(このページの先頭)
update:2021.03.28 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
韋逞母宋氏
人物簡介

韋逞の母の宋氏(生没年不詳)、どこの郡の人か知られていない。家は代々儒学を伝えて名を挙げていた。幼いとき母を失い、父に養われ、『周官』の読みと意味を伝授された。結婚して韋逞を産んだ後、冀州に移住して膠東の富人の程安寿を頼った。昼にはたきぎ取りをし、夜には韋逞を教えたが、韋逞はかくして学問が成り功名を立てて、苻堅に仕えて太常となった。八十歳の時、苻堅により家に講堂を立てられ、学生百二十人を置き、赤いうすぎぬの幕を隔てて授業をおこなった。宣文君と号され、端女十人を賜った。

本文

韋逞の母の宋氏は、どこの郡の人か知られていない。家は代々儒学を伝えて名を挙げていた。宋氏は幼いとき母を失い、宋氏の父が自ら彼女を養った。成長すると、『周官』の読みと意味を伝授して、彼女に「わが家は代々『周官』を学んで、伝える仕事を継承してきた。これはまた周公が決められたことで、基本的なきまりや古い詔、百官の等級分類、ここに備わっている。わたしには今伝えるべき男がいないので、おまえがこれを受けるべきだ。決しておまえの代で絶やしてはいけないよ。」といった。天下が争乱のさなかにあっても、宋氏は暗誦することをやめなかった。

そののち、石季龍(石虎)のために山東へ移住させられることとなった。宋氏は夫とともに引っ越しのさなか、小さな車を押し、書を授けた父を背負って、冀州にいたった。膠東の富人の程安寿を頼ると、程安寿はかれらを養い庇護した。韋逞はときに年少であったが、宋氏が昼にはたきぎ取りをし、夜には韋逞を教えて、しかるに糸つむぎの仕事もやめることがなかった。程安寿はいつも感嘆して「学問をする家には士大夫が多いが、このようなのはおるまいか」といっていた。韋逞はかくして学問が成り功名を立てて、苻堅に仕えて太常となった。苻堅がかつてその太学に御幸し、博士に経典のことを質問して、礼楽に欠落があるのを残念がった。ときに博士の盧壼が答えて「学問がすたれてすでに長らく経ち、いにしえの書や注釈もさびれてしまいました。近年になってつづり撰ばれて、正しい経典はおおよそ集まったものの、ただ『周官礼注』にまだその師がありません。私見として申し上げれば、太常韋逞の母の宋氏が代々学問の家の女で、その父の学業を伝え、『周官』の読みと意味を習得して、今年八十になり、耳目も支障がないので、この母以外に後学の諸生に伝えることのできるものはおりません」といった。そこですぐに宋氏の家に講堂を立て、学生百二十人を置き、赤いうすぎぬの幕を隔てて授業をおこなった。宋氏を号して宣文君とし、端女十人を賜った。周官の学が再び世に行われ、ときに韋氏宋母(韋母宋氏の誤り)と称された。

更新履歴
この頁の最初へ