(このページの先頭)
update:2021.01.11 担当:スート
晋書巻九十一
列伝第六十一
范平
人物簡介

范平(生没年不詳)は字を子安といい、呉郡銭塘県の人である。古典に精通し、姚信や賀邵を教えた。呉の時代に臨海太守にまで昇進し、治政に優れていた。孫晧が皇帝になってまもなく病気を理由に官を辞し、晋の時代になっても出仕することはなく、太康年間に卒した。享年六十九。文貞先生と諡された。子孫は儒学者が多く、家には七千巻以上の蔵書があった。

本文

范平は字を子安といい、呉郡銭塘県の人である。その先祖である銍侯の范馥は、王莽の乱を避けて呉郡に行き着き、そこに家を構えた。范平は深く古典を研究し、様々な説に広く通じていたので、姚信・賀邵といった人物は(1)、みな彼の授業を受けた。呉の時代、茂才に推挙され、次第に昇進して臨海太守となったが、政治力は甚だすぐれたものであった。孫晧(在位264〜280)の初年、病気と称して家へ帰ると、ひたすら儒学の研究を楽しんだ。呉が平定された後、太康年間(280〜289)に頻繁に召し出されたが応じず、六十九歳で卒した。「文貞先生」という諡号を贈るよう詔勅があり、賀循はその徳行を石に掘り込んで記した。

三人の息子の范奭・范咸・范泉は、みな儒学をもって大官に至った。范泉の息子の范蔚は関内侯に封ぜられた。家は代々にわたって学問を好み、七千冊以上の蔵書があった。遠近を問わず読書しに来る者は常に百人を超えていたため、范蔚は彼らに衣食を提供した。范蔚の息子の范文才もまた、幼い頃から名を知られた。

更新履歴
この頁の最初へ