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update:2021.01.23 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
羊耽妻辛氏
人物簡介

羊耽の妻の辛氏(191〜269)は字を憲英といい、隴西郡の人である。魏の侍中の辛毗のむすめで、羊琇の母。聡明博識で目端が利いていて、弟の辛敞や子の羊琇の危難に際しては的確な助言を与えた。また、鍾会の野心を見抜いていた。泰始五年(269)に卒した。享年七十九。

本文

羊耽の妻の辛氏(1)は、字を憲英といい、隴西郡の人で、魏の侍中の辛毗のむすめである。聡明博識で目端が利いていた。かつて、魏の文帝(曹丕)が太子として立つことができると、辛毗のうなじを抱いて「辛君にはわたしの喜びがわかるまい?」といった。辛毗は憲英に告げると、憲英は「太子は、君主に代わって宗廟や社稷をまつる者です。天子に代わって心をくだかなくてはいけないし、国の主となるのをおそれなくてはいけないのに、心配するところを喜んでいたのでは、どうして長続きできるでしょう!魏はそれでは繁栄しないのでしょうか?」と嘆いていった。

弟の辛敞が大将軍曹爽のもとで参軍となった。宣帝(司馬懿)が曹爽を誅殺しようとして、曹爽が魏帝(曹芳)に従って出たときに城門を閉じた。曹爽の司馬の魯芝が、府兵を率いて関を斬りやぶって曹爽のもとに赴こうと、辛敞を呼んで同道を求めた。辛敞はおそれて、「天子が外におられるのに、太傅(司馬懿)が城門を閉じたので、人は太傅が国家の不利益をはかろうとしていると言っています。そんなことがありうるのでしょうか?」と辛憲英にたずねた。辛憲英は「知ることのできないことというのはありますが、わたしが今回のことをはかりますに、太傅はまずそうせずにいられないのでしょう。明皇帝(曹叡)が崩御なさるに臨まれて、太傅のひじをつかんで、後のことを委ねられました。このときの言葉はまだ朝士の耳に残ってます。なおかつ曹爽は、太傅とともに信託されて任を受けられましたが、ひとり権勢をもっぱらにして、王室に対して忠義でなく、人道に対して正直ではありません。この挙に曹爽が殺されるだけにすぎないでしょう」といった。辛敞は「それなら敞は出ないほうがよろしいか?」といった。辛憲英は「どうして出ないでいられましょう!職分を守るのは、人の大義です。そもそも人は危難にあっても、それでもなお職分に気を配るものです。人のために鞭をとるものがその仕事を捨ててしまうのは、不吉です。それに人のために任にあるものは、人のために死ぬのが、親しく信任されたもののつとめです。おまえはついていくだけですよ」といった。辛敞はこうして出ていった。宣帝はやはり曹爽を誅殺した。事件が落ちついたあと、辛敞は感嘆して「わたしが姉に相談しなかったら、あやうく徳義にそむくところだった!」といった。

その後、鍾会が鎮西将軍となると、辛憲英は「鍾士季(会)はどうして西方に出立するのですか?」と羊耽の甥の羊祜にいった。羊祜は「蜀を滅ぼそうとしてのことです」といった。辛憲英は「鍾会はことがあるとほしいままにふるまいます。人の下につく生き方を長く続けることはできないでしょう。わたしはかれが別の野心を持っていることをおそれているのです」といった。鍾会は出発しようとして、彼女の子の羊琇を参軍にしようと願い出た。辛憲英は心配して「過日わたしは国のために心配しましたが、今日は難儀がわが家にやってきました」といった。羊琇は文帝(司馬昭)に対して固辞したが、文帝は聞き入れなかった。辛憲英は「行くのなら、このことに気をつけなさい!いにしえの君子は、家に入ると親に孝行し、出ると国に臣節を尽くしたものです。職務にあってはそのつかさどるところを思い、徳義にあってはその立脚するところを思って、父母に心配をかけさせませんでした。軍隊の間でやっていくには、優しさと思いやりがあるのみです!」と羊琇にいった。鍾会は蜀にたどりつくとやはり反乱したが、羊琇はけっきょく無事に帰ってきた。羊祜がかつて錦織りの夜着を彼女に送ったことがあったが、辛憲英はその華美なことを嫌い、これを裏返しにしてしまった。彼女の明察倹約ぶりはこのようなものであった。泰始五年(269)に卒し、享年は七十九だった。

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