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update:2021.01.18 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
列女
本文

そもそも天・地・人があるべき場所に分かれてからというもの、夫婦の道は苦難の末にさかんになった。ふたつの血族がうち解けて交わると、厳しくもおこない正しい気風がじつに顕著となった。〔女性が〕気高い心をふるってひとり傑出したとき、魯は花を飛ばすように官位を授けた。厳しい節義に抜きんでてひとり目立ったとき、周は豊かな実を結ぶように記録した。〔彼女たちの〕立派な業績は、うるわしさを兼ねそなえており、〔彼女たちの〕心根はやさしく素直で、道を外れることがなかった。〔彼女たちのような人物は〕時代をへだててもあい望まれており、十把一絡げにできないことは明白だ。そうだとすれば、虞(舜)が興ったのは嬀水のほとり(1)〔で堯のふたりのむすめをめとったから〕であり、夏がさかんになったのは塗山氏(2)がいたからである。有娀氏と有娎氏(3)は殷の王業を広めてさかんにし、大姙と大姒(4)は姫氏の王化を広めさかんにした。馬皇后と鄧皇后(5)は他人にうやうやしく自分はつつましくして、漢朝の徳義をおし広めた。卞皇后と甄皇后(6)は立派でしとやかであって、魏代のかぐわしい美名を宣揚した。これらはみな宮中の奧にあって礼をきわめ、奧部屋で義をことにする人たちである。このうえなく若くして恭姜(7)は再嫁しないことを誓い、孟子の母(8)は仁を求めた。華氏(孟姫)(9)は守り役を率いて斉をおさめ、樊姫(10)はきまりを授けて楚〔の荘王〕を覇者とした。〔敬姜は〕文伯が剣を奉じさせたことをそしり(11)、〔子発の母は〕子発が兵士に豆を分配していたことを責めた(12)。少君(13)は礼法にしたがっておこないを引き締め、孟光(14)は隠遁の志を示した。彼女らはすでに女性のきまりをあきらかにし、かつ母たる模範をほしいままにしている。子政(劉向)(15)が以前に彼女らの事跡を〔『列女伝』に〕あつめ、元凱(杜預)(16)が後になって〔『女記讃』を〕編んだのは、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなうためである。そのためさかのぼっては泰始年間(265〜274)から、下っては恭帝・安帝の時代まで、ひとつにはたたえるべき行いを、ひとつには記すべき技芸を、みなぜんぶ選んで収録し、これを伝のいわれとする。位を極めた后妃の場合や、夫のもとで処理されているときは、おのおのもとの伝のあるところに従い、今は採録しない。〔五胡の〕偽の諸国があって、しばし王化の道がはばまれたが、天下の善たるものは、それでも悪を懲らして善を勧めるのに充分なので、また同じく次に探し出し、篇末に付け加えた。

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