(1)本伝の段氏は、段儀のむすめで慕容垂の後妻であるが、『資治通鑑』巻一〇〇「晋紀二十二」穆帝升平二年の条によると、慕容垂は段末柸のむすめの段氏をめとっており、これが先妻であろう。先妻の段氏が巫蠱の罪を着せられて獄中で死んだ後、慕容垂は先妻の女弟の段氏をめとっているが、可足渾氏に退けられ、可足渾氏の妹の長安君をめとることを強要されている。これが慕容垂の前燕出奔の遠因となったという。『資治通鑑』巻一〇三「晋紀二十五」孝武帝寧康二年の条に慕容垂夫人(胡注によると段夫人)が前秦の苻堅の行幸を迎えているが、この夫人がはたして誰かは不明。本伝によると、段元妃が後妻となったのは慕容垂が燕王となった後のことである。そうすると、慕容垂には妻とした段氏が三人いた可能性もある。
(2)晋の献公は、春秋時代の晋の国君。後妻の驪姫を寵愛するあまり、太子の申生を廃して自殺に追いこみ、重耳と夷吾のふたりの公子を亡命させ、驪姫の生んだ子の奚斉を後継とした。献公の死後まもなく奚斉は里克に殺され、その弟の卓子もやはり里克に殺され、夷吾が秦の助力で帰国し晋の国君となった(恵公)。重耳(文公)が放浪の末に帰国して立つのは、さらに後のことである。『左伝』僖公4、9、10年、『史記』晋世家第9参照。
(3)安思閻后は、後漢の安帝の皇后閻氏。諱は姫。安帝(劉祐)の死後、北郷侯劉懿(少帝懿)を擁立して垂簾政治をおこなおうとした。劉懿が二百余日で亡くなると、彼女は宦官の孫程らによって廃され、離宮にうつされて翌年亡くなった。本伝における閻后の故事とは、閻后が廃位されながらも安帝とともに恭陵に合葬されたことを指す。『後漢書』巻10下皇后紀第10下参照。