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update:2021.01.17 担当:田中 敏一
晋書巻一百四
載記第四
石勒上
人物簡介

石勒(274〜333)は字を世龍といい、上党郡武郷県の羯族である。父は羯族の小部族の統率者の周葛朱、父の代まで羯族名を名乗っていた。少年時代から父の代理を務め、その統率力を発揮していた。若い時に恩恵を受けた漢族の郭敬を晩年まで優遇したり、初期からつき従った十八騎を高官に起用するなど義理がたい面がある。太安年間に奴隷として売られる辛酸を味わったが、持前の力量で這い上がり、傭兵から群盗となり、八王の乱では成都王陣営で戦闘に参加した。成都王の死後は、汲桑と晋朝に叛乱を起こしたが敗れ、漢王を名乗る劉淵に帰順した。初期は非漢族中心の軍団だったが、張賓などの君子営と呼ばれる漢族の反乱人士も内包した。洛陽が陥落して実質的で晋が滅ぶ頃には自立して割拠しようとした(載記第一の序では襄国に本拠を置いた時点で独立したとしている)。段部と講和し幽州の王浚を滅ぼした頃には、河北では最大勢力になった。靳準の乱で漢が混乱すると正式に独立して趙王を名乗った。漢を受け継いだ劉曜の前趙を滅ぼし皇帝となった。胡人と漢人の融和に心を配った。西晋を教訓として、石氏一族の結束を願う遺言を残すが、結局は後趙も西晋と同様に内紛の果てに滅亡する事になった。咸和八年(333)に死去した。享年六十、在位十五年。墓所は高平陵。諡号は明皇帝、廟号は高祖。

本文

石勒は字は世龍といい、最初の名は㔨で、〔并州〕上党郡武郷県の羯人である。その先祖は匈奴の別部で羌渠の末裔にあたる。祖父は耶奕干、父は周葛朱、別名を乞翼加と名乗った、二人ともに小部族の統率者であった(1)。誕生した時(274)、赤光が産屋に満ち溢れ、白気が天から真直ぐに中庭に降りてきた、これを見た者はみんな不思議な事と思った。14歳の時(287)、同じ村の人と一緒に洛陽へ商売に行った時の事、上東門にもたれ大声で同行者を叱責していた、それを見て王衍が普通ではないと思い、気に掛って左右の者に考えを言った「向うに居た大物になりそうな胡人の少年を観察したが、声の響きや眼光に普通ではない意思が見てとれた、将来は天下に災厄をもたらす恐れがある。」馬を走られ捕まえようとしたが、その時には上東門を立ち去った後だった。成人すると壮健で胆力が有り、勇猛で騎兵として弓を射るのが上手だった。父の周葛朱は性格が凶暴で粗雑だったので、胡人たちは敬遠していた、いつも石勒を自分の代理にして胡人たちの監督をさせていた、羯部では此の事を歓迎していた。居住地である武郷の北方の山麓に原野があった、そこの草木は鉄騎の像のようだった、家々の庭園に生える人参は花葉が繁茂して全て人の形となった。〔石勒が人相を見てもらった時の事、〕村の長老や人相見は皆「此の胡人は容貌が普通ではない、大志の限度も常識外れで、その終わりは計り知れない。」と言い村人に彼を厚遇するよう勧めた。この時その場にいた人の多くは笑い飛ばしたが、その通りと思った鄔人の郭敬と陽曲の甯駆の二人だけが石勒に資材の援助をした。石勒も二人の恩情に感謝して耕作に励んだ。いつも鞞鐸の音(戦いの噂)を聞いた(2)、家に帰り母に告げると、母は「辛い仕事している私たちに〔とっては戦いの〕音が耳に鳴り響いても、不吉な事ではないよ。」と言った。

太安年間(302〜303)に并州は飢饉で混乱した、石勒も他の多くの胡人の小集団と同様に居住地を離れた、そして雁門から引き返し〔陽曲の〕甯駆に頼った。北澤都尉の劉監は石勒達を縛りあげて売ろうとしたが、甯駆が匿い捕まらずにすんだ。石勒は劉監の目を逃れて都尉の李川の所へ行って配下となって援助を受け様とした、向う途中で郭敬に出逢った、泣きながら飢えと寒さを訴えた。郭敬は石勒と一緒になって涙を流し、金銭を持たせて食糧も与え、併せて衣服も提供した。石勒は郭敬に考えを言った「今回の大飢饉は、持ち堪え様のない窮状だ。諸所の胡人の飢えは甚だしい、冀州では食料にありつけると誘い出し、そこで執り押さえて〔漢人に〕売れば、双方に利益が有るだろう。」郭敬も全くその通りと思った。同じ頃、建威将軍の閻粹が并州刺史・東羸公司馬騰に、諸所の胡人を執り押さて山東に売って軍を充実させるよう説得していた。司馬騰は将軍の郭陽と張隆に虜にした胡人の集団を冀州に連れてゆかせた、胡人を二人一組で枷に繋がれた。石勒はこの時(302冬)二十代の末(29才)で、彼も他の胡人と同様にこの一団の中に在った、何度も張隆から鞭で先を急がされる不当な扱いを受けた。そのたびに郭陽と郭時が割って入り張隆に不当な扱いを止めさせていた、郭敬が冀州への出発の際に族兄の郭陽と兄の子の郭時に石勒の事を助けるように頼んでいたからだ。道中の飢えと病気は郭陽と郭時に頼って救われた。〔石勒は平原で〕任平郡の人の師懽に売られ彼の奴隷となった。一人の老人が現れて石勒に事の顛末を言った「君は魚が龍に変化するための境界を登りきった、君子の守るべき四つの道(恭・敬・恵・義)を全て成し遂げたのだ、きっと人主として敬愛されよう。甲戌の歳(314)に王彭祖(王浚)(3)を図る事が出来るだろう。」石勒は言った「もしあなたの話の通りなら、どうして徳を忘れようか。」老人は忽然と見えなくなった。田野で耕作する毎に、軍隊の合図の太鼓と角笛の音が聞こえた、この事を奴隷たちに告げると、奴隷たちも同様にこれを聞いていた、それで言った「吾は幼い時からずっと家の中で同様の軍隊の合図を聞いていた。」奴隷たちが石勒につき従う様なると師懽に〔傭兵にする様に〕頼み込んだ、師懽は優れた人相をしているとして奴隷の身分から解放した。

師懽の家は馬牧場の隣に在り、牧場の統率者の魏郡の汲桑と往来があった、石勒は馬を操るのが上手といって自分から汲桑に身を寄せた。常に武安や臨川で〔成都王配下の〕雇兵をしていたが、敵の移動部隊に囚われた、すると鹿の群れが傍らを通り過ぎて行った、軍人たちは鹿の群れを競って追いかけたので解放された。突然かつての老人が現れて石勒に言った「鹿の群れを向わせたのは私だ、君は中州の主にならねばならない人だ、それゆえ汝を救ったのだ。」石勒は拝礼して天子となる天命を受けた(4)。そして〔汲桑の所に戻ると〕王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明ら八騎を召集して盗賊団となった。その後に郭敖、劉徴、劉寶、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六らも加わり十八騎と名乗った。繰り返し何度も東方の赤龍や騄驥などの御苑の中に入り、苑馬に乗っては遠くまで出かけ絹織物や宝石を強盗し、汲桑への賄賂とした。

〔永興元年(304)七月、鄴から朝廷を牛耳る成都王司馬穎を廃太弟にしてから恵帝の親征軍が出陣した。〕成都王司馬穎は蕩陰で恵帝の親征軍を敗ると、恵帝は鄴宮への行幸を強要された。〔八月、司馬穎の廃太弟は無かった事にされた。〕〔并州刺史の司馬騰と幽州の安北将軍の〕王浚は司馬穎が恵帝を辱めたとして鮮卑兵を派遣して攻撃した、〔迎撃軍が大敗を喫し鮮卑兵が鄴に迫ると、〕司馬穎は懼れ、恵帝と一緒に南の洛陽へ逃れた。〔十一月、〕恵帝はまた、〔河間王司馬顒の部将の右将軍の〕張方に強要されて長安へ遷った。〔十二月、〕関東のあちこちで挙兵があり、皆が司馬穎の罪を問う事を名目にしていた。河間王司馬顒は関東の軍勢の盛大さに懼れ、関東の諸侯と和睦しようと成都王の廃太弟を奏上〔すると、そう決〕した。この歳(305)、劉淵は〔并州上党〕黎亭で漢王を自称していた、司馬穎の配下で将軍だった陽平の人の公師藩らは将軍を自称して趙国や魏郡で挙兵すると数万人が集まった。石勒と汲桑は苑馬に乗った牧人数百騎を率いてこれに赴いた。汲桑は最初に(㔨に)姓を石、名を勒と命名した(この時から石勒と名乗った)。〔永興二年(305)七月、〕石勒は公師藩から前隊督に任命されて、公師藩に従い平昌公司馬模の居る鄴を攻撃した(5)。司馬模は将軍〔で頓丘太守の〕馮嵩に迎撃させ、公師藩を敗った。公師藩は〔兗州〕白馬から密かに南へ行こうとしたが、濮陽太守の苟晞が公師藩を討って斬った。石勒と汲桑は〔公師藩の敗死後〕逃亡し御苑の中に身をひそめた、そこで汲桑は石勒を伏夜牙門にした、牧人を帥いて郡県をおどし繋がれた囚人を略奪した、山野の亡命者を招き寄せた、多くは石勒に付き従ったが、石勒は彼らを率いて汲桑に加勢した(6)。汲桑は自分で大将軍と名乗り、成都王司馬穎に成り代わって東海王司馬越と東羸公司馬騰に復讐すると表面上は公言していた。石勒は汲桑の先鋒となり、度々戦功をあげ、掃虜将軍・忠明亭侯に任命された。〔永嘉元年(307)五月、〕汲桑は鄴を攻めるために進軍した、石勒は前鋒都督となって戦い、司馬騰の将軍〔で魏郡太守の〕馮嵩を大敗させると、追撃して鄴へ入城し、遂には司馬騰を殺害した、一万余人を殺して婦女や珍宝を略奪し鄴を去った。延津から南へ黄河を渡り兗州を攻撃すると、司馬越は大いに懼れて、苟晞や王讃らを討伐に派遣した。

汲桑と石勒は楽陵の〔前〕幽州刺史石尟を攻め、石尟を敗死させた。乞活の田禋は五万人を率いて石尟の救援に向かったが、石勒に迎撃され田禋は敗れた、石勒と苟晞らは平原と陽平の間で数ヶ月に亘り大小三十余回戦い互角の勝負だった。〔永嘉元年(307)七月、〕司馬越は懼れ、官渡に駐屯して苟晞に遠くから支援した。〔九月、〕石勒と汲桑は苟晞に敗れて一万余人の死者を出した。敗残兵を集めて劉淵の所に逃走しようとした。冀州刺史の丁紹に赤橋で待ち伏せされ、再び大敗した。汲桑は馬牧場に逃げ込み、石勒は楽平に逃走した。汲桑は〔結局この年の十二月に〕晋軍によって平原国で斬られた。

この時、胡族の部大である張㔨督、馮莫突などは数千の兵を擁し、上党で陣営を築いていた。石勒は以前につき従っていたので、張㔨督と非常に親密であった、そこで張㔨督を説得して言った。「劉単于が晋の罪を糺す為に挙兵した、部大は距離を置いて従おうとしない、まさか独立は可能とお考えか?。」張㔨督は言った「不可能だ。」石勒は言った。「その不可能な者が兵力を保持しているのです。今、部大の落人の全員が単于から褒美付きで募集されています、これから先には聚まって部大に叛旗をひるがえして単于に帰順する事を決めるでしょう、早くどうするか考えたほうが宜しいでしょう。」張㔨督は元々智恵も計略も無く、部の人々が自分から離反する事を懼れていた、そして人目を避けながら石勒に随って単騎で劉淵の下に帰順をした。劉淵は張㔨督を親漢王に、馮莫突を都督部大に任命した、石勒には輔漢将軍・平晋王として彼らを統率させた。石勒はこの時に張㔨督を兄として目上に置いた、石氏の姓を贈り、名を会とした、自分を弟として扱ってくれたからと話した(7)

烏丸の張伏利度も同様に二千の兵で楽平に陣営を築いていた、劉淵は何度も招致したが帰順させられなかった。石勒は劉淵の下で罪を犯したと偽り、これを張伏利度の下へ逃げ込む理由にした。張伏利度は〔石勒の来訪を〕大いに悦び、兄弟の契りを結んだ、石勒に諸胡を率いさせて寇掠させると、向う所に敵は無く諸胡は畏れ服従した。石勒は胡族の人々の支持を確信すると、胡人の大集会を機会に張伏利度を監禁して諸胡に告げた「今回の大事を起すのに、我と張伏利度のどちらが主人にふさわしいか?」諸胡は全て石勒を推挙した。石勒は張伏利度を釈放して、彼の部の人々を率いて劉淵に帰順した。劉淵は石勒に〔都〕督山東征討諸軍事を加号した、そして張伏利度の部の人々を配下とした。

劉淵は劉聴を壺関の攻撃に派遣した、石勒には配下の七千人を率いさせ、前鋒都督を命じた。劉琨は護軍将軍の黄秀を壺関の救援に派遣した、石勒は黄秀を白田に敗った、黄秀は戦死し、遂に壺関は陥落した(8)。〔永嘉二年(308)三月、〕劉淵は石勒と劉零、閻羆ら七将に三万の兵を率いさせて魏郡、頓丘の諸塁壁の攻略を命じた、多くを陥落させ、塁主たちを暫定的に将軍や都尉に任命し、壮強な五万人を精選して兵士とした、老弱男女を安堵して以前と同じ扱いとした、軍に私的な徴発は無く、多くの人々はつき従った(9)

〔永嘉二年(308)七月、〕劉淵は皇帝を僭称すると、石勒に持節・平東大将軍を授ける使者を派遣し、校尉・都督・王は以前のままとした(10)。〔九月、〕石勒は軍を併せて鄴を攻略した、鄴は潰滅し、〔征北将軍・鎮鄴の〕和郁は衛国へ逃れた(11)。〔十一月、〕魏郡太守の王粹は〔戦いに敗れ、〕三台で執えられ〔て処刑され〕た。趙郡に進攻して冀州西部都尉の馮沖を殺害した。乞活の赦亭、田禋が居る中丘を攻めて皆殺しにした(12)。劉淵は石勒に安東大将軍を授け、開府を許可した、石勒は左右の長史、司馬、従事中朗を置いた。進軍し鉅鹿、常山の二郡を守る将軍を殺害した。〔永嘉三年(309)四月、〕冀州郡県の堡壁の百余を陥落させた、支配下の兵士の数は十余万人に達した、その中の士大夫や名望才能のある人物が集まって君子営を作った。張賓の地位を上げて謀主とし一番始めに軍功曹に任命した、そして刁膺と張敬を股肱に、夔安と孔萇を爪牙に、支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、呉予らを将率とした。石勒は自分の配下の将軍張斯を并州山北の諸郡県に派遣した、諸胡羯に安全と危険を判らせ帰順する様に説得させた。諸胡は石勒の軍事力と伝わる評判から懼れをなし、多くが従った(13)。〔九月、〕常山に進軍した、軍を分けて諸将に中山、博陵、高陽の諸県に派遣し攻撃させると数万人が降伏した。

王浚は配下の将軍の祁弘に鮮卑の段務勿塵ら十余万騎を帥いさせ石勒を討たせた、石勒は飛龍山で大敗し万余の死者を出した。石勒は元の場所の黎陽に戻り駐屯した、軍を分け諸将に命じて未だに降伏せぬ者や叛いた者を攻めさせた、三十余壁が降伏し、各々に兵士の管理官を置いて〔略奪を防止し〕人々を安心させた。〔永嘉三年(309)十一月、〕進軍して信都を侵略し冀州刺史の王斌を殺害した。これに車騎将軍の王堪と北中朗将の裴憲は洛陽から兵を率いて石勒の討伐に向かった。石勒は陣営を焼き払い食糧を一か所のまとめた、晋軍を避けて距離を取り、黄牛塁に軍営を置いた。魏郡太守の王矩は郡ごと石勒に附いた、石勒は王矩の統率する塁の兵を中軍左翼とした。石勒が黎陽に到着すると、裴憲は軍の指揮を放棄して淮南に逃げ去り、王堪は後退して倉垣に小城を築いた(14)。劉元海は石勒に鎮東大将軍を授け汲郡公に封じた、持節・都督・王は以前のままとした。石勒は汲郡公を固く辞退して受けなかった。閻羆と共に䐗圏と苑市の二塁を攻撃して陥落させた、閻羆は流れ矢に当たって死に、石勒は閻羆の兵を併せて統率することになった。〔永嘉四年(310)二月、〕秘密裏に石橋から黄河を〔南へ〕渡り、白馬を攻め陥とし男女三千余人を穴埋めにした。東へ鄄城を襲い、兗州刺史の袁孚を殺害した。そして倉垣を攻撃して陥落させ、遂に王堪を殺害した。黄河を〔北へ〕渡り廣宗、清河、平原、陽平の諸県を攻めると石勒に降る者は九万人いた。〔五月、〕また南へ黄河を渡った、栄陽太守裴純は建業へ逃走した(15)

この時、劉聡は河内を攻撃していた、石勒は騎兵を率いて劉聡に合流した、武徳の冠軍将軍梁巨を攻撃し〔て武徳を陥落させ〕た、懐帝は兵を派遣して梁巨を救援した。石勒は諸将を武徳の守備に留めて、王桑と共に梁巨を長陵で迎え撃った。梁巨は〔敗北し、石勒の〕配下になる事を願い出たが、石勒は許さなかった、梁巨は城壁を乗り越えて遁走したが軍人に捉えられた。石勒は武徳に馳せ戻り、降伏していた万余の兵士を穴埋めにした。梁巨は罪を数え上げられて殺害された。晋軍が敗退して帰還すると、河北の諸堡壁は大きく動揺し、皆が石勒に人質を送って降伏を申し入れた。

〔永嘉四年(310)六月、〕劉元海が死去すると、劉聡は石勒に征東大将軍・并州刺史・汲郡公を授け、持節・開府・都督・校尉・王は以前のままとした。石勒は征東大将軍を固辞したので、止めになった(16)

劉粲は四万の兵を率いて洛陽を攻略した、石勒は武器と食料を重門に留めて、騎兵二万を率いて大陽で劉粲に合流した、晋軍は澠地で大敗した、漢軍は遂に洛川に到着した。劉粲は轘轅から畿内を出て、石勒は成皋関から畿内を出た、陳留太守の王讃を倉垣で包囲したが、〔永嘉四年(310)十月十三日、〕王讃に敗れ文石津に退き駐屯した。北方の王浚を攻撃しようとしたが、同じ頃に王浚も将軍王甲始に遼西鮮卑〔段文鴦の統率する〕一万余騎を率いさせて、文石津の北方で趙固を攻撃して敗った、石勒は船を焼き軍営を放棄して、軍を退避させて柏門に向い、重門の武器と食料を受け取った、石門に到着すると黄河を〔南へ〕渡り、繁昌で襄城太守崔曠を攻撃して殺害した。

これ以前に、雍州流人の王如、侯脱、厳嶷らが長江淮河間で挙兵していた、石勒の来襲を聞き、懼れて襄城に一万の兵を石勒に対抗の為に派遣して駐屯させた、石勒は襄城を撃ち敗り派遣された全員を俘虜とした。石勒は南陽に着くと、宛の北山に駐屯した。王如は石勒の襄城攻撃ぶりから懼れを抱き、使いを出して珍宝と車馬を送り石勒軍を慰労した。兄弟の契りを結ぼうとすると、石勒も受け入れた(17)。王如と侯脱はお互いに不満で、王如は石勒に〔宛の〕侯脱を攻めるよう説得した(18)。石勒は夜中に三軍に命令して、鶏鳴の頃に兵をおこし、夜明け頃には宛の城門に迫った、侯脱を攻めて十二日かけて勝利した。厳嶷は兵を率いて侯脱の救援に向った、到着できたが救援できず、結局は石勒に降伏した。石勒は侯脱を斬り、厳嶷を囚えて平陽へ送り、彼らの兵の全てを自軍に併せた、軍事的な勢力は彌々盛んとなった。

石勒は南の襄陽を攻略した、江西(長江下流の北西岸地方)の塁壁三十余所を攻撃して陥落させた。刁膺を襄陽の守備に留め、自身で精騎三万を帥いて王如を攻撃するために〔宛へ〕帰還した。王如の強盛を懼れて結局は襄城に向った。王如は石勒の思惑を知ると、弟の王璃に石勒軍の慰労の酒と食べ物を送ると詐って二万五千騎を率いさせ派遣した、本当は石勒を襲撃させようとしていた。石勒は王璃の軍を迎え撃って潰滅させると、再び江西に駐屯した、もともと江漢(長江と漢水の中間地域)の地に武力で割拠する意志があったからだ。張賓はこの地での割拠は無理として、北方への帰還を勧めたが石勒は従わなかった、それから石勒は張賓を参軍都尉とし、記室を兼任させ地位は司馬の次席とした、一人だけで石勒の将軍府の中心に位置させ、全体を公正に統括させた。

元帝(司馬睿)は石勒の南方攻略を憂慮し、王導に軍隊を統率させて石勒の討伐に派遣した。石勒軍は食糧の補給もなく、およそ三分の二が疫病で死んだ、石勒は張賓の策を受け入れて、車の荷物を焼き払い、〔必要最低限の〕食糧を用意し軽装で素早く行軍した、沔河を渡り、〔永嘉五年(311)正月九日、〕江夏を攻略した、太守の楊岠は郡を棄てて逃走した(19)。北方の新蔡を攻略し、新蔡王司馬確を南頓で殺害した、朗陵公何襲、廣陵公陳眕、上党太守の羊綜、廣平太守の邵肇らは兵を率いて石勒に降伏した。石勒は許昌に進軍して陥落させ、平東将軍の王康を殺害した。

これ以前(前年十一月)に、東海王司馬越は洛陽の人々二十余万を率いて石勒を討伐しようと〔洛陽から出陣〕した。〔永嘉五年(311)三月十三日、〕司馬越は軍中に薨じ、人々は太尉の王衍を盟主とした(20)、王衍が人々を率いて東へ下ると、石勒は軽武装の騎兵で追いかけた。王衍は将軍の銭端を派遣し石勒と戦わせたが石勒に敗北し、銭端は戦死した。〔四月一日、〕王衍の軍は大潰滅し、石勒は騎兵隊を分けて包囲して射撃すると、死体は山のように積みあがり、免れた者は一人としていなかった。ここで執えられたのは王衍および襄陽王司馬範、任城王司馬済、西河王司馬喜、梁王司馬禧、齊王司馬超、吏部尚書の劉望、予州刺史の劉喬、太傅長史の庾敳らであった、天幕の下に彼らを座らせ、晋が何故こうなったかを問い質した。王衍や司馬済らは死を懼れて、多くを自らの弁明に費やした、ただ司馬範だけが巌のように顔色を変えず、感情は落ち着きはらっていた、過去を回顧して笑って言った「今日の事態を、何で復たあれやこれや語れようか!」石勒はとても立派な態度だと思った。石勒は諸王公や卿士を外に引き出させて殺害した、死者は甚だ多かった。石勒は王衍の明晰な弁舌を重んじ、司馬範の立派な態度を考えて、兵刃を加えられず、夜に人をやって石壁を押し倒して圧殺させた(21)。左衛将軍の何倫と右衛将軍の李惲は司馬越の薨去を聞き、司馬越の妃の裴氏と司馬越の世子の司馬毗を奉じて洛陽を出た。石勒は洧倉で司馬毗を迎え撃つと、東海王の軍はまた大壊滅し、司馬毗および諸王公や卿士は執えられて全員が殺害された、死者は甚だ多かった。そして精騎三万を率い成皋関から侵入した。〔五月二十七日、〕劉曜、王弥と合流して洛陽を攻略した、〔六月十一日、〕洛陽が陥落した後、功績を劉曜と王弥に譲り渡した。その後轘轅から出て許昌に駐屯した。劉聴は石勒を征東大将軍に任命したが、石勒は固辞して受けなかった。

これ以前に、平陽の人の李洪は舞陽で数千の兵を擁し陣営を築いていた。苟晞は李洪に雍州刺史を与えた(22)。〔永嘉五年(311)七月、〕石勒は進軍して穀陽を攻略し、冠軍将軍・〔沛〕王〔司馬〕茲を殺害した。〔九月九日、〕王讃を陽夏で破り、王讃を捕獲して従事中郎にした。蒙城の大将軍苟晞を襲撃して破り、苟晞を執えて左司馬に任命した。劉聴は石勒に征東大将軍・幽州牧を授けたが、征東大将軍は固辞して受けなかった。

これ以前に、王弥は劉暾の意見を受け入れて、石勒を誅殺してから東方の青州で王になろうとした、劉暾を派遣して配下の将軍の曹嶷を斉から召し出そうとした(23)。石勒の遊撃騎兵が劉暾を捕獲し、王弥が曹嶷に与えた書状を得た、石勒は劉暾を殺し、密かに王弥に対しての謀略を考えた。同じ頃、王弥の将軍徐邈が勝手に部下の兵士を引き連れて王弥の下を去った、王弥の武力は少し弱まった。石勒が苟晞を捕獲すると、王弥は石勒を嫉妬し、使者にへりくだった言葉で偽りの考えを石勒に対し言わせた「公は苟晞を獲えて赦しました、何と其のこの上ない事でしょうか!苟晞を公の左に、王弥を公の右にして使役すれば、天下を平定して余りあるでしょう。」石勒が張賓に考えを言った「王弥は〔我より〕地位が上なのに、言葉はへりくだっている、恐らく其れは最後には以前からの〔ろくでもない〕『狗意(24)』を達成する気なのだろう。」張賓は言った「観察しますと王公(王弥)には青州に行き〔割拠し〕たい心情が有ります、生家の桑梓がある故郷は固より人情の喜ぶ所です、明公独りは并州を思う事がないと言えませんでしょう、王公がぐずぐずして出発しないのは、明公が王公の領分を受け継いだ後の事を懼れているからなのです、明公の意志を確かめたいが、まだ機会を獲られていないのです。今、王公を〔油断させて〕謀らなければ恐らく曹嶷がまた王公の下にやって来て、二人が鳥の羽翼のように助け合う事になるでしょう、後に悔やんでも、どうやっても追いつけません!徐邈は既に去り勢力は少し弱まっています、観ていると〔我々を〕思いのまま支配しようと気持ちは今もなお旺盛です、誘い出して滅ぼすべきでしょう。」石勒は同意した。石勒が陳午と蓬関で攻防を繰り広げていた頃、王弥も同様に劉瑞と対立して甚だ危険な事態になっていた。王弥は石勒に救援を求めたが、石勒は許可しなかった。張賓は進言した「明公はいつも王公を撃つ機会が訪れない事を心配していましたが、今、天がその機会を我々に授けてくれました。陳午は小僧にすぎません、我々を攻略する事など出来ますか?王弥は傑出した人物で、いずれ我らを殺害しようとするでしょう。」それで石勒は軍の攻撃先を変え劉瑞を攻撃し、劉瑞を斬った。王弥は大いに悦び、石勒は自分を〔王に〕心から推戴していると思うようになって、再び疑う事が無かった。石勒は軍を帥いて肥澤の陳午を攻めた、陳午の司馬で上党の李頭は石勒を説得して言った「公は天の生んだ神のごとき武人で、四海の平定に当たっておられます、四海の一般の民衆はみな明公を仰ぎ見て、塗炭の苦しみから救済されることを望んでいます。公と天下を争う者が有るにも関わらず、公は早くそこの者をどうにかしようせずに、反対に我ら流人を攻撃しています。我らは同郷人です、最終的には、きっと公を君主と仰ぎ見るでしょう、何処を見て我らに迫るのですか!」石勒もそう思った、翌朝には兵を引き連れ退いた。酒宴と詭り王弥に已吾へ来るように要請した、王弥の長史の張嵩は専諸、孫峻の〔ように王弥が石勒から危害を加えるられる〕恐れが有るので行ってはならないと諫めたが、王弥は従わなかった。已吾での宴席に入った、酒宴の真っ盛りに石勒は自らの手で王弥を斬り其の軍勢を併せた、劉聡には王弥が叛逆した状況を言いふらしてから奏上した(25)。劉聡は石勒を鎮東大将軍・〔都〕督并幽二州諸軍事・領并州刺史に任命した、持節・征討都督・校尉・開府・幽州牧・公は以前のままとした。

苟晞と王讃が石勒に反乱の兵をあげた、石勒は彼らを殺害した(26)。〔永嘉五年(311)十月、〕将軍の左伏粛を前鋒都尉にして、予州諸郡を攻掠した、淮河を臨んで帰還し、葛陂に駐屯した、降伏した人々は大きな苦痛を味わった、〔石勒が新たに〕将軍や太守以下の行政官が任命すると、〔彼らの〕年貢は〔石勒軍を〕救済するための食糧となり、そして兵士を提供させられた。

初め、石勒は平原で奴隷として売られ、母の王氏と互いに相手の居場所が判らなくなった。この時に至って、劉琨が張儒を派遣して王氏を石勒の下へ送り届けた、石勒に遣わした書状に言う「将軍が黄河北方を発してからの事跡を辿りますと、兗州や予略してもその土地は自分のものとせず、〔軍勢は〕雲が合うように集まり、忽ちまた星のように散らばる、将軍がその様に行動した理由は、まさかとは思いますがそれが当然だと認識しているからなのでしょうか?存続と滅亡は〔正統な〕君主(27)を得ることが出来るかどうかに在り、成功と失敗は附き従った人物が〔朝廷の〕要職に就いているかどうかに在るのです、〔正統な〕君主を得られれば義兵と為り、叛逆者に附けば賊軍と為るのです。義兵は敗れ難く、そして勲功は必ず成り、賊衆は克ち難く、そして終りは殄滅に帰結します。その昔に赤眉や黄巾が天下をほしいままにしながら、短期間に敗亡した理由は、聚まり挙兵して叛乱を起こしたのが、身分や地位の無い人々だったからと考えるのが正しいのです。将軍は天から与えられた抜きんでた資質を以って天下に猛威を振るっておられますが、有徳者を択びとって推し崇め、時代の要望に随ってこれに帰順すれば、堂々とした正義の勲功により長いあいだ貴い地位にいられるでしょう。劉聡に背けば禍は除かれ、晋主に向えば福に至ります。送った教訓を受け入れて、今迄の叛逆の意図を翻えして正しい方向へ改めれば、天下を平定して余りあり、蟻衆の外敵を掃討して余りあるでしょう。今、あなたのために選んで授けるのは、侍中・持節・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・襄城郡公です、内外の役職をあつめ、華戎の称号を兼任し、大郡に封じて特別な能力を表しました、将軍はこれらを受けて、遠近の人々の要望に副いますよう願います。古より今に至るまで戎人で帝王になった者は本当にいないのです、建国時に功績を上げて臣下として高い名声を得た者は実際にあるのです。今、遅まきながらに想うことは概ね天下大乱に〔将軍のような〕雄才の登場は当然の事で、遥か遠くから将軍の攻城の時や野戦の時の様子を聞きおよびますと、天賦の才は神のようで、兵書を視たわけではないのに、孫子と呉子の兵書の記述に自然と一致しています、いわゆる生まれながらに知る者は上、学んで知るものは次という事でしょう。車騎大将軍となってもわずか精騎五千を得るだけです、将軍の才能を以ってすれば、〔少なすぎるので〕何で私を誹らない事があるだろうかとは想います、しかし私の誠意が真実であることは、みな張儒の述べる通りであります。」石勒は劉琨に返答して言う「〔晋朝のために働いて〕成功を収めようと、〔劉聡に仕えて〕誅殺されようと、役立たずの儒学者に教えてもらうものではない、君は自分の仕える王朝の人々に対して君の忠節ぶりを顕示すれば良い、吾は夷狄の出自なので〔君の忠節ぶりの〕効果を期待するのは難しい。」劉琨には名馬や珍宝を贈り、派遣された使者を厚くもてなす事で、母を送ってくれた事を感謝して帰した、そして晋朝への帰順の誘いを拒絶した(28)

石勒は葛陂で国家の体裁を整え後宮を持った、農民に年貢を督促し〔南征用の〕船を造らせた、これから建鄴までも攻略しようとしていた。〔晋にとって〕都合よく長雨は三か月にわたり降り止まず、元帝(司馬睿)は諸将を派遣し、江南の人々を率いて寿春に大集結させようした、石勒の軍中は飢えと疫病によっておよそ三分の二のが死んだ。〔永嘉六年(312)二月、石勒を追討するための〕檄書は朝も夕も続々と届いた、石勒はこの事態にどう対処すべきか諸将を集めた。右長史の刁膺は石勒に、先に琅邪王に和議の書簡を送るべきと諫言した、それと黄河北方〔の漢軍〕を掃討し平定することも求めた、晋軍の後退を待ち、後は余裕をもって〔改めて晋臣としての行動を〕考慮すべきとした。石勒は態度と表情を変えて大声で怒鳴りつけた。中堅将軍の夔安は石勒に高い所へ赴き、水〔の赴く低い所は〕を避ける(晋に帰順して北方に戻ることの暗喩)事を勧めた、石勒は言った。「将軍は何でそんなに憶病なのだ!」孔萇、支雄ら三十余将は意見を言った。「呉軍は未だに集結していません、どうか孔萇らに攻撃させて下さい、各々が三百人の歩兵を率いて、船で進攻し〔上陸したら〕三十余道を通り、夜に其の城に登って、呉将の頭を斬り、其の城を得て、其の倉の米を食らいます。今年中に丹楊(建業)を我が物として、江南を平定し、司馬家の年長者から子供らまで全員を生け捕ります。」石勒は笑って言った「是は勇将の計略だ。」各々に鎧馬一匹を賜わった。振り返り張賓に質問して言った。「君に如何なる計略が有るか?」張賓は言った。「将軍が帝都を攻め陥とすと、天子は執えられ虜囚となり、王侯たちは殺害され、王妃公主は奪いとられ妻となりました、将軍の髪の毛を引き抜きながら、将軍の罪を数え上げても足りないほどの多くの罪〔を犯しているの〕です、どうやってまたた晋朝を奉じる臣下に戻れるというのですか!去年に王弥を誅殺した後で、この地に国家を打ち立てて運営したのは宜しくなかったのです。天が長雨を数百里四方に降らしているのは、この地は留まるのに相応しくない事を示しています。鄴には三台の固い守りが有り、西は平陽に接して、四方を山河で塞がれ、要害の地勢に有ります、北方に移りそこを拠点とするのが宜しいでしょう。反乱者を討伐して心から従わせ、黄河北方を平定してしまえば、将軍の右に出る者は居なくなります。晋が寿春を保守しているのは、将軍が襲撃に来る事を懼れるだけで、いま〔我が軍の〕撤退を突然に聞けば、必ず敵が去った事を悦び、奇襲すること事や〔一部隊が〕突出して攻撃をしかける事など考えないでしょう。兵器と食糧を北道から運び出して、大軍を寿春に向わせ、兵器と食糧が〔北道を〕通過した後に、おもむろに大軍の撤退させれば良いのです、何で立ち往生になると懼れるのですか!」石勒は袂を捲りあげ頬ひげを叩いて言った。「賓の考えの通りだ。」石勒は刁膺を叱責して言った「君たちは共に私の補佐として、建国するための計画を作っているのに、何故こんなすぐに投降を選択して勧めたのか!この考えは斬刑に相当する、だが生来臆病なのは見るからに明らかである、よって君らを宥すことにする。」これで刁膺を降格して将軍とし、張賓を右長史に抜擢して、中塁将軍を加号し「右侯」と呼んだ(29)

葛陂から〔北へ兵器と食糧を持って輸送部隊が、南へ石勒の率いる大軍が〕、一斉に出発した、石虎には二千騎を率いさせ寿春に向って派遣した。江南へ物資を運ぶ船が来たので、数十艘を捕獲して米と布を手に入れた、将士は争ってこれを取り、守備隊を設けなかった。晋軍の伏兵が一斉に襲撃すると、石虎は巨霊口で敗北し、川に落ち水死した者は五百余人いた、百里(一県の広さ)を急いで退却して、石勒の本隊にたどりついた。石勒の軍中では晋の大軍がやって来ると考えて恐慌をきたしたが、石勒は陣を敷いて晋軍を待った。晋軍は伏兵を恐れて〔攻撃を加えず〕、軍を後退させて寿春に帰還した。石勒が〔北上して輸送部隊に追いつくまでの〕途上で軍営を置いた場所では、全てが〔石勒に離反し〕城壁の守備を堅め、〔城外の〕作物の全てを収穫していた、掠奪する場所も物も無く、軍中は大飢饉になり、兵士たちは互いを食べあう状況に陥った。〔輸送部隊と合流し、〕行軍が東燕に達した時、汲郡の向冰が数千の兵を有して坊頭で陣営を築いているのを聞いた。石勒は棘津から〔黄河を〕北に渡ろうとしていたが、向冰に渡河を遮られる事を懼れて、諸将と会議して対策を下問した。張賓が意見を言った。「聞くところによれば、向冰の船の悉くが水路の中に在って、未だ坊頭の渡し場に上っていないとの事です、決死隊に千人を選んで、見つからぬように抜け道を使い密かに〔黄河を〕渡り、向冰の船を襲い取って大軍を渡らせるのが良いでしょう。大軍が渡ってしまえば、向冰は必ず生け捕りにできるでしょう。」石勒は張賓の策に従い、支雄や孔萇らを秘密裏に文石津から筏を縛り繋げて渡らせた、石勒は軍を引き連れて酸棗から棘津に向った。向冰は石勒軍がやって来る事を聞いた後に、やっと自分の船を坊頭の渡し場に集めようとした。その頃には支雄らは坊頭の塁門に兵を置いていた、奪った三十余艘で石勒軍は〔黄河を北に〕渡り、主簿の鮮干豊に命じて向冰が戦うように挑発させ、多数の伏兵を置いて待機した。向冰は〔挑発に〕怒り、軍を出撃させて戦おうとした、その時、石勒軍の多数の伏兵が一斉に襲い掛かり、向冰を鋏み撃ちに攻撃し〔て勝利し〕た、〔手に入れた〕向冰の資財で、石勒軍はようやく余裕をもって行動できるようになった(30)。鄴を攻略するため遠征し、鄴三台において北中朗将の劉演を攻撃した。劉演の配下の将軍の臨深や牟穆らは数万の兵を率いて降伏した(31)

この時、諸々の将軍や佐官は三台を攻め取り鄴を拠点にするよう主張していた、張賓は意見を言った。「劉演は猶も数千の兵を持ち、三台は堅固です、攻めても守られて、すぐに降すことが出来ないのであれば、いっそ何もせず自滅の可能性に期待する方が良いでしょう。王彭祖と劉石越は大敵です、彼らが我々に対して備えをする前に、密かに計画を立て罕城に進軍して拠点とするのが宜しいでしょう。広く徳を行き渡らせて食糧を蓄え、西の平陽を譲り受けて、并州と薊を掃討して平定すれば、桓公文公のような覇業は達成できるでしょう。今は天下が鼎が沸くようで、方々で始まった戦争が依然として終わっていません、〔戦乱を逃れる人々は〕行き先も定めずに故郷を離れ、人々には定まった目標も有りません、〔今の時代は〕万全を保ったとしても天下を平定するのは難しい事なのです。そもそも領土を得た者は昌え、領土を失った者は亡ぶのです。邯鄲と襄国は〔戦国時代の〕趙の古い都で、山に近く其の山の険しさに頼る事の出来る、国家にとって地勢の優れた場所です、此の二邑から都とする場所を採択して、然る後に将軍たちに四方への出兵を命じるのです、優れた計略を授けて、滅ぼすべき勢力は亡ぼして〔我々の〕存在を強固にし、弱小な勢力は併呑して〔敵対する〕無礼者は攻撃するのです、つまり悪人どもを排除できれば、王業を達成する事が出来るのです。」石勒は言った。「右侯の考えのとおりだ。」これで進軍して襄国を拠点とした。張賓は石勒に話して言った。「今、我々がこの地に都を置くことを、石越と彭祖はとても嫌がっています、恐らく吾の城壁と周囲の堀が〔完成して〕守備を堅固にする前に、それと貯えが増えない内に、我らを亡ぼそうとするでしょう。聞けば広平の諸県の秋の実りは大豊作です、諸将に命じて〔未収穫の穀物を刈り取って〕掠奪すべきです。平陽には使者を派遣して、ここを鎮守する意義を陳べるのが宜しいでしょう。」石勒は又も同意した。〔永嘉六年(312)七月、〕襄国を拠点とした事を劉聡に上表し、諸将に冀州の郡県の塁壁を攻める事を命じた、諸将は降伏して付き従った大勢を率いて、食糧を石勒の下へ輸送した。劉聡は石勒を使持節・散騎常侍・都督冀幽并営四州雑夷・征討諸軍事・冀州牧に任命した、進封して本国の上党郡公、食邑五万戸とした、開府・幽州牧・東夷校尉は以前のままとした(32)

広平の遊綸と張豺は数万の兵を擁して、王浚から与えられた役職を受け、苑郷に拠点を保持していた。石勒は夔安、支雄ら七将を攻撃に派遣して、苑郷城外の陣営を破った。王浚は督護の王昌や鮮卑の段就六眷、段末柸、段匹磾らの段部の兵五万余を石勒の討伐に派遣した。この時は襄国の城壁と空堀は未完成だったので、襄国の城壁から隔たった場所に二重の柵を築き、障害物を設けて敵襲に備えた。段就六眷は渚陽に駐屯した、石勒は諸将を部隊分けして次々と挑戦させたが相次いで段就六眷に敗れ、また大きな城攻めの道具を造っている事を聞き、石勒は将軍や佐官に対して考えを言った。「今、我らを攻略するための軍がますます迫って来ている、彼らは大軍で我らは寡兵、恐らく攻撃側の包囲は解かれず、外からの救援も至らず、内では食糧庫の物も食べ尽くすだろう、たとえ孫武と呉起の二人が生きていても、我々と同様に対応できないのは間違いない。吾は鍛錬された将士を選び、大々的に布陣して広野で決戦を行いたいが、どうだろうか?」諸将はみな言った。「固く守り侵略者を疲れさせるのが宜しいでしょう、彼らは疲れきってしまえば自分から退却するでしょう、これを追撃すれば勝てない事はありません。」石勒は張賓と孔萇に対して声をかけ言った。「君らならばどうする?。」張賓と孔萇は揃って言った。「聞くところによれば、段就六眷は来月上旬迄に北城を葬りさると言っているそうです、その大軍は遠くから来ていて、連日の戦いと守りに、我が軍勢を寡弱と思い、敢えて戦いに出る事は無いと考えているそうです、彼らの戦意はきっとだらけきっているはずです。今、段氏は種族として悍しいのですが、〔中でも〕段末柸が最高で、段氏の兵卒で勇者と呼べる悉くが段末柸の所に在ります、また戦いに出向かず、こちらは弱い事を示した方が良いでしょう。速く北塁に二十余所の敵に突撃する為の通路をあけて、賊の到着を待ち受け〔油断した賊が〕守備の陣列を作る前に、不意を突いて、段末柸の本陣に向って突撃すれば、敵は必ず懼れ慄きます、〔彼らはそこまで〕考えが及んでいないでしょう、いわゆる迅雷は耳を塞げずという事です。段末柸の兵士が逃げ出せば、残り兵士は自ずと戦意が打ち砕かれるでしょう。段末柸を生捕ってしまえば、彭祖は時期を指定して平定できるでしょう。」石勒は笑いこの計画を納得した、すぐに孔萇を攻戦都督とし、突撃門となる通路を襄国城の北に造った。鮮卑は侵入して襄国城の北方に陣営を造り駐屯した、石勒は敵軍が陣列を未だに定めていない事を確認すると、城上でみずから率いた将士の戦意を奮い起こし大声で囃し立てた。うまい具合に孔萇に都督された伏兵は諸突門から出撃して、段末柸を生け捕りにした、段就六眷らの兵士達は遂には散り散りに逃げ去った。孔萇が勝ちに乗じて追撃すると死体は三十余里に横たわり、鎧馬五千匹を獲得した。段就六眷は残った兵を集めて渚陽に駐屯した(33)、講和を求める使者が段就六眷からも派遣されてきた、鎧馬と金銀を送り、併せて段末柸の三弟を人質に段末柸の解放を求めた。諸将は一致して石勒に段末柸を殺して彼らの意気を挫くべきといったが、石勒は言った。「遼西の鮮卑は健児の国だ、我との間に初めから怨讐は無い、王浚に使われているだけだ。いま一人を殺し、一国の怨みをかうのは、正しい考えではない。解放すれば必ず悦び、二度と王浚の用をなさないだろう。」ここでその人質を受け納れて、石虎を派遣して段就六眷〔の命令を受けた段文鴦〕と渚陽で盟約し、兄弟の契りを結んだ、段就六眷らは兵を引き連れて帰還した。参軍の閻綜を劉聡へ勝利報告のために派遣した。これで遊綸と趙豺は降伏を願い出て、〔劉聡の漢に〕称藩した、石勒は近いうちに幽州を襲撃しようと、将士を養成することに務めた、劉聡が許可したので、二人は任命され将軍職に就いた。ここで軍隊を派遣して信都を攻略させ、冀州刺史の王象を殺害した。王浚はまた邵擧を行冀州刺史として信都を保持した。

建興元年(313)、石虎は鄴三台を攻撃した、鄴は潰滅し、劉演は廩丘へ逃走した、将軍の謝胥、田青、郎牧らは三台の流人を率いて石勒に降伏した、石勒は桃豹を魏郡太守にして彼らを慰撫した。段末柸に子になるよう命じ、〔劉聡から〕使持節・安北将軍・北平公に任命してもらい、遼西へ派遣〔を名目に〕し帰還させた。段末柸は石勒の厚恩に感謝し、帰還途中の日々は南に向って何度も拝礼した、段氏は最後には心から附き従う様になった、この時から王浚の威勢は少しずつ衰えていった。

石勒は苑郷を襲撃して、遊綸を執えて主簿とした。〔建興元年(313)四月、〕上白において乞活の〔龍驤将軍・青州刺史の〕李惲(34)を攻め、李惲を斬った、その降伏した兵卒を生き埋めにしようとした時に、郭敬を目にし確かめようとして言った。「汝は郭季子か?」郭敬は叩頭して言った。「そのとおり。」石勒は馬を降りその手を取って、泣いて言った。「今日の遭遇は、どうして天の意思でないといえるか!」衣服や車馬を賜い、郭敬を上将軍に任命して、降伏した者たちの悉くの〔処刑を〕免除して〔郭敬の〕配下にした(35)。〔六月、〕石勒の配下の将軍の孔萇は定陵を攻略し、兗州刺史の田徽を殺害した。烏丸の〔青州刺史の〕薄盛が渤海太守の劉既を執えて、五千戸を率いて石勒に降った(36)。劉聡は石勒に侍中・征東大将軍を授け、その外は以前のままとした、石勒の母の王氏は上党国太夫人を、妻の劉氏(37)は上党国夫人を拝命して、首飾の組み紐の模様は王妃と同じ物とされた。

段末柸の代わりの人質だった弟が遼西に逃げ帰った、石勒は激怒し、通過した場所の県令や都尉は全員が殺された(38)

烏丸の審廣、漸裳、郝襲は王浚に背いて密かに石勒へ降伏の使者を派遣した、石勒は受け入れ厚遇を加え慰撫した(39)。司州や冀州は漸時の安寧を得たので、人々から年貢を取り始めた。太学が立ち、四書五経に詳しい官吏を精選して文学掾に任命し、将軍佐官の子弟から三百人を選んで教授させた。石勒の母王氏が死去した、山谷に墓穴を掘って埋葬した、その場所を詳しく知る者はいなかった。九命の礼(景帝紀を参照)が整備されていたので、襄国の城南で遺体の無い葬儀を行った。

石勒は張賓に考えを言った。「鄴は魏の旧都である、吾はここを再建しようと思う。今では多くの種族の風俗が入り混じり、〔統治して世情を〕安定させられる人々が尊敬する賢人を必要としている、誰に任せるべきか?」張賓は言った。「晋の東萊太守を退官した南陽の趙彭は君主に忠実でした、節操が堅く、誠実で勤勉、太守在職時には良い統治者でした、将軍がもし任せれば、必ずや充分期待に応え、〔官吏の〕この上のない模範となるでしょう。」石勒はこれで趙彭を召し出して、魏郡太守に任命した。趙彭は〔襄国に〕着くと、石勒の将軍府に入り泣きながら辞退して言った。「臣は往年に晋室より策名され、其の禄を食んだ者です。犬や馬でさえ其の主人を恋しがるのです、どうして進んで〔私が晋室の恩を〕忘れるでしょうか。私も本当に判っているのです、晋の宗廟に天子や皇后の衣服は見られず、同じ色の雑草が茂っている事も、晋の皇族たちは川の洪水の時の様に流されて東へ逝ったきりもう還って来ないという事も。明公は符籙に応じて受命し、私にも龍にしがみ付いて勲功を立てる機会が訪れたと思って良いでしょう。ですが人臣として〔司馬氏から〕栄誉を受けながら、再び別姓に仕える事は、人臣として考えられません、恐らく明公も〔別姓に仕える事を〕許さないのは同様でしょう。〔臣にとっては〕余生を賜わる事に勝るものはございません、臣の願い事はこの一つが全てです、明公は最高〔に寛大〕な心境に達して臣に余生を、お与え下さい。」石勒はその通りと思い黙り込んだ。張賓が進み出て言った。「たとえ将軍が天子の御旗を持って通過しても、衣冠の士は心を寄せても節を変えず、大義を自分から進んで退ける者はいません。これほどの賢者が、将軍を漢の高祖とみなし、自分を〔高祖の召集に応じなかった〕四公に擬えているのです。いわゆる君臣は互いを知るというべきでしょう、これまた将軍を不世出の高みに在るとするに足り、〔この賢者を〕官吏とする必要がありましょうか。」石勒は〔張賓の話を〕大いに悦び言った。「右侯の言葉で弧は納得した。」そして趙彭に安車駟馬を賜い、卿禄で手厚く扶養し、その子の趙明を招いて参軍とした。石勒は石虎を魏郡太守・鎮鄴三台とした、石虎に簒奪の気持ちが芽生え始めたのは此の時からだった。

この時、王浚は公卿以下の多くの官僚の役職を決めて、官爵に任命していた、ほしいままの贅沢を行い、節度無く人々をこき使っていた、石勒は〔王浚の領地を〕侵略する意志が有ったので、先に使者を派遣して〔状況を〕観察したかった。石勒から助言を求められた全員が言った。「羊祜と陸抗が書を送りあって互いに様子を訊ねあった様にすれば宜しいでしょう。」この時、張賓は病気だった、石勒は自分から張賓の所へ行って謀議した。張賓は言った。「王浚は三部(段部・宇文部・慕容部)の武力を利用し、天子に代わって政治を行っています、晋の藩鎮とは言い難く、実態は叛逆して僭号する望みを懐き、必ずや自分の大事業を図る手助けとなる英雄が現れる事を願っています。将軍の威勢は全土を震わせ、去就が〔国家の〕存亡を、所在が〔権威の〕軽重を左右します、王浚が将軍を欲するのは、楚〔王項羽〕が〔漢の将軍〕韓信を求めた事と同じです。今、臨機応変な謀略の為に本気でない使者を〔王浚に〕派遣しても、誠実さが〔王浚に対して〕無いのです、もしかすると猜疑心を生じるかもしれません、王浚に謀略が露見してしまえば、後々に奇略を設けようにも、設けようが無いのです。大事を為す者は先に〔韓信のような〕卑屈な態度をとっているものです、今から〔王浚に〕藩を称して皇帝に推挙をしても、なおも恐らくは〔王浚は〕信用しないでしょう。羊祜と陸抗の様な事は、臣は良いのかどうか判りません。」石勒は言った。「右侯の考えが正しい。」そこで石勒は舎人王子春、董肇らに多くの珍宝を持たせ、上表分を奉って王浚を推し崇めて天子と見做し言った。「勒は元々は小胡で、戎裔の出自でございます、晋の法が弛んで統治力が落ちた時に、海内の飢饉と戦乱によって、流離して危険と困難にあいました、冀州で横暴な命令を受けて、共に〔兵を〕率いて合戦いたしましたが、そこでも生命を救われました。今、晋祚は夷に倫没して、遠く呉の会稽に播居しています、中原には人主が無く、民衆には関係する天子が無い状態でございます。伏して想う事は明公殿下は、州郷から敬愛される名門で、天下の第一人者でございます、帝王に成られるのは、公の他にいったい誰が居るでしょうか?勒が身を捨て命を惜しまず、義兵を興して凶悪な謀反人を誅殺しましたのは、正に明公の為に駆除していたのです。伏して願うのは殿下が天に応じ時に順い、践祚して皇帝の位に登る事でございます。勒が明公を奉載するのは、〔明公が勒にとっては〕天地や父母に匹敵するからでございます、明公が勒の心を察して慈愛することは子をみるようでありますように願います。」同様の棗嵩にも書状を送り厚く贈り物を送った。王浚は王子春らに考えを言った。「石公は一時代の英雄、趙の旧都を拠点にして、鼎立して対峙できる勢力に成ったのに、何故に弧に対して称藩するのか、それは信用して良いのか?」王子春はこれに対して言った。「石将軍の優れた才能は人に抜きん出ていますし、兵士と軍馬は雄々しく豊富な事は、実際に聖旨の通りでございます。明公を仰ぎ見て考えますと州郷から敬愛される名門でございます、何代にも徳を重ね、王都を出でて藩鎮となって聳え立ち、威勢と名声は八方に伝わり、たしかに〔北の〕胡人や〔南の〕越人は仰ぎ慕って教えを請い、〔西の〕戎人や〔東の〕夷人は恩を感じて歌い称えています、どうして唯の小さな官庁にいて、あえて〔晋朝を〕棺に入れて蓋をせず天子の闕けままでいるのですか!昔、陳嬰はなぜに辺境の地で王となれたのに王にならず、韓信は帝に肉薄しながら帝にならなかったのでしょうか?ただ〔陳嬰や韓信の事から〕帝王とはただ智力を争うだけではなれるものでは無い事を石将軍は判っているからなのです。石将軍と明公を擬えれば、陰精(月)と太陽を比べ、江河を大洋と比べる様なものです。項籍(項羽)や王子陽〔に諫言された昌邑王劉賀〕の失敗は遠い昔の出来事ではなく、その事を石将軍は教訓としているのです、明公はいったい何を怪しむのですか!その上に古より今までに、胡人で名臣となった者は実在していますが、帝王となった者は未だにいないのです。石将軍が帝王の地位を嫌がっていないのに明公に遠慮するのは、ただ〔歴史を〕顧みて天も人もこれを許さない事と認識しているだけなのです。公が疑わない事を願っています。」王浚は大いに悦び、王子春を列侯に封じ、石勒に返礼の使者を派遣し、方物を持って答えた。王浚の司馬游統は、この時范陽を鎮守していたが、陰で王浚に叛逆をはかり、石勒に降伏の使者を早馬で送った。石勒は游統の使者を斬り、王浚へ送り届けて、自分の誠実さを王浚に表明した。王浚は游統の罪を問えなかったが、石勒の忠誠について信頼度は更に増して、また疑う事が無かった。

王子春らと王浚の使者が〔襄国に〕来た、石勒は強い兵卒と優れた武器を見られぬ様に命じた、実体の無い将軍府の残り物の部隊を統率して使者に見せて、〔臣下として〕北面し王浚の書状を跪いて受け取った。王浚が麈尾を石勒に送った、石勒は騙すために敢えて手に取らず、壁に吊るして朝と夕には麈尾に跪いた。こう自分で言った。「我は王公に拝謁出来ないので、賜った物を王公と見なして、王公に拝謁した事にしています。」また董肇を派遣し王俊に上表文を奉り、時期を決めて幽州に自ら詣でて尊号を奉上する事を伝えた、同様に棗嵩にも立派な奏上文を書き、并州牧と廣平公(40)を求めていた、見れば必ず態度は本物だと信じさせる物だった。

石勒は近々王浚を謀略に引っ掛け様として、王子春を招き寄せて王浚について質問した。王子春は言った。「幽州は去年の大水害から、人々は穀物を口にしていません、王浚は粟百万斛の蓄積が有りながら、〔貪欲で〕人々を救済する事が出来ません、刑罰と法律は酷いほどに厳しく、年貢と労役は多くてきついのです、徳行の優れた人物は殺されたり虐げられたりしていて、諌言の士は誅殺されるか排斥されています、下の者は命令に堪えられずに、〔王浚の領地からの〕流人や叛逆者は少しも減りません。鮮卑と烏丸は心が離れて外部に在り、欲張りで暴虐な棗嵩と田矯が内部に居ます、人情は掻き乱だされて意気消沈し、甲士は痩せ細り疲れきっています。それでも王浚は依然として留台で〔尚書令の〕地位につき、百官を列席させて命令を下し、自分は漢の高祖や魏の武帝と並んでも遜色ないと話しています。また幽州の謡(はやり歌)の〔王浚に対する〕恨みの言葉は特に甚だしく、聞く者で心に寒気を催さない者はいません(41)、それでも王浚の意気込みに変わりはなく、なんと懼れる様子は全く無いのです、これらの事柄から〔判るのは〕王浚の滅びる時期が来た事です。」石勒は脇息を撫でて笑って言った。「王彭祖は本当に生け捕れるぞ。」王浚の使者は幽州に戻ると、具体的に石勒の態度と兵の寡弱を陳べ、忠誠は本当で二心は無いとした。王浚は大いに悦び、石勒は信頼できるとした。

石勒は軍隊を編成して討伐する期日も決めて、王浚を襲おうとしていた、しかし劉琨や鮮卑、烏丸が後顧の憂いと為る事を懼れて、未だに躊躇いがあって出発する事が出来なかった。張賓が意見を言った。「そもそも敵国を襲う場合は、不意を突いて出なければなりません。軍を整然と用意しながら期日を過ぎても実行しないのは、三方に憂慮する事があるからなのですか?」石勒は言った。「そうだ、どうしたら良いか?」張賓は言った。「彭祖(王浚)が幽州を拠点と出来たのは、ただ三部の力が頼れたからだけです、しかし今は全てが離反し、かえって仇敵になってしまいました、これはつまり外部には遠くから援助する勢力が無いのに我らに対抗しなければならないのです。幽州では〔去年の〕凶作で食を切り詰め、人は皆粗末な食事をしているので、〔王浚に対して〕大衆は背き親しい者も離れ、軍隊も兵は少なく弱まっています、これはつまり内部にも強兵が無いままで我らを防御するという事です。もし大軍で城の近くまで行けば、必ずや土が崩れ瓦が砕ける様に粉々になるでしょう。今、三方とは休戦していませんが、将軍は〔三方に対して〕何もせず楽々と軍隊をどんな遠くの場所の敵地でも攻め入れます、幽州を奪い取るだけです。行軍が素早ければ往き返りに、二旬は掛かりません。三方に使者を赴かせて動きが有り、状況が戻るに値すれば引き返すのです。当然に機会を逃さず直ちに出発すべきです、後にこんな好機はもう訪れないでしょう。その上に劉琨と王浚は名目上は同じ晋藩ではあるのですが、しかしながら其の実態は仇敵同士です。もし劉琨に立派な奏上文を送って、人質も送って講和を請えば、劉琨はきっと我々を獲得できた事を嬉しく思い、王浚の滅ぶ事も喜んで、最後まで王浚を救援する事も我々を襲う事もしないでしょう。」石勒は言った。「吾は理解していなかったが、右侯は已に理解していた、また何の疑問があろうか!」

ここで〔行軍の早い〕軽武装の騎兵で幽州の襲撃に向った、宵闇どきには松明を掲げて行軍した。柏人に到着すると主簿の游綸を殺した、その兄の游統が范陽に在ったので軍の計画を〔王浚に〕通報されるのを懼れたからだ。張虜を派遣し劉琨に奏上文を奉った、己の過ちを幾重にも弁明し、王浚を討つ事の許しを求めて自らの行動〔の正当性〕を証明した。劉琨は平素から王浚を行為を非難していので、諸州郡に檄を飛ばして、石勒が天命を理解し過ちに思い至った事を評価し、累年の咎を無かった事にした、幽都(薊)を抜く事の求めに、将来の良い影響を考え、今は要請をゆるして、人質を受け入れ通和した。石勒軍が易水に到達すると、王浚の督護の孫緯は馬を疾走させて王浚に告げた、軍を引き連れて石勒に対抗しようしたが、游統が制止した。王浚の将軍佐官は全員が石勒に対して出撃を要請したが、王浚は怒って言った。「石公が来て、本当に我を君主と仰ぎたいのだ、どうしても出撃したい話すのならば斬るぞ!」そして饗宴の席を設ける事を命じて石勒の来るのを待った。〔建興二年(314)三月三日、〕石勒は夜明けに薊に到着すると、門番を怒鳴って門を開けさせた。伏兵の存在を疑い、先に牛羊数千頭を駆りたてた、大声を献上品だと話したが、実は市街地の小道までも牛羊で満たして、〔王浚が〕兵を発する事が出来ない様にしたのだ。王浚は〔この事態に〕懼れを抱き、座り込んだり立ち上がったりを繰り返した。石勒は〔王浚の〕儀式を行う大広間に昇殿して、〔自軍の〕兵士に命じて王浚を執えた、王浚の前に立つと(42)、徐光に王浚を咎めさせた、徐光は言った。「君は官位が中央管署の最上位、爵位は上公に列している、気性の荒い国の幽州の都(薊)を本拠とし、突騎の郷の燕の全土を占拠して、強兵を掌握しながら、洛陽の陥落を静観した、天子を救わず、自分は高い地位を望んだ。また邪悪で凶暴な人物に政治を専ら任せて、忠良な官吏を殺害し、感情の赴くまま好き勝手に振る舞う事を望み、燕の全土に害毒を撒き散らした。ここでの〔擒となる〕事態は、自分から自分への贈り物だ、天がなした事では無い。」石勒は配下の将軍の王洛生に王浚を早馬に乗り継がせ襄国に送り、市場で王浚を斬刑にした(43)。〔石勒は襄国に帰還した。〕ここで流人を分けて各々の故郷に帰還させた(44)、荀綽〔を参軍にする〕と裴憲〔も従事中郎にした、二人〕を抜擢して官爵を授け軍の食料と衣料を供与した。〔石勒は再び薊に赴いた。〕朱碩、棗嵩、田矯らは賄賂で政治を混乱させた事例を数えあげられて、游統は王浚に不忠であったと責められて全員が斬刑になった。烏丸の審廣、漸裳、郝襲、靳市らが襄国に遷された。王浚の宮殿は火をつけられ燃やされた。そして晋の尚書の劉翰を寧朔将軍・行幽州刺史とした、薊を最前線の基地として、守備隊の司令官を置いて襄国に帰還した。配下の東曹掾の傳遘に左長史を兼任させて、王浚の首を封印して、劉聡に戦利品と勝利報告の使者を送った。石勒が襄国へ帰還した後に、劉翰は石勒に叛き、段匹磾へ急ぎ赴いた。襄国は酷い食糧不足になった、穀物は二升で銀二斤、肉は一斤で銀一両した(45)。劉聡は幽州平定の勲功を授けるため、使人柳純に節を持たせ派遣した、石勒は大都督陝東諸軍事・驃騎大将軍・東単于に任命された、侍中・使持節・開府・校尉・二州牧・公は以前のままとした、さらに金鉦黄鉞・前後鼓吹二部を加え、十二郡を増封した(46)。石勒は固辞し二郡のみを受けた。石勒は左長史の張敬ら十一人を封じ爵位を伯、子、侯とした、文武で進位に差が有った(47)

〔建興二年(314)九月、〕石勒の将軍の支雄は廩丘の劉演を攻撃したが、劉演に敗北した。劉演は配下の将軍の韓弘と潘良に頓丘を襲撃させて、石勒の任命した頓丘太守の邵攀を斬った。支雄は韓弘らを追撃し潘良を廩丘で殺害した。劉琨は楽平太守の焦球を派遣し石勒の常山を攻撃して、石勒の常山太守の邢泰を斬った。劉琨の司馬の温嶠が西へ山胡の討伐に向かった、石勒の将軍の逯明が待ち伏せして温嶠を潞城で破った。

石勒は幽州や冀州が少しずつ平和を取り戻しつつあったので、州郡に実際の人口と戸数の調査を始めて命じた、一戸について織物二匹、穀物二斛を税とした(48)

石勒の将軍陳午は浚儀で石勒に叛乱を起した。逯明は荏平の甯黒を攻撃して、甯黒を降した、そして東燕の酸棗を破り帰還した、降った人々二万余戸を襄国に徙した。〔建興三年(315)七月、〕石勒は配下の将軍の葛薄に濮陽を攻略させた、濮陽を陥落させ、濮陽太守の韓弘を殺害した。

劉聴は使人の范龕に節を持たせて派遣し石勒を策名した、弓矢を賜い、地位を高めて陝東伯とし、征伐に関しては専らに出来る権利を与えた、任命する刺史、将軍、守宰や封爵する列侯は年末まで集めて奏上させた。石勒の長子の石興を上党国世子に任命し、翼軍将軍を加号して、驃騎大将軍の補佐官とした。

劉琨は王旦を派遣して中山を攻撃し、石勒の任命した中山太守の秦固を駆逐した。石勒の将軍劉勔は王旦に対抗して、王旦を敗り、王旦を望都関で執えた。石勒は楽陵の邵續を襲撃した。邵續は全兵力で迎え撃ち、石勒は大敗して帰還した。

章武の人の王眘が科斗塁で挙兵した、石勒の河間と渤海の諸郡は騒乱状態となった。石勒は揚武将軍の張夷を河間太守に、参軍の臨深を渤海太守とした、各々に歩兵騎兵三千を率いさせ鎮静に向かわせた、長楽太守の程遐を昌亭に駐屯させて遠くから支援させた。

平原の烏丸の展廣、劉哆らの部の落三万余戸を襄国に徒した。

石虎に梁城の乞活王平を襲撃させたが、大敗して帰還した。また廩丘の劉演を攻撃した。支雄と逯明が東武陽の甯黒を撃ち、東武陽を陥落させた、甯黒は河に身を投げて死んだ、甯黒配下の万余の人々を襄国に徙した。邵續は段文鴦を劉演の救援に派遣した、石虎は盧関津まで後退して止まり攻撃を回避した、段文鴦は進軍できず景亭に駐屯した。兗州や予州の豪族の張平らは劉演を救援するために挙兵した。石虎は夜に軍営を放棄して外部に伏兵を設けて、声を揚げて河北に帰還するようみせかけた。王平らはこれを信じ空になった軍営に入った。石虎は軍を引き返して張平らを撃ち敗り、〔建興四年(316)四月、〕遂に廩丘を陥落させた、劉演は段文鴦の軍へ逃走した、劉演の弟の劉啓を捕獲し、襄国に送った。劉演は劉琨の兄〔の劉輿〕の子である。石勒は劉琨が母を慰撫し生存させた事を徳としていた、劉啓に田畑と宅地を賜い、儒官の辞令を出して五経についての知識を伝授させた。

〔建興四年(316)六月、〕この時大蝗害があって中山、常山の被害が最も酷かった。中山の丁零の翟鼠が石勒に叛き、中山と常山を攻撃すると、石勒は騎兵を率いて翟鼠を討伐し、翟鼠の母と妻を捕獲し帰還した。翟鼠は胥関を保持したが、結局は代郡に逃走した(49)

石勒は楽平太守の韓據の坫城を攻撃した(50)。劉琨は将軍の姫澹に十余万の兵を率いさせ石勒の討伐に派遣した、劉琨は廣牧に軍を置き、遠くから姫澹を支援した。石勒は討伐軍に対抗しようとした、ある人が石勒の対応を諌めて言った。「姫澹の兵馬は選りすぐりで強壮です、その鉾先に当たるべきではありません、溝を深くし塁を高くして〔守備に徹し〕姫澹の兵馬の鋭い気勢を挫くのが宜しいでしょう、攻守の勢いが異なれば、必ず万全を得られるでしょう。」石勒は言った。「姫澹の大軍は遠くから来て、体は疲れ力も使い果たしている、懸ける号令も同一ではない犬羊烏合の衆だ、一度の戦いで生け捕れよう、どこに強い所が有るのだ!攻略を命じられて来たのに、胡(姫澹)が一度動かした大軍を、どうして中途で易々と命令を捨てて去れるというのだ!もし姫澹が我の後退に乗じ〔て攻撃を仕掛け〕れば、顧みる暇などなく、溝を深く塁を高くなど出来るものか!ここで戦わないのは自分から滅亡への道を辿るようなものだ。」立ち上がり諌言した者を斬った。そして孔萇を前鋒都督とし、三軍に号令して出遅れた者は斬るとした。山上に疑兵を設け伏兵を二か所に分けて配置した。石勒は軽騎で姫澹と戦い、わざと軍をまとめて背走した。姫澹の兵は縦列になって石勒を追った、石勒は前後から伏兵を発し、挟撃した、姫澹の軍を大いに敗り、石勒は鎧馬一万匹を獲得した、姫澹は代郡に逃走し、〔建興四年(316)十一月、〕韓據は劉琨へ逃走した(51)。劉琨の長史李弘は并州ごと石勒に降り、〔十二月、〕劉琨は遂に段匹磾へ逃走した。石勒は陽曲と平楽の世帯を襄国に遷し、守宰を置いて退いた。孔萇は姫澹を桑乾に追った。石勒は勝利報告を劉聡に行うため兼左長史の張敷を派遣した。

石勒が楽平を征服した、石勒の南和令の趙領は廣川、平原、渤海の数千戸を招き、合流して石勒に叛いて、邵續に身を寄せた。河間の邢嘏は何度も招いたが至らず、同様に数百の人々を聚めて叛いた。石勒は冀州諸県を視察して回った、右司馬の程遐を寧朔将軍・監冀州七郡諸軍事とした。

石勒の姉の夫の廣威将軍の張越と諸将が賭博をした、石勒もすぐ近くでこれを観ていた。張越は冗談で石勒を臆病者と言った、石勒は激怒し、大声で随員を呼び、張越の脛を折らせて殺した。

孔萇は代郡を攻撃した、姫澹は攻撃に死亡した。この時、司州・冀州・并州・兗州の流人数万戸は遼西に在り、互いを見送り招き寄せていた、人々は安心して暮らせなかった。孔萇らは馬厳と馮䐗を久しく攻め落とせなかった。石勒はどうするか張賓に質問した、張賓は回答して言った。「馮䐗らは元々明公の深い仇ではありません、遼西の流人の悉くに故郷を恋い慕う思いが有ります。今、軍を引き揚げ兵士を休ませると宣言し、通常の形式に拘らず、少しでも良い太守を選んで、襲遂の事を任せるのです、法令を忠実に守って徳の恩恵を広くふれまわり、武力を奮い立たせて服従させれば、幽州や冀州の攻略は足を爪立てて静かにして待っていても可能でしょう、遼西の流人は時を指し示すだけ向こうから至るようになるでしょう。」石勒は言った。「右侯の考えは正しい。」孔萇らを召還し、武遂令の李回を易北都護・振武将軍・高陽太守に任命した。馬厳の兵士や大衆の多くは李潜の軍人だった、李回は以前に李潜の府長史をしていたので、平素から李潜の威徳を慕っていた人々は、多くが馬厳に叛き帰順した。馬厳は部下や大衆が離反すると、懼れ、幽州に逃走したが、水に溺れ死んだ。馮䐗は大衆を率いて石勒に降った。李回は易京に居を移した、流人の降る者は一年を通じて常に数千あった、石勒はこの事態を非常に喜び、李回を弋陽子に封じ、邑三百戸とした。張賓に封一千戸が加増された、張賓は位を進め前将軍としたが、固辞して受けなかった(52)

〔建武元年(317)七月、〕河朔で大蝗害が発生した、初め地面を穿って親虫が卵を生み、二旬で幼虫になり、七八日は這い回り、四日は蛹で過ごし脱皮すると飛び回った、全ての草を旋回して覆い尽くし、ただ食べないのは三豆および麻だけだった、并州や冀州の被害が最も酷かった(53)

石虎は長寿津から〔黄河を〕渡り、梁国を攻略した、梁国内史の旬閻を殺害した。劉琨と段匹磾、段渉復辰、段疾六眷、段末柸らは固安で一同に会した、石勒を討伐する計画を立てようとした、石勒は参軍の王續を段末柸に派遣し竹籠に入れた金寶を贈り離間させようとした。段末柸は石勒に対し以前の恩に報いる気持ちがあった、また厚い贈り物を受け取って悦び、段渉復辰と段疾六眷に引き還す様に説得した、劉琨と段匹磾も彼らと同様に薊城に退いた。

邵續は兄の子の邵済に石勒の渤海を攻撃させると、三千余人を虜にして帰還した(54)。劉聡の将軍の趙固は洛陽を晋に帰順させた、石勒が洛陽を襲撃する事を恐れ、参軍の高少を派遣し石勒に書を奉り推し崇め、劉聡を討伐する軍隊を出す事を要請した(55)。石勒は大義をもって咎めると、趙固は深く恨みを抱き、郭黙と共に河内と汲郡を攻撃し掠奪した(56)

段末柸は〔段疾六眷が病死すると、〕鮮卑単于の催附眞(段渉復辰)を殺し、忽跋隣を単于に立てた。段匹磾は幽州から段末柸を攻撃した、段末柸は段匹磾を迎えて撃ち敗り、段匹磾は幽州に逃げ還った(57)。〔太興元年(318)五月、〕太尉の劉琨を殺害した、劉琨の将軍佐官は相継いで石勒に降った。段末柸は弟の段騎督に幽州の段匹磾を攻撃させた、段匹磾は部下の兵士数千を連れて邵續に頼ろうとした、石勒の将軍の石越は塩山で待ち伏せし、段匹磾に大勝した、段匹磾は退いて幽州を保持した。石越は流れ矢に当たり死去した、石勒は楽を三月やめて、平南将軍を追贈した。

初め、曹嶷は青州に拠っていたが、劉聡に叛き、南の〔正当な〕天子(元帝)からの命令を受けていた、しかし建康は遥か遠く、背後からの援助を受けられず、石勒の来襲を懼れていた、それで以前のとおり使者を派遣して講和した。石勒は曹嶷に東州大将軍・青州牧を授け、琅邪公に封じた。

劉聡に疾病は甚だしく悪くなった、早馬で石勒を召しだし大将軍・録尚書事にして遺詔を受けさせ輔政の任につけようとしたが、石勒が固辞したので止めた。劉聡は又、配下の使人に節を持たせ大将軍・持節鉞に任命した、都督・侍中・校尉・二州牧・公は以前のままとして、十郡を増封したが、石勒は受けなかった。〔太興元年(318)七月、〕劉聡は死去し、劉聡の子の劉粲が偽位を襲いだ、〔八月、〕劉粲の大将軍の靳準が劉粲を平陽で殺害した、石勒は張敬に命じ五千騎を率いさせ前鋒として靳準の討伐に向わせた、石勒は精鋭五万を統率して張敬の後継になった、襄陵の北原に拠ると、羌羯の四万余落が降った。靳準は何度も戦いを挑んだが、石勒は陣営の守備を固めて攻撃を失敗させた。劉曜が長安から出陣して蒲坂に駐屯した、〔十月、〕劉曜はまた皇帝を僭号した、石勒を大司馬・大将軍に任命し、九錫を加え、十郡を増封して、前と併せて十三郡とした、趙公に進爵した。石勒は平陽小城の靳準を攻撃した、平陽大尹の周置らは雑戸六千を率いて石勒に降った。巴帥および諸羌羯で降った者の十余万落は、司州諸県に徙された。靳準は卜泰(58)を使者にして天子の使う乗輿と衣服を送り和議を求めた、石勒と劉曜は競って靳準を自陣に招き寄せようと計っていた、そこで卜泰を劉曜の下へ送った、卜泰を使って城内には劉曜に帰順する意思が無い事を知らせて、軍の勢いを挫こうとしたのだ。劉曜は秘かに卜泰と盟約を結び、平陽に還った時に屠各の人々を宣撫させようとした。石勒は劉曜と卜泰に謀議が有る事を疑い、卜泰を斬って速やかに靳準を降伏させようとしたが、将軍たちの皆が言った。「今、卜泰を斬ってしまえば、靳準はきっと二度と我々に降ろうとはしないでしょう、卜泰に命じて漢(劉曜)との盟約を城中で結ぶと宣言して、共に兵を率いて靳準を誅殺すると言えば、靳準は必ず事態を懼れて急いで我々に降伏するでしょう。」石勒は長い時間考えたが諸将の議論に従い卜泰を靳準へ派遣した。〔十二月」、〕卜泰は平陽に入り、靳準の将軍の喬泰、馬忠らと挙兵して靳準を攻撃し、靳準を殺して、〔尚書令の〕靳明を盟主に推し立てた、卜泰および卜玄は伝国六璽を奉じて劉曜に送り届けた。石勒は激怒し、令使の羊升を使者とし平陽に派遣して、靳明が靳準を殺した状況を問い質した。靳明は怒り、羊升を斬った。石勒の怒りは甚だしく、靳明の攻撃に進軍した、靳明は戦いに出たが、石勒は靳明を撃ち敗った、二里に屍が横たわった。靳明は城門を築いて堅く守り、二度と戦いに出て来なかった。石勒は配下の左長史の王脩を劉曜に派遣し勝利を奏上した。晋の彭城内史の周堅が沛内史の周黙を殺害して、彭城と沛は石勒に降った(59)。石虎の率いる幽州や冀州の兵が石勒に合流して平陽を攻撃した。劉曜は征東将軍の劉暢を靳明の救援に派遣した。石勒は蒲上で軍に一日行程の距離をとる事を命じた。靳明は平陽の人々を率いて劉曜に逃走した、劉曜は西の粟邑に逃走した。石勒は平陽の宮殿を焼き払い、裴憲と石會に劉淵、劉聴の二墓を修復させ、劉粲以下の百余の屍を収容して葬った、渾儀(天体観測器)と〔礼楽の〕楽器を襄国に徙した。

劉曜は又配下の使人の郭汜らに節を持たせ石勒へ派遣した、太宰・領大将軍に任命し、趙王に進爵し、七郡を増封して、前と併せて二十郡とした、〔天子と同じ〕出入りに警蹕(先ばらいの警備)、冕(礼装用の冠)は十二旒(垂らす玉飾り)、乗り物に金根車、六頭立ての駕(馬車)として、曹公(曹操)が漢で輔政した故事に従った、夫人を王后とし、世子を王太子とした。石勒の舎人の曹平楽は派遣されたまま留まり劉曜に仕えた、曹平楽は劉曜に話して言った。「大司馬が王脩らを派遣して来ましたが、外では慎んでいると見せかけ、内では大駕(劉曜)の強弱を偵察しています、王脩の帰還を待って謀略を巡らし、近い将来に軽騎で乗輿(劉曜)を襲うつもりです。」この時、劉曜の勢力の実体は疲弊していたので、王脩が事実を告げる事を懼れた。劉曜は激怒して、郭汜らを追いかけて連れ還り、王脩を粟邑で斬り、太宰を石勒に授けるのを中止した。劉茂は逃げ帰り、王脩が死んだ理由を話した、石勒は激怒して、曹平楽の三族を誅殺し、王脩に太常を贈位した。また殊礼(特別待遇)の授も中止された事を知り、怒りは甚だしく、令(詔に相当)を下して言った。「弧兄弟が劉家に奉仕した事は、人臣の道を超えていた、弧兄弟が素直に従っていなければ、どうやって南面して朕と称する事が出来たのだ!〔国家の〕根本は既に立ち、あとは都合の良い時に図るだけである。天は悪を助けず、我が手を借りて靳準に罰を下した。弧が君主(劉家)に仕える姿勢は、舜が瞽瞍の求めに応じた様に道義的に正しい物であった、その故に、最初の時と同じような好意をもって復た主君と推し崇めたのだ。〔にもかかわらず〕何のつもりか悪を助長して悔い改めず、奉じる誠意を示す使者を殺した。帝王の起こるのに、また何の常制があるのか!趙王、趙帝は弧が自らこれを取る、名乗る名前の大小に、どうして劉家からの節が必要なのか!」ここで太医、尚方、御府の諸々に令(長官)を置き、参軍の鼂讃に命じて正陽門を完成させた。突然に門が崩壊すると、石勒は激怒し、鼂讃を斬刑に処した。怒りに任せて慌しく処刑させたあと、すぐに後悔して、棺服を賜い、大鴻臚を追贈した(60)

平西将軍の祖逖が陳川の蓬関を攻撃した、〔太興二年(319)五月、〕石虎が陳川を救援した(61)、祖逖は梁国に退き駐屯した、石虎は揚武将軍の左伏粛に梁国を攻撃させた。

石勒は宣文、宣教、崇儒、崇訓など十余の小学を襄国の四門に増置した、将軍佐官や権勢家の子弟から百余人を選別して教えた、且つ撃柝(夜警の拍子木を打つ)衛士を備えた、挈壺署を置いて寶貨銭を鋳造した。

河西鮮卑の日六延が石勒に叛乱を起こした、石虎が討伐に向かい、朔方で日六延を敗り、斬首二万級、俘虜三万余人で、牛馬十余万を獲得した。孔萇が幽州諸郡を討伐し平定した(62)。この時、段匹磾の部衆は飢饉に散りぢりになり、その妻子を捨て、邵續に逃走した。曹嶷は〔属国として〕使者を派遣し方物を献上し、黄河を国境とする事を要請した。桃豹が蓬関に到着すると、祖逖は淮南に後退した。陳川の部下の人々五千余戸を広宗に徙した(63)

石虎と張敬、張賓および諸将軍佐官の百余人は石勒に尊号を称する事を勧進した、石勒は書を下し言った。「弧は品格がなく徳も寡ない、かたじけなくも高い地位に担ぎ上げられて、早朝から夜更けに寝る時まで、自分の功績が遠く隔たっている事に恐れ戦いている、仮初にも尊号を窺えば、四方からの謗りを免れようか!昔、周の文王(西伯)は天下の三分の二を支配しながら、猶も殷王朝に服従して仕え、〔斉の桓公〕小白(春秋五伯の一人)は一人で天下を秩序だてる高い地位にあっても、周室を尊崇した。況や国家の隆起した方法は殷周と異なり、弧の徳は卑しく二伯に遠く及ばない。速やかにこの議論をやめにして、再びあれこれ言わないようにせよ。今より後に敢えて話す者があれば、刑に処して赦さない。」それで止めた。

石勒はまた書を下し言った「今は大乱の後で、律令〔をそのまま使う事〕はますます煩わしくなってきた、律令の要点を採集して、條制を施行する。」ここで法曹令史の貫志に辛亥制度五千文を造る事を命じた、この時から十余年施行され、律令の代用とされた。晋の太山太守の徐龕が叛き石勒に降った(64)

〔太興二年(319)十一月、〕石虎および張敬、張賓、左右司馬の張屈六、程遐ら文官武官の一百二十九人は意見書を上げて言った。「臣らは聞いています、非常の度量が有れば、必ず非常の功績が有り、非常の功績が有れば、必ず非常の大事が有のです。是を以って夏商周の三王朝は少しずつ衰え、〔春秋時代の〕五伯は次々と興隆しました、戦乱を平定し時の人々を救済して、次々と続く事は天子と同様でした。臣らが伏して想います事は殿下は天の下した聖にして賢哲の人で、符運に応じて誕生された方という事でございます、天下を征服して、天子の事業を助け成就させました、天に蓋われた地の果てる所まで、一度死んだ人は生き返る事はありません、〔伝え聞く〕めでたいしるしはめでたい事の起こる前兆でございます、日月に干支の順番ある様に、世間の期待は劉氏から去り、明公の威勢につき従う者は十分の九となりました。今、山川は安らかに静まり、星辰は不吉な光を放たず、中夏には海を超えて重訳して朝貢にやって来ます、天を人が仰ぎ見るように〔殿下を仰ぎ見ています〕、もし臣らの求めに応じて御中壇に昇り、皇帝に即位していただけたならば、殿下を頼りとしている者たちも僅かな恩沢を蒙る事がございましょう。〔臣らの〕請う事は劉備が蜀に在った時や、魏王が鄴に在った時の故事に依って、河内・魏郡・汲郡・頓丘・平原・清河・鉅鹿・常山・中山・長楽・楽平の十一郡に、以前からの趙国・廣平・陽平・章武・渤海・河間・上党・定襄・范陽・漁陽・武邑・燕国・楽陵の十三郡を併せて二十四郡、戸数二十九万を趙国としますようにお願い申し上げます。封じた内の郡太守は旧例に依って名称を内史に改め、禹貢に準じ、魏の武帝が元に戻した冀州の境界の、南は盟津に至り、西は龍門に達し、東は黄河に至り、北は塞垣に至りますよう。大単于を以って百蛮を鎮撫しますよう。并、朔、司の三州を罷め、部司を設置して境界を無くし監督させますよう。伏して敬いて偉大な天に順い、民衆の希望に副いますようお願い申し上げます。」石勒は西面して辞退する事が五回、南面して辞退する事が四回だった、公卿以下の官僚が全て叩頭して固く要請すると、石勒は勧進を許可した。

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