち、位をいただいて皇后となった。
  垂立其子寶爲太子也,元妃謂垂曰:「太子姿質雍容,柔而不斷,承平則爲仁明之主,處難則非濟世之雄,陛下託之以大業,妾未見克昌之美。遼西、高陽二王,陛下兒之賢者,宜擇一以樹之。趙王麟姦詐負氣,常有輕太子之心,陛下一旦不諱,必有難作。此陛下之家事,宜深圖之。」垂不納。寶及麟聞之,深以爲恨。其後元妃又言之,垂曰:「汝欲使我爲晉獻公乎?」元妃泣而退,告季妃曰:「太子不令,羣下所知,而主上比吾爲驪戎之女,何其苦哉!主上百年之後,太子必亡社稷。范陽王有非常器度,若燕祚未終,其在王乎!」
  慕容垂がその子の慕容宝を立てて太子とすると、元妃は慕容垂に「太子の姿質はゆったり落ちつきはらっていて、優柔不断であり、平和な治世を受け継ぐならば情け深く道理のとおった君主となりましょうが、危難のときに世を救う英雄ではありません。陛下は大業をかれに託そうとなさっていますが、わたしはかれに勝ち気な美点を見たことがありません。遼西と高陽の二王(慕容農と慕容隆)は、陛下のお子のうちの賢者であり、ぜひとも一人を選んで後継者に立てるべきです。趙王慕容麟は、よこしまでずるく謀反気があって、いつも太子を軽んじる気持ちを持っています。陛下がある日お隠れになられれば、必ずや災難を引き起こしましょう。これは陛下のお家のことであり、ぜひこのことを深慮なさってください」といった。慕容垂は受けいれなかった。慕容宝と慕容麟がこのことを聞くと、深く恨みに思った。その後、元妃はふたたびこのことを言うと、慕容垂は「おまえはわたしを晋の献公(34)にさせたいのか?」といった。元妃は泣いて引き下がり、季妃に告げて「太子がよくないのは、群臣の知るところです。それなのに主上がわたしを驪戎の女(驪姫)と比べるなど、なんとつらいことでしょうか!主上のご長寿の後には、太子は必ずや社稷を滅ぼしましょう。范陽王(慕容徳)はふつうでない器量をもっており、もし燕の命脈がまだ尽きていなければ、かれは帝王となっているでしょうか!」といった。
  垂死,寶嗣偽位,遣麟逼元妃曰:「后常謂主上不能嗣守大統,今竟何如?宜早自裁,以全段氏。」元妃怒曰:「汝兄弟尚逼殺母,安能保守社稷!吾豈惜死,念國滅不久耳。」遂自殺。寶議以元妃謀廢嫡統,無母后之道,不宜成喪,羣下咸以爲然。偽中書令眭邃大言於朝曰:〔八〕「子無廢母之義,漢之安思閻后親廢順帝,猶配饗安皇,先后言虚實尚未可知,宜依閻后故事。」寶從之。其後麟果作亂,寶亦被殺,德復僭稱尊號,終如元妃之言。
  慕容垂が死に、慕容宝が偽帝の位を継ぐと、慕容麟を派遣して元妃にせまって「后はいつも後継ぎが大統を守ることができないと主上にいっていましたが、今はけっきょくどうなっているでしょうか?早く自殺なさって、段氏〔一族に罪を連座させず、一族の身〕を全うなさるがよろしいでしょう。」といった。元妃は怒って「おまえたち兄弟は母にせまって殺そうとするほどだから、どうして社稷を保って守っていくことができようか!わたしは死を惜しんだりはしないが、国が久しからずして滅びるのを心配するだけだ」といって、とうとう自殺してしまった。慕容宝は、元妃が嫡統を廃そうと謀り、母后の道にかなっておらず、国葬をおこなうべきではないと発議した。群臣はみなそのとおりだと考えた。偽朝(後燕)の中書令眭邃が朝廷で勇ましくも「子が母を廃する前例がないとはいいますが、後漢の安思閻后(35)は順帝によりみずから廃されながら、それでも安皇(安帝)とともにまつられました。先の皇后の言の虚実はなおさら知ることができませんので、閻后の故事のとおりになさるがよろしいでしょう」といったので、慕容宝はこれに従っ〔て母后をまつっ〕た。その後、慕容麟がやはり乱を起こし、慕容宝もまた殺され、慕容徳(南燕世宗)もまた尊号を僭称し、とうとう元妃のことばのとおりになった。
段豐妻慕容氏
  段豐妻慕容氏,德之女也。有才慧,善書史,能鼓琴。德既僭位,署爲平原公主。年十四,適於豐。豐爲人所譖,被殺,慕容氏寡歸,將改適偽壽光公餘熾。慕容氏謂侍婢曰:「我聞忠臣不事二君,貞女不更二夫。段氏既遭無辜,己不能同死,豈復有心於重行哉!今主上不顧禮義嫁我,若不從,則違嚴君之命矣。」於是剋日交禮。慕容氏姿容婉麗,服飾光華,熾覩之甚喜。經再宿,慕容氏偽辭以疾,熾亦不之逼。三日還第,沐浴置酒,言笑自若,至夕,密書其帬帶云:「死後當埋我於段氏墓側,若魂魄有知,當歸彼矣。」遂於浴室自縊而死。及葬,男女觀者數萬人,莫不歎息曰:「貞哉公主!」路經餘熾宅前,熾聞挽歌之聲,慟絶良久。
  段豊の妻の慕容氏は、慕容徳のむすめである。才知があって、読書をよくし、鼓や琴の演奏にすぐれた。慕容徳が帝位を僭称すると、平原公主となった。年が十四で、段豊にめあわされた。段豊が人に中傷を受けて殺され、慕容氏はやもめとなって実家に帰ったところ、偽朝(南燕)の寿光公余熾に再嫁させられそうになった。慕容氏は端女に「忠臣はふたりの主君につかえず、貞女はふたりの夫をかえないとわたしは聞いています。段氏は既に無実の罪で亡くなり、わたしはいっしょに死ぬことができませんでした。どうして再びとつぐ気持ちが持てましょうか。いま主上は礼儀をかえりみずにわたしをとつがせようとしています。もし従わなければ、父母の命令に違えることになります」といった。そこで婚姻の期日を定めた。慕容氏は姿かたちがしなやかで美しく、衣服と飾りは麗しくかがやいていたので、余熾は彼女を見てたいへん喜んだ。二晩泊まりを過ぎて、慕容氏は病気であると嘘をついたので、余熾もまた彼女に迫ろうとはしなかった。三日して屋敷にかえり、沐浴して酒を置くと、談笑しながら落ちついたふうであった。夕方にいたって、ひそかに裳の帯に書きつけたことには「わたしが死んだ後は、段氏の墓のそばに埋めてください。もし魂魄があることを知るなら、段氏のもとに帰るべきなのです」ということであった。そのまま浴室で自ら首を吊って死んでしまった。葬られるとき、見物する男女は数万人におよび、「なんと公主はみさお正しいことか!」と嘆息しないものはなかった。葬列が余熾の家の前を過ぎて、余熾が挽歌の声を聞くと、むせび泣くこと長らくであった。
呂纂妻楊氏呂紹妻張氏
  呂纂妻楊氏,弘農人也。美艷有義烈。纂被呂超所殺,楊氏與侍婢十數人殯纂於城西。將出宮,超慮齎珍物出外,使人搜之。楊氏厲聲責超曰:「爾兄弟不能和睦,手刃相屠,我旦夕死人,何用金寶!」超慚而退。又問楊氏玉璽所在,楊氏怒曰:「盡毀之矣。」超將妻之,謂其父桓曰:「后若自殺,禍及卿宗。」桓以告楊氏,楊氏曰:「大人本賣女與氐以圖富貴,一之已甚,其可再乎!」乃自殺。
  呂纂(後涼霊帝)の妻の楊氏は、弘農郡の人である。美しくつややかではげしい正義感を持っていた。呂纂が呂超に殺されると、楊氏と召使いの女たち十数人は城西で呂纂の殯(かりもがり)をおこなうことにした。宮殿を出ようとすると、呂超が〔楊氏に〕珍奇な宝物を与えようと思って外出し、人にこれを捜させていた。楊氏は激しい声で呂超を責めて「あなたたち兄弟は仲良くすることができず、手ずから刃で殺し合いました。わたしはまもなく死ぬ人間ですから、どうして黄金の宝がいりましょうか!」といった。呂超は恥じて引き下がった。また楊氏に玉璽の所在を尋ねると、楊氏は怒って「粉々にしてしまったわ。」といった。呂超は彼女をめとろうとして、その父の楊桓に「后がもし自殺したら、禍はおまえの一族に及ぶぞ」といった。楊桓がこのことを楊氏に告げると、楊氏は「父上はもともと富貴をはかるためにむすめを売って氐に与えました。一度はすでに我慢しましたが、再び耐えることができましょうか!」といって、自殺した。
  時呂紹妻張氏亦有操行,年十四,紹死,便請爲尼。呂隆見而悅之,欲穢其行,張氏曰:「欽樂至道,誓不受辱。」遂昇樓自投於地,二脛倶折,口誦佛經,俄然而死。
  ときに呂紹の妻の張氏もまた品行があった。十四歳のとき、呂紹が死ぬと、即座に尼になろうと願い出た。呂隆が彼女を見てよろこび、彼女の操を汚そうとした。張氏は「悦楽をつつしむことこそまことの道です。誓って辱めは受けません」といった。かくして楼閣に昇って自ら地に身を投げると、二本のすねはともに折れ、仏の経典を口ずさむと、にわかに死んでしまった。
涼武昭王李玄盛后尹氏
  涼武昭王李玄盛后尹氏,天水冀人也。幼好學,清辯有志節。初適扶風馬元正,元正卒,爲玄盛繼室。以再醮之故,三年不言。撫前妻子踰於己生。玄盛之創業也,謨謀經略多所毗贊,故西州諺曰:「李、尹王敦煌。」
  〔西〕涼の武昭王李玄盛(李暠)の后の尹氏は、天水郡冀県の人である。幼くして学問を好み、弁舌清らかで志をかたく守っていた。はじめ扶風郡の馬元正にとついだが、馬元正が亡くなると、李玄盛の後妻となった。再婚であったため、三年間もの言わなかった。前妻の子をかわいがるようすは自分の生んだ子をも越えていた。李玄盛が〔西涼を〕創業するにあたって、はかりごとや経略について力添えすることが多く、このため西州の諺に「李氏と尹氏は敦煌の王である」といった。
  及玄盛薨,子士業嗣位,尊爲太后。士業將攻沮渠蒙遜,尹氏謂士業曰:「汝新造之國,地狹人稀,靖以守之猶懼其失,云何輕舉,闚冀非望!蒙遜驍武,善用兵,汝非其敵。吾觀其數年已來有并兼之志,且天時人事似欲歸之。今國雖小,足以爲政。知足不辱,道家明誡也。且先王臨薨,遺令殷勤,志令汝曹深愼兵戰,俟時而動。言猶在耳,奈何忘之!不如勉修德政,蓄力以觀之。彼若淫暴,人將歸汝;汝苟德之不建,事之無日矣。汝此行也,非唯師敗,國亦將亡。」士業不從,果爲蒙遜所滅。
  李玄盛が薨去すると、子の李士業(李歆)が位を継ぎ、〔尹氏は〕尊ばれて太后となった。李士業は〔北涼の〕沮渠蒙遜を攻めようとしたが、尹氏は李士業に「おまえが新しく建てた国は、土地は手狭で人口は少ないので、やすんじるには土地と人を守って、失うのをおそれなくてはなりません。どうして軽はずみなことをするのですか。分不相応な願いは望むものではありません。沮渠蒙遜は勇武にたけ、用兵をよくしており、おまえはかれの敵ではありません。わたしがみるに、沮渠蒙遜はここ数年来というもの兼併の志をいだいており、なおかつ天の時節と人事の流れはかれに帰そうとしているようです。しかし今は〔我が〕国は小さいですが、政治をおこなえば満たされます。満足を知るものは辱められない(36)というのが、道家による明白な戒めです。そのうえ先王が薨去なさるにのぞんで、おまえたちに兵戦をできるかぎり慎み、時を待って動くよう、懇切丁寧に遺命なさいました。お言葉はまだ耳に残っており、どうしてこのことを忘れることができましょうか!徳政につとめおさめて、隣国を観察しながら力を蓄えるしかありません。沮渠氏がもしみだらで粗暴となれば、人々はおまえに帰順してくるでしょう。おまえがもし徳をうち立てることがなければ、遠からずして沮渠氏に仕えることになるでしょう。おまえが出兵をおこなえば、ただ軍隊が敗れるだけでなく、国もまた滅びるでしょう」といった。士業は従わなかったので、やはり沮渠蒙遜のために滅ぼされた。
  尹氏至姑臧,蒙遜引見勞之,對曰:「李氏爲胡所滅,知復何言!」或諫之曰:「母子命懸人手,奈何倨傲!且國敗子孫屠滅,何獨無悲?」尹氏曰:「興滅死生,理之大分,何爲同凡人之事,起兒女之悲!吾一婦人,不能死亡,豈憚斧鉞之禍,求爲臣妾乎!若殺我者,吾之願矣。」蒙遜嘉之,不誅,爲子茂虔娉其女爲妻。及魏氏以武威公主妻茂虔,尹氏及女遷居酒泉。既而女卒,撫之不哭,曰:「汝死晩矣!」沮渠無諱時鎭酒泉,毎謂尹氏曰:「后諸孫在伊吾,后能去不?」尹氏未測其言,答曰:「子孫流漂,託身醜虜,老年餘命,當死於此,不能作氊裘鬼也。」俄而潛奔伊吾,無諱遣騎追及之。尹氏謂使者曰:「沮渠酒泉許我歸北,何故來追?汝可斬吾首歸,終不迴矣。」使者不敢逼而還。年七十五,卒於伊吾。
  尹氏は姑臧にやってくると、沮渠蒙遜が引見して彼女をねぎらったので、「李氏は胡のために滅ぼされてしまうのに、また何の言うことを知りましょうか!」と答えていった。ある人が彼女を諫めて「母子の命は人の手にかかっているというのに、どうしておごり高ぶったふるまいをするのですか!国が敗れたうえに子孫が皆殺しにされるのを、どうしてひとり悲しまないのですか?」といった。尹氏は「国の興亡や子孫の死生は、すじみちだてて大きく分かれるのです。どうして凡人の死と同じように、児女の悲しみを起こしましょう!わたしは一婦人で、死ぬことも滅ぶこともできません。どうして斧鉞にかかり命を落とすのをはばかって、臣下の妾となることを求めましょうか!もしわたしを殺すというなら、わたしはそのように願うものです」といった。沮渠蒙遜は彼女を褒めて殺さず、子の沮渠茂虔(沮渠牧犍)のために彼女のむすめを妻としてめあわせた。魏氏(拓跋氏)が武威公主(太武帝の妹)を沮渠茂虔にめあわせると、尹氏とむすめは酒泉にうつり住んだ。その後まもなくむすめが亡くなると、むすめの遺体を撫でて泣くことなく、「おまえは死ぬのが遅かった」といった。沮渠無諱がときに酒泉を鎮めていたが、いつも尹氏に「后のお孫たちは伊吾におられるが、后は行くことができないのか?」といっていた。尹氏はその言葉の意図をつかめず、「子孫はさすらい歩き、醜いえびすに身を託しています。老年は命の余すところ、ここで死を迎えるべきでしょう。匈奴の幽霊になることはできません」と答えていった。唐突にひそかに伊吾に逃れたので、沮渠無諱は騎兵をつかわして彼女を追わせた。尹氏は使者に「沮渠氏は酒泉でわたしが北に帰るのをお許しになったのに、どうして追ってきたのですか?あなたがわたしの首を斬って帰るのでなければ、もどりませんよ」といった。使者はあえて帰るように強要しなかった。享年七十五で、伊吾で亡くなった。
  史臣曰:夫繁霜降節,彰勁心於後凋;橫流在辰,表貞期於上德,匪伊君子,抑亦婦人焉。自晉政陵夷,罕樹風檢,虧閑爽操,相趨成俗,荐之以劉石,汨之以苻姚。三月歌胡,唯見爭新之飾;一朝辭漢,曾微戀舊之情。馳騖風埃,脱落名教,頽縱忘反,於茲爲極。至若惠風之數喬屬,道韞之對孫恩,荀女釋急於重圍,張妻報怨於強寇,僭登之后,蹈死不迴,偽纂之妃,捐生匪吝,宗辛抗情而致夭,王靳守節而就終,斯皆冥踐義途,匪因教至。聳清漢之喬葉,有裕徽音;振幽谷之貞蕤,無慚雅引,比夫懸梁靡顧,齒劍如歸,異如齊風。可以激揚千載矣。
  史臣がいう:そもそも霜の繁く〔雪の〕降るように節義は〔さかんで〕あり(37)、強い心を明らかにしていたものが、後代にはしぼんでいった。時にあってはとめどなく流れ、徳を高くして正しさを顕彰されるのを待っているのは、かの君子でないか、あるいはまた婦人であるか。晋の政治が夷狄にうちひしがれてからというもの、教化の手本を立てるものもまれであり、落ち着きはなくなり、品行にはそむき、おたがい急いで卑俗になり、劉石をもってこれに敷き、苻姚をもって水に投ずるようである(38)。三月胡に歌い、ただ争ってうわべのつくろいを新たにするのを見るだけだ。ひとたび漢の時代を去ると、なんともいにしえを恋いうる情もかすかである。馬を走らせて土ぼこりが舞い(戦乱が巻き起こり)、名教は脱け落ち、頽廃や放縦や忘恩や謀反は、このとき極まった。そのような状態にいたって恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め、道韞(王凝之の妻謝氏)が孫恩に向き合い、荀氏のむすめ(荀灌)が重囲の中の危急を解き、張氏の妻(張茂の妻陸氏)が強賊に対して怨みを報いた。帝位を僭称した苻登の后(毛氏)は死んでも再嫁せず、偽朝の呂纂の妃(楊氏)は命を捨てて惜しまず、宗氏(賈渾の妻)や辛氏(梁緯の妻)は情欲にさからって早死にし、王氏(王広のむすめ)や靳氏(靳康のむすめ)は節を守って終りに就いた。これみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないか。〔彼女らは〕天の川がそびえ立ち、葉が高いところにつくように、ゆったりとすぐれた評判があった。幽谷の節操が垂れ下がっているのを奮い立たせ、もとより引いて恥じることなく、男をならべて梁(はり)に引っかけて顧みることなく、剣をならべてあるべきところに落ちつくようであり、普通でないやりかたで風格を整えるようであった。千年のあいだも称揚すべきであろうか。
  賛曰:從容陰禮,婉娩柔則。載循六行,爰昭四德。操潔風霜,譽流邦國。彤管貽訓,清芬靡忒。
  賛に言う。女性が守るべき礼を勧め、女性として守るべききまりにおとなしく従う。〔孝、友、睦、婣、任、恤の〕六つの行い(39)に従いながら、ここで〔婦徳・婦言・婦容・婦功の〕四つの徳を(40)明らかにする。言動がきよらかで、人柄は風や霜のようにおごそかであり、よい評判は国々に流れる。朱色の筆が祖先の教えを書き残し(41)、清々しい人柄は食い違うことがない。

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2005.10.01:第一版。
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