(このページの先頭)
update:2021.01.11 担当:阿部 将
晋書巻六十
列伝第三十
解系 弟結 結弟育
人物簡介

 解系(?〜300)は字を少連といい、済南郡著県の人。弟の解結・解育とともに清廉潔白で有名であった。雍州刺史・揚烈将軍・西戎校尉・仮節に任命された。氐族・羌族の反乱討伐の際、孫秀を信頼する征西将軍の趙王司馬倫と作戦で意見対立し、解系の奏上が認められて趙王司馬倫は呼び戻された。また、解系は孫秀を弾劾する奏上をおこなうなどして、趙王司馬倫と孫秀から恨みを買い、罷免された。永康元年(300)、趙王司馬倫が政権を牛耳ると、過去の恨みから捕らえられて処刑された。趙王司馬倫の敗死後、斉王司馬冏の奏上によって名誉を回復し、光禄大夫を追贈された。

 解結(?〜300)は字を叔連といい、解系の弟。兄の解系・弟の解育とともに清廉潔白で有名であった。御史中丞に任命された。永康元年(300)、趙王司馬倫が政権を牛耳ると、過去の恨みから捕らえられて処刑された。趙王司馬倫の敗死後、名誉を回復して光禄大夫を追贈された。

 解育(?〜300)は字を稚連といい、解系・解結の弟。兄の解系・解結とともに清廉潔白で有名であった。弘農太守に任命された。永康元年(300)、兄の解系・解結とともに処刑された。

本文

解系は字を少連といい、済南郡著県の人である。父の解脩は、魏の時代に琅邪太守、梁州刺史を務め、その治績評価は天下第一であった。武帝(司馬炎)が受禅すると(265)、梁鄒侯に封じられた。

解系と二人の弟の解結と解育は揃って清廉潔白であり、大きな名声を博していた。当時は荀勗の一門が勢い盛んであり、天下の人々から畏れ憚られていた。荀勗の子どもたちは解系らに「私とあなたとは友人であるから、私の父に向っても拝礼すべきだ」と言った。荀勗もまた「私とあなたの父上とは親交が厚かった」と言った。それに対し解系は「〔そのようなことは〕父から遺命を受けていない。もしあなたと父と親交が厚く、以前に哀悼を示したのであったのなら、きっと手紙で見舞われたはずだ。親交が厚かったというお言葉をどうしても認めることができない」と言った。荀勗父子は大いに恥じ、当時の人々はこれを壮とした。後に公府の掾として招かれ,中書黄門侍郎、散騎常侍、予州刺史を歴任して、尚書に昇進し,地方へ出て、雍州刺史・揚烈将軍・西戎校尉・仮節となった。

ちょうどその時、氐・羌族の反乱が起こり、征西将軍の趙王司馬倫とともにこれを討伐した。趙王司馬倫は口先うまくこびへつらう孫秀を信じて〔その言葉を〕用い、解系と作戦について争い、互いに作戦案を奏上した。朝廷は解系が正道を守って正直であることを知り、趙王司馬倫を召還した。解系は孫秀を殺して、氐・羌族に謝罪するように上表したが、〔朝廷は〕取り上げなかった。趙王司馬倫と孫秀は解系を誹謗し、解系は罪に陥って免官となり、白衣で家に帰って、門を閉じて謹慎した(1)。張華と裴頠が誅殺されるに及んで、趙王司馬倫と孫秀は旧怨から解系兄弟を捕らえた。梁王司馬肜が解系らを救うと、趙王司馬倫は怒り「私は川で蟹を見ると蟹を憎むほどなのだ、まして人間である〔解系〕兄弟が私を軽んじることに至っては言うまでもなかろう(2)!これをもし耐えられるのだったら、ほかに耐えられないことがあろうか!」梁王司馬肜は趙王司馬倫と執拗に争ったが敵わず、〔司馬倫は〕解系を殺し、あわせて解系の妻子も殺戮した。

後に斉王司馬冏が挙兵した時、裴頠と解系兄弟を冤罪の最たるものとした。趙王司馬倫と孫秀が殺されると、斉王司馬冏は奏上した。「臣は、衰退した家を復興させ、断絶した家を継続させることは、聖天子の善政であり、悪事を貶め善事を賞賛することは『春秋』の美談であると聞いております。これによって〔周の〕武王は比干(3)の墓に土を盛って位を贈り、商容(4)の村里の門に表彰を与えましたが、本当に死者と生者との道理は相通じ合っているものだからです。孫秀が乱を起こして、天子を助けるべき〔諸侯王の〕国を滅ぼし、気骨ある家臣を誅し、そうすることによって王室の権威を失墜させ、その暴虐をほしいままにし、功臣の子孫の多くが滅ぼされました。張華、裴頠の如きに至っては、各々当時〔孫秀に〕恐れ憚られたために誅殺され、解系、解結はともに品性・道徳が高潔であったために殺され、欧陽建らは無実の罪によって死に、人々は彼らを憐れんでおります。陛下は日月の光輝を取り戻され、新たに下された輝かしい命令を布かれましたが、解系らには未だにその恩恵が行き渡っておりません。むかし欒・郤両氏が衰微したとき、『春秋』はその人を伝えました。幽王が功臣の家を断絶させ、賢者の子孫を棄てたとき、詩人はそれを風刺しました。臣はかたじけなくも高官となり、股肱の臣として尽くそうと思い、愚見を申し上げたく存じます。もし聖意と合うのでしたら、官僚たちにこの議案を協議させるべきです(5)。」尚書ら八人による会議にて議論し、「解系らは清廉潔白であり、邪悪な者によって深く恨まれて、無実で横殺されたとは、その冤罪痛恨はまことに甚だしいものがあります。大司馬(斉王司馬冏)の申したように、曲直を明らかにし、当否を顕かにし、冤罪で死んだ者の魂が恥じ恨むことのないようにすれば、〔死者に〕恩を与えることが大きくなります」と申し述べた。永寧二年(302)、光禄大夫を追贈され、改葬され、弔いの祭を加えた。

解結は字を叔連といい、若くして解系と名声を等しくした。公府の掾として招かれ、黄門侍郎へと昇進し、散騎常侍、予州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴任した。

孫秀が関中で争乱を起こした時、解結は全閣僚の会議にて孫秀の罪は誅殺に当たると議論し、そのため孫秀は解結を恨んだ。解系が殺されると、解結も同様に殺された。解結の娘は裴氏に嫁ぎ、明日まさに裴家に入ろうとした所に、〔解結らが殺されるという〕禍が起き、裴家は彼女を婚姻を認めて生かそうとしたが、彼女は「我が家がこのようなことになったのに、私だけがどうして生きることができましょうか!」と言い、同じく処刑された。朝廷はついに旧制を改正することを議論し、娘は〔その一族の〕罪に連座しないことになったが、これは解結の娘〔の死罪〕が発端となって始められたものである。後に光禄大夫を追贈され、改葬され、弔いの祭を加えた。

解結の弟の解育は字を稚連といい、その名声は二人の兄に並ぶほどであった。公府の掾、太子洗馬、尚書郎、衛軍長史、弘農太守を歴任したが、二人の兄とともに殺され、妻子は辺境へと流された。

更新履歴
この頁の最初へ