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update:2021.01.24 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
杜有道妻厳氏
人物簡介

杜有道の妻の厳氏(生没年不詳)は字を憲といい、京兆郡の人である。子の杜植は杜預の従弟。傅玄の後妻となった杜韡の母。おこない正しくしとやかで、見識と度量がそなわっていた。十三歳で杜有道と結婚し、十八歳で夫を失ったが、再婚せずに二人の子を育て上げた。杜預が誣告されたときは我慢するよう助言し、優れた鑑識眼で傅咸の素質を見抜いた。享年六十六で卒した。

本文

杜有道の妻の厳氏は、字を憲といい、京兆郡の人である。おこない正しくしとやかで、見識と度量がそなわっていた。十三歳のとき、杜氏にとつぎ、十八歳でやもめ暮らしになった。子の杜植、娘の杜韡はそろって小さいまま残された。厳憲は若かったけれども、再婚しないことを誓い、ふたりの子どもをいつくしみ育てて、礼儀や節度を教えたので、杜植は成長すると世に名が知られるようになった。杜韡もまたつつましく、傅玄が後妻として求めたとき、厳憲はすぐさまこれを許した。ときに傅玄は何晏、鄧颺との関係がおだやかでなく、何晏らがいつも傅玄を害そうとしていたので、当時の人々で婚姻に賛成する者はいなかった。厳憲が傅玄の求婚を受け入れたので、杜家の内外の人々はおそれ心配した。ある人が「何晏、鄧颺が権力を握っており、必ずや傅玄は害されるでしょう。また山を押しのけて卵を押さえつけ、湯を雪にそそぐような無駄なおこないをするだけです。どうして傅玄と親戚になろうとするのです?」といった。厳憲は「あなたはその一を知っていますが、その他を知らないのです。何晏らはおごり高ぶって贅沢をしており、必ず自ら敗亡するでしょう。司馬太傅(司馬懿)のようすは獣が眠りについているだけで、わたしは卵が破れて雪が溶けるのを恐れるからこそ、自然なとおりに行うのです」といった。そのまま傅玄と結婚させた。何晏らはまもなく宣帝(司馬懿)により誅殺された。杜植はのちに南安太守となった。

杜植の従兄の杜預が秦州刺史になったが、誣告されて、召しもどされた。厳憲は杜預に書を与えて「はずかしめに耐え忍べば三公に出世するとことわざに言います。あなたは今いわゆるはずかしめを受けていますが、よくこれを我慢なさい。あなたは大臣の座につけるでしょうよ」と戒めていった。杜預はのちにやはり儀同三司となった。傅玄の前妻の子の傅咸が年六歳で、かつてその継母に従って厳憲にご機嫌伺いしたことがあった。厳憲は「おまえは千里を走る名馬です。必ずや遠くにたどりつくでしょう」と傅咸にいった。厳憲の妹のむすめをかれにめあわせた。傅咸もまたのちに天下で有名になった。彼女の人を見る鑑識眼はこのようであった。享年六十六で卒した

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