(1)「匈奴伝」には次のようにある。武帝の践祚(265)後、長城外の匈奴は大水害にあった、塞泥と黒難らに率いられた二万余落は晋朝に帰化を申し入れると、武帝はこれを許した。使者を出し、司州の昔の宜陽城下に居住させた。移住後に、平陽、西河、太原、新興、上党、楽平の諸郡に分散させられ晋人と雑居するようになると晋朝に不満を持つ者も現れてきた。
(2)「恵帝紀」によると、この頃、2年半に及ぶ斉万年の乱が起こっていた。元康六年(296)秋八月、秦州や雍州の氐族や羌族のことごとくが叛き、氐族総帥の斉万年が皇帝を僭称した。元康九年(299)春正月、左積弩将軍孟観が氐族を討伐し斉万年を捕獲した。
(3)司馬騰の送り出した胡人を、冀州北部の博陵国の領主(博陵県公)で安北将軍の王浚が売り払ったらしく、これが唐突に王浚の名が出る理由と思われる。司馬騰と王浚はこの頃には手を結んでいたと考えられる。
(4)「律暦志上」に、趙石勒十八年(321)七月、建徳殿を造営し、円石を得たとある。逆算すると石勒元年は304年になるる。臨川は鄴の北10キロにあるので、石勒が受命したのは、鄴が王浚の派遣した鮮卑兵に襲撃された304年8月のことと考えられる。石勒の後趙にとっては晋の天命はこの時に去ったものとみなしたのではないか。
(5)この行間で記述が跳んでいて、この間の主な出来事は次のとおり。
(305年7月)成都王司馬穎の部将の公師藩らは兵を聚め郡県を攻め陥し、陽平太守李志、汲郡太守張延らを殺害し、転じて鄴を攻めると、平昌公司馬模は将軍の趙驤を派遣して、これを撃破した。(「恵帝紀」)
(305年9月)公師藩は再び平原太守王景と清河太守馮熊を殺害した。司馬穎は鎮東大将軍・都督河北諸軍事・鎮鄴となった。(「恵帝紀」)
(305年12月)司馬穎は洛陽に進軍した。張方と劉弘は共に敵軍の攻撃を防御出来なかった。(「恵帝紀」)
(306年正月)司馬穎は長安へ逃走した。(「恵帝紀」)
(306年5月)司馬穎は宛に逃走した。(「恵帝紀」)
司馬穎が南方に逃走して、本国の成都国に向かおうとしたが、劉弘が阻んだ。(「劉弘伝」)
司馬穎は朝歌で、かつての将軍兵士数百人を糾合して公師藩の元へ行こうとした。(「成都王穎伝」)
公師藩と平陽の人の汲桑らが群盗となり、清河郡鄃県で千余人で挙兵し頓丘に兵を進めた。(「高密文献王泰伝」)
(306年9月)司馬穎は頓丘太守の馮嵩に捕らえられ、鄴へ送られた。(「恵帝紀」)
(306年10月)范陽王司馬虓が薨じた。司馬虓の長史で(魏郡太守の)劉輿が司馬穎を殺害した。(「恵帝紀」)
范陽王司馬虓は司馬穎を幽閉していたが他意は無かった、司馬虓の長史で(魏郡太守の)劉輿は鄴都の人々が司馬穎を慕っている事から,後々の災厄を憂慮して、司馬虓の喪を発せず、朝廷の使者と偽り司馬穎に死を賜った。(「成都王穎伝」)
(6)「孝懐帝紀」によると、永嘉元年(307)三月、安北将軍・東燕王司馬騰が改封され新蔡王となり、都督司冀二州諸軍事・鎮鄴となった。
(7)「劉琨伝」によると、石勒が劉淵に帰順した頃、劉淵は并州刺史劉琨により守勢に回っていた。劉淵はこの時、離石に在った。劉琨は裏から手を廻し、劉淵支配下の匈奴の部や中小部族を離間させた、晋に一万余の落が降伏した。劉淵は甚だ懼れ、結局は蒲子に城壁を築いて居場所を移した。
(8)「孝懐帝紀」によると、(308年2月25日)石勒は常山を襲撃した、安北将軍・王浚が討ち破った。時間的には翌月の事があるので別動隊と考えられる。石勒軍は最初から自由度が随分と大きかったようだ。
(9)この頃、王弥が晋朝に反乱を起こす。
(308年3月)王弥は、青・徐・兗・予の四州を攻略した。
(308年4月)王弥は、許昌に入城した。
(308年5月)王弥は、遂に洛陽を攻撃した、司徒の王衍が兵を統率して防御した、王弥は、退却すると、素早く移動した。(以上「孝懐帝紀」)
王弥は、劉淵の任子時代の友人であったので帰順し、劉淵に皇帝を名乗る事を薦めた。(「王弥伝」)
(10)劉淵が皇帝を名乗るのは、「孝懐帝紀」によると十月だが、『十六国春秋』「前趙録」では七月で、時系列的には七月が正しいと考えられる。
(11)「王弥伝」によると、鄴を攻略した軍には王弥も含まれている。
(12)「石勒載記下」に附伝があるが、後に石勒の大執法となって朝廷を統括する、中丘の張賓が自分から売り込んで来たのは、この時と考えられる。
(13)「王弥伝」によると、張斯が派遣されていた頃、石勒・劉曜・王弥が魏郡・汲郡・頓丘などの五十余壁を陥落させて、全てから軍人を徴発した。
(14)「孝懐帝紀」によると、九月と十一月に劉聡と王弥が洛陽城に肉薄しながら敗退している。石勒の追討軍が出陣したのは、当然その後である。同じ十一月に石勒は黎陽を屠殺している。
(15)「孝懐帝紀」によると、五月、石勒は黄河を渡る前に、汲郡を攻略し太守の胡寵を執えている。
(16)この間の石勒関連の記事は次のとおり。
六月、劉元海が死去し、その子の劉和が偽位を継いだ、劉和の弟の劉聡が劉和を弑殺して自分が立った。
七月、劉聡の従弟劉曜と配下の将軍石勒が懐を包囲した、詔し征慮将軍の宋抽に救援させたが、劉曜に敗れ、宋抽は戦死した。
九月、河内郡の人の楽仰が河内太守の裴整を執え、石勒に降伏した(苟晞伝にも記事がある)。(以上「孝懐帝紀」)
王如は戦乱で流人となり宛に来ていた。この時、諸流人に郷里に帰還せよと詔があった。(「王如伝」)
王弥は二千騎で襄城諸県を攻略した、流人は太守長史を殺害して王弥に呼応した。(「王弥伝」)
王如は出発の期日を指定されると、無頼少年を纏めあげて宛で晋軍を破り、涅陽で大勝し、また襄城を破った。(310年9月)四、五万人が集まり、大将軍・領司雍二州牧を自称した。(「王如伝」)
(17)「王如伝」によると、この時点で、王如、侯脱、厳嶷は漢臣となった。
(18)「王如伝」によると、石勒も侯脱の二心に怒っていた。
(19)二月、石勒は汝南を攻略した。(「孝懐帝紀」)汝南は江夏と南頓の通過地。
王弥は二万人で石勒と合流して陳郡や穎川を攻略し、陽翟に駐屯した。弟の王璋を石勒に派遣し共同で徐州・兗州を攻略し、これによって東海王司馬越の軍を破った。(「王弥伝」)
(20)「東海王越伝」によると、襄陽王司馬範が大将軍となって、軍を統率した。
(21)「東海王越伝」によると、石勒は司馬越の柩を焚いて天に告げて言った「この人は天下を混乱させた、吾は天下のために罰を下す、だからその骨を焼いて天地に告げるのだ。」(挙兵の際に掲げた成都王のための復讐はこれで終った事になる。)
(22)「孝懐帝紀」によると、六月、洛陽が陥落すると、皇太子司馬詮も平陽に連れ去られ、司馬詮の弟の司馬端は東の苟晞へ逃げた、苟晞は司馬端を皇太子に立て、自分で尚書令となり、百官を置いた。
七月、王浚も皇太子を立てた。
(23)「劉聡載記」によると、王弥は大将軍・斉公となった。つまり、領国に赴任しただけ。称王が問題。
(24)「王弥伝」によると、石勒は王弥の襲撃をおそれて、常に準備していたとあるので、「狗意」とは石勒を抹殺するして軍勢を我が物とする事の意味のようだ。
(25)「劉聡載記」によると、劉聡は激怒したが、石勒が二心を抱く事を恐れ、王弥の配下を石勒の配下とした。
(26)「孝懐帝紀」によると、九月、大将軍の苟晞と予章王司馬端は共に賊中に没した。
(27)「孝懐帝紀」から考えると、ここで言う君主とは、この時点では王浚の擁立した皇太子しかいないので、実はこの時に帰順を呼びかけたのは、王浚だったのではないか。翌年の九月に司馬鄴が皇太子になっているので、その時までに、王浚の擁立した皇太子は死去したと考えられる。
(28)「石季龍載記上」によると、石勒の母の王氏と一緒に石虎は葛陂に来ていて、この時17才で、18才で征虜将軍となっているので、次の段の戦いが初陣となると考えられる。
(29)永嘉四年(310)、百余歳と自称する仏図澄が洛陽にやって来た。寺院を建立しようとしたが果たせず、洛陽の陥落後は在野に居て世の移り変わりを観察した。石勒は葛陂に駐屯して、自分勝手な判断で惨たらしく人々を殺していた、出家者で被害に遇った人は非常に多かった。仏図澄は石勒の大将軍郭黒略の家に身を寄せた。郭黒略は石勒の征伐に毎回つき従い、いつも勝敗を事前に決めつけた、石勒は疑問に思い言った。「弧は衆に抜きん出た智謀が卿に有ったという記憶はないが、毎回の軍事行動の良し悪しを何故に分かるのか?」郭黒略は言った。「将軍は天から神のような武力を与えられ、人智を超えた不可思議な力に助けられています、一人の智と術が非常の沙門が有って、云うには将軍は中華の一角を統治出来るので、己は師になろうとの事です。臣の前後の言葉は、全て其の人の話したものです。」石勒は仏図澄を召し出し、道術を試した。仏図澄はすぐに水を湛えた鉢を取り出し、焼香して呪文を唱えた、わずかな時間に鉢の中に青蓮花は生じ、太陽の様に光輝いた、石勒はこの事から仏図澄を信じた。(「仏図澄伝」)
永嘉六年(312)二月、汝陽王司馬熙が石勒に殺害された。(「孝懐帝紀」)
(30)「仏図澄伝」によると、石勒が葛陂から河北に帰還し、坊頭を通過した、坊頭の人は夜襲をかけようとした、仏図澄は郭黒略に話しかけ言った。「すぐに賊がくるから、全体に知らせ命令を出すべき。」果たして其の言葉の通りで、備えが有って、それで敗北しなかった。
(31)『資治通鑑』巻八十八によると、臨深や牟穆は漢軍だったが晋に帰順していた。石勒が葛陂から河北に帰還したので、漢軍に出戻りした形になる。石勒に晋から帰順が呼びかけられた頃に、実際に帰順した漢軍がいたから、石勒の軍内で帰順しようとする意見が出たのだろう。
(32)「王浚伝」によると、この事態を王浚が放置している訳も無く、祁弘を討伐に派遣してきた。石勒は自分自身で祁弘との戦いに出陣した。祁弘を石勒の討伐に派遣し、広宗で戦闘に及んだ。この時、大霧に祁弘は軍を引き連れ道に迷っていた、突然に石勒と遭遇し、石勒に殺された。
(33)石勒は段末柸を人質にして段就六眷に先に講和を求める使者を派遣した、段就六眷の弟の段文鴦は言った「石勒を討伐する命令を受けながら、段末柸一人の安寧をはかる、この戦いは生け捕られた者を解き放してもらう為だけに行ったのか。王浚の意向に沿わねば、後々の憂慮も有るので、きっと許されないだろう。」段就六眷は聞き入れなかった、鎧馬二百五十匹、金銀細工各竹箱一つを段末柸の身代金とした。(「段匹磾伝」)
「仏図澄伝」では少し異なっている。鮮卑の段末波が石勒を攻撃した、軍勢は非常に多かった。石勒は懼れ、仏図澄に問うた。仏図澄は言った。「昨日寺鈴が鳴り、こう云った、明日朝食時に、段末波を生け捕れる。」石勒は城壁に登り末波軍を見下ろした、前後が見えず、真っ青になって言った。「段末波がこんなで、どうやれば捕獲出来るのだ!」〔翌朝〕もう一度夔安を遣わして仏図澄に問うた。仏図澄は言った。「すでに段末波を捕獲した。」この時、城北から伏兵が出撃し、段末波に遭遇して、段末波を執えていた。仏図澄は石勒に段末波を許し、本国へ派遣し帰還させる事を勧めた、石勒は助言に従い、ついにその効用を獲た。
「王沈伝」によると、王浚の遠征軍が引き下がったのは、王浚と劉琨の対立があったから。
永嘉六年(312)八月、劉琨は〔漢軍の攻撃から〕常山に逃走した。拓跋猗盧を代公とした。(「孝懐帝紀」)
劉琨は拓跋猗盧を代郡公とし、劉希と中山で合軍した。王浚は劉琨が己の勢力圏を侵犯しているとして、何度も劉琨は攻撃したが、劉琨は抵抗出来なかった。(「劉琨伝」)
これを理由に劉琨と王浚は冀州で争った。劉琨は宋人劉希を中山に還し合軍した、代郡・上谷・廣寗の三郡の人は皆劉琨に付き従った。王浚はこの事態を憂慮し、遂に石勒の討伐を中止し、劉琨に対抗した。王浚は燕相の胡矩に諸軍を督護させ、段就六眷と力を併せて劉希を攻撃し破った。三郡の士女を追い詰め持ち物を奪い、越境を禁止した。劉琨は再び王浚と争う事が出来なくなった。(「王沈伝」)
(34)「王浚伝」によると、李惲は王浚から青州刺史に任命されていた。後任には薄盛がなった。
(35)「孝愍帝紀」によると、建興元年(313)四月、司馬鄴が皇帝に即位した。
(36)「孝愍帝紀」によると、建興元年(313)六月、山東の郡邑が相継いで石勒によって陥落した。
(37)『十六国春秋』「後趙録」によると、後に石勒の皇后となる劉氏は、後部の胡人。漢の王族と無関係。
(38)「王浚伝」によると、石勒が激怒したのは、王浚が再び襄国攻撃の準備をしていたから。王浚は石勒を討伐しようと、棗嵩に諸軍を都督させ易水に駐屯させた、段疾陸眷を召集して、合同で襄国を攻撃しようとした。
(39)「王浚伝」によると、王浚の襄国攻撃が頓挫した経緯は次のとおり。段疾陸眷は以前からの命令違反から、王浚から誅殺される事を恐れていた。石勒は以前と同様に使者を派遣し多くの贈り物した、段疾陸眷らはこのような理由から王浚の召集に応じなかった。王浚は怒り、単于拓跋猗盧の子の右賢王拓跋日律孫に手厚い贈り物をし、段疾陸眷を攻撃させたが、逆に破れた。
(40)襄国は広平郡に在るので、領地の現状追認を求めた事と、劉琨への対抗の意味。
(41)「王浚伝」によると、つぎのような謡があった。「幽州の城の門は蔵の扉に似てる、中に有るのは倒れて死んだ王彭祖。」
(42)「王浚伝」によると、直前の王浚と石勒のやりとりは次のとおり。王浚は石勒を罵倒して言った。「胡族の下僕が汝の主人を愚弄したな、何のまねだ、この極悪人が。」石勒は王浚の晋に対しての不忠を数え上げ、併せて粟五十万斛を倉庫に積み上げ、大衆は食糧が乏しく腹をすかしている事を知りながら、施しをしようとしなかった事を責めた。
(43)「王浚伝」によると、石勒は五百騎を王浚の監視に付けて先に襄国へ帰らせた、王浚の配下の選りすぐりの兵士一万を一箇所に集めて全員殺した。二日だけ停まり帰還した、孫緯は帰路を遮り攻撃したが、石勒は辛うじて逃げる事ができた。石勒は襄国に着くと、王浚を斬った、王浚は最期まで石勒に服従せず死ぬまで大声で罵倒し続けた。
(44)「裴憲伝」によると、石勒は平素から裴憲と荀綽の高名を聞き、襄国に召して考えを言った。「王浚は幽州で人道に背いた行為を行い、生者も死者も同じく憎んでいた。弧は天道を恭しく実行し、ここの多くの民衆を助け上げた、故郷を離れた人々は元の場所へ戻る事を皆が歓迎し、道を行き交って慶び感謝している。二君は等しく傲慢な権力を憎み、本当の誠実を拠り所に絶交した。禹に曝された防風(人名)の骨は、これから誰に帰すべきか?」裴憲の態度は揺るぎが無かった、涙ながらに答えて言った。「臣らは代々晋の繁栄を荷い、天子から手厚く恩恵を受けてきました。王浚は悪人で正義を憎んでいたが、まだ晋の遺した藩屏だったのです。どうして天子の教化をうけての、誠の心による義挙であったとしても喜べるのですか。周の武王は商の紂王を討伐する時に、紂王から罷免された商容を村里の門で表彰しましたが、商容が味方の商軍を攻撃した事を聞いた例が有りません。明公は王道による教化を欲せず人々を威圧し、必ず無慈悲な刑罰で統治を行うでしょう、曝された防風の骨から、臣は離れます。どうか道理に外れた官吏を近づけて下さい。」拝礼せず退出した。石勒は裴憲の態度を心底から賛美し、接客の礼でもてなした。石勒は役所の帳簿で調べさせた王浚の官僚や親族は、皆が巨万の財産を蓄えていた、ただ裴憲と荀綽は家に百余の書物の布袋と、十数斛の塩と米が有るだけだった。石勒は報告を受けると、考えを長史張賓に言った。「評判は嘘では無かった。吾は幽州を獲得した事は喜ばないが、二子を獲得した事は喜ばしい。」
(45)「段匹磾伝」によると、王浚の破滅に乗じて、段匹磾は撫軍大将軍として幽州刺史を兼任した。段匹磾は薊に進出したようだ。石勒は手に入れた幽州の食糧を失ったのだろう。石勒は王浚の滅亡後に幽州を支配した段部と再び対立する事になった。
(46)「孝愍帝紀」によると、建興元年(313)五月、鎮東大将軍・琅邪王司馬睿を侍中・左丞相・大都督陝東諸軍事とした。石勒は大都督陝東諸軍事・驃騎大将軍・東単于・侍中なので、琅邪王司馬睿とほぼ同じ地位が与えられた事になる。
(47)『魏書』「帝紀第一」によると、王浚の滅亡後に拓跋猗盧に対し羯族が石勒に呼応しては反乱を起こそうとしたが、未然に発覚して誅殺される事件が発生している。
王浚から邵續は楽陵太守に任命されていた。石勒が王浚を破ると、邵續は石勒に附いた。段匹磾が薊に在る時に、後の元帝への帰順を誘った、邵續は誘いに乗った。邵續は石勒の攻撃を懼れ、先に段匹磾へ救援を求めた、段匹磾は弟の段文鴦を派遣した。段文鴦の到着前に、石勒の率いる八千騎が邵續を包囲した。石勒は平素から鮮卑を畏れていたので、段文鴦の到着を聞くと、攻具を捨てて東方へ逃げた。邵續と段文鴦は安陵まで石勒を追撃したが、及ばなかった、石勒の任命した官人を虜にし、併せて三千余家を駆り立てた、また騎兵を石勒支配地の北辺に散開させ、同様に常山から二千家を掠めて帰還した。(「邵續伝」)
314年6月以前に邵續は晋側になっている。『資治通鑑』巻八十九では314年3月として記載されている。
(48)「劉聡載記」によると、劉聡の青州刺史の曹嶷が斉魯が平定し、全斉での割拠の意思を懐いた。石勒は劉聡に曹嶷が二心を懐いていると、討伐する事を要請した。劉聡は石勒が斉も併せて支配する事を嫌がり、要請を握りつぶして許可しなかった。『資治通鑑』巻八十九では315年3月として記載されている。
(49)「劉聡載記」によると、平陽は大飢饉となり、流出・離叛・死去で人口の五・六割が失われた。石勒は石越の率いる騎兵二万を派遣し、并州に駐屯させて、離叛者を慰撫し従わせた。劉聡は黄門侍朗の喬詩を使者とし石勒を咎めたが、石勒は命令を守らず、潜んで曹嶷と結びつき、鼎立の形勢を計画した。平陽は酷い飢饉となり、司隸の部人二十万戸が冀州を頼った、石越が招き寄せたからである。
(50)「劉琨伝」によると、拓跋猗盧の部が四散した。劉琨の子の劉遵は人質として拓跋猗盧の下に居たが、全ての人々が付き従った。こうして、劉遵と姫澹は拓跋猗盧の馬牛羊十万と、人々三万人を引きつれて、悉くを劉琨に帰順させた。楽平太守の韓據が救援を要請すると、悉く兵を発し、姫澹に歩兵騎兵の二万を領有させ前駆とし、劉琨自らが後継を務めた。
(51)「孝愍帝紀」によると、建興四年(316)十一月、考愍帝は劉曜に降伏した。考愍帝は平陽に連行された。劉聴は考愍帝に光禄大夫の位を与え、懐安侯とした。
(52)建興五年(317)三月、琅邪王司馬睿が晋王に即位した、建興五年を建武元年とした。世子司馬紹を晋王太子とした。
建武元年(317)六月、司空・并州刺史・廣武侯の劉琨、幽州刺史・左賢王・渤海公の段匹磾、領護烏丸校尉・鎮北将軍劉翰、単于・廣甯公の段渉復辰、遼西公の段疾六眷、冀州刺史・祝阿子の邵續、青州刺史・廣饒侯の曹嶷、兗州刺史・定襄侯の劉演、東夷校尉の崔毖、鮮卑大都督の慕容廆ら一百八十人が上書して、晋王に皇帝となるように勧進した。
同月、石勒の将軍の石季龍が譙城を包囲した、平西将軍の祖逖が攻撃して逃走させた。
同月、晋王司馬睿が石勒と石季龍の討伐に檄を飛ばし、北伐の宣言を行った。(以上「元帝紀」)
(53)「孝愍帝紀」によると、建興五年(317)七月、大旱になった、司・冀・青・雍等の四州では農作物が害虫に食べられた。石勒も害虫と競うように人々の収穫物を取った。時の人はこれを「胡蝗」と呼んだ。
(54)「元帝紀」によると、建武元年(317)九月、石勒は京兆太守の華譙を殺害した。
(55)東晋側が、また石勒に帰順を呼び掛けたらしい、北伐が失敗したので同士討ちに期待したと思われる。
(56)建興五年(317)十月、劉聡が上林で校猟を行った、考愍帝は行車騎将軍として戎服を着て戟を執って前導し、三駆の礼を行わされた。劉粲は劉聡に話して言った。「今、司馬氏は江東に割拠し、趙固と李矩は互いに助け合って同様に叛逆した、兵を興し聚める者は皆が子鄴を名目にしている、これを除かなければ、彼らの望みを断つことができない。」劉聡は同意した。(劉聡載記」)
建興五年(317)十二月、考愍帝は弑された、平陽で崩御した時には十八歳であった。(「孝愍帝紀」)
(57)「元帝紀」によると、太興元年(318)三月、孝愍帝が崩御した知らせが届いた。晋王司馬睿が皇帝に即位した。
(58)「劉曜載記」によると、卜泰は劉曜の妻の兄弟。
(59)「元帝紀」では「周撫」。太興元年(318)十二月、彭城内史の周撫が沛内史の周黙を殺害して反した。太興二年(319)二月、太山太守の徐龕が周撫を斬った。
(60)太興二年(319)四月、龍驤将軍の陳川が浚儀で叛いて、石勒に降った。太山太守の徐龕が太山郡で叛き、兗州刺史を名乗り、済岱を攻略した。(「元帝紀」)
徐龕は怒り、太山で叛き、安北将軍・兗州刺史を自称し、東莞太守の侯史旄を攻撃して破り侯史旄の塢壁に依った。石季龍が徐龕を討伐した、徐龕は懼れ、東晋へ降る赦しを求めた、元帝は許可した。(「蔡豹伝」)
(61)祖逖は兵を率いて陳川を討伐した、石季龍は五万の兵を領有して陳川を救援した、祖逖は奇略を設け石季龍を撃った、石季龍は大敗後に兵を纏めて予州を略奪した。(「祖逖伝」) 太興二年(319)五月、平北将軍の祖逖が石勒の将軍の石季龍と浚儀で戦闘に及んだ、晋軍は大敗した。(「元帝紀」)
(62)「邵續伝」によると、邵續は兄の子の武邑内史の邵存と段文鴦の率いる段匹磾の人々が食を得るため平原に向かったが、石季龍に破れた。
(63)「祖逖伝」によると、陳川を襄国を徙した、桃豹らを陳川の故城に留め、西臺に住ませた。
(64)「元帝紀」によると、太興二年(319)八月、徐龕が東莞を攻略した。十月、平北将軍の祖逖が督護の陳超に石勒の将軍の桃豹を襲撃させた、陳超は敗北し、戦陣に没した。