(1)「劉元海載記」によると、王弥は劉淵の帰郷に際して送別の宴を行った。
(2)「恵帝紀」によると、光煕元年(306)三月、東萊郡㡉県令の劉柏根が反乱を起こし、㡉公を自称し、臨淄を襲うと、高密王司馬簡は聊城に逃走した。王浚は部将を遣わして劉柏根を討伐し、劉柏根を斬った。
(3)竇融のこと。周公は字。竇融ははじめは新の王莽に仕えたが、後に後漢の光武帝の配下となり、官位は大司空にまで至った。
(4)鄧禹のこと。仲華は字。後漢の光武帝の挙兵に従い、官位は大司徒にまで至った。
(5)蜀漢の昭烈帝劉備のこと。「劉元海載記」によると、劉淵は漢の後を継ぐということで国号を漢と名乗り、三祖五宗を立てた。その三祖の一つが烈祖で、昭烈帝劉備のことと考えられる。
(6)『三国志』蜀書第五「諸葛亮伝」に見える「水魚の交わり」の故事のこと。
(7)「劉元海載記」によると、劉淵は劉聡、王弥らに五万騎を率いさせて洛陽の攻撃に向かわさせた。漢軍は再び敗退し平陽に帰還した。「孝懐帝紀」によると、永嘉四年(310)五月、幽、并、冀、秦、雍等六州で蝗が大発生した、草木から牛馬の毛まで食べ尽された。六月、劉淵が死に、子の劉和が漢の皇帝位を継いだが、劉和の弟の劉聡が劉和を殺して皇帝になった。
(8)「清河康王伝」では「詮」は「銓」となっている。
(9)朱建は前漢の人。淮南王黥布に仕え、黥布が反乱を企てた時、反乱をやめるよう諫言したが、黥布は聞き入れずに反乱して処刑された。朱建は諫言を評価されて平原君の号を賜った。
(10)項羽の軍師・范増のことと思われる。范増は項羽を見限って立ち去った。
(11)「劉聡載記」によると、この後に劉聡は王弥を大将軍とし、斉公に封じた。
(12)「石勒載記上」によると、石勒は王弥を酒宴に誘い出して、自分の手で斬った。