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update:2021.03.07 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
劉聡妻劉氏
人物簡介

劉聡の妻の劉氏(?〜314)は名を娥、字を麗華といい、新興郡の人である。前趙の太保の劉殷のむすめ。幼いころから物わかりがよくてかしこく、昼は女の手仕事をし、夜は書籍を口ずさんでいた。永嘉六年(312)、劉聡に召し出されて右貴嬪となり、建興元年(313)、皇后に立てられた。廷尉の陳元達が凰儀殿建設を諫めて処刑されそうになったときは、劉聡に意見書をたてまつって陳元達を救った。建興二年(314)に亡くなり、武宣皇后と諡された。

本文

劉聡の妻の劉氏は、名を娥、字を麗華といい、偽朝(漢)の太保劉殷のむすめである。幼いころから物わかりがよくてかしこく、昼は女の手仕事をし、夜は書籍を口ずさんでいた。守り役の女性はいつもこれを止めていたが、劉娥は習いおさめてますます励んだ。兄たちと経典の解釈を議論するたびに、意義理解は深遠で、兄たちは深く感服していた。性格は親を大切にしてつき合いがよく、身のこなしはめりはりが利いてよろしかった。

劉聡が帝位を僭称したのち、彼女を召しだして右貴嬪とし、たいそう寵愛した。にわかに皇后に立て、彼女を住まわせるための凰儀殿を建てようとしたところ、その廷尉の陳元達が強く諫言したので、劉聡はたいそう怒り、かれを斬ろうとした。劉娥はときに後堂にいて、ひそかに側近に命じて刑の執行を止めさせ、手ずから意見書をたてまつって「伏して聞きましたところではわたしのために宮殿を営もうとなさっているとか、いま昭徳殿に身を置いていますので、凰儀殿は急ぐ必要がありません。四海(天下)はいまだ統一されず、禍や災難はまだ頻繁に起こっているのですから、人力や資産を動かしもちいるときには、もっとも慎重にならなくてはなりません。廷尉のことばは、国家の政治の大局にかなうものです。それは忠臣の諫言であり、どうして身のためでしょうか?帝王がこれを遠ざけても、また身をかえりみることにはならないのです。わたしが陛下に申し上げたいのは、上には明君が諫言を納れる盛事をたずね、下には暗君が諫言を遠ざける災禍に怒るということです。廷尉をすぐれた爵位で賞し、廷尉を封土でもって報いるのがよろしいでしょうに、どうして意見をお容れにならないだけでなく、かえってかれを殺そうとなさるのですか?陛下がこれわたしのためにお怒りになってなさるのであれば、廷尉の禍はわたしより招いたものです。人は怨み国は疲弊して、罪はわたしに帰するでしょう。諫言を遠ざけ忠臣を害するのも、またこれもわたしのせいでしょう。いにしえから国を敗亡させ家を失わせるに、婦人から始まらなかった例はありません。わたしはいにしえの事跡をみるたびに、食事を忘れるほどの怒りを感じてきましたが、どんな意があって今日わたしが自ら同じことをやるのでしょう!後人がわたしを見るのに、またわたしが以前の亡国の婦人たちを見たのと同様であれば、また何の面目があって髪を飾ってお仕えしておれましょう。陛下を誤らせ惑わせた罪をふさぐためにも、この堂で死なせていただくようお願いします。」と申し上げた。劉聡はこれを見て顔色を変えて、その群臣たちに「朕は病気にかかっていて、喜怒の感情がふつうでなかった。陳元達は忠臣である。朕はこのことをたいへん後悔している」といった。劉娥を顔見せして「外朝で公のようなものが助けてくれて、内朝でこの后のようなものが助けてくれれば、朕は心配することがない」と陳元達にいった。劉娥が死んだとき、偽朝の諡を武宣皇后といった。

その姉の劉英は、字を麗芳といい、またかしこくて物わかりが早く、学問を渉猟して、詩文をつくってたくみに論じ、政治にも通暁しているようすは、劉娥にも勝っていた。かつて劉娥とともに同じく召されて左貴嬪に任ぜられ、まもなく亡くなり、偽朝により武徳皇后と諡を追贈された。

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