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update:2021.01.11 担当:菅原 大介
晋書巻八十九
列伝第五十九
劉沈
人物簡介

 劉沈(?〜304)は字を道真といい、燕国薊県の人である。劉岱の子。忠義心が強く、決断力があり、博学で古い時代の事物を好んだ。燕国の大中正となり、霍原の二品昇格の際などの明快で威厳がある言辞で称賛され、後に侍中に昇進した。蜀で反乱が起きると、侍中の官職で討伐軍の指揮に当たることになったが、河間王司馬顒によって軍司として長安に留められ、雍州刺史を兼任した。張昌が反乱を起こすと、討伐に向かうことになったが、司馬顒の妨害で出征できなかった。司馬顒が張方に洛陽の恵帝を攻撃させると、王瑚らの「囲魏救趙」の計で長安の司馬顒を攻撃するよう劉沈に対して詔が下されたため、永興元年(304)正月、挙兵した。皇甫澹の奮闘で司馬顒を追い詰めたが、結局敗北して処刑された。

本文

劉沈は字を道真といい、燕国薊県の人である。代々北部の州の名族であった。若くして州や郡に仕え、博学で古い時代の事物を好んだ。太保の衛瓘に招聘されて掾になり、本籍の国(燕国)の大中正を兼任した。儒学の教えを尊重し、賢く才能のある人を愛し、霍原を昇格させて二品とした際(1)や、張華の冤罪を弁明した際には、いずれも言葉の趣が明快で威厳があり、当時の人に称賛された。

斉王司馬冏が政治を補佐するようになると、招かれて〔司馬冏の大司馬〕左長史となり、侍中に昇進した。当時李流が蜀で反乱を起こしていたので、劉沈が侍中・仮節の官職で、益州刺史の羅尚や梁州刺史の許雄らを統率して李流を討伐するよう詔があった。〔洛陽を〕出発して長安に着くと、河間王司馬顒は劉沈を留めて軍司になるよう要請し、席薳を遣わして劉沈の代わりとした。〔劉沈は〕後に雍州刺史を兼任した。張昌が反乱を起こすと(303)、劉沈に〔雍〕州兵一万人と征西〔将軍〕府五千人を率いて藍田関から張昌を討伐させるよう司馬顒に詔が下されたが、司馬顒は詔に従わなかった。劉沈はみずから州兵を率いて藍田に至ったが、司馬顒は劉沈の率いた兵を力ずくで奪った。長沙王司馬乂は劉沈に武官四百人を率いて〔雍〕州に帰還するよう命じた。

張方が京都に迫っていて、官軍がたびたび敗北すると、王瑚(2)と祖逖は司馬乂に対して言った。「劉沈は忠義心が強くて決断力や勇気があり、雍州の兵力は河間地方を制圧するのに十分ですので、詔して〔兵を〕劉沈に与えるよう奏上し、〔劉沈に〕兵を進発させて司馬顒を襲わさせるべきです。司馬顒は窮地に追い込まれて、必ず張方を召還して自分を救援させるでしょう。この計略が良いです(3)。」司馬乂はこの進言に従った。劉沈は詔に忠実に守って四方に檄を飛ばし、七郡の軍勢とさまざまな防衛部隊、防衛用土塁の守備兵の合計一万余人を併せ、安定太守の衛博(4)、新平太守の張光、安定功曹の皇甫澹を先鋒として、長安を襲撃させた(5)。司馬顒は当時鄭県の高平亭に駐屯して、東に向かった〔張方が率いる〕軍を遠くから支援していたが、劉沈が挙兵したと聞くと、渭城に戻って守備し、督護の虞夔に歩兵と騎兵一万余人を率いさせて好畤で劉沈を迎撃させた。交戦し、虞夔の軍勢が破れると、司馬顒は大いに懼れ、長安に退却し、予想通り張方を急いで呼び戻した。劉沈は渭水を渡ると防塁を築いたので、司馬顒が兵を遣わして出撃するごとに、必ず勝てなかった。劉沈は勝利に乗じて攻勢に出て、皇甫澹と衛博に精鋭兵五千を率いて長安門から侵入させ、〔皇甫澹と衛博が〕奮戦して司馬顒の本営まで迫った。劉沈の本軍は進軍が遅れたため、司馬顒の軍は皇甫澹らに後続の軍がないことを見て取り、士気は倍増した。馮翊太守の張輔は軍勢を率いて司馬顒を救援し、側面から攻撃し、府門にて大いに戦い、衛博とその子らは死に、皇甫澹は生け捕りにされた。司馬顒は皇甫澹の勇壮さを貴重に思い、皇甫澹を生かしておこうと考えた。皇甫澹はどうしても屈服しなかったので、殺された。劉沈軍は結局敗北し、敗残の兵を率いて元の軍営に駐屯した。張方が部将の敦偉を派遣して〔劉沈の軍営を〕夜襲させると、劉沈軍はたいへん驚いて壊滅し、〔劉沈は〕麾下百余人とともに南に逃げたが、陳倉令に捕らえられた。劉沈は司馬顒に向かって言った。「そもそも知人の恩顧は軽く、父・師・君に対する三つの節義は重い(6)。君主の詔に違反して、〔皇帝と司馬顒の〕強弱を推し量ってまで我が身を全うすることはできない。袂を振り払って決起した日に命を捨てることを覚悟したのであるから、殺害されてその身を塩漬けにされるような殺戮を受けたとしても、〔食べると甘い〕ナズナのように甘いぞ。」〔劉沈の〕言葉は悲憤の感情で溢れていたので、見ている者は劉沈を哀れんだ。司馬顒は怒り、劉沈を鞭打った後に腰斬の刑にて殺害した。知識ある者は司馬顒が皇帝に刃向かって順序を犯し、忠臣を殺戮していることから、その滅亡が近いことを知ったのである。〔はたして司馬顒はまもなく滅亡したのであった。〕

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