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update:2021.01.17 担当:仁雛
晋書巻百二十
載記第二十
李特
人物簡介

李特(?〜303)は字を玄休といい、巴西郡宕渠県の人である。父の李慕は東羌獵将。永康元年(300)、趙廞が反乱すると、成都に進攻して趙廞を破り、宣威将軍・長楽郷侯になった。広漢太守の辛冉の悪政で流民が不穏になると、六郡の流民のリーダーとなり、行鎮北大将軍として辛冉と戦った。辛冉を破って広漢を攻略すると、使持節・大都督・鎮北大将軍を自称した。太安元年(302)、益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を自称し、年号を建初とした。太安二年(303)、羅尚に敗れて殺された。在位二年。子の李雄が皇帝を僭称すると景皇帝と追尊された。廟号は始祖。

本文

李特は字を玄休といい、巴西郡宕渠県の人で、その祖先は廩君の末裔である。その昔、武落の鐘離山が崩れて、石の穴が二つできた。一つは丹のように赤く、一つは漆のように黒かった。赤い穴から出てきた人は、名前を務相といい、姓は巴氏といった。黒い穴から出てきた人は、曎氏・樊氏・柏氏・鄭氏の四姓あった。五姓はそろって〔穴から〕出てくると、みな神になることを争った。そこで剣を穴の天井に突き刺して、突き刺さった者を廩君とすることにした。四姓は〔剣を天井に〕突き刺せなかったが、務相の剣は〔天井に〕引っかかった。さらに、土で船を造り、彫刻を施して水に浮かべ、「船が浮いた者を廩君とする」とした。この時も務相の船だけが浮かんだ。そこでついに〔務相は〕廩君と称し、自分の土の船に乗り、自身の士卒を率い、夷水に沿って川を下り、塩陽に着いた。塩陽の女の水神〔塩神〕は廩君を引きとどめて「ここは魚塩を産出し、地も広大です。あなたとともに生きます。ここに留まって行かないでください」と言った。廩君は「私はあなたのために作物ができる土地が欲しいのです。留まるわけにはいきません」と言った。塩神は夜、廩君に付き添って一晩を共にした。翌朝になると〔廩君のもとを〕去り、飛ぶ虫になった。諸神は皆その飛行に付き従ったので、日を覆い、昼でも暗くなった。廩君は塩神を殺そうと思ったが、〔塩神を〕見分けられなかった。しかも世界の東西〔方角〕が分からなくなった。こうした状況が十日続いた時、廩君は青い糸を塩神に贈って「これを身につけてくれ。もしそれでよければ、おまえとともに生きていこう。もしよくなければ、おまえの元から去ろう」と言った。塩神は〔青い糸を〕受け取り身につけた。廩君は陽石の上に立って、青い糸をつけたものを遠く遥かに見てとると、ひざまずいて矢を射た。〔その矢は〕塩神に命中した。塩神は死に、一緒に飛んでいた群神たちはみないなくなり、ようやく天空が開けて明るくなった。廩君は再び土の船に乗り、〔川を〕下って夷城に至った。夷城は、石岸が曲がっており、河流もまた曲がりくねっていた。廩君は〔川岸が〕穴のような様子なのを遠くから見てとると、嘆いて「自分は新しく穴から出てきたというのに、今、またここに入るとは、どうしたものだろうか」と言った。その途端、幅三丈余りにわたって岸が崩れ落ちた。しかも階段ができあがったので、廩君は階段を登っ〔て岸に上がっ〕た。川岸の上には、一丈四方でたけが五尺の平らな石があり、廩君はその上で休み、めとぎを投げ算で占ったところ、すべて石にくっついた。そこで石のそばに城郭を建て、そこに住んだ。その後、彼の種族は次第に増えていった。秦が天下を統一すると、この地域を黔中郡とし、一人あたり年間四十銭と、少なく賦税を課した。巴の人々は賦税のことを賨と呼んでいたので、彼らを賨人という。漢の高祖は漢王になると、賨人を〔兵士として〕集めた。三秦を平定してから、〔彼らは〕まもなく故郷に返して欲しいと求めた。高祖は、彼らの功績により、豊・沛〔の兵士〕と同様に徭役を免除し、賦税を課さなかった。またその地域を巴郡と名付けた。〔その〕地には塩・鉄・丹・漆が豊富にあり、〔人々の〕気性は、素早く強く、また歌舞がうまい。高祖は彼らの舞を愛し、楽府に命じて習わせた。今の巴渝舞がそれである。 後漢の末、張魯は漢中にいて、鬼道(呪術)で民衆を導いていた。賨人は祈祷師(シャーマン)を敬い信じていたので、〔漢中に〕行って〔張魯に〕仕える者が多くいた。〔賨人たちは〕天下の大乱に直面すると、巴西郡の宕渠から漢中郡の楊車坂に遷り、往来の者から略奪したので、民衆はこれに苦しんだ。楊車巴と呼んだ。魏の武帝が漢中で勝利を収めると、李特の祖父は五百家余りを引き連れて武帝に帰順した。魏の武帝は〔祖父に〕将軍を拝し、洛陽に遷した。北方の人々は、今度は彼らを巴氐と呼んだ。

李特の父の李慕は東羌獵将となった。

李特は、若くして州や郡に仕え、時の人に〔有能さを〕不思議がられた。身の丈は八尺。勇猛果敢で、馬上からの弓射を得意とし、冷静沈着で度量が大きかった。元康年間、氐の斉万年が反乱を起こし、関西地域(函谷関より西の地域)が混乱し、連年大飢饉で、民衆は流民となって食べ物を求めた。民衆たちで漢川に入った者は数万家にのぼった。李特は流民の後に従い、蜀に入ろうとして剣閣にやって来た。〔そこで〕両足を前に伸ばして座りため息をつき、険阻なさまを見回して「劉禅はこのような〔険阻な〕地を有しながら、捕らわれの身になった〔降伏した〕とは、まったく凡才ではないか」と言った。同行していた閻式・趙粛・李遠・任回らはみな感嘆した。

これより先、流民たちがすでに漢中に着いた頃、〔彼らは〕上書して巴蜀地域で食を求めたいと願い出た。朝廷はこれを許さず、侍御史の李苾を派遣して節を持たせ、〔民衆を〕慰労させるとともに、彼らが剣閣に入らないよう監察させることにした。李苾は漢中に着くと、流民から賄賂を受けとり、逆に「流民は十万人余りいて、漢中郡一郡だけではとても救済しきれません。東に行って荊州に下るにも、水流は激しく早く、また船もありません。蜀には倉に備蓄があり、人々もまた豊かです。〔蜀で〕食を求めさせるのがよいでしょう」と上表した。朝廷はこの意見に従った。このことにより、〔流民が〕益州(巴蜀)・梁州(漢中)に散在し、それを禁止できなくなった。

永康元年(300)、益州刺史の趙廞を詔書で〔中央に〕召して大長秋とし、成都内史の耿滕を後任とした。すると趙廞は反乱をたくらみ、劉氏が〔蜀に〕割拠したのと同様の考えをひそかに抱いていたので、倉を開放し、流民を救済して民心を得た。李特の仲間たちは皆、巴西出身で、趙廞と同郡であり、勇壮な者が多かった。趙廞は彼らを厚くもてなし、爪牙とした。そのため李特たちは仲間を集め、盗みや狼藉を働くばかりで、蜀の人々は困った。耿滕はひそかに「流民は剛強で、蜀の民は脆弱です。双方が互いを制することができず、必ずや混乱の火種となりましょう。〔流民を〕もとの居住地(洛陽や漢中)に送還させるのが賢明です。もし彼らを険阻な地(梁州・益州の地)に住まわせたら、秦州・雍州の禍いが梁州・益州に及び、王朝に西顧の憂いを生じさせるに違いない、と懸念しております。」と上表した。趙廞はこれを聞くと彼を憎んだ。この時すでに益州の文武の官僚千余人は、出向いて耿滕を迎えにいっていた。滕は手勢を引き連れて州城に入ろうとしたが、趙廞は手下を遣わして滕を迎え撃たせ、〔州城の〕西門で戦った。耿滕は敗北して、戦死した。

趙廞がみずから大都督・大将軍・益州牧を名乗ると、李特の弟の李庠は、兄弟と妹の夫である李含や任回・上官惇、扶風郡の李攀、始平郡の費佗、氐の苻成、隗伯らとともに、四千騎を率いて趙廞に帰順した。趙廞は李庠を威寇将軍とし北道を断絶させた。李庠はもともと東羌の良将で、軍法に明るく、麾幟を使わずに矛を挙げて隊列を指揮した。命令に背いた部下を〔矛で〕三人斬ると、部隊は粛然となった。趙廞は彼の部隊〔の軍規〕が整然としていたのを憎み、彼を殺そうと思ったが、そのことを口には出さないでいた。長史の杜淑・司馬の張粲は趙廞に「伝に『五大は辺にあらず』とあります。将軍は兵を起こされて間もなく、すぐに李庠に外で強兵を握らせています。〔このことを〕私は心中困惑しております。しかも彼は我々の族ではありませんから、その心も違っていましょう。みすみす軍権を他人に授けるのは、私が考えますにしてはいけないことと思います。将軍はどうかお考えください。」と言った。〔すると〕趙廞は顔つきを険しくして「君たちの言うことは我が意に添っている。『予(われ)を起こすものは商なり』だな。これは天が君らに我が事業を成就させようとしているのだろう。」と言った。ちょうどその時、李庠は門にいて趙廞に会見を求めた。趙廞は大変喜び、彼を引見した。李庠は趙廞の意思を推し量ろうとして、再拝して進み出て「今、中国は大いに乱れ、秩序がありません。晋王室は復興できないでしょう。明公(あなた)は、その道徳は天地に従っており、人徳は天下を被っています。〔王朝を創始した〕殷の湯王・周の武王のことは、〔昔のことではなく〕まさに今あることです。天の時、人の心に応じ順(したが)い、人民を塗炭の苦しみから助け出し、民心に帰するところを分からせれば、天下は安定することができましょう。ただ庸・蜀だけのことではないのです。」と言った。趙廞は怒って「これは人臣の言うべきところだろうか!」と言い、杜淑らに〔李庠の罪を〕議論させた。そうして杜淑らは李庠の罪は大逆不道〔皇帝・国家に対する反逆罪〕に値すると上奏し、それをうけて趙廞は彼を殺し、彼の子供・姪甥など一族三十余人にも〔死罪が〕及んだ。趙廞は李特たちが何か事を起こすことを懸念して、人をつかわして「李庠は言うべきことでないことを言った。その罪は致死に値する。〔しかし〕兄弟に〔その罪は〕及ばない」と諭させ、李庠の亡骸を李特に返した。また、李特の兄弟を督将とし、彼らの群衆を安堵させた。〔この頃〕牙門将の許弇は巴東監軍につくことを求めたが、杜淑・張粲はまったく譲らず、許さなかった。許弇は怒って、趙廞の寝室の脇で杜淑と張粲をみずから刃物で殺した。杜淑・張粲の側近はまた許弇を殺した。彼らはみな趙廞の腹心であった。

李特の兄弟はすでに趙廞に対して恨みを抱いていたので、兵を引き連れて緜竹に帰った。趙廞は朝廷が自分を討伐するのではないかと恐れ、長史の費遠・犍為太守の李苾・督護の常俊に一万余人を率いさせ、北道を断たせた。〔彼らは〕緜竹の石亭に駐屯した。李特は密かに七千余人を集め、費遠の軍勢に夜襲をかけた。費遠軍は大いにくずれたので、〔彼らに〕火を放って焼き払った。死者は全体の八・九割にのぼった。〔李特は〕成都に進攻した。趙廞は兵が来るのを聞くと、恐れおののくだけでなすすべを知らない。李苾と張徴らは夜に関所を守る役人を斬って逃走し、文武の官僚達も離散した。趙廞はただ妻子と小船に乗り込んで広都に逃げたが、手下の朱竺に殺された。李特は成都に着くと、兵をはなって略奪させ、西夷護軍の姜発を殺し、趙廞の長史の袁洽や廞が任命した地方官長(郡太守・県令)を殺した。そして牙門の王角と李基に洛陽〔の官署〕に行かせ、趙廞の罪状を報告させた。

これに先立ち、恵帝は梁州刺史の羅尚を平西将軍、兼護西夷校尉・益州刺史とし、牙門将の王敦・上庸都尉の義歆・蜀郡太守の徐倹・広漢太守の辛冉など七千余人を率いて蜀に入らせた。李特たちは羅尚が来ることを聞くと、大変おそれ、弟の李驤を道中で出迎えさせ、宝物を差し上げさせた。羅尚は非常に喜び、李驤を騎督とした。李特と弟の李流は、緜竹で牛肉や酒で羅尚をねぎらった。王敦と辛冉は二人して羅尚に「李特らは流民で、盗賊行為ばかりしてきました。急いで〔彼らを〕取り除くべきです。何かの機会に斬ってしまうべきです。」と説いた。〔しかし〕羅尚は聞き入れなかった。辛冉は以前、李特と交流があったので、李特に「旧友が再会すると、不吉なことが凶になる」と言った。李特は深く疑い懼れるようになった。

その後まもなく秦州・雍州にお達しがあった。流民として漢川に入ったものについては、〔流民のいる〕地域の役所に命令を下して召還させる、というものだった。李特の兄・李輔はもともと郷里に留まっていた。家に戻ってくるよう言づかり蜀に行くと、李特に「中原はもうすぐ乱れるだろう。帰ってくるに及ばない」と言った。李特もその通りだと思い、巴蜀に割拠する気持ちを固めた。〔西晋の〕朝廷は趙廞を討った功労として李特に宣威将軍を授け、長楽郷侯に封じ、李流に奮威将軍を授け、武陽侯に封じた。璽書が益州に下った。六郡の流民で李特と力を合わせて趙廞を討った者を列挙させ、〔彼らに〕官位や金品を与えるというものだった。たまたま辛冉は順番通りでなく招聘されたので、それに応じたくなく、また趙廞討伐は自分の功績だと自負していたので、朝廷の命を握りつぶし、璽書の本当の内容を〔李特らに〕上言しなかった。皆はこれを憎んだ。羅尚は従事を遣わし流民を催促させ、七月に移動を始めさせるとした。辛冉の性格は貪欲・乱暴で、流民のリーダーを殺して彼らの資財を奪おうとし、檄(命令書)を送って使いを送り、また梓潼太守の張演に要所や関所で財宝を探させた。李特らは秋の収穫の時期まで〔移動時期を〕待って欲しいと固く求めた。流民たちはひろく梁州・益州一帯におり、雇われ労働者となっていた。彼らは州や郡がしきりに追い立てようとしていることを聞くと、みな怨みに思ったがどうしていいかは分からなかった。その一方、李特兄弟らが度々流民追放をやめるよう請願していることを知ると、感心し彼らを頼りに思った。しかも間もなく雨が降り、穀物もまだ実っていない時季で、流民たちには移動の元手がなかった。だから流民たちはそれぞれ李特の所に参じた。李特はそこで、緜竹に大陣営をつくり、流民を収容した。辛冉に〔この事態を〕容認してくれるよう文書を送った。しかし辛冉は大いに怒り、人を派遣して各街道に立て札をたてさせ、李特兄弟〔の命〕に懸賞金をかけ、高額の懸賞金も辞さないことを告知させた。李特はこの立て札を見ると大いにおそれ、立て札をすべて取って帰り、李驤と一緒にその懸賞内容を「六郡の豪族の李・任・閻・趙・楊・上官、及び氐族・叟族の侯王の首一つに絹百匹を与える」と変えた。流民たちはもう移動を嫌がっていたので、みな李特の所に帰順した。〔彼の元に〕馬を走らせ、矢袋をつけ、声を合わせて雲集した。〔その結果〕一ヶ月もしないうちに群衆が二万以上になった。李流も数千の群衆を集めていた。そこで李特は陣営を二つに分けることにし、李特は北の陣営に、李流は東の陣営に留まった。

李特は閻式を羅尚のもとに使わし、〔流民が帰還する〕期日を延ばしてくれるように頼んだ。閻式は〔羅尚のもとに〕着いた後、辛冉が要所要所に柵をめぐらせ、流民を襲おうと画策しているのを見て、「攻撃がないのに城を築けば、怨みは必ず募るだろう。現段階でこんなに早いのだから、もう乱は目に見えているな」と嘆いた。そして辛冉や李苾の意志が変わることのないことを悟ると、羅尚のもとを去って綿竹に戻ろうとした。羅尚は閻式に「あなたは私の意向を流民たちに告げて欲しい。いま聞き入れれば、寛大に処そう」と言った。閻式は「明公(あなた)は妄説に惑わされておられ、おそらく寛大に処理されないでしょう。弱いけれども軽視すべきでないのが民衆です。いま彼らにきちんとした道理もなく催促すれば、民衆の怒りは抑えがたく、少しの禍ではすまされないでしょう」と言った。羅尚は「そうだな。私は君を騙しはしないよ。さあ出発しなさい」と言った。閻式は綿竹に着くと、李特に「羅尚は『そうだな』と言いましたが、信じ切ってはいません。というのも、羅尚は威厳や刑罰がきちんとしておらず、辛冉たちはそれぞれ強兵を擁しています。いったん有事が起これば、羅尚には事態を収拾できないでしょう。本当に備えをするべきです」と言い、李特はそれを受け入れた。辛冉と李苾はともに「羅侯(羅尚)は貪欲で決断力がない。何日経っても同じままだったら、流民たちはよからぬ考えを実行することができ、李特兄弟にはみな雄才があるから、我らはやつらの虜になってしまうだろう。計画を実行に移すべきで、羅尚に相談するに必要はなかろう」と企んで言った。そこで広漢都尉の曽元・牙門の張顕・劉並らに密かに歩兵・騎兵三万を率いさせ、李特の陣営を襲撃させた。羅尚はこれを聞くと、督護の田佐を派遣して曽元らを助けさせた。〔一方の〕李特はもとよりこうなることを知っていたので、武具を修繕し、警戒態勢で彼らを待っていた。曽元らが到着すると、李特はのんびり寝そべって動くことなく、軍勢が半分入ったところで伏兵に襲撃を命じた。敵を殺し傷つけること多く、田佐、曽元、張顕を殺害した。そして彼らの首を羅尚・辛冉に届け見させた。羅尚は将佐に「奴らは去って行くんだ。それなのに広漢(太守の辛冉)は私の言葉を採らず〔に襲って〕、敵の気勢を高めた。こうなった今、どうしてよいものか」と言った。

この時、六郡の流民たちは李特をリーダーに推した。李特は六郡の人で部曲督の李含・上邽令の任臧・始昌令の閻式・諫議大夫の李攀・陳倉令の李武・陰平令の李遠・将兵都尉の楊褒らに命じて上書させ、梁統が竇融を推戴した故事に従って、李特を行鎮北大将軍とし、皇帝の意を受けて〔皇帝に代わって〕爵位・官位を授けるよう,その弟の李流を行鎮東將軍とし,互いを鎮守・統轄させるよう〔朝廷に〕請わせた。そして兵を進めて広漢で辛冉を攻めた。辛冉の軍勢が〔城郭から〕出て戦うたびに、李特は彼らを破った。羅尚は李苾と費遠を派遣して軍勢を率いて辛冉を助けさせたが、彼らは李特を怖がって進もうとはしなかった。辛冉は策略・気力が尽きてしまい、江陽へ逃げ出した。李特は広漢〔の城郭〕に入るとそこを拠点にし、李超を広漢太守とし、さらに兵を進めて成都で羅尚を攻めた。閻式は羅尚に手紙を送り、讒言を信じて流民を討伐したことを責め、また李特兄弟は王室のために功を立て、益州の地を安定させようとしていることを述べた。羅尚は手紙を読んで李特らが大志を抱いていることを知ると、城郭にひきこもって固く守り、梁州・寧州に救援を求めた。そこで李特は使持節・大都督・鎮北大将軍を自称して竇融が河西にあった時の故事通りに皇帝に代わって爵位・官位を授けた。〔その結果、〕李特の兄の李輔は驃騎将軍に、弟の李驤は驍騎将軍に、長子の李始は武威将軍に、次子の李蕩は鎮軍将軍に、少子の李雄は前将軍に、李含は西夷校尉に任命し、李含の子の李國離・任回・李恭・上官晶・李攀・費佗などは将帥と、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達、麹歆たちは爪牙と、李遠・李博・夕斌、厳檉、上官琦、李濤、王懷たちは僚屬と、閻式は謀主と、何巨、趙肅は腹心とした。当時、羅尚は貪欲・残忍で民衆に憎まれていた。他方、李特は蜀の人々に法三章を約束し、貧しい人に施し貸し与えたり、賢者を礼遇し落ちぶれた人を抜擢し、軍規や治世も粛然としていた。そのため民衆は「李特はいいのに、羅尚はうちらを殺す」と謡った。羅尚は幾度も李特に敗れたため、長く続いた堤防を利用して、水路に沿って陣営を作り、都安県から犍為郡までの七百里で李特と対峙した。

河間王の司馬顒は督護の衙博・広漢太守の張徴を派遣して李特を討伐させた。また南夷校尉の李毅は五千の兵士を派遣して羅尚を助け、羅尚は督護の張亀を派遣して繁県の城郭に駐屯させ、三方向から李特を攻めた。李特は〔子の〕李蕩と李雄に衙博を攻撃させ、自身は張亀を攻撃した。張亀の軍勢は大敗した。李蕩は衙博と連日のように接戦を繰り広げたので、衙博も敗れ、大半の死者を出した。李蕩は衙博を漢徳まで追いつめ、衙博は葭萌に逃げた。李蕩はさらに巴西郡へと進攻し、巴西郡の丞の毛植・五官掾の襄珍は郡を挙げて李蕩に降った。李蕩は初めて帰順した郡に対して物を恵み与え救済したので、民衆は安堵した。李蕩は葭萌に進攻し、衙博はさらに遠くへと逃げ、彼の軍勢はすべて李蕩に降った。

太安元年(302)、李特は益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を自称し、年号を建初として、領内に大赦を出した。そして張徴を攻めた。張徴は高くて険しい地勢に頼って李特と連日対峙した。当時、李特と李蕩の陣営は分かれていた。張徴は李特の陣営が手薄なのを窺い知ると、歩兵を派遣して山に沿って攻めた。李特は迎え撃ったが、不利な状況だった。山の険しさは差し迫り、軍勢はどうしていいか分からなかった。羅準と任道は〔李特に〕退却を進言したが、李特は〔子の〕李蕩がきっと来るはずだとふんだので、退却を許さなかった。張徴の軍勢は次第に多くなり、山道も次第に狭くなって人が一人か二人通れるくらいであった。そのため李蕩の軍は進むことができなかった。李蕩は司馬の王辛に「父が深く敵の中にいる。私の死ぬときだ」と言った。そして鎧を重ねて身につけ、長矛を携えて、大声を出して一気に〔敵勢へ〕進み、矛を推しだして決死の覚悟を決め十数人を殺した。張徴の軍勢はさらに来て助け合った。李蕩の軍勢はみな命を賭けて戦い、張徴の軍はとうとう壊滅した。李特は、張徴を釈放して涪県に戻らせようと相談したが、李蕩と王辛は彼の前に進んで「張徴の軍はしきりに戦い、士卒は傷つき、知力・気力ともに尽きています。この疲弊に乗じて張徴を虜にすべきです。もし彼を捨ておいて寛大に処したら、徴は病人を養い死者を回収し、他の軍勢を合わせてしまうでしょう。〔そうなっては〕対処しようとしても生易しいものではありません」と言った。李特もこれを受け入れ、再度張徴を攻めたので、張徴は包囲を解いて逃走した。李蕩は水陸両方から彼を追いつめて、殺害した。張徴の子の張存を生け捕りにし、張徴の亡骸を彼のもとに戻した。

〔李特は〕騫碩を徳陽太守とした。騫碩は巴郡の墊江県まで占領した。

李特が張徴を攻めていた頃、彼は李驤・李攀・任回・李恭に毗橋に軍を駐屯させ羅尚に備えさせた。羅尚は軍を派遣して戦いを挑むと、李驤らはその軍勢をうち破った。羅尚はさらに数千人を繰り出して戦ったが、李驤はまたその軍勢を陥れてうち破り、兵器を甲冑を取り、門を攻めて焼いた。李流は成都の北に進軍した。羅尚は将の張興にわざと李驤に投降させてその様子をうかがわせた。当時、李驤の軍勢は二千人に満たず、張興は夜に戻り羅尚に報告した。羅尚は精兵一万人に木片を口に含ませ興に従わせて李驤陣営を夜襲させた。李攀は迎撃して戦死し、李驤と将士は李流のとりでに逃げ込み、李流と力を合わせて羅尚の軍を攻めた。羅尚の軍は乱れ、敗走して帰還できた者は一、二割だった。晋の涼州刺史の許雄は軍を派遣して李特を攻めたが、李特は陥れてその軍勢をうち破り、さらに進撃して羅尚の水上の軍勢を破り、そのまま成都へ侵攻した。蜀郡太守の徐倹は成都の小城を挙げて投降し、李特は李瑾を蜀郡太守とし慰撫させた。羅尚は成都の大城に立てこもって守った。李流が江水の西に進軍すると、羅尚はおそれて使者を遣わして講和を求めた。

この時、蜀の人々は今後を危ぶみ、みな村落やとりでを作り、李特に命を請うた。特は人を遣わせて彼らを慰撫させた。益州従事の任明は羅尚に「李特は悪逆で、民衆を暴虐を働いています。また手勢を分散して村落やとりでに配置しており、驕り備えをしていません。まさに天が彼を滅ぼそうとしているのです。各地の村落に、秘かに期日を決めて内外から攻めようと告知すれば、彼らを必ずうち破れるでしょう」と説き、羅尚はこれを聞き入れた。任明は先に李特に偽って投降した。李特が〔成都の大〕城の中の様子を尋ねると、任明は「穀物はすでに底をつきかけています。財貨と布帛があるだけです」と言い、ついでに家に帰ることを願い、李特はこれを許した。任明は隠密に各地の村落に説き、すべての村落がその命を聞き入れた。〔任明は〕戻って羅尚に報告し、羅尚は期日に軍勢を繰り出すことを認め、各村落もまた、その時に軍勢に加わって決起することを許した。

二年(303)、恵帝は荊州刺史の宋岱・建平太守の孫阜に羅尚を救援させた。孫阜がほどなく徳陽に駐屯すると、李特は〔子の〕李蕩の督の李璜・助の任臧を派遣して孫阜に対峙させた。羅尚は大軍を派遣して李特の陣営を急襲し、二日連続で戦った。李特の軍勢は少なくてはむかえず、大敗した。残兵を収拾して退いて新繁県に向かった。羅尚の軍が引き返すと、李特は追いかけて三十里余りにわたって戦い、羅尚は大軍を出して迎撃したため、李特の軍勢は敗北した。〔羅尚は〕李特や李輔・李遠を斬り殺し、その屍を焼き、首を洛陽に送った。〔李特の〕在位は二年であった。その子の李雄が王を僭称すると、李特を追諡して景王とし、皇帝を僭称すると追尊して景皇帝、廟号を始祖とした。

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