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update:2021.02.13 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
虞潭母孫氏
人物簡介

虞潭の母の孫氏(240頃〜334頃)は呉郡富春県の人で、孫権の族孫のむすめである。虞忠にとついだ。慎み深く従順で、心根正しく穏和であって、女性としての深い徳をもっていた。生まれつき賢くて物分かりがよく、物事の善悪を人よりはっきり見分けた。虞忠が亡くなると、再婚せずに虞潭をいつくしみ養って、成長するまで懸命に働いた。虞潭が杜弢や蘇峻を討伐する際には虞潭を励ますとともに物資の支援も行い、虞潭の勝利に貢献した。武昌侯太夫人の位をいただき、金章紫綬を加えられた。虞潭が家に養堂を立てると、王導以下の人々がみな敬意をはらって面会におとずれた。咸和の末年に卒した。享年九十五。成帝は使者をつかわして弔いその霊をまつった。定夫人と諡された。

本文

虞潭の母の孫氏は、呉郡富春県の人で、孫権の族孫のむすめである。かつて虞潭の父の虞忠にとついだ。慎み深く従順で、心根正しく穏和であって、女性としての深い徳をもっていた。虞忠が亡くなったとき、遺児はたいそう小さく、孫氏は若かったけれども、再婚しないと誓って、自らいつくしみ養って、成長するまで懸命に働いた。生まれつき賢くて物分かりがよく、物事の善悪を人よりはっきり見分けた。虞潭は幼いころより、まず忠義を教えられてきたので、このためあまねく広い声望をえて、朝廷にたたえられた。

永嘉(307〜312)の末年、虞潭は南康太守となった。杜弢の謀反に遭うと、部下を率いてこれを討った。孫氏は死を賭けて忠義をはたすよう虞潭を励まし、そろってその資産を傾けて、戦う兵士たちに食糧を送り、虞潭はこうして勝つことができた。蘇峻が乱を起こしたとき、虞潭は呉興を守っていたので、また割り符を借りて蘇峻を征伐した。孫氏は虞潭を戒めて「忠臣は孝子の門から出ないとわたしは聞いています。おまえは生を捨てて義を取るべきです。わたしが老いているからといって足手まといにしてはいけません」といった。そのうえ家の召使いをことごとくつかわして、虞潭に随行させて戦いを助けさせ、彼女の着けているおび玉を換金して軍資とした。ときに会稽内史の王舒が子の王允之を派遣して督護としたので、孫氏はまた虞潭に「王府君(舒)は子どもを派遣して征伐させています。おまえがどうしてひとりそうしないことがありますか?」といった。虞潭はすぐに子の虞楚を督護として、王允之と軍勢を合流させた。彼女の国を憂うる志はこのようなものであった。武昌侯太夫人の位をいただき、金章紫綬を加えられた。虞潭が家に養堂を立てると、王導以下の人々がみな敬意をはらって面会におとずれた。咸和(326〜334)の末年に卒し、享年は九十五だった。成帝は使者をつかわして弔いその霊をまつった。諡を定夫人といった。

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