(1)嬀汭は、山西省南部の嬀水の流れの入りこんだ曲がったところ。ここで舜が堯のふたりのむすめ(娥皇・女英)をめとったという。『尚書』堯典、『史記』五帝本紀第1、『列女伝』母儀参照。
(2)塗山氏の長女は、夏を開いた禹の妻で、啓を生んだ。禹は治水工事の仕事が忙しく家に帰ることもできなかったが、塗山氏は啓をしっかりと教育して、啓に禹の跡を立派に継がせたという。『尚書』皋陶謨、『史記』夏本紀第2、『列女伝』母儀参照。
(3)有娀氏(ゆうしゅうし)の長女の簡狄は、堯のとき、玄鳥の卵を口にふくんで飲み込んでしまった。簡狄はこの事件により殷の伝説的開祖である契(せつ)を生んだ。簡狄は契を教育し、契は堯のもとで司徒にのぼった。有娎氏(ゆうしんし)のむすめは、殷の湯王の妻となり、仲壬・外丙を生んだ。九嬪(婦官)を統領し、後宮に秩序があったという。『史記』殷本紀第3、『列女伝』母儀参照。
(4)大姙(たいじん)は、周の文王(姫昌)の母で、摯任氏の真ん中のむすめ。お腹の中の子に胎教をほどこして文王を産んだという。大姒(たいじ)は、文王の妻で、有娎氏のむすめ。朝夕に勤労して、婦道につとめた。文王との間に伯邑考・武王発・周公旦ら十人の子を産み、かれらを教育した。『史記』周本紀第4、『列女伝』母儀参照。
(5)馬鄧は、漢の明徳馬皇后と和熹鄧皇后を指す。馬氏は、馬援のむすめで、後漢の明帝(劉荘)の皇后となる。つつしみ深く、政治の見識もあったので明帝に信頼された。鄧氏は後漢の和帝(劉肇)の皇后。質素倹約につとめ、皇太后として殤帝(劉隆)・安帝(劉祐)を後見した。『後漢書』巻10上皇后紀第10上参照。
(6)宣昭は、魏の武宣卞皇后と文昭甄皇后を指す。卞氏は曹操の妻で、もとは歌妓であったが、曹操の子で母のいない者を分け隔てなく養育した。甄氏は文帝(曹丕)の皇后。もとは袁煕の妻だったが、曹操が冀州を平定すると、曹丕が彼女を迎えて寵愛した。のちに曹丕が郭氏らを寵愛するようになると、恨み言をいって曹丕を怒らせ、自殺させられた。『三国志』魏書后妃伝第5参照。
(7)恭姜は、衛の僖侯の世子である恭伯の妻。恭伯が早死した後、父母は彼女を再嫁させようとしたが、彼女は再嫁しないことを誓って許さなかった。『文選』巻16賦辛・哀傷・潘安仁寡婦賦并序の李善注参照。
(8)孟母は、孟母三遷の教えや断機の教えで有名な孟子の母。『列女伝』母儀参照。
(9)華は、孟姫といい、華氏の長女で、斉の孝公の夫人。礼を好み、「礼なくして生きるは早死するにしかず」といって自縊しようとした。『列女伝』貞順参照。
(10)樊は、楚の荘王の夫人の樊姫。荘王に令尹の虞丘子を解任するよう勧め、孫叔敖を迎えさせた。「荘王が覇者となれたのは、樊姫のおかげである」といわれた。『列女伝』賢明参照。
(11)文伯は、魯の大夫。文伯が若いころ、その遊び仲間を従え、かれらに剣を奉じさせて、一人前の顔をしているのを、その母の敬姜は強く叱責した。『列女伝』母儀参照。
(12)子発は、楚の将軍。子発が秦を攻めて勝利のうちに凱旋したとき、その母は子発が兵士たちに豆類などの粗食を強い、自分はぜいたくな肉や穀物の食事を取っていたことを責めて家に入れさせなかった。『列女伝』母儀参照。
(13)少君は、桓氏のむすめで、勃海の鮑宣の妻となった。つつましく礼儀正しく自ら勤労して婦道につとめたので、郷里にたたえられた。『後漢書』巻84列伝74参照。
(14)孟光は、後漢の梁鴻の妻。字は徳曜。梁鴻に隠居を勧め、ともに霸陵山中に入り、耕田織布を生業とした。『後漢書』巻83列伝73参照。
(15)子政は、前漢の劉向(前77-前9)の字。ここでいう「子政緝之於前」とは、劉向が『列女伝』(古列女伝・列女伝頌図ともいう)七巻を著したことを指す。
(16)元凱は、西晋の杜預(222-284)の字。『春秋左氏経伝集解』を著したことで知られる。ここでいう「元凱編之於後」とは、杜預が『女記讃』(女記・列女記ともいう)を編纂したことを指していると思われる。杜預は本書巻34列伝4に伝がある。