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update:2021.01.11 担当:田中 敏一
晋書巻一百
列伝第七十
王弥
人物簡介

王弥(?〜311)は東萊郡の人である。汝南太守であった王頎の孫。優れた体力の持ち主で、弓術や馬術を得意とし、策略にも長じていた。恵帝の末期に劉柏根が青州で反乱すると、反乱に加わり、劉柏根の死後は反乱軍のリーダーとなって青州を中心に跋扈し、「飛豹」と呼ばれて恐れられた。永嘉二年(308)、洛陽を攻めたが、必死で防衛する王衍に敗れて、劉淵のもとに奔った。劉淵は王弥の帰順を非常に喜び、司隷校尉に任命された。劉淵配下として各地を転戦し、戦功を挙げた。永嘉五年(311)、洛陽を陥落させ、劉曜の制止を無視して大掠奪を行った。大将軍となり、斉公に封じられた。内心憎み合っていた石勒から伏兵による襲撃を受けて殺された。

本文

王弥は東萊郡の人である。家は代々二千石の上級官吏を務めた。祖父の王頎は魏の玄菟太守で、武帝の時に汝南太守となった。王弥は才能があり、さまざまな書物を広く読んでいた。若くして洛陽にて侠客となり(1)、隠者の董仲道が王弥に会って言った。「君は山犬のような〔凶暴な〕声で豹のような〔凶悪な〕目つきをして、乱を好み禍を楽しんでいる。もし天下が騒乱したら、士大夫にはならないだろう。」

恵帝時代の末、宗教を利用して大衆を扇動する反乱者の〔㡉令〕劉柏根が東萊郡の㡉県で反乱を起こすと、王弥は自分の使用人を率いて反乱に加わり、劉柏根は〔王弥を〕長史とした(2)。劉柏根が〔晋軍に敗れて〕死ぬと、〔王弥は〕海浜に仲間を集めたが、苟純に敗れてしまい、〔王弥は〕故郷を離れて長広山に逃げ込んで賊徒〔の一員〕となった。王弥は臨機応変の策略に優れていて、掠奪する場合は、成功と失敗の両方を予測して、失敗する作戦は行わず、弓術や馬術は非常に敏捷であり、膂力は人並み以上だったので、青州では「飛豹」と呼んだ。後に〔王弥は〕兵を引き連れ、青州と徐州に侵攻して掠奪を行ったが、兗州刺史の苟晞が迎え撃ち、王弥の軍を大いに破った。王弥は退却して逃亡兵らを集めると、軍勢は再び強大となり、苟晞は何度も戦ったが、打ち破ることはできなかった。王弥は兵を進めて泰山、魯国、譙、梁、陳、汝南、潁川、襄城の諸郡を攻略し、許昌に入ると、国家の倉庫を開け、武器を奪い、陥落させた地域の太守や県令の多くを殺害し、数万の兵士を擁していたので、朝廷は〔王弥を〕制圧できなかった。

そのころ天下は大いに乱れていた。〔王弥が〕進撃して洛陽に迫ると、洛陽は大いに動揺して、宮城の門は昼間も閉じられた。司徒の王衍らは百官を統率して防戦した。王弥が七里澗に駐屯すると、晋軍は進撃して、王弥の軍を大いに破った。王弥は仲間の劉霊に話した。「晋軍はまだ強い、帰順するにしても適当な場所が無い。劉元海(劉淵)が昔〔晋の〕人質であった時に、我は彼と一緒に洛陽を巡りまわって、意気投合したことがあるが、〔劉元海は〕今は漢王を名乗っているので、これに帰順したいが、よいだろうか?」劉霊は同意した。黄河を渡って劉元海に帰順した。劉元海はそれを聞いて大いに悦び、〔劉元海が任じた〕侍中兼御史大夫を派遣して近郊で出迎えさせ、次のような書信を渡した。「将軍には不世出の功績、希代の仁徳がおありなので、このように出迎えました。以前から将軍がいらっしゃるのを待ち望んでいたので、わたくしは今から将軍のおられる館までみずから参り、すぐに〔歓迎の準備のため将軍の席の〕埃を払い盃を洗って、謹んで将軍をお待ち致します。」王弥は劉元海と会見すると、皇帝を名乗ることを勧めたが、劉元海は王弥に対して言った。「孤は以前に将軍が竇周公(3)のようだと言っていたが、今はまことにわが孔明(諸葛亮)、仲華(4)となった。烈祖(5)の言葉に『わたしのもとに将軍がいることは、魚が水を必要とするようなものだ(6)。』とおっしゃったものだ。」このとき王弥は司隷校尉に任命され、侍中と特進も加えられたが、王弥は固辞した。〔劉元海は王弥に〕劉曜に随って河内を攻略させ、また石勒とともに臨漳を攻撃させた。

永嘉のはじめ、〔劉元海の軍は〕上党を攻略し、壺関を包囲した。東海王司馬越は淮南内史王曠、安豊太守衛乾らを〔劉元海の軍の〕討伐に派遣した。王弥は高都と長平の間で〔晋軍と〕戦うと、晋軍を大敗させた。晋軍の死者は十人のうち六、七人にのぼるほどであった。劉元海は王弥を征東大将軍に進め、東萊公に封じた。〔王弥は〕劉曜、石勒らと共に魏郡、汲郡、頓丘の五十余城を攻撃して陥落させると、その全てから兵士を徴発した。また石勒と共に鄴を攻撃すると、安北将軍和郁は城を棄て逃走した。懐帝は王弥の討伐に北中朗将裴憲を派遣し白馬に駐屯させ、石勒の討伐に車騎将軍王堪を派遣し東燕に駐屯させ、劉元海の討伐に平北将軍曹武を派遣し大陽に駐屯させた。武部将軍彭黙が劉聡に敗北して殺害されると、〔晋の〕大軍は全て後退した。劉聡が黄河を渡ると、懐帝は司隷校尉劉暾、将軍宋抽らに防衛させたが、みな抵抗出来なかった。王弥、劉聡は一万騎で洛陽まで来ると、〔太学と小学の〕二学を焼き払った。東海王司馬越は西明門で反撃し、王弥らは敗走した(7)。王弥はまた二千騎で襄城の諸県を攻略した。河東、平陽、弘農、上党の諸郡から流浪してきて潁川、襄城、汝南、南陽、河南の諸郡に在住した数万家は、以前から住む人たちから非礼な扱いを受けていたので、〔彼らは〕みな城郭に火をつけ〔晋朝に反乱を起し〕て、太守や長史などの二千石の上級官吏を殺して王弥に呼応した。王弥はまた二万人で石勒と合流して陳郡、潁川を攻略し、陽翟に駐屯した。〔王弥は〕弟の王璋を派遣し石勒と共同して徐州と兗州を攻略させて、東海王司馬越の軍を潰滅させた。 

王弥は後に劉曜とともに襄城を攻略し、ついに洛陽に迫った。この時の洛陽は大飢饉で、人は互いを食べあい、多くの人たちは洛陽を離れて流浪し、晋朝の高官たちは河陰に逃れた。劉曜、王弥らは遂に宮城を陥落させ、太極前殿に到達すると、兵はほしいままに大掠奪を行った。懐帝は宮城の南正門に幽閉され、羊皇后は〔劉曜に〕迫られて辱めを受け、皇太子の司馬詮(8)は殺された。陵墓は掘り返され、宮殿宗廟は焼き払われ、城内の役所は掠奪しつくされ、官僚や市井の男女で殺されたのは三万人あまりであった。そして懐帝は平陽に連れ去られた。

王弥は掠奪を行うと、劉曜は掠奪を禁止したが、王弥は従わなかった。劉曜は王弥の牙門王延を斬ってみせしめとすると、これに王弥は怒り、兵力をたのみにして劉曜と戦闘になり、〔双方で〕千余人の死者が出た。王弥の長史張嵩が諌めて言った。「明公は漢王(劉元海)と共に〔天下平定の〕大事を興しましたが、今はその事業が始まったばかりなのに、味方同志で攻撃をしあって、どうして主上に対面できるのでしょうか!洛陽を平定した功績は本当は将軍(王弥)にありますが、しかし劉曜は皇族ですので、下手に出て功績を小さい事にしたほうがよろしいでしょう。晋が呉を平定した際の二王(王渾と王濬)の一件は、遠い昔のことではありませんので、どうか明将軍(王弥)にはご熟慮されるようお願い申し上げます。もし将軍が兵力をたのみに帰還しなければ、将軍の子弟宗族はどうなるでしょうか!」王弥は言った。「よろしい、もしあなたがいなかったら、わたしはこの誤りに気付かなかっただろう。」そこで〔王弥は〕劉曜のもとへ赴いて謝罪し、仲直りをした。王弥は言った。「下官(王弥)が間違いに気付いたのは、張長史(張嵩)の功績です。」劉曜は張嵩に向かって言った。「君の行いは朱建(9)のよう〔に優れたもの〕だ。どうして范生(10)のよう〔に身勝手〕だなどといえようか!」各々が張嵩に金百斤を賜った。王弥は劉曜に自分の考えを言った「洛陽は天下の中心、山河で四方の守りは固く、城壁や濠、宮室を一時に造営せずともすみます。平陽から都を徙すのがいいでしょう。」劉曜はこれを聞き入れず、洛陽を焼き払い去った。王弥はこれに怒り言った。「屠各の子に帝王としての考えなどあろうか!きさまは天下をどうしようというのだ!」そこで〔王弥は〕兵を引き連れて東方の項関に駐屯した(11)

もともと劉曜は王弥が先に洛陽に入城して、自分を待たなかったことを怨んでいたが、この頃になると〔王弥と劉曜は互いに対しての〕疑いや不満が表面化した。劉暾は王弥に対して青州を拠点とするために帰還することを説き、王弥は同意した。そこで左長史曹嶷を鎮東将軍にして、五千の兵を与えて、多数の資産や宝物を持たせて郷里に帰還させ、戸籍を失ったならず者を誘い招き、そしてその一族を迎え入れた。王弥の部将の徐邈と高梁は〔曹嶷が出発すると〕すぐに、部下数千人を率いて、曹嶷の後を追って〔王弥のもとを〕去り、王弥の勢力は益々衰弱した。

以前より石勒は王弥が強く勇ましいことを嫌がり、常日頃密かに備えていた。王弥は洛陽を破ると、石勒〔を味方につけるため〕に多くの美女や財宝を贈り、石勒と手を結んだ。石勒が苟晞を生け捕りにして左司馬とした時、王弥は石勒を評して言った「公は苟晞を捕獲して用いるとは、何と神妙な事か!苟晞を公の左に、王弥を公の右にすれば、天下を平定して余りあるでしょう!」石勒は〔この言葉から〕王弥をいっそう嫌い、密かに〔王弥を〕罠にかけようとした。劉暾は王弥に曹嶷を召し出すように勧め、曹嶷配下の兵を使って、石勒を誅殺しようとした。そこで王弥は劉暾を使者として青州へ行かせ、曹嶷に兵を引き連れて自軍と合流させようとし、石勒に対しては詐りの誓約を行い自分と一緒に青州に向うようにした。劉暾が東阿に至ると、石勒の遊撃騎兵に捕獲された。石勒は王弥が曹嶷に与えた書状を見ると、〔内容に〕激怒して、劉暾を殺した。王弥がまだこのことを知らないうちに、石勒は兵を伏せて王弥を襲って殺し、その軍勢を併せた(12)

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