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晋書巻一百五
載記第五
石勒下 子弘 張賓
人物簡介

石勒(274〜333)は字を世龍といい、上党郡武郷県の羯族である。父は羯族の小部族の統率者の周葛朱、父の代まで羯族名を名乗っていた。少年時代から父の代理を務め、その統率力を発揮していた。若い時に恩恵を受けた漢族の郭敬を晩年まで優遇したり、初期からつき従った十八騎を高官に起用するなど義理がたい面がある。太安年間に奴隷として売られる辛酸を味わったが、持前の力量で這い上がり、傭兵から群盗となり、八王の乱では成都王陣営で戦闘に参加した。成都王の死後は、汲桑と晋朝に叛乱を起こしたが敗れ、漢王を名乗る劉淵に帰順した。初期は非漢族中心の軍団だったが、張賓などの君子営と呼ばれる漢族の反乱人士も内包した。洛陽が陥落して実質的で晋が滅ぶ頃には自立して割拠しようとした(載記第一の序では襄国に本拠を置いた時点で独立したとしている)。段部と講和し幽州の王浚を滅ぼした頃には、河北では最大勢力になった。靳準の乱で漢が混乱すると正式に独立して趙王を名乗った。漢を受け継いだ劉曜の前趙を滅ぼし皇帝となった。胡人と漢人の融和に心を配った。西晋を教訓として、石氏一族の結束を願う遺言を残すが、結局は後趙も西晋と同様に内紛の果てに滅亡する事になった。咸和八年(333)に死去した。享年六十、在位十五年。墓所は高平陵。諡号は明皇帝、廟号は高祖。

石弘(313〜334)は字を大雅といい、石勒の第二子である。母は程氏。幼時から父母の意向を尊び、他人を敬い、自分は慎ましくを心がけ実行した。杜嘏から五経を、続咸から誦律の教えを、劉徴と任播から兵書を授けられ、王陽から撃刺を教えられた。世子に立つと、領中領軍なり、すぐに衛将軍・開府となり、後に鄴を鎮守した。咸和五年(330)九月、石勒が皇帝を僭称すると、皇太子になった。咸和八年(333)七月に父が死ぬと帝位を継いだが、石虎の専横に対してなすすべがなかった。妻の劉氏は石虎に対する陰謀が発覚して殺された。咸和九年(334)十一月、石虎に禅譲を強いられると、海陽王となったが、母とともに崇訓宮に幽閉され、すぐに殺された。享年二十二、在位二年。

張賓(?〜322)は字を孟孫といい、趙郡中丘県の人である。父の張瑤は中山太守。張賓は少年の頃から学問を好み、広く学問の基本書や史書の読み、全般的な内容を把握し、心は広く小事に拘らず遠大な意志を持っていた。中丘王の帳下都督となったが、信任されず、病気により免職となった。石勒の器量を見抜いて自ら訪問して配下となると、数多くの優れた進言を行ったので、別格で扱われて謀主となった。策を出すべき時に必ず策を出し、立案した計略は失敗することがなく、石勒が建国の基盤を築けたのは、張賓の功績が大きかった。右長史・中塁将軍となり、太興二年(319)十一月、右長史・大執法になり、濮陽侯に封じられた。絶大な権勢を与えられて手厚い待遇を受けていたが、性格は控えめで素直だった。石勒から名前ではなく、「右侯」と呼ばれた。永昌元年(322)、卒した。石勒自身が葬儀に臨んで哭し、その後もその死を嘆いていた。散騎常侍・右光禄大夫・儀同三司が追贈された。諡号は景。

本文

太興二年(319)〔十一月〕、石勒は趙王を偽称した。斬刑以下を恩赦し、全ての国民に均しく田地の租税を半分にした。〔漢代に倣い目上の者によく仕え、耕作上手の者の〕孝悌力田と国の為に死んだ者の遺児などに等級を付けて絹織物を賜い、一人暮らしの老人や鰥夫や寡婦には一人に三石の穀物を賜い、国内の民衆には七日の大酒宴を許した。春秋時代の列国や前漢初期の侯や王が代替わりごとに元年と言っていた前例に従って、〔自分の領域内で東晋や漢趙の年号を用いず〕この年を趙王の元年とした。〔後趙の〕社稷の建設と宗廟の創立と東西の宮殿の造営を始めた。従事中朗の裴憲、参軍の傳暢、杜嘏をいずれも経学祭酒を兼任させ、参軍の続咸と庾景を律学祭酒に、任播と崔濬を史学祭酒に任命した。中塁将軍の支雄と遊撃将軍の王陽をいずれも門臣祭酒を兼任させ、胡人の訴訟に専任させた。門生主事には張離、張良、劉群、劉謨を任命して胡人の移動を管理させた。高級官僚や貴族を侮辱できないように法で禁じ、法を犯す者を重罪にした。胡人を国人と呼ばせた。農業を振興させるために、使者を派遣して州郡を巡行させた。張賓に大執法を加官し、朝政の全てを任せ、官僚の首位とした。石虎を単于元輔・都督禁衛諸軍事に任命した。前将軍の李寒に司兵勲を兼任させ、国子に戦場での戦い方を教授させた。記室の佐明楷と程機に上党国記を書かせた。中大夫の傳彪、賈浦、江軌に大将軍起居注を書かせた。参軍の石泰、石同、石謙、孔隆に大単于志を書かせた。これからは朝廷で会う場合には、威儀を正し冠を付けて臨む事を原則とし、天子の礼で、楽を奏し饗宴を行う事とした。臣下達は論功行賞を議論することを願い入れると、石勒は言った。「孤が挙兵してから、十六年(305〜320)になる。文官や武官、将軍、兵士で孤の征伐に従軍した者たちで、弓矢や投石を物ともせずに立ち向かわなかった者は誰もいない。経験した苦労や困難の中でも、葛陂における軍役の功績が最大であり、宜しくこの軍役についた者を論功行賞の一番最初に行え。まだ生存している者には、爵位封土を功績や位階に随って与えよ。従軍して死亡した者の遺児には、論功行賞として一等級上の位を与えよ。傍系の家族は生存か死亡かを調べて慰労せよ。これが孤の心である。」また国人に命令書を出して、兄の喪中に兄嫁の承諾を受けずに弟が兄嫁と結婚する事を禁じた。遺体を火葬することは本来の風俗のままでよいとした。

〔太興三年(320)二月、〕孔萇が邵続の本隊以外の陣営十一全てを攻め落とした。すぐに邵続も石虎に捕獲されて襄国に送られた(1)。劉曜の武将の尹安と宋始が洛陽を占拠して石勒に降伏した。

晋の徐州刺史の蔡豹が檀丘の徐龕を敗ると、徐龕は石勒に使者を派遣して謁見させ、蔡豹を討つ計画を述べて協力を要請した。石勒は部将の王歩都を徐龕の先鋒とするために派遣した、張敬には騎兵を率いらせて王歩都の後続とした。〔太興三年(320)五月、〕張敬が東平に到達すると、徐龕は張敬が自分を襲撃するのではと疑い、王歩都ら三百余人を斬り、また晋に降伏した。石勒は〔徐龕の行動に〕激怒し、張敬には拠点の守備を命じた。

〔太興三年(320)六月、〕大雨が降り続き、中山と常山が最も激しかった。滹沲で河から水が溢れ出し山や谷に衝撃を与え崩落させた。巨大な松が根元から抜かれて滹沲に浮かび東方の渤海まで流れ着いた。高所の乾いた土地から低く湿った土地の間に巨大な松が山の様に積み上がった。

孔萇が段文鴦の十余の陣営を攻め落としたが、孔萇は段文鴦の反撃に対して備えを怠り、段文鴦の夜間攻撃を受けて大敗し帰還した。

石勒は軒懸の楽と八佾の舞を制定し、金根大輅と黄屋左纛と天子車旗を作り上げた、ここで〔後趙の〕礼楽が始めて完備された。

〔太興三年(320)九月、〕石虎に歩兵騎兵四万を率いさせて徐龕を討伐させたが、徐龕は長史の劉霄を石勒に謁見させて、妻子を人質に送るといって降伏を申し入れると、石勒は降伏を受け入れた。このとき蔡豹は譙城に駐屯していたが、石虎が蔡豹を攻撃すると、蔡豹は夜に逃げ出し、石虎は封丘に城壁を築いて帰還した(2)

朝臣の属官より上の上級官の三百戸を襄国の崇仁里に徙して、公族大夫を置いて統率させた。石勒の宮殿から諸門までがようやく完成した、制定された法令は非常に厳格であり、なかでも胡と呼ぶことを最も厳しく禁じた。酔った胡人が馬に乗ったまま宮城に突入して車門で止められると、石勒は激怒し宮門の小執法の馮翥を詰問して言った。「人君の命令は、天下の全てに遍く行き渡っているのだ。まして宮城の門ではなおさらだろう!門に向って馬を馳せて入ったのは如何なる人物か、それから戻るようには言わなかったのか?」馮翥は怯え懼れ禁句を忘れて、答えて言った。「向こうから酔った胡人が馬に乗り馳せて入ったので、大声できつく責めて止めるような、声をかけられなかったのです。」石勒は笑って言った。「胡人とは、まさしく自分からは呼びかけ難い言葉だ。」許して罪とはしなかった。

石虎に岍北にて託候部の掘咄哪を攻撃させて、託候部の掘咄哪を大破し、牛馬二十余万を捕獲した。

石勒は〔九品官人法の〕上位五品の決定を張賓に任せて決定した。続いて九品まで決定し〔九品官人法を〕復活させた。張班を左執法朗に、孟卓を右執法朗に任命し、上流階級の一族を定めて統轄させ、官吏登用の任務を補佐させた。官僚たちと州郡に命じて、年ごとに秀才、至孝、廉清、賢良、直言、武勇の士を一人推挙するよう命令を出した。都部従事の職を作り、各州に居住している部ごとに担当者一人を任命し、秩禄は〔郡太守と同じ〕二千石で、職責は丞相司直に準じた。

石勒は令を下して言った。「去年(320)の洪水で大木があちこちに山積みとなっているが、これは孤の治世に皇天が宮殿を造営せよと欲しているからである!洛陽の太極殿に擬えて建徳殿を造営せよ。」従事中朗の任汪を派遣し職人五千人を使って材木を採取し建徳殿の造営に使った。黎陽の人の陳武の妻が一度に三男一女を生むと、陳武は妻子を引き連れて襄国に詣で書を奉り自ら述べた。石勒は書を下し、天地の陰と陽が調和して気が結びつき、本来の場所にあるので、この様な事が起きたとして、陳武の一家に乳母を一人、穀一百石、雑綵四十匹を賜った。

〔太興四年(321)四月、〕石虎が厭次の段匹磾を攻撃した。孔萇は段匹磾の部内の諸城を討って陥落させた。段匹磾の勢力は全く無くなり、その臣下に空の棺を輿に乗せさせて降伏した。石虎が段匹磾を襄国に送ると、石勒は段匹磾を冠軍将軍に、その弟の段文鴦と亜将の衛麟を左右の中朗将に任命し、みな金章紫綬とした。ほうぼうから離散し流人となった三万余戸を、本業に復帰させ、守宰を置いて慰撫したが、ここにおいて冀州、并州、幽州と遼西の巴西などの諸城は全て石勒によって陥落させられた。

この時晋の征北将軍の祖逖は譙を拠点に中原を平定しようとしていた。祖逖は投降者を受け入れ慰撫することに長じていたので、黄河以南の多くは石勒に背いて東晋に帰順した(3)。石勒は祖逖と戦うことを嫌がり、黄河以南を敢えて攻略せずに書を下し言った。「祖逖はたびたび辺境で紛争を起こした。祖逖は北州の名門であり、おそらく故郷を思慕して忘れていないだろう。幽州の祖氏の墳墓を修繕し墓守二家を置くことを命ず。祖逖が趙他のように恩に感じて乱暴な掠奪を止める事に期待する。」祖逖はこれを知ると甚だ悦び、参軍の王愉を石勒に派遣し、地方の名品を贈り、友好関係を結んだ。石勒は祖逖の使者を厚くもてなして、左常侍の董樹を派遣して、馬百匹、金五十斤を返礼として答えた。これより兗州と予州は平安となり、人々は休息の時を得た。

従事中郎の劉奥が建徳殿の造営で天井の木が斜めに縮んだ事の連帯責任を問われて、殿中で斬られた。石勒は劉奥を斬ったことを後悔して、太常を贈位した。

建徳校尉の王和が円形の石を掘り出した、銘文は「秤の基準の石、重さは四釿、同様に度量衡の基準、有新氏が造る。」と書かれていた。意味を議論してもよく判らず、ある者はこれを〔石氏の〕瑞祥とした。参軍の続咸が言った。「王莽の時代の物です。」この時は兵乱の後で、度量衡の基準となる物は消滅していたので、遂には礼官に命令を下し、これを基準に度量衡が定められた。また一鼎を得たが、容量四升で、中に大きな銭が三十で「百当千、千当万」の文があり、鼎銘十三字は篆書だったがはっきりと判らず、永豊倉に入れられた。これによって銭を公私に発行させる命令を出したが、しかし人々はこれを歓迎しなかったので、政府は公の絹を市場で売買させようとして、中絹一匹が千二百銭、下絹が八百銭だった。しかし一般の人々は中絹一匹を四千銭、下絹を二千銭で買った。これを利用して利益を得ようと、私的に市場で安く銭で買い、高く売った役人がいて、刑死者は十数人になり、最終的に銭を発行しなかった。石勒は洛陽の銅馬と〔阮〕翁仲の二像を襄国に徙して、永豊門に並べた。

祖逖の牙門の童建が新蔡内史の周密を殺害して、石勒に使者を派遣し投降した。石勒は童建を斬り、首を祖逖に送って言った。「天下の悪とはどこでも同じだ。叛乱した臣下や逃亡した官吏は、吾にとっても深い仇であり、将軍の悪は、なお吾の悪である。」祖逖は感謝の使者を派遣した。この事件から兗州と予州の間の城砦の叛逆者を祖逖は受け入れなかった、二州の大多数のひとは両方に所属した(4)

石勒は武郷の古くから尊敬されているお年寄りを襄国に招いた。〔彼らが〕やって来ると、石勒は親しく故郷のお年寄りと同座して楽しく飲むと、話は生い立ちに及んだ。初め、石勒と李陽は隣に住んでいた、いつも麻をひたす(洗濯)池を取り合い、相手を殴って追い出しあっていた。昔話から長老に質問して言った。「李陽は命知らずだったのに、何故来なかったのだ?麻を浸している(麻を着る)平民の頃の恨みなど気にするものか、孤は今や天下から崇められているのだ、喜んで復讐するような匹夫ではないぞ!」そして李陽を召し出した。李陽がやって来ると、石勒は酒宴を楽しみ、李陽の肘を引っ張り笑いながら言った。「孤は昔、卿のよれよれの拳骨が嫌だったが、卿も孤のきつい拳骨を飽きるほど喰らっただろう。」そして李陽は立派な邸宅を一区画を賜わり、参軍都尉を拝命した。令を出して言った。「武郷は、吾〔にとっては漢の高祖〕の豊や沛である、万歳の後に、魂霊はそこに帰って行く、来世もそこで生まれるだろう。」石勒は多くの人々の産業は再開されたばかりで、国庫もまだ豊富ではないとして、ここで重く酒の醸造を禁じ、郊祀や宗廟にも甘酒を用いたが、数年間施行され、その間は醸造を誰もしなかった。

まもなく石虎は車騎将軍に任命され、三万の騎兵を率いて離石の鮮卑欝粥を討伐し、捕獲した牛馬は十余万に及び、欝粥は烏丸に逃げ込み、石虎はその悉くの軍勢と城を降した。

これ以前、石勒の世子の石興が死んでいたが、このとき子の石弘が世子に立てられて、中領軍を兼任した。

石虎に中外の精鋭の兵士四万を統率させて徐龕の討伐に派遣したが、徐龕は守備を固めて戦わなかったので、住居を築いて一部の兵士を耕作に帰還させ、切れ目なく包囲して戦いになるまでを待った。〔永昌元年(322)四月、〕晋の鎮北将軍の劉隗が石勒に投降したが、石勒から鎮南将軍を拝命し、列侯に封じられた(5)。〔七月、〕石虎は徐龕を攻め陥として、〔徐龕を〕襄国へ送った。石勒は徐龕を袋に入れて百尺の高さの城壁上の建物から放り投げて殺し、徐龕に殺された王歩都らの妻子に徐龕の肉を裂いて食べるように命令し、徐龕の降伏した兵士三千人は生き埋めにされた。晋の兗州刺史の劉遐は懼れ、鄒山から後退して下邳に駐屯した。〔八月、〕琅邪内史の孫黙が琅邪郡ごと東晋に叛して石勒に降伏した。徐州と兗州の間の城砦の多くは人質を送って降ることを願い入れると、みな石勒から守宰を拝命した。

清河郡の人の張披は程遐の長史になり、程遐は張披と非常に親密であったが、張賓が推挙して〔張披を州の〕別駕とし、引き上げて政事に参加させた。程遐は張披が己の下から去った事を深く恨み、また張賓の権勢を嫉妬していた。石勒の世子の石弘は程遐の甥であり、石弘の応援を頼りに朝廷で重きをなして、権力を掌握しようとし、そして石弘の母に張賓と張披を陥れようと訴えさせてこう言わせた。「張披と張賓は権力の無い者に義侠心を発揮していて、門前を訪れる客は毎日百余乗で、世間の期待はここに集まっていますが、〔まるで侠客の親分と食客の様になっていて、〕こんなことは社稷にとっての利益ではありませんので、宜しく張披を排除する事は国家(石勒)にとって都合がよいでしょう。」石勒は同意した。そして、張披が取り急ぎで召し出した時に、すぐに来ないことがあり、遂に石勒はこれを理由に張披を殺した。張賓は程遐が石勒との関係を絶とうとしているのが判っていたので、最後まで程遐に対して自分から許しを請う事はしなかった。まもなく、〔張賓が死去すると〕程遐は右長史となり、朝政の全てを取り仕切るようになり、それから朝臣で懼れ慄かなかった者はなく、みな程氏の所に駆けつけた。

〔太興四年(321)九月、〕祖逖が卒すると、石勒は国境の陣地を侵略し始めた。石勒の征虜将軍の石他は晋軍を酇の西にて敗り、将軍の衛栄を執えて帰還した。〔永昌元年(322)十月、〕征北将軍の祖約は懼れ、寿春に後退した。石勒の領域内で疫病が大流行した、十人に二、三人の死者が出たので、徽文殿の造作をやめた。その将軍の王陽を派遣し予州に駐屯させたが、天下を平定するだいそれた野望を持ったからであり、ここに戦乱は日に日に激しくなり、梁と鄭の間は騒然となった(6)

また石虎に内外の歩兵騎兵四万を統率させ曹嶷の討伐に派遣した(7)。これ以前、曹嶷は議論し東晋の勢力圏に移動しようと、根余山を保持していた、ひどい疫病にでくわして、計画を実行できなかった。石虎は兵を広固に進めて包囲し、東萊太守の劉巴、長広太守の呂披は郡ごと降伏した。そして石他を征東将軍にして、河西の羌胡を攻撃させた(8)。〔太寧元年(323)八月、〕左将軍の石挺が広固へ増援に赴くと、曹嶷は降伏し、襄国に護送された。石勒は、曹嶷を殺し、その配下の人々三万を穴埋めにした。石虎が曹嶷の配下だった人たち全てを殺そうとしたとき、石勒の青州刺史の劉徴が言った。「今ここで徴が留まっても牛馬の牧人で、統治する人のいない州牧なら、徴は帰還しましょう。」石虎はこれに対して、男女七百人を殺さず劉徴に配し、広固を鎮守させた。青州の諸郡県の城砦は全て陥落した。

石勒の司州刺史の石生が晋の揚武将軍の郭誦の陽翟を攻撃したが勝利できず、襄城に進軍して掠奪を行い、千余人を捕虜にして帰還した(9)

石勒は参軍の樊坦の清貧に対し、抜擢して章武内史を授けた。樊坦が宮殿に入り辞令を受けると、石勒は樊坦の衣冠が酷く傷んでいるのが判った、驚き大声で言った。「樊参軍はどうしてそんなに貧しいのだ!」樊坦の性格は誠実で素朴だったので、率直に答えた。「近頃の羯賊による社会の混乱に遭遇して、資財を使い果たしてしまいました。」石勒は笑って言った。「羯賊に汝は酷く掠奪されたのか!今は相応に償うべきだ。」樊坦は〔羯賊と失言したことから石勒の怒りを買ったと思い〕酷く怯え、叩頭して泣いて謝った。石勒は言った。「孤は低俗な人物を近づけないように心掛けていて、卿のような高齢の儒学者を受け入れる門は閉ざしてはいないのだ。」樊坦に車馬と衣服装代の三百万銭を賜い、〔権力の無い者でも高官になれる事を示し、〕民衆の願望を満足させた。

〔太寧元年(323)三月、〕石勒の将兵都尉の石瞻が下邳を攻略し、晋の将軍の劉長を敗り、遂に蘭陵を攻略して、また彭城内史の劉続を敗った。東莞太守の竺珍と東海太守の蕭誕は晋に叛き郡ごと石勒に降った。

石勒は大小学を直々に訪れて、諸学生の経書の解釈の審査をし、優秀な者に順位をつけて帛を賞品とした。石勒は文献を学ぶ事がとても好きであり、遠征の最中でも、常に儒学者に史書を読ませて考察していて、いつも古の帝王の善悪を論じて見解を述べ、朝廷に使える賢明な儒者はこれを聴いて賛美しない者はいなかった。あるとき人に『漢書』を読ませたが、酈食其が六国の後裔を立てる事を勧めると、大いに驚き言った。「これは的を得ない方法だ、どうやって最後には漢の天下が成立したのだ!」留侯(張良)の諫める所まで読み進むと、言った。「これのおかげだね。」その生来の賢明な洞察力はこのようなものだった。

石勒は徐州と揚州で徴兵して、下邳にいる石瞻に合流させると、〔太寧2年(324)二月、〕劉遐は懼れ、また下邳から泗汭に逃走した。

石生が劉曜の河内太守の尹平の新安を攻撃して斬り、城砦十余に勝利し、降伏した五千余戸を掠奪して帰還した。この時から劉氏と石氏は戦争状態になり、毎日兵士は戈を交え、河東と弘農の間の人々はどうすることも出来なかった。

右常侍の霍皓を勧農大夫とし、典農使者の朱表と典勧都尉の陸充らに州郡を巡回させ、戸籍を確定し、農業と養蚕を奨励し課税した。農業と養蚕の最優秀者に五大夫の爵位を賜った。

石生に延寿関から出撃させ許昌と潁川を攻略させ、捕虜は万余、降伏者は二万、石生は遂に康城を攻め陥とした。晋の将軍の郭誦が石生を追撃して、石生を大敗させ、石生は千余の死者を出した。石生は敗兵を集め、康城に駐屯した。石勒の汲郡内史の石聡は石生の敗北を聞くと、馳せて救助に向かい、郭黙に攻め進み、男女二千余人を捕虜にした。石聡は晋の将軍の李矩と郭黙らを攻め敗った(10)

石勒が近郊で狩りを行おうとすると、主簿の程琅が諌言した。「劉氏と司馬氏の刺客は林に潜み、急いで動けば事故も起き、帝王といえども一人に倒されるのです。孫策が刺客の傷で死んだ事に思い至らないのですか!かつ枯木や朽株でさえ害を与えるのですから、暴走の弊害は、今も昔も戒められています。」石勒はむっとして言った。「吾は自分の体力は承知しているし、出来ることしかやらない。卿は文書で知っているだけだから、そんなことは言わなくて良い。」この日野獣を逐い、乗った馬が木に接触して死に、石勒も同様に危うかったので、言った。「忠臣の発言を不用としたのは、吾の過ちである。」程琅に朝服と錦絹を賜い、関内侯の爵位を与えた。そのため朝臣は謁見すると、忠言を競って進言するようになったのである。

晋の都尉の魯潜が叛き、許昌が石勒に降った。〔太寧三年(325)四月、〕石瞻が晋の兗州刺史の檀斌の鄒山を攻め陥とし、檀斌は戦死した。石勒の西夷中朗将の王勝が并州刺史の崔琨と上党内史の王眘を襲撃し、并州ごと石勒に叛いた。これ以前に石虎は石梁の劉岳を攻撃し、石梁は〔包囲され最終的に〕潰滅し、〔その後、太寧三年(325)六月、新安で〕劉岳は執えられ襄国へ送られた(11)。石虎はまた并州で王勝を攻撃して殺した。李矩は劉岳が敗北して〔石梁で包囲されると〕、懼れ、再び東晋に栄陽から逃げ帰ろうとした。李矩の長史の崔宣は李矩の率いた二千の兵たちと石勒に降伏した。ここに司州・兗州の地と徐州・予州の淮河沿岸の諸郡県は全て石勒に降伏した。

石勒は洛陽の日時計を襄国に徒して、単于庭に並べた。王業の功臣三十九人の功績を刻み付け石函に収め、建徳前殿に置いた。桑梓苑を襄国に建立した(12)

石勒が夜にお忍びで、衛兵を監察しようとして、門衛に絹織物や金銀を賄賂に贈り城外に出られるか試した。永昌門の門番の王仮は石勒と知らず逮捕しようとし、従者がやって来て止めさせた。翌朝、王仮を召し出して振忠都尉とし、関内侯の爵位を与えた。石勒は宛郷へ行くと、記室参軍の徐光を召し出したが、徐光は酒に酔いつぶれてやって来なかった。徐光の酒の密造に日頃から不満を抱いていたので、これに怒りを爆発させ、牙門に降格させた。石勒が宛郷から鄴へ行くと、徐光は側近として随行したが、怒りに任せて袂を振り乱し、自分の行為を反省していなかった。石勒はこの態度を嫌悪し、徐光を咎めて言った。「卿が〔自分のした事を棚に上げて〕不満を訴えるとは何事だ!」これで徐光はその妻子と共に〔酒の密造の罪で〕牢獄に入れられた。

石勒は鄴に宮殿を造営しようとしていたが、また世子の石弘に鄴を鎮撫させようと、程遐と共に秘密の計画もしていた。石虎は功績が大きい事を自負し、鄴の守護の基礎を造ったこともあり、もとより鄴を退去する意思は無かった。三台に〔石虎の〕屋敷が出来上がると、家族と共に移ることになって、石虎は深く程遐を恨み、直属の数十人を夜間に程遐の邸宅に押し入らせ、程遐の妻女を暴行して、衣服や家財を掠奪して〔鄴を〕去った。石勒は石弘に鄴を鎮撫させると、禁軍の兵士一万人を割り当てた、車騎将軍(石虎)の統率する五十四営の悉くも割り当てられて、驍騎将軍、領門臣祭酒の王陽を六夷の統率の専任者とし石弘の補佐をさせた(13)

〔咸和元年(326)十一月、〕石聡が寿春を攻撃したが、勝利出来ず、その後に逡遒と阜陵で掠奪を行い、五千余人が殺されたり連行されたりしたので、東晋の都の建康は大きく動揺した(14)

〔咸和元年(326)十二月、〕済岷太守の劉闓、将軍の張闔らが東晋に叛き、下邳内史の夏侯嘉を殺害して、下邳は石生に降った。

石瞻が邾にて河南太守の王羨を攻撃し、陥落させた。

龍驤将軍の王国が〔東晋に〕叛き、南郡ごと石勒に降った(15)。晋の彭城内史の劉続が再び蘭陵と石城を拠点としたが、石瞻が攻撃し、陥落させた。 。

石勒は州と郡に命令を出したが、墳墓を発掘したままにして土を覆わない者は良く調べて告発せよ、暴露された骸骨は県が棺と死者の衣を準備して埋葬せよというものだった。牙門将の王波を記室参軍とし、〔後趙王朝の〕九つの中央官庁を定め、秀才と孝子を採用する時に経の試験を行うことが制度として始められた(16)

茌平令の師懽が黒兎を捕獲して、石勒に献上したが、程遐らは石勒に見解を表明した。「龍飛革命の瑞祥で、これは晋の金徳を水徳で継承する事を表していて、兎は陰精(月)の動物、黒は水徳の色を表し、これは殿下が速やかに天と人の希望に副うことを示しています。」ここに大赦を行い、咸和三年(328)を太和の年号にすることに改めた(17)

石堪が寿春の晋の予州刺史の祖約を攻撃し、淮河上流に軍を駐屯させた。〔咸和三年(328)四月、〕龍驤将軍の王国が〔東晋に〕叛き、南郡ごと石堪に降った。南陽都尉の董幼が叛き、襄陽の人々を率いて同じく石堪に降った(18)。祖約の諸々の将軍や補佐官は密かに石勒に使者を派遣し帰属しようとしていた。〔七月、〕石聡と石堪が淮河を渡り、寿春を陥落させると、祖約は歴陽に敗走し、寿春住人の二万余戸が石聡の支配下に入った(19)

〔咸和三年(328)七月、〕劉曜は高候で石虎を敗り、〔八月、〕遂に洛陽を包囲した。石勒の滎陽太守の尹矩、野王太守の張進らはみな劉曜に降伏し、襄国は大きく動揺した。石勒は自身で洛陽の救援に赴こうとしたが、左右の長史、司馬の郭敖、程遐らが強く諫めて言った。「劉曜は勝ちに乗り意気盛んで、彼らの鋭い勢いに戦い勝つ事は困難であり、金墉は食糧も豊富で、攻撃を続けながら未だに抜けません。劉曜は千里も敵地に深入りし、その勢いを長く保持する事は出来ません。ご自身で動くのは良くありませんので、ご自身で動くことは万全ではなく、天下平定の大事業が遠ざかります。」石勒は激怒し、剣を手にかけ程遐らを叱責して追い出した。この際に徐光を赦免し、召し出して考えを言った。「劉曜は高候での勝利の勢いに乗って、洛陽を包囲して防御しているが、平凡な人の考えではその鋭い勢いの兵と戦ってはならないという。だがしかし劉曜は十万の鎧を着けた兵がありながら、一城を百日も攻撃して勝利できず、率いる兵士たちの殆どは疲弊し、我が鋭い一撃を彼らに与えれば、一度の戦いで、劉曜を擒にできよう。もし洛陽を保持出来なければ、劉曜は必ず冀州を葬り、黄河以北を席巻して、南に向かい、わが事業は終わるだろう。程遐らは吾自身を行かせたくないが、卿なら如何にする?」徐光は答えて言った。「劉曜は高候での勝利の勢いに乗りながら襄国に向かって進軍出来ず、交代で金墉を包囲し続けていますが、これはそれだけの能力が無いからです。敵地に深く入った場合は過去も現在も未来も、侵略の利点は存在しないのであり、もし天子の鸞旗を掲げて親征すれば、必ずや旗を遠くから見ただけで逃げ出すでしょう。天下平定の計は、この一挙にあります。今のこの機会は、いわゆる天が授けたもの、天の授けた機会に応えなければ、禍を集める事になります。」石勒は笑って言った。「光の言うことが、正しい判断だ。」仏図澄もまた石勒に考えを言った。「もし大軍が出陣すれば、必ず劉曜を擒に出来ましょう(20)。」石勒はより一層悦び、全土に非常事態を宣言し、諌言する者は斬るとした。奇襲のために声を起てず軽装で素早く行軍し抜け道を進軍路にして、〔洛水を渡り〕鞏と訾の間に出た(21)。劉曜が城西に十余万を布陣しているのを知ると、ますます悦び、側近に考えを言った。「我は祝宴を挙げられるぞ!」石勒は歩兵騎兵四万を統率して宣陽門から洛陽に入城し、かつての太極前殿に昇った。〔十二月二十一日、〕石虎の歩兵三万は城北から西へ向かい、劉曜の中軍を攻撃し、石堪、石聡らは各々精鋭の騎兵八千で、城西から北へ向かい、劉曜の前鋒を攻撃し、西陽門で大会戦となった。石勒は自ら甲冑を身に付けて、閶闔から出撃し、劉曜の軍を挟撃した。劉曜の軍は大潰滅し、石堪は劉曜を執らえ(22)、劉曜が護送されると軍は無抵抗になり、五万余級を斬首し、金谷に死体が横たわった。石勒は命令を下し言った。「擒にしたかったのは一人のみ、今すでにこれを捕獲したので、我々との戦いを後悔し戦いをやめた将兵で、故郷への帰還をする者を追撃するな。」そして軍の向き先を変えた。征東将軍の石邃に騎兵を率いさせ劉曜の護衛をさせて北へ向かわせた(23)

〔咸和四年(329)正月、〕この時になると、挙兵した祖約は敗北したが、石勒に降ると、石勒は王波を派遣し咎めて言った。「卿は主君に叛逆して進退きわまり、当方に亡命し帰順したが、吾朝がどうして罪びとの逃げ込む藪であろうか?しかしながら卿は面と向かうと人らしい面目を持っているので、敢えて受け入れよう。」祖約に今までの〔後趙に敵対する〕檄書を示してから、亡命を許可した。

〔咸和四年(329)二月、〕劉曜の子の劉熙らは長安を去り、上邽に逃走したが、石虎を追討に派遣した(24)

石勒は冀州諸郡を巡行し、高年、孝悌、力田、文学の士を呼び寄せ謁見し、穀物と帛を等級を付けて恩恵として分け与えた。遠近の刺史や太守に命令し、自分の管理する城内や諸所が欲することを話すように申し渡し、はばかって隠すことがあってはならないとし、正しい言葉をこけおどしで黙らせても区々に使者を派遣するので朝廷は知ることが出来ることも付け加えた。

〔咸和四年(329)九月、〕石虎は上邽で勝利し、主簿の趙封を派遣し伝国の玉璽、金璽、太子玉璽を各ひとつ石勒に送った。石虎は河西の集木且羌に攻め進み、勝利し、数万を捕獲し、秦隴地方の悉くを平定した(25)。涼州牧の張駿は大いに懼れ、石勒に使者を派遣し地方の特産物を貢物にして称藩した。氐と羌の十五万落を司州や冀州に徙した。

石勒の群臣が議論したが、石勒の建てた国は興隆し、吉兆も同様に対応しているとし、宜しく革命の時の徴に応え天と地の要望に副うように結論したので、ここに石虎らは皇帝の璽綬を奉じ、尊号を石勒に献上したが、石勒は許さなかった。群臣が固く要請すると、石勒は咸和五年(330)に趙天王を僭号し、行皇帝事となった(26)。尊んで祖父の邪を宣王とし、父の周を元王とした。妻の劉氏を王后に立て、世子の石弘を太子とした。任命して、その子の石宏を持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・大単于とし、秦王に封じた、左衛将軍の石斌(27)を太原王とし、小子の石恢を輔国将軍とし、南陽王に封じた、中山公石虎を太尉・守尚書令・中山王とし、石生を河東王とし、石堪を彭城王とし、そして石虎の子の石邃を冀州刺史とし、斉王に封じ、散騎常侍・武衛将軍を加号し、石宣を左将軍とし、石梃を侍中・梁王とした。左長史の郭敖を尚書左僕射に、右長史の程遐を尚書右僕射・領吏部尚書にし、左司馬の夔安、右司馬の郭殷、従事中郎の李鳳、前郎中令の裴憲を尚書に任命し、参軍事の徐光を中書令・領秘書監に任命した。文官や武官の論功で封爵、開国した者は郡公二十一人、郡侯二十四人、県公二十六人、県侯二十二人、そのほか文官や武官に各々等級をつけて任命した。侍中の任播らが議論に参加し、趙は晋の金徳を受け継いだ水徳とし、旗と幡は真黒を、宗廟に捧げる牡は真白を用い、土地神を祭る廟を北に、冬至後の臘祭の場所を北東に置くように結論すると、石勒はこれに従った。石勒は書を下し言った。「これからは疑問のある重大事があれば、尚書の高官八人から〔皇帝が〕委任して行かせた丞や郎まで東堂に集まり、詳しく調べて公平に表決せよ。その国の軍事に必要があれば必ず上申し、僕射尚書は部署の専門官を随え陳述し、寒暑や早朝夜間を理由に遠ざけてはいけない。」

石勒は祖約が本朝に不忠であったとして、誅殺し、その諸子や甥から親属百余人に及んだ(28)

〔咸和五年(330)九月、〕群臣が石勒に宜しく皇帝に即位することを固く要請すると、石勒は即位し皇帝を僭称し、領域内で大赦を行い、建平と改元し、都を襄国から臨漳に遷した。追尊してその高祖を順皇帝とし、曾祖を威皇帝とし、祖父を宣皇帝とし、父を世宗元皇帝とし、母を元昭皇太后とし、文官や武官の封爵進位は各々違いがあった。その妻の劉氏を皇后に立て、また昭儀、婦人を定め位は上公に準じ、貴嬪、貴人は列侯に準じ、定員を各一人とし、三英、九華は伯に準じ、淑媛、淑儀は子に準じ、容華、美人は男に準じ、賢淑から選ぶことに務め、定員の数は限度を付けなかった。

〔咸和五年(330)八月、〕石勒の荊州監軍の郭敬、南蛮校尉の董幼が襄陽を攻略した。石勒は駅馬で勅書を送り郭敬を後退させ樊城に駐屯させ、軍列の使う旗と幟はしまわれ隠され、彼らの観察に人を使わせれば、まるで人のいないようであり、石勒は郭敬に告げて言った。「攻撃は自重して堅く守れば、七八日後に大騎馬隊がやって来るだろうから、再び策を得るために使者を走らすことは無い。」郭敬は人を使い渡し場で馬に水浴びをさせ、周りもまた始め、昼夜絶えなかった。間諜が偵察から還り南中郎将の周撫に告げた、周撫はこのことから石勒の大軍が来るとして、懼れて武昌に逃走した。郭敬が襄陽に入ると、軍に私的な掠奪は無く、人々は安堵した。晋の平北将軍の魏該(故人)の弟の魏遐が魏該の配下だった兵を連れて石城から郭敬に降った(29)。郭敬は襄陽の城壁を破壊し、その人々を沔北に遷し、樊城に城壁を築き国境の守りの駐屯地とした。

秦州休屠の王羌が石勒に叛くと、刺史の臨深は司馬の管光に州軍を統率させて討伐させたが、王羌に敗れ、隴右は大騒ぎになり、氐羌の悉くが叛いた。石勒は石生を隴城へ進軍させ拠点にした。王羌の兄の子の王擢は王羌に大きな恨みがあったので、石生は王擢に王羌の領地を与え、一緒に王羌を攻撃した。王羌は敗北して、涼州に落ち延びた。秦州の平定した豪族の五千余戸を雍州に徒した。

石勒は書を下し言った。「今より諸々あった処罰の方法は、悉く法令に依れ。吾の憤りで殺されたり、腹立ちから処罰を受けた者の中で、もしかしたら品性や地位が衆に抜きん出た者を、規則上妥当ではなかった罰を下したかもしれず、あるいは父が思いもかけず罰を受け、労役や軍役で死んで孤児と為った者がいるかもしれないので、門下省の各人は全てを書き並べて奏上せよ、吾に思い当たる者があれば救済する(30)。」堂陽の人の陳豬の妻が一度に三人の男子を産むと、陳豬に衣服、織物、官よりの食糧、下女一人、を賜い、また三年の軍役を免除した。この時高句麗、粛慎から桔矢がもたらされ、宇文屋孤も一緒に名馬を石勒に献上した。〔咸和五年(330)十二月、〕涼州牧の張駿は長史の馬詵を派遣し地図を奉り、高昌、宇窴、鄯善、大宛の使者を連れて地方の名産を献上した(31)。晋の荊州牧の陶侃は長史の王敷を石勒に返礼と友好に派遣し、江南の珍宝奇獣をもたらした(32)。秦州から白獣、白鹿が送られ、荊州から白雉、白兎が送られ、済陰で木が連理となり、苑郷で甘露が降った(33)。石勒は瑞詳が次々にもたらされ、遠方から義を慕って人々がやって来たので、三年の刑以下を恩赦し、人々の去年の納められていない税を均一にし、涼州の斬刑を特赦し、涼州の官吏の調査官はみな郎中を拝命し、絹十匹、綿十斤を賜った。石勒は南郊で天を祭ると、白気が壇から天に繋がったので、石勒は大いに悦び、宮殿に還ると、四年の刑を恩赦した。使者を派遣し張駿を武威郡公に封じ、涼州の諸郡を食邑とした。石勒は天子として儀式用の田を耕し、宮殿に還ると、五年の刑を恩赦し、その公卿以下に金帛を等級をつけ賜った。〔咸和六年(331)三月一日、〕石勒は日食に、正殿を三日避け、諸大臣に命じ各自に密封して上奏させた。州郡の諸祠堂の国家の制度で無いものは禁じ取り除き、その能く雲を興し雨をもたらす、人々に有益なものは、郡県に祠堂を新調させ、縁起の良い木を殖え、五岳四川を手本にしてそれ以外を等級を付けて祭った。

石勒が鄴に宮殿を造営しようとすると、廷尉の続咸が書を上げ厳しく諫めた。石勒は激怒し言った。「この老臣を斬らねば、朕は宮殿を得られない!」御史に命じ収監させた。中書令の徐光が進み出て言った。「陛下は生来の英邁さは尭や舜を超えておりますが、それなのに忠臣の言葉を聞こうとせず、どうして夏の桀王や商の紂王の様な無道の君主に変わられたのですか?続咸の言葉が用いられれば用い、用いられないからといって、どうしてすぐに直言した列卿を斬るのですか!」石勒はため息をつき言った。「人君はこの程度の我儘も出来ないのか!どうして私がこれが忠言だと判らないと思うのか?ふざけただけだ。人は家に百匹の資産があれば、市場で売って別宅を欲しがるのだ、いわんや天下の富を有し、万乗の尊位にいるのだぞ!最後の仕上げに宮殿の営繕をするのは当然だ。かつ造作の停止の意見は、吾の直臣ゆえの心情が成したのだ。」よって続咸に絹百匹、稲百斛を賜った。また書を下し公卿や官僚達に命令して毎年推薦させている賢良、方正、直言、秀異、至孝、廉清から、答策上第は議郎を、中第は中郎を、下第は郎中を、各一名ずつ拝命させた。その選抜された人から順番に引き立て、広く賢人を呼び集め権力のある地位につけた。明堂、辟雍、霊台を襄国の城西に建てた。この時、大雨が降り続いて、中山の西北で洪水になり、巨木百余万本が漂流し、堂陽に集まった。石勒は大いに悦び、公卿に考えを言った。「諸卿は判らないのか?これは天災ではなく、天は吾に鄴都を造営させたいのだ。」ここで少府の任汪、都水使者の張漸らに鄴宮の造営を監督させ、石勒は自身で規模を指図した。

蜀の梓潼、建平、漢固の三郡の蛮と巴が石勒に降った。

石勒は周の中心地で、漢と晋の旧都の洛陽に、また都を移したいと考え、命令を下し洛陽を南都とし、行台治書侍御史を洛陽に置いた。

石勒は高句麗、宇文屋孤の使者と饗宴を行い、ほろ酔いして、徐光に尋ねて言った。「朕は古代からの王朝を開いた君主の誰と同等かな?」答えて言った。「神のごとき武力に長期を見据えた計画は高皇(劉邦)の前を行き、人並み優れた才能は魏祖(曹操)をはるかに見下ろし、夏商周の三王から今まで比較できる者がいませんので、黄帝と同じでしょう!」石勒は笑い言った。「人がどうして自分を判らない訳があろうか、卿の言う事は大げさだ。朕がもし高皇と遇えば臣下となって仕え、馬を鞭打って韓信や彭越と先を争うだろう。かりに光武(劉秀)と遇えば、中原に競って馬を走らせ、どちらが鹿をしとめるかは判らない。意志が強くて、立派な男は、陰に隠れず日と月の光がはっきりしているように、やる時には群がって城壁をよじ登る敵に石をぶつけて全員を叩き落とすようにやるもので、曹孟徳や司馬仲達父子のように、他人を欺き、孤児や寡婦に媚びて天下を横取りする真似などは、最後まで出来ない。朕は二劉(劉邦と劉秀)の間だろうに、黄帝にどうして擬えられるか!」群臣なみ頓首し万歳と褒め称えた(34)

〔咸和七年(332)三月、〕晋の将軍の趙胤が馬頭を攻撃して勝利すると、石堪が将軍の韓雍を救援に派遣し、到着したが間に合わず、その後に南沙、海虞を攻略して五千余人を捕虜にした。初め、郭敬は後退して樊城を拠点としたが、晋軍はまた襄陽を最前線の基地とした。〔四月、〕この時になって、郭敬はまた襄陽を攻撃して陥落させ、守備の軍隊を置いて樊城へ帰還した。

暴風と大雨になり、建徳殿の端門と襄国の市場の西門に落雷があって、五人が死んだ。西河の介山で雹が降り始め、卵ほどの大きさで、平地で三尺、土地の低い場所で一丈あまり積もり、路行く人や家禽、野獣の数万が死に、太原、楽平、武郷、趙郡、廣平、鉅鹿の千余里を通り過ぎ、樹木は砕けて折れ、穀物の収穫は何も無くなった。石勒は東堂で正式は衣服を着てから、徐光に質問して言った。「歴史が始まってから、このような災害はどれくらいあったのか?」徐光は答えて言った。「周、漢、魏、晋の全てありました。天地で常にあることですが、しかし賢明な君主は天を敬い、天の怒りに思い巡らして変事を未然に防ぎました。去年に寒食を禁じましたが、介推は陛下の故郷の神で、歴代の王朝も尊重していましたが、あるいは替えたのは宜しくなかったのでは。一人の嘆きさえも王道は減らそうとするのですから、いわんや群神の恨みと不満に上帝が怒らず動かない事があるでしょうか!天下の全てに同じ命令は下せず、介山の付近は、晋の文公が封じたのですから、民衆の奉ずるに任せるのが宜しいでしょう。」石勒は書を下し言った。「寒食は并州の古くからの風習であるが、朕もその風習の中で生まれ育ち、これに異を唱えることは出来ない。前の議論で除外したのは、子推は諸侯の臣下なので、王者が気兼ねするのは相応しくないとしたからで、それ故にその結論に従ったが、ことによるとあるいはこれが理由で災害を招いたのか!子推は朕の故郷の神だが、法令で決めた食事でも天気を乱さない訳ではないので、尚書は旧典をよく検討して結論を出し報告せよ。」担当の官吏が奏上し子推は歴代の王朝が尊重していた場所なので、寒食を今まで通りに復活させるように求め、さらに縁起の良い樹を植え、祠堂を立て、奉祀の戸を充てることにした。石勒の黄門郎の韋謏は反駁して言った。「春秋にもとづけば、氷を蓄えるのは道理から外れていて、陰気が漏れ出して雹となったのです。子推より以前の雹は何処から来たのでしょうか?これは陰と陽が乖離し錯綜したことによるのです。かつ子推は賢者ですから、どうしてこのような酷い災害を起こしましょうか!この災害を道理に暗い者の考えに求めるのは、きっと正しいことではありません。いま氷室を設けていますが、懼れるのは氷を貯蔵している場所が元々の寒冷の地ではないことですので、多くはみな山川の側にあり、陰気が漏れ出して雹となったのです。子推は忠臣で賢者であり、緜と介の間で奉ずれば充分ですから、国家がわざわざ祭祀することはありません。」石勒はこれに従った。これで氷室を陰のまた陰の寒冷の場所に遷し、并州では初めのように寒食が復活させた(35)

石勒は太子〔の石弘〕に命令し尚書への奏上事を裁可させ、中常侍の厳震を政事に参加させ可否を助言させ、征伐や処刑などの重大事だけは自分に報告文書を廻させた。この時から厳震の権威は宰相の上にあった。石虎の門前は雀を取る網が掛けられるほどに誰も来なくなり、石虎はいよいよ鬱々して気が晴れることは無かった(36)

〔咸和七年(332)七月、〕郭敬は南方の江西を攻掠すると、晋の南中郎将の桓宣はその虚を衝いて樊城を攻撃し、城中の人々を奪取して退去した。郭敬は軍を戻して樊城の救援に向かい、追撃して涅水で戦闘になった。郭敬の前軍は大敗し、桓宣の軍も三分の二が死傷し、郭敬は桓宣に取られた全ての人々を奪い返して戦闘を中止した。桓宣は最終的に南へ向かい襄陽を奪取し、軍を駐留させ国境の守備とした(37)

石勒は鄴に行くと、三台の石虎の屋敷に臨み、石虎へ思いを言った。「労役を庶民に同時に課すことは出来ず、皇帝の宮殿が落成するまで待てば、その後で王の屋敷を起工しよう、見劣りする物は造らないから心配するな。」石虎は冠を脱いで感謝すると、石勒は言った。「王と共に天下を所有したのだから、何処に感謝される理由があろうか!」流星が有り象の様に大きく、尾や足は蛇の形をしていて、天の北極から西南に流れ長さは五十余丈、明るい光が地上を照らし、黄河に落下して、その音は九百余里離れた場所でも聞こえた。黒龍が鄴の井戸の中に見え、石勒は龍を観ると喜びの表情をうかべた。石勒は鄴で群臣の朝見を受けた。

郡と国に命じ学校の建物を立てさせ、郡と国ごとに博士祭酒二名を置き、弟子は百五十人で、官吏登用の三段階の試験を行い、成績の良い者を中央官庁に採用した。ここにおいて太学生五人を抜擢し、著作郎の補佐に任命し、農事を記録させた。時に大旱魃であったが、石勒は廷尉に自ら出向き囚人の記録を見て、五年の刑以下の罪の軽い者は皆釈放し、重い者には酒を賜い、沐浴を許し、出来るだけ早く判決を下すことにした。宮殿への帰還前に、恵みの雨がたくさん降った。

石勒は灃水宮に行ったが、疾病が酷く帰還した(38)。石虎と太子の石弘、中常侍の厳震らを禁中の病床に侍らせた(39)。石虎は石勒の命令と嘘を言って面会謝絶にし、石弘、厳震および宮殿内外の群臣や親戚は、石勒の病状が回復しているか悪化しているか判る者はいなかった。詐って石宏、石堪を呼び襄国へ帰還させた。石勒の病状が小康状態になって、石宏を見て驚き言った。「秦王は何故に来たのか?王を藩鎮にしたのは、まさに今日の事態に備えてのためだろう。呼んだ者が有るのか?自分から来たのか?呼んだ者が有ったら誅殺しろ!」石虎は大いに懼れ言った。「秦王は思慕から短期間だけ還っただけです、今から謹んで派遣いたします。」数日してまた質問すると、石虎は答えた。「詔を奉じ即日に遣わしました、今は路半ばで御座います。」〔石虎は〕石宏に諭して、石勒の意志に反して宮殿外に居させて、最後まで派遣しなかった。

広阿で蝗害が発生した。石虎は石勒には秘密に子の石邃に三千騎を率いさせ蝗害の場所へ応援部隊とし派遣した。〔咸和七年(332)十一月、〕熒惑(火星)が昴に入った(40)。鄴の東北六十里に隕石が落ちたが、初め赤黒く黄い雲が幕のようであり、長さ数十匹(一匹は四丈)が、交錯し、雷鳴の様な音がして落下し、墜ちた場所は火のような熱気を発し、塵は天まで舞い上がった。この時に耕作していた者が観察すると、土はなおも燃え立っていて、見れば一尺余の石が一つあり、青色で軽く、叩くと石の打楽器の音がした。

石勒は疾病が酷くなると、遺言として命令した。「三日したら葬り、全土の官僚たちは葬儀が終われば喪服を脱ぎ、婚娶と祭祀、飲酒、食肉を禁じない、征鎮や牧守は許可を得ずに葬儀に奔走するな、死体には平時の服を着せよ、載せる車は通常の物にせよ、内蔵する金宝は無く、内郭にも副葬品は無しにせよ。大雅はまだ幼く弱いから、恐れるのは朕の期待に応えられないことである。中山王以下の各人は自分の担当部署を司り、朕の命令を違えるな。大雅(石弘)と石斌は兄弟の善い仲を維持し、司馬氏を汝らは教訓とし、そのためにも互いに親切にして仲良くしなければならない。中山王は何度も周公や霍光について沈思黙考して、将来は口実とするな。」そして咸和八年(333)(41)に死去したが、時に年は六十、在位十五年だった。夜に山谷に葬り、その場所を知る者はなく、文物を完備して陵に葬り、高平陵と号した。偽の諡号は明皇帝、廟号を高祖とした。

石弘は字を大雅といい、石勒の第二子である。幼時から父母の意向を尊び、他人を敬い、自分は慎ましくを心がけ実行していて、杜嘏から五経を、続咸から誦律の教えを受けていた。石勒は言った。「今の時世では太平ではない国を受け継ぐことになろうから、文業だけを教えるのは良くないな。」これで劉徴と任播から兵書を授けられ、王陽から撃刺を教えられた。世子に立つと、領中領軍になり、すぐに石勒から衛将軍の役職を与えられ、領開府として部下を招集させられ、その後に鄴を鎮守した。

石勒が皇帝を僭称すると、皇太子に立てられた。心はわだかまり無く下級貴族をも親愛し、文詠を好み、石弘の信任した人物で、儒教の素養を持たない者はいなかった。石勒は徐光に思いを語った。「大雅は本当に嘆かわしい、私と違いすぎて将家の子に相応しくない。」徐光は言った。「漢の高祖は馬上で天下を取りましたが、孝文帝は武力を振るわずに天下を守りましたから、高い知徳の人物が後継すれば、必ず時代に勝ち残ります、それが天の道なのです。」石勒はこの言葉を大いに悦んだ。徐光はすぐさま言った。「皇太子は他者を思いやり父母を敬い人柄が穏やかで慎み深いのですが、中山王は飛び抜けて乱暴で詐りが多いお人ですから、陛下がある日突然にお隠れになることがあれば、社稷に危機が必ず訪れるであろうことを臣下として恐れているのですので、少しずつ中山王の権力を奪い、皇太子を早く朝廷の政治に参加させるのが宜しいでしょう。」石勒は進言を受け入れた。程遐も同様に石勒に話して言った。「中山王の戦場での勇敢さや臨機応変な才知や謀略に、群臣で及ぶ者は誰もいません。その意志を観察すると、陛下の外は、全て蔑視しています。さらに遠征の全権を委ねられた歳月も永く、威信を内外に振るい、性格もまた他者に対しての思い遣りが無く、残忍さは手が付けられません。その諸子の年長者は皆一緒になって兵権を預かっています。陛下が上に在って、当たるほか無く、その鬱積した不満から年少の主上の輔政は出来ない恐れがあります。速やかに権力の座から排除すれば、国家の将来にとって有利でしょう。」石勒は言った。「今はまだ天下は平定されていないし、戦乱も未だに終わらず、大雅は未熟で、強力な人物を輔政の任に付けたほうが宜しいだろう。中山王は建国の功臣で、親しさでは周王朝の魯や衛と同様であり、伊尹や霍光の任務を委ねるつもりだが、何故に卿の話の如きことになるのか。卿が恐れているのは幼主が輔政される日に、皇帝の伯父として権力を一人だけで思いのままに出来ないからだろう。吾は卿も同様に遺言として輔政に参加させるつもりだから、懼れ過ぎることはない。」程遐は泣きながら言った。「臣は公のために話しているのです、陛下は私に恩恵を賜りたいために話をしているように対応なさいましたが、どうして明主が胸襟を開いて話を聞かないのですか、忠臣は必ず義を尽くすというのに!中山王は皇太后が養育されましたが、陛下の本当の兄弟ではないのですから、親族としての義を期待など出来ません。陛下の神の如き計画を、指図通りに出来ただけで、自分で建てた功績はわずかで、陛下はその父子に恩栄を酬いていますから、もう十分でしょう。魏は司馬懿父子に国政を任せ、王朝の命運は順序に随って晋へ移り終わりましたので、これを観れば、中山王がどうして将来も有益だといえましょうか!臣は陛下の縁故となって多くの幸運を得て、東宮を親族ゆえに託されましたが、臣が陛下に話を尽くさなければ、誰がこのことを話すでしょうか!陛下がもし中山王を排除しなければ、臣には社稷に祭祀の供物が二度と置かれないことは目に見えています。」石勒はこの意見を受け入れなかった。程遐はその場を退くと徐光に報告して言った。「主上に話をしたがこのようだったから、太子は必ず危機を迎えるが、これから何をするべきか?」徐光は言った。「中山王は常に吾ら二人に激しい恨みを抱いているから、恐ろしいのは国が危ういだけでなく、家も同様に禍を受けることであり、国を安定させ家を平穏にするために何かすべきであって、何もせず禍を受けるなど駄目だ。」徐光は石勒への報告と新たな命令を受ける間に石勒に言った。「陛下は八州を平定して領土を広げ、皇帝として天下の中心を所有してしますが、表情を曇れせる悦ばさないこととは何でしょうか?」石勒は言った。「呉と蜀は未だ平定できず、法令は同一ではなく、今もなお司馬家の抵抗は丹楊で絶えていないし、それと後世の人が吾は符絕に応じた人物ではないとしないかを恐れている。このことを思う毎に、不覚にも顔色に出てしまう。」徐光は言った。「臣は陛下のために腹心の患を憂いていますが、何を今更に四肢を憂うことがありましょうか!どういうことかと?魏は漢の天運を受け継ぎ、正朔の帝王となり、劉備は巴蜀で漢を継いで国を興しましたが、そのことで漢が滅んでいなかったとはいえないでしょう。呉が江東で割拠しましたが、どうして魏の正当性に傷がつくことがあるでしょうか?陛下は既に二都を包括して、中国の帝王となりましたから、彼の司馬家の児はまた玄徳と何処に異なることがあるでしょうか、李氏はなおさらに孫権と同様です。符絕が陛下に不在でも、結局は欲する所へ楽々と帰着するのではありませんか?これは四肢の軽患です。中山王は陛下の指図した軍略に従って戦いましたが、天下の人々は皆その優れた武人ぶりは陛下と同じほどだと話していますので、そしてその残酷で暴虐な多くの悪事と、利と見れば義を忘れる様子をみれば、伊尹や霍光の忠は無いのです。父子の爵位は重く、権威は王室を傾けるほどです。その心は穏やかでなく、常に不満の心が見て取れます。最近では東宮での小宴会で、皇太子を軽んずる態度がありました。陛下が隠忍してこれを許容しましたが、臣が恐れるのは陛下の万年の後、必ずや宗廟には荊棘が生えるだろうことで、これは心腹の重疾です、陛下はよく考えて図って下さい。」石勒は黙って考えこんだが、結局は従わなかった。

石勒が死去すると、石虎は石弘を服従させて、程遐と徐光の車の場所まで行かせて廷尉に逮捕させるように命じ、石虎は子の石邃が兵を率いて皇宮へ入り宿直して警備に当たると、文官武官は勢いに押されて自分の部署からすぐにいなくなった。石弘は大いに懼れ、石虎に譲位しようとした。石虎は言った。「君主が薨去して世子が立つのが道理で、簡単には臣下があえて乱すことなど出来ません!」石弘は泣いて固く辞退したが、石虎は怒って言った。「もしその重責に堪えられねば、それについて天下は大いに議論するから、論議に値しないことを何故に言うか!」結局は咸和八年(333)(42)に石弘は皇帝に立ち、〔後趙の建平四年の〕年号を延熙と改め、文官武官の全ての官僚は一等級位を進めた。程遐と徐光は誅殺された(43)。石弘は任命書を書かされて石虎は丞相・魏王・大単于となり、九錫が加えられ、魏郡等の十三郡を食邑とし、さらに百官の長官の全てを兼務した。石虎は固く辞退するふりをしたが、間をおいて任命を受け、領域内で恩赦を斬刑以下に行い、石虎の妻の鄭氏が魏王后に立てられ、子供たちでは石邃は魏の太子となり、使持節・侍中・大都督中外諸軍事・大将軍・録尚書事が加えられた。石宣は使持節・車騎大将軍・冀州刺史となり、河間王に封じられた。石韜は前鋒将軍・司隷校尉となり、楽安王に封じられた。石遵は齊王に封じられた、石鑒は代王に封じられた、石苞は楽平王に封じられた。石斌は太源王から徙されて章武王になった。石勒の昔からの文官武官の臣下達は丞相府の閑職に任じられて空席には石虎の側近が補充され、石虎の府の官僚で昔から信認していた者たちは政府の重要部署に任命された。太子宮を崇訓宮と命名し、石勒の妻の劉氏以下みなを徙して住居とした。美人や才能のある女官や石勒の車馬、珍宝、服御の上等な物は、みな己の部署へ入れた。鎮軍将軍の夔安は領尚書左僕射に、尚書の郭殷は尚書右僕射になった。

劉氏は石堪に考えを言った。「このままでは皇祚は滅びに向かい永久に復活しないでしょうが、王将はこの事態をどのように図りますか。」石堪は言った。「先帝の昔からの臣下たちは皆すでに外部へ排斥されておりますから、軍隊を自由に動かせる人もなく、宮殿の内部では企てを行う場所がありませんので、臣を兗州に脱出させて下されば、廩丘を拠点に、南陽王を引き連れて盟主とし、皇太后の詔と宣言して諸牧守征鎮に、各自が義兵を率いて一同に会し凶悪な叛逆者を討伐しますので、成功しないはずがありません。」劉氏は言った。「事は急を要しますから、早速にも出発なさい、ぐずぐずしていると異変が生じます。」石堪は許諾し、身分の低い服装をして軽騎兵と兗州を襲ったが、時期を失っていたので、勝利できず、結局は南の譙城へ逃げようとした。石虎はその将の郭太らに追撃させて、石堪を城父で捕獲し、襄国へ送らせ、石堪を炙り殺した。南陽王石恢は呼び戻されて襄国に帰還させられた。劉氏は陰謀が発覚して、石虎に殺された。石弘の母の程氏に皇太后の尊号が贈られた(44)

〔咸和八年(333)十月、〕このとき石生は関中に鎮し、石朗は洛陽に鎮していたが、みな二鎮で挙兵した(45)。石虎は子の石邃を襄国に留守させ、歩兵騎兵七万を統率し金墉の石朗を攻撃した。金墉は潰え、石朗は捕獲され、肉を抉り取られる処罰の後に斬刑された。長安の攻撃に進軍し、石挺を前鋒大都督した。石生の派遣した将軍の郭権は鮮卑渉璝の配下の兵士二万を率い前鋒となって対抗し、石生も継いで大軍を統率して出発し、蒲坂に軍を駐屯させた。石挺の率いる前鋒は潼関で大会戦を行ったが、敗れ続け、石挺から丞相左長史の劉隗(46)まで皆が戦死し、石虎は澠池まで敗走し、三百余里に死体が横たわった。鮮卑は石虎と密かに通じ、石生に背いて攻撃した。石生は蒲坂に停まっていたので、石挺が戦死したことを知らず、懼れて、急ぎ単騎で長安へ戻った。郭権はもう一度三千の兵を集めて、越騎校尉の石廣と渭汭で対峙した。石生は結局は長安を去り、雞頭山に潜伏した。将軍の蒋英が長安を固守していた。石虎は石生が逃げたことを聞くと、軍を率いて関中に入り、進軍して長安を攻撃し、十日余りでこれを抜き、蒋英らを斬った。軍を分け諸将を汧に駐屯させた。雍州や秦州の華人や戎人の十万余戸を関東へ徙した。石生の部下が石生を雞頭山で斬った。石虎は襄国へ帰還し、大赦を行った。石弘へ遠回しに話し己のために魏台を建てることを命じさせたが、かつて魏が漢を補政したことと同一であった(47)

〔咸和八年(333)十二月、〕郭権は石生が敗北したので、上邽を拠点に東晋へ帰順し、〔咸和九年(334)正月、〕東晋は詔を出して郭権を鎮西将軍・秦州刺史としたが、これに京兆、新平、扶風、馮翊、北地はみな呼応した。石弘の鎮西将軍の石廣は戦ったが、敗北を続けた。石虎は郭敖と石虎の子の石斌らに歩兵騎兵四万を率いらせ追討させ、華陰に駐屯した。〔四月、〕上邽の豪族は郭権を殺して降伏した。秦州の三万余戸を青并二州の諸郡へ徙した。南氐の楊難敵らは人質を送り抵抗を止めた。長安の陳良夫は黒羌へ逃げ込み、北羌の四角王薄句大らを誘い北地、馮翊を混乱させ、石斌と対峙した。石韜らの率いる騎兵が薄句大の後方を牽制し、石斌と挟撃して、敗ると、薄句大は馬蘭山へ逃走した。郭敖らが北方の敵地深く攻め入ると、羌に敗北し、十に七八の死者を出した。石斌らは敗軍を集め三城へ帰還した。石虎はこの報告を聞いて激怒し、使者を派遣し郭敖を殺した。石宏に恨みの言葉があると、石虎は石宏を幽閉した。

〔咸和九年(334)十一月、〕石弘は自ら石虎に璽綬を齎らすために持参して赴き、そして皇帝位を禅譲する意志を告げた。石虎は言った。「天下の人々が議論することで、何故に自分で結論を出すのか!」石弘は宮殿へ還ると、母の程氏に対し泣きながら言った。「先帝は本当に状況を元に戻す方法を後に残していなかった!」突然に石虎の節を持って丞相の郭殷が入り、石弘を廃して海陽王とした。石弘は車に乗らずゆっくり歩いて行き、表情を変えず、群臣に思いを語った。「大統を受け継ぎながら重責に堪えられず、過去を振り返れば自分の欠点や誤りを群臣や皇太后に恥じるばかりだ、これ故に天命が去ったのだ、もう何も言うことはない!」全官僚は涙を流し、宮中に仕える人々は慟哭した。咸和九年(334)(48)、石弘と程氏に併せて石宏、石恢は崇訓宮に幽閉され、すぐに殺されたが、在位は二年、この時の年齢は二十二歳だった。

張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘県の人である。父の張瑤は中山太守であった。張賓は少年の頃から学問を好み、広く学問の基本書や史書の読み、全般的な内容を把握し、心は広く小事に拘らず遠大な意志を持っていた。いつも兄と弟に思いを言っていた。「吾は自分から言うが知恵や判断力でも人の才能を見分ける力でも子房(張良)後塵を拝さず、ただ高祖に遇っていないだけだ。」中丘王の帳下都督となったが、信任されず、病気により免職となった。

永嘉の大乱の頃、石勒は劉淵の輔漢将軍となり、諸将と共に山東へ下ると、張賓は親しい者に考えを言った。「吾の今まで見てきた諸将を凌駕しているから、胡将軍だけが共に大事を成すことが出来る。」〔永嘉二年(308)九月、〕剣を携え兵営の出入り口から、大声で面会を求めたが、石勒も同様にこんな非凡な人物に会ったことが無いと思った。その後だんだん組織の規模が大きくなると、別格で扱い、〔永嘉三年(309)四月、〕地位を上げて謀主とした。対策を出すべき時に対策を出さないことは無く、立案した計略は失敗することが無かった、石勒が建国の基盤を築けたのは、みんな張賓の功績があったからである。〔太興二年(319)十一月、〕右長史・大執法になり、濮陽侯に封じられた頃には、絶大な権勢を与えられて手厚い待遇は受けて、当時の最高位にいたが、けれども性格は控えめで素直で、気持ちを引き締めて慎み、下級貴族にも心を開き、それは賢愚に拘らず、人材で育成された者で愛情を得られなかった者はいなかった。全官僚から悪人や邪悪な考えを除き、個人的な好き嫌いを排除し、入る時には言葉で注意し、出る時は全て片付けていた。石勒は張賓を甚だ尊重し、朝廷に出るごとに、服装や装飾品を正式な物に改めて、言葉の使い方に気を付け、呼びかける時は「右侯」と言い、名では呼ばなかったが、石勒の朝廷で張賓と比べられる者はいない。

張賓が卒した(49)、石勒自身が葬儀に臨み哭(弔いの礼で泣く)し、その深い悲しみは傍にいた人々をも悲哀の感情を極まらせ大声で泣かせ、散騎常侍・右光禄大夫・儀同三司が追贈され、諡号を景といった。葬る時に、正陽門で葬列を見送り、遠ざかる葬列を見ながら、振り返り傍の人に言った。「天は吾に事を成就させたくないのか、なんと吾の右侯を奪い去ることが早いことか!」程遐が代わって右長史となった、石勒は程遐と議論するたびに、意見の合わないところがあると、そのたびにため息をついて言った。「右侯は我を見捨てて行ったが、我とこの輩と共に事業に当たれとは、どうして酷くないといえるのか!」そして涙を流す日々を重ねた。

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