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update:2009.12.06 担当:田中 敏一
晋書巻一百
列伝第七十
王弥
人物簡介

王弥(?〜311)は東萊郡の人である。汝南太守であった王頎の孫。優れた体力の持ち主で、弓術や馬術を得意とし、策略にも長じていた。恵帝の末期に劉柏根が青州で反乱すると、反乱に加わり、劉柏根の死後は反乱軍のリーダーとなって青州を中心に跋扈し、「飛豹」と呼ばれて恐れられた。永嘉二年(308)、洛陽を攻めたが、必死で防衛する王衍に敗れて、劉淵のもとに奔った。劉淵は王弥の帰順を非常に喜び、司隷校尉に任命された。劉淵配下として各地を転戦し、戦功を挙げた。永嘉五年(311)、洛陽を陥落させ、劉曜の制止を無視して大掠奪を行った。大将軍となり、斉公に封じられた。内心憎み合っていた石勒から伏兵による襲撃を受けて殺された。

本文

王彌,東萊人也。家世二千石。祖頎,魏玄莬太守,武帝時,至汝南太守。彌有才幹,博渉書記。少游侠京都,隱者董仲道見而謂之曰:「君豺聲豹視,好亂樂禍,若天下騷擾,不作士大夫矣。」

王弥は東萊郡の人である。家は代々二千石の上級官吏を務めた。祖父の王頎は魏の玄菟太守で、武帝の時に汝南太守となった。王弥は才能があり、さまざまな書物を広く読んでいた。若くして洛陽にて侠客となり(1)、隠者の董仲道が王弥に会って言った。「君は山犬のような〔凶暴な〕声で豹のような〔凶悪な〕目つきをして、乱を好み禍を楽しんでいる。もし天下が騒乱したら、士大夫にはならないだろう。」

惠帝末,妖賊劉柏根起於東萊之㡉縣,彌率家僮從之,柏根以爲長史。柏根死,聚徒海渚,爲苟純所敗,亡入長廣山爲群賊。彌多權略,凡有所掠,必豫圖成敗,舉無遺策,弓馬迅捷,膂力過人,青土號爲「飛豹」。後引兵入寇青徐,兗州刺史苟晞逆撃,大破之。彌退集亡散,衆復大振,晞與之連戰,不能克。彌進兵寇泰山、魯國、譙、梁、陳、汝南、潁川、襄城諸郡,入許昌,開府庫,取器杖,所在陷沒,多殺守令,有衆數萬,朝廷不能制。

恵帝時代の末、宗教を利用して大衆を扇動する反乱者の〔㡉令〕劉柏根が東萊郡の㡉県で反乱を起こすと、王弥は自分の使用人を率いて反乱に加わり、劉柏根は〔王弥を〕長史とした(2)。劉柏根が〔晋軍に敗れて〕死ぬと、〔王弥は〕海浜に仲間を集めたが、苟純に敗れてしまい、〔王弥は〕故郷を離れて長広山に逃げ込んで賊徒〔の一員〕となった。王弥は臨機応変の策略に優れていて、掠奪する場合は、成功と失敗の両方を予測して、失敗する作戦は行わず、弓術や馬術は非常に敏捷であり、膂力は人並み以上だったので、青州では「飛豹」と呼んだ。後に〔王弥は〕兵を引き連れ、青州と徐州に侵攻して掠奪を行ったが、兗州刺史の苟晞が迎え撃ち、王弥の軍を大いに破った。王弥は退却して逃亡兵らを集めると、軍勢は再び強大となり、苟晞は何度も戦ったが、打ち破ることはできなかった。王弥は兵を進めて泰山、魯国、譙、梁、陳、汝南、潁川、襄城の諸郡を攻略し、許昌に入ると、国家の倉庫を開け、武器を奪い、陥落させた地域の太守や県令の多くを殺害し、数万の兵士を擁していたので、朝廷は〔王弥を〕制圧できなかった。

會天下大亂,進逼洛陽,京邑大震,宮城門晝閉。司徒王衍等率百官距守,彌屯七里澗,王師進撃,大破之。彌謂其黨劉靈曰:「晉兵尚強,歸無所厝。劉元海昔爲質子,我與之周旋京師,深有分契,今稱漢王,將歸之,可乎?」靈然之。乃渡河歸元海。元海聞而大悦,遣其侍中兼御史大夫郊迎,致書於彌曰:「以將軍有不世之功,超時之徳,故有此迎耳。遲望將軍之至,孤今親行將軍之館,輒拂席洗爵,敬待將軍。」及彌見元海,勸稱尊號,元海謂彌曰:「孤本謂將軍如竇周公耳,今真吾孔明、仲華也。烈祖有云:『吾之有將軍,如魚之有水。』」於是署彌司隸校尉,加侍中、特進,彌固辭。使隨劉曜寇河内,又與石勒攻臨漳。

そのころ天下は大いに乱れていた。〔王弥が〕進撃して洛陽に迫ると、洛陽は大いに動揺して、宮城の門は昼間も閉じられた。司徒の王衍らは百官を統率して防戦した。王弥が七里澗に駐屯すると、晋軍は進撃して、王弥の軍を大いに破った。王弥は仲間の劉霊に話した。「晋軍はまだ強い、帰順するにしても適当な場所が無い。劉元海(劉淵)が昔〔晋の〕人質であった時に、我は彼と一緒に洛陽を巡りまわって、意気投合したことがあるが、〔劉元海は〕今は漢王を名乗っているので、これに帰順したいが、よいだろうか?」劉霊は同意した。黄河を渡って劉元海に帰順した。劉元海はそれを聞いて大いに悦び、〔劉元海が任じた〕侍中兼御史大夫を派遣して近郊で出迎えさせ、次のような書信を渡した。「将軍には不世出の功績、希代の仁徳がおありなので、このように出迎えました。以前から将軍がいらっしゃるのを待ち望んでいたので、わたくしは今から将軍のおられる館までみずから参り、すぐに〔歓迎の準備のため将軍の席の〕埃を払い盃を洗って、謹んで将軍をお待ち致します。」王弥は劉元海と会見すると、皇帝を名乗ることを勧めたが、劉元海は王弥に対して言った。「孤は以前に将軍が竇周公(3)のようだと言っていたが、今はまことにわが孔明(諸葛亮)、仲華(4)となった。烈祖(5)の言葉に『わたしのもとに将軍がいることは、魚が水を必要とするようなものだ(6)。』とおっしゃったものだ。」このとき王弥は司隷校尉に任命され、侍中と特進も加えられたが、王弥は固辞した。〔劉元海は王弥に〕劉曜に随って河内を攻略させ、また石勒とともに臨漳を攻撃させた。

永嘉初,寇上黨,圍壺關,東海王越遣淮南内史王曠、安豐太守衛乾等討之,及彌戰於高都、長平間,大敗之,死者十六七。元海進彌征東大將軍,封東萊公。與劉曜、石勒等攻魏郡、汲郡、頓丘,陷五十餘壁,皆調爲軍士。又與勒攻鄴,安北將軍和郁棄城而走。懷帝遣北中郎將裴憲次白馬討彌,車騎將軍王堪次東燕討勒,平北將軍曹武次大陽討元海。武部將軍彭默爲劉聰所敗,見害,衆軍皆退。聰渡黄河,帝遣司隸校尉劉暾、將軍宋抽等距之,皆不能抗。彌、聰以萬騎至京城,焚二學。東海王越距戰於西明門,彌等敗走。彌復以二千騎寇襄城諸縣,河東、平陽、弘農、上黨諸流人之在潁川、襄城、汝南、南陽、河南者數萬家,爲舊居人所不禮,皆焚燒城邑,殺二千石長吏以應彌。彌又以二萬人會石勒寇陳郡、潁川,屯陽翟,遣弟璋與石勒共寇徐兗,因破越軍。

永嘉のはじめ、〔劉元海の軍は〕上党を攻略し、壺関を包囲した。東海王司馬越は淮南内史王曠、安豊太守衛乾らを〔劉元海の軍の〕討伐に派遣した。王弥は高都と長平の間で〔晋軍と〕戦うと、晋軍を大敗させた。晋軍の死者は十人のうち六、七人にのぼるほどであった。劉元海は王弥を征東大将軍に進め、東萊公に封じた。〔王弥は〕劉曜、石勒らと共に魏郡、汲郡、頓丘の五十余城を攻撃して陥落させると、その全てから兵士を徴発した。また石勒と共に鄴を攻撃すると、安北将軍和郁は城を棄て逃走した。懐帝は王弥の討伐に北中朗将裴憲を派遣し白馬に駐屯させ、石勒の討伐に車騎将軍王堪を派遣し東燕に駐屯させ、劉元海の討伐に平北将軍曹武を派遣し大陽に駐屯させた。武部将軍彭黙が劉聡に敗北して殺害されると、〔晋の〕大軍は全て後退した。劉聡が黄河を渡ると、懐帝は司隷校尉劉暾、将軍宋抽らに防衛させたが、みな抵抗出来なかった。王弥、劉聡は一万騎で洛陽まで来ると、〔太学と小学の〕二学を焼き払った。東海王司馬越は西明門で反撃し、王弥らは敗走した(7)。王弥はまた二千騎で襄城の諸県を攻略した。河東、平陽、弘農、上党の諸郡から流浪してきて潁川、襄城、汝南、南陽、河南の諸郡に在住した数万家は、以前から住む人たちから非礼な扱いを受けていたので、〔彼らは〕みな城郭に火をつけ〔晋朝に反乱を起し〕て、太守や長史などの二千石の上級官吏を殺して王弥に呼応した。王弥はまた二万人で石勒と合流して陳郡、潁川を攻略し、陽翟に駐屯した。〔王弥は〕弟の王璋を派遣し石勒と共同して徐州と兗州を攻略させて、東海王司馬越の軍を潰滅させた。 

彌後與曜寇襄城,遂逼京師。時京邑大饑,人相食,百姓流亡,公卿奔河陰。曜、彌等遂陷宮城,至太極前殿,縱兵大掠。幽帝於端門,逼辱羊皇后,殺皇太子詮,發掘陵墓,焚燒宮廟,城府蕩盡,百官及男女遇害者三萬餘人,遂遷帝於平陽。

王弥は後に劉曜とともに襄城を攻略し、ついに洛陽に迫った。この時の洛陽は大飢饉で、人は互いを食べあい、多くの人たちは洛陽を離れて流浪し、晋朝の高官たちは河陰に逃れた。劉曜、王弥らは遂に宮城を陥落させ、太極前殿に到達すると、兵はほしいままに大掠奪を行った。懐帝は宮城の南正門に幽閉され、羊皇后は〔劉曜に〕迫られて辱めを受け、皇太子の司馬詮(8)は殺された。陵墓は掘り返され、宮殿宗廟は焼き払われ、城内の役所は掠奪しつくされ、官僚や市井の男女で殺されたのは三万人あまりであった。そして懐帝は平陽に連れ去られた。

彌之掠也,曜禁之,彌不從。曜斬其牙門王延以徇,彌怒,與曜阻兵相攻,死者千餘人。彌長史張嵩諫曰:「明公與國家共興大事,事業甫耳,便相攻討,何面見主上乎!平洛之功誠在將軍,然劉曜皇族,宜小下之。晉二王平呉之鑒,其則不遠,願明將軍以爲慮。縱將軍阻兵不還,其若子弟宗族何!」彌曰:「善,微子,吾不聞此過也。」於是詣曜謝,結分如初。彌曰:「下官聞過,乃是張長史之功。」曜謂嵩曰:「君爲朱建矣,豈況范生乎!」各賜嵩金百斤。彌謂曜曰:「洛陽天下之中,山河四險之固,城池宮室無假營造,可徙平陽都之。」曜不從,焚燒而去。彌怒曰:「屠各子,豈有帝王之意乎!汝柰天下何!」遂引衆東屯項關。

 王弥は掠奪を行うと、劉曜は掠奪を禁止したが、王弥は従わなかった。劉曜は王弥の牙門王延を斬ってみせしめとすると、これに王弥は怒り、兵力をたのみにして劉曜と戦闘になり、〔双方で〕千余人の死者が出た。王弥の長史張嵩が諌めて言った。「明公は漢王(劉元海)と共に〔天下平定の〕大事を興しましたが、今はその事業が始まったばかりなのに、味方同志で攻撃をしあって、どうして主上に対面できるのでしょうか!洛陽を平定した功績は本当は将軍(王弥)にありますが、しかし劉曜は皇族ですので、下手に出て功績を小さい事にしたほうがよろしいでしょう。晋が呉を平定した際の二王(王渾と王濬)の一件は、遠い昔のことではありませんので、どうか明将軍(王弥)にはご熟慮されるようお願い申し上げます。もし将軍が兵力をたのみに帰還しなければ、将軍の子弟宗族はどうなるでしょうか!」王弥は言った。「よろしい、もしあなたがいなかったら、わたしはこの誤りに気付かなかっただろう。」そこで〔王弥は〕劉曜のもとへ赴いて謝罪し、仲直りをした。王弥は言った。「下官(王弥)が間違いに気付いたのは、張長史(張嵩)の功績です。」劉曜は張嵩に向かって言った。「君の行いは朱建(9)のよう〔に優れたもの〕だ。どうして范生(10)のよう〔に身勝手〕だなどといえようか!」各々が張嵩に金百斤を賜った。王弥は劉曜に自分の考えを言った「洛陽は天下の中心、山河で四方の守りは固く、城壁や濠、宮室を一時に造営せずともすみます。平陽から都を徙すのがいいでしょう。」劉曜はこれを聞き入れず、洛陽を焼き払い去った。王弥はこれに怒り言った。「屠各の子に帝王としての考えなどあろうか!きさまは天下をどうしようというのだ!」そこで〔王弥は〕兵を引き連れて東方の項関に駐屯した(11)

初,曜以彌先入洛,不待己,怨之,至是嫌隙遂構。劉暾説彌還據青州,彌然之,乃以左長史曹嶷爲鎮東將軍,給兵五千,多齎寶物還郷里,招誘亡命,且迎其室。彌將徐邈、高梁輒率部曲數千人隨嶷去,彌益衰弱。

もともと劉曜は王弥が先に洛陽に入城して、自分を待たなかったことを怨んでいたが、この頃になると〔王弥と劉曜は互いに対しての〕疑いや不満が表面化した。劉暾は王弥に対して青州を拠点とするために帰還することを説き、王弥は同意した。そこで左長史曹嶷を鎮東将軍にして、五千の兵を与えて、多数の資産や宝物を持たせて郷里に帰還させ、戸籍を失ったならず者を誘い招き、そしてその一族を迎え入れた。王弥の部将の徐邈と高梁は〔曹嶷が出発すると〕すぐに、部下数千人を率いて、曹嶷の後を追って〔王弥のもとを〕去り、王弥の勢力は益々衰弱した。

初,石勒惡彌驍勇,常密爲之備。彌之破洛陽也,多遺勒美女寶貨以結之。時勒擒苟晞,以爲左司馬,彌謂勒曰:「公獲苟晞而用之,何其神妙!使晞爲公左,彌爲公右,天下不足定也!」勒愈忌彌,陰圖之。劉暾又勸彌徴曹嶷,藉其衆以誅勒。於是彌使暾詣青州,令曹嶷引兵會己,而詐耍勒共向青州。暾至東阿,爲勒游騎所獲。勒見彌與嶷書,大怒,乃殺暾。彌未之知,勒伏兵襲彌,殺之,并其衆。

以前より石勒は王弥が強く勇ましいことを嫌がり、常日頃密かに備えていた。王弥は洛陽を破ると、石勒〔を味方につけるため〕に多くの美女や財宝を贈り、石勒と手を結んだ。石勒が苟晞を生け捕りにして左司馬とした時、王弥は石勒を評して言った「公は苟晞を捕獲して用いるとは、何と神妙な事か!苟晞を公の左に、王弥を公の右にすれば、天下を平定して余りあるでしょう!」石勒は〔この言葉から〕王弥をいっそう嫌い、密かに〔王弥を〕罠にかけようとした。劉暾は王弥に曹嶷を召し出すように勧め、曹嶷配下の兵を使って、石勒を誅殺しようとした。そこで王弥は劉暾を使者として青州へ行かせ、曹嶷に兵を引き連れて自軍と合流させようとし、石勒に対しては詐りの誓約を行い自分と一緒に青州に向うようにした。劉暾が東阿に至ると、石勒の遊撃騎兵に捕獲された。石勒は王弥が曹嶷に与えた書状を見ると、〔内容に〕激怒して、劉暾を殺した。王弥がまだこのことを知らないうちに、石勒は兵を伏せて王弥を襲って殺し、その軍勢を併せた(12)

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