(1)「邵続伝」によると、石勒が徐光を使って邵続の行動を咎めると、邵続は理路整然と反論した、石勒は邵続の言葉に感心した。石勒は張賓に命じて邵続を厚く慰撫し客舎に招待させた。しばらくすると邵続を従事中朗にした。石勒は命令を発し、今後は敵に勝利したら才能のある人物はすぐに殺さずに、全員を張賓の所に送らせる事にした。邵続のような有能な人材を強く望んだからである。
(2)「元帝紀」によると、太興三年(320)冬十月、徐州刺史の蔡豹が臆病を理由に誅殺された。太興四年(321)春二月、徐龕がまた軍勢を率いて〔東晋に〕降伏した。
(3)「元帝紀」によると、太興三年(320)秋七月、祖逖が鎮西将軍になった。「祖逖伝」によると、黄河以南が晋土になったのは祖逖が鎮西将軍になる前であり、この文以降は鎮西将軍になった後について述べられている。
(4)「祖逖伝」と読み比べると祖逖の記事は本伝では1年ずれていると考えられる。321年に起こった祖逖の記事が無いのは変で、それから本来ならここに祖逖の死亡記事があるはず。
(5)「元帝紀」によると、永昌元年(322)正月、大将軍王敦が武昌で挙兵した、劉隗の罪を問う事を名目とした。四月、王敦は東晋の首都建康に進軍し、丞相となって全権を掌握した後、武昌に戻った。劉隗に亡命以外の選択肢は無かった。
(6)「元帝紀」によると、永昌元年(322)十月、石勒は襄城と城父を攻めて陥落させた。閏月、元帝が崩じ、明帝が即位した。
(7)この段の話は、石虎が曹嶷を討伐した時のことをまとめて記述していて、前後の話から独立している。
(8)「劉曜載記」によると、前涼遠征後の前趙との戦いで石他は戦死した。劉曜は石他を殺して石勒との盟約を破ったと言っている。
(9)「元帝紀」によると、永昌元年(322)十月、石勒は襄城を攻め陥落させた。ここでは陥落させていないので、それ以前の事らしい。「李矩伝」によると、「石勒載記下」に記述されたように洛陽に入った石生に対し、後趙に降った四将は東晋に再帰順した。石生は洛陽を離れ、洛陽の人々も李矩の下に向かい、洛陽は空になった。その後に郭誦は陽翟令になった。趙固の死んだ時に、石生が郭誦を襲った。ここの記事はその時のものらしい。
(10)時間順だと王敦の乱(第二次)(324及び326〜327年)の時の記事です。「李矩伝」によると、郭黙が祖約に破られた(晋の内戦で王敦の乱の時の様です)。石勒が石恩に郭黙を襲撃させると、郭黙は李矩に対し、劉曜に降ろうと話を持ち掛けたが、李矩は許可しなかった。その後、石勒が石良に李矩を襲撃させ、李矩が不利になると帰順を呼びかけたが、郭誦が拒絶した。(324年10月)石生が再び洛陽に入って、河南に対し大掠奪を行った。李矩の陣営は食糧が無くなり、郭黙は再び劉曜に降ろうと持ちかけた。李矩は石良に破られると、遂に郭黙の計画に従い劉曜に使者を派遣した。劉曜は劉岳を派遣し、李矩と共謀して石生を攻撃しようとした。
(11)王勝の叛乱は劉曜と示し合わせたものと思われる。「劉曜載記」によると、劉曜の出陣は李矩の後退後。石虎に包囲された劉岳の救援に、劉曜自らが赴いたが、石聡に先鋒が大敗した。後退すると兵士達が逃げ出し、戦う事が出来なくなり、長安に戻った。劉岳は新安で捕虜となっているので一度は劉曜と合流出来たようだ。
(12)「成帝紀」によると、太寧三年(325)閏八月、明帝が崩御し、成帝が即位した。
(13)「成帝紀」によると、咸和元年(326)四月、石勒が将軍の石生に汝南郡を攻略させると、汝南郡の人は内史の祖済を執えて東晋に叛いた。
(14)「成帝紀」によると、咸和元年(326)十一月、建康まで30キロに迫られた東晋は、司徒の王導に大司馬の称号を加え、仮黄鉞・都督中外征討諸軍事とし、防御した。歴陽太守の蘇峻がその将の韓晃に石聡を討たせて、逃走させた。
(15)王国は時期は不明だが東晋に再帰順している。「成帝紀」にはないがこの前後の記事が327年の出来事。
(16)この記述から科挙の原型を石勒が作ったと推測できる。形骸化した官人九品法の弊害を良く知っていたため、家柄だけの実力の無い人物を登用したくなかったための方策と考えられる。
(17)「成帝紀」によると、咸和三年(328)二月、前年の十一月に反乱を起こした予州刺史の祖約と歴陽太守の蘇峻が東晋の実権を掌握した。
(18)「成帝紀」によると、咸和三年(328)五月、蘇峻が無理やり成帝を石頭へ連れ去った。翌年(329)二月まで東晋は内乱状態に陥った。
(19)「劉曜載記」によると、石勒は石虎に四万の兵を率いさせて、劉曜の討伐に派遣し、咸和三年(328)七月、蒲坂まで攻め進んだ。劉曜は自ら精鋭を率いて救援に向った。石虎は懼れて退却した。劉曜は高候で追いつき、大会戦に勝利し、石瞻を斬り、莫大な戦利品を得た。劉曜は勝ちに乗り、洛陽まで攻め上り、金墉で石生を包囲した。
(20)「仏図澄伝」によると、仏図澄の発言に「秀支替戻岡,僕谷劬禿當」とあり、仏図澄が石勒と羯語で会話している。劉曜は「僕谷」という胡位に就いていた。
(21)「劉曜載記」によると、洛水の斥候が石勒の先鋒と交戦し、羯人を捕虜にして劉曜の下に送った。捕虜を尋問した劉曜は、事の重大さにようやく気付いた。
(22)「劉曜載記」によると、石堪は劉曜が大酒を飲んで泥酔した隙を突いた。
(23)「劉曜載記」によると、劉曜は襄国の小城に幽閉された。石勒は劉岳に劉曜と宴をさせた後で、劉曜に前趙が降伏する勅を書かせようとしたが、劉曜は拒否し、石勒に殺された。
(24)「劉曜載記」によると、長安の前趙の将軍は石勒を招きよせ、石勒は石生に洛陽の兵を率いさせて長安へ行かせた。劉胤が長安を攻撃したが、石生は長安を固守した。石勒は二万騎を石虎に率いさせて、救援に向かわせた。
(25)「張駿伝」によると、劉曜が石勒に殺されて、長安が混乱すると、河南の地を回復し、前趙滅亡後は後趙と対峙した。石勒は張駿に後趙の官爵を授ける使者を派遣したが、張駿は受けず、その使者を勾留していた。
(26)「仏図澄伝」によると、仏図澄が石葱の叛乱を予言し、大和尚と呼ばれることになった。
(27)「仏図澄伝」によると、仏図澄が石勒の愛する子の石斌を蘇生させる話があるが、『高僧伝』巻九によると、石斌は元々は石虎の子でが、石勒が気に入り子にしたとある。本載記でも石勒の死後は石虎の子となっていて、『高僧伝』の記述と符合する。
(28)「成帝紀」によると、咸和五年五月、石勒が将軍の劉徴を派遣し南沙を攻略した、都尉の許儒を殺し、海虞に進入した。
(29)「成帝紀」によると、咸和五年(330)八月、南中郎将の周撫が武昌に退去すると、中州の流人の悉くが石勒に降った。
(30)辛亥制度五千文が施行されて十二年目になるが、皇帝即位を機に律令を復活させたのかもしれない。
(31)「成帝紀」によると、咸和五年(330)十二月、張駿が石勒に臣を称した。
(32)「陶侃伝」にこの記事なし。石勒はこの頃に、陶侃の子を殺して石勒の戍将になっていた馮鉄を、陶侃の通告によって殺している。石勒は陶侃に帰順を呼びかけたのだろう。
(33)「成帝紀」によると、咸和六年(331)正月、劉徴はまた婁県を攻略し、遂には武進を掠奪した。
(34)「慕容廆伝」によると、慕容廆が陶侃に共に晋朝を盛り立てようと書簡を送っている。石勒に慕容廆討伐の意志があって、この饗宴が行われたのかもしれない。
(35)「寒食」とは、春秋時代に介子推が焼死したことから、介子推の命日とされる日の前後三日間火の使用を禁止して冷食を食べる風習。『荊楚歳時記』に詳しい。なお、『後漢書』巻六十一「周挙伝」によると、後漢時代に太原郡では火の使用を禁止する期間が一か月間で、死者も多数出たことから、周挙が風習を改めさせた。
(36)石弘の参政は徐光の進言による。
(37)「成帝紀」によると、咸和七年(332)七月、太尉の陶侃が子の平西参軍の陶斌と南中郎将の桓宣を派遣し、樊城で勝利した。竟陵太守の李陽が新野、襄陽を攻略した。
(38)時系列では次段の記事がここに入る。石虎はこの時点で石弘の後見人になったようだ。
(39)咸和八年(333)正月癸酉、張駿を鎮西大将軍にした。(「成帝紀」)
張駿が鎮西大将軍になった経緯は次の通り。建興年中に敦煌の計吏耿訪は長安に居たが、長安陥落で戻れず、太興二年(319)に建康にたどり着き、前涼への使者を願い出たが、内乱のために果たせなかった。東晋が安定すると耿訪は隴西の賈陵らと前涼へ向かったが梁州に七年停まり、建康に呼び戻された。耿訪は賈陵に詔書を付託した。賈陵は長安に到着したが、敢えて前涼へは行かなかった、しかし咸和八年(333)に前涼へ向かい始めた。石勒の死と関係あるのかは不明である。(「張駿伝」)
咸和八年(333)正月丙子、石勒は使者を派遣し贈り物を持ってきたが、詔を出して燃やした。(「成帝紀」)
(40)「戴洋伝」によると、石勒の死去の前年十一月に熒惑が昴の位置になった。
(41)原文「咸和七年」。「成帝紀」及び「天文志」はいずれも石勒の死を「咸和八年(333)七月」としているので、ここの「咸和七年(332)」は誤り。
(42)原文「咸和七年」。前注同様「咸和八年」の誤り。
(43)「蔡謨伝」によると、石勒が死んだとき、内外の将相は石虎を誅殺しようとした。石虎派と反石虎派の対立で、石虎が先手を打ったようであり、程遐と徐光の陰謀の証拠を石弘に突きつけて、石弘自身に逮捕させたと考えられる。
(44)咸和八年(333)七月、石聡が譙から降伏してきた。(「成帝紀」)
石勒が死に、石虎が専横すると、石聡と譙郡太守の彭彪らが各々で降伏の使者を派遣してきた。(「孔愉伝」)
「蔡謨伝」に記述されている石虎の平定した反乱者に、王国の名前がないので、石勒の生前に二度目の帰順を東晋にした可能性が高い。
(45)「成帝紀」によると、咸和八年(333)十月、石弘の将の石生が関中で挙兵し、秦州刺史を自称し、降伏の使者を派遣してきた。
(46)「劉隗伝」にこの記事はない。
(47)「蔡謨伝」によると、この後に彭彪は擒となり、石聡は殺される。
(48)原文では「咸康元年(335)」であるが、周家禄『晋書校勘記』では「成帝紀」により「咸和九年(334)」の誤りとされている。「成帝紀」に従い、石弘の死を咸和九年(334)十一月と考える。
(49)『資治通鑑』巻九十二によると、張賓が卒したのは永昌元年(322)。