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晋書巻二
帝紀第二
景帝
人物簡介

景帝司馬師(208〜255)は字を子元といい、宣帝司馬懿と宣穆張皇后の長子で、司馬昭・司馬榦の同母兄である。司馬懿の後を継いで権力を握ると、大将軍となって内外の敵を斥け、正元元年(254)には魏帝曹芳を廃立して曹髦を皇帝に立てた。正元二年(255)正月、揚州の毋丘倹・文欽による反乱を平定した際に陣中で持病の瘤が裂けてしまい、許昌に帰還した後に崩じた。享年四十八。

本文

景皇帝は諱を師、字を子元といい、宣帝(司馬懿)の長子である。風采は雅やかで、落ち着きがあって意思が強く、人並みすぐれた知略をもっていた。若い頃から評判がよく、夏侯玄・何晏と並ぶ名声を博していた。何晏は常々〔司馬師を〕称して、「『〔聖人は〕変化極まりなき理に通じているから、天下の事業を成就することができる(『易経』「繋辞伝上」)』というのは、司馬子元のことである」といっていた。魏の景初年間に散騎常侍に任ぜられ、徐々に昇進して中護軍となった。人材登用の法を整備し、推挙する人材を誤ることがなかったため、役人は私心を持たなくな〔り悪事をしなくな〕った。宣穆皇后(母・張氏)が崩じた際、喪に服したことにより孝名が広まった。

宣帝が曹爽を誅殺しようという時(249)には、深く謀計をかまえ策略を秘密にして、ひとり帝(司馬師)とのみひそかに計画したので、文帝(司馬昭)はこの計画を知らず、出発しようという時になって(1)ようやくそれを〔司馬昭に〕告げた。しばらくして〔司馬懿が〕人をこっそりと見にやらせると、帝はいつもと変わらない様子で寝ていたが、文帝は落ち着いていることが出来なかった。〔司馬師は〕夜明けに司馬門に兵を集め、〔城の〕内外を鎮め、甚だ整然と陣を布いた。宣帝は「この子はきわめて優れた子だ」といった。もともと帝はひそかに死を覚悟した壮士たちを三千人ほど養っており、〔普段は〕巷に散らばっているのだったが、事が起こるに及びたちまちに集まり、みなどこから現れてきたのか分からなかった。〔曹爽誅伐の〕事件がおさまると、その功績によって長平郷侯に封ぜられ、食邑千戸を加増され、やがて衛将軍を加えられた。宣帝が薨ずると(251)(2)、論者はみな「伊尹が亡くなったとき、伊陟が後を継いで事業に当たった。〔よって、司馬懿が亡くなった今、司馬師にその役割を引き継がせるべきである。〕(3)」といったので、天子(曹芳)は帝に撫軍大将軍として輔政することを命じた。

魏の嘉平四年(252)春正月、大将軍となり、侍中を加えられ、持節・都督中外諸軍・録尚書事となった。百官に命じて賢才を推挙させ、年少と年長の区別を明らかにし、貧しいものや一人身のものをあわれみ、長い間用いられていなかった賢人を用いた。諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰・胡遵らが四方を統率し、王基・州泰・鄧艾・石苞らが州郡を治め、盧毓・李豊が官吏選抜を担当し、傅嘏・虞松が謀事に参与し、鍾会・夏侯玄・王粛・陳本・孟康・趙酆・張緝らが朝議にあずかり、天下が〔司馬師を〕敬慕して、官民ともに乱れはなかった。制度を改めるよう請うものがあったが、帝はいった、「『知らず知らずのうちに、〔その行うところが〕上帝の則に従ってはずれない(『詩経』大雅・文王之什・皇矣篇)』というのは人の幸いをうたったのものである。三祖(曹操・曹丕・曹叡)によってととのえられた制度は、忠実に守り従うべきものである。軍事でないかぎりは、妄りに改革を行うべきではない。」

五年(253)夏五月、呉の太傅諸葛恪が〔合肥の〕新城を包囲すると、朝廷では諸葛恪が兵を分けて淮水・泗水流域に攻め込むことを心配し、川のほとりにあるそれぞれの関所を守ろうとした。帝はいった、「諸葛恪は呉で政権を握ったばかりであるから、一時の利益を求めようとして、合肥に兵を集め、万に一つの幸運を願っても、さらに青州・徐州まで攻め込む余裕はないだろう。〔つまり諸葛恪は合肥のみを狙うはずである。〕そのうえ関所は一つではないので、〔各関所をおさえて〕たくさんの場所で守ろうとすれば多くの兵が必要であり、〔兵の密度が小さくなることを避けて〕少ない場所で守るならば侵攻を防ぐことが出来ない。〔以上のことから関所ごとに守る策はよろしくない。〕」果して諸葛恪は兵を合肥に集め、結局〔帝の〕予想通りとなった。帝はそこで鎮東将軍毌丘倹・揚州刺史文欽らにこれを防がせた。毌丘倹・文欽は出撃して戦うことを願ったが、帝はいった、「諸葛恪は軽装で〔敏速に進軍して領内へ〕深く侵入し、兵を死地に置いているので、その鋒先にあたるのは容易ではない。その上新城は小さいとはいえ堅固な城であり、これを攻められても落城することはないだろう。」そこで諸将に命じ砦を高くして呉軍の侵攻を防いだ。対峙すること数ヶ月、諸葛恪は力を尽くして城を攻めたが、大半の将兵が死傷した。帝はそこで文欽に精鋭を率いて合楡に向かわせ、呉軍の退路に待ち伏せさせ、毌丘倹に諸将を率いて後詰をさせた。諸葛恪は怖れて逃げ帰ったが、文欽が迎え撃ち、大いに諸葛恪を破り、一万余りの首級を挙げた(4)

正元元年(254)春正月(5)、天子(曹芳)と中書令の李豊・皇后の父で光禄大夫の張緝・黄門監の蘇鑠・永寧署令の楽敦・〔中黄門〕冗従僕射の劉宝賢らは帝にかえて太常の夏侯玄に輔政させようと計画した。帝は密かにこれを知り、舎人王羨を派遣し車をもって李豊を迎えさせた(6)。李豊は強要されて、王羨に伴われてやってきたので、帝は李豊を難詰した。李豊は〔計画がばれ〕禍いがふりかかったことを悟ったので、悪口を並べたてた(7)。帝は怒って、強力の勇士に刀の柄でこれを叩き殺させた。夏侯玄・張緝らを逮捕し、それぞれ三族皆殺しに処した。

三月、天子に皇后張氏を廃するようにそれとなく諌めると、〔天子は〕詔を下していった、「姦臣の李豊らは讒言を行い悪事をなし、ひそかに道理に背いたことを計画した。大将軍(司馬師)は天の法を慎重に代行し(8)、これを誅殺した。周勃が呂氏を亡ぼし(9)、霍光が上官桀を捕らえたのも(10)、どうしてこれ以上でありえようか。九千戸を増邑し、これまでと合わせて四万戸とする。」帝は固辞して受けなかった。

天子は夏侯玄・張緝らが誅殺されたことで、心中大変落ち着かない思いでいた。そこで帝はまた変事が起こることを心配し、ひそかに皇帝廃立を謀り、そして魏の永寧太后(曹叡の后・郭皇后)に言上した。秋九月甲戌の日(19日)、太后は令(太子や皇后、諸王による命令)を下していった、「皇帝芳はすでに青年に達しているのに、政治にたずさわらず、気に入った婦人におぼれ、女色にうつつをぬかし、毎日役者を近付け、醜悪な戯れをしたい放題し(11)、後宮の女たちの縁戚の婦人を迎えて内殿に留めおき、人のふみ行うべき秩序をうちこわし、男女の節度を乱している。また、つまらぬ人物たちのいうがままになり、いまにも社稷を傾けようとしており、宗廟を受け継ぐことは不可能である。」帝が群臣を呼んで会議を開き、涙を流して、「皇太后の命令はこの通りである。諸君よ、王室をどうしたらいいものだろうか。」というと、一同は答えた、「伊尹は太甲を放逐することで殷王朝を安泰させ(12)、霍光は昌邑王を廃して漢王朝を安んじ(13)、〔いずれも〕臨機応変をもって社稷を安定させ、天下を平穏にしました。古代では殷・漢の二代がこれを行いましたが、現代では殿がその立場におられます。今日の〔皇帝廃立の〕事につきましては、ただ殿の命令に従うだけです。」帝はいった、「諸君にかくも大きな期待をされているのに、どうして敢えてこれを避けられようか。」そこで大臣・高官らとともに皇太后に上奏した、「私は天子というものは、多くの人民を養い育み、永く万国を安定させるものだと聞いております。皇帝はすでに成人なさっているにも関わらず、いまだ政治をみようとせず、毎日郭懐や袁信らといったつまらぬ役者たちに裸で戯れさせたりしております。また広望観の下で〔郭懐・袁信らに〕遼東の妖婦の格好をさせ、通行人は目をおおわないものがないありさまです。清商令の令孤景が帝をお諌めしたときには、帝は鉄を焼いてそれを彼に押し当てました。皇太后が母上の合陽君の喪に服している間(14)、帝は平然としてたわむれ楽しんでおりました。清商丞の龐煕が帝をお諌めしても、帝はお聴きになりませんでした。皇太后が北宮にお帰りになり、張美人を殺しておしまいになったところ、帝は非常に恨みお怒りになりました。龐煕が帝をお諌めしたとき、帝は怒って、またも龐煕をはじきでお撃ちなさりました(15)。いつも文書が入れられても、帝は御覧になろうとなさりません。皇太后は帝に式乾殿で学問をさせようとなさっていましたが、帝はやはりお従いになりませんでした。〔このような方が〕天の順序に従い皇統を継ぐことは不可能です。私は前漢の霍光の故事にならい、皇帝の印綬を取り上げ、〔帝を〕斉王に帰藩させられますようお願い申し上げます。(16)」上奏は受け入れられ、ここにおいて有司(所管の役人)が太牢(牛・羊・豚の三種の犠牲)を供え、策書に記して宗廟に報告し、斉王(曹芳)は副車に乗り、群臣が付き添って西掖門までやってきた。帝は泣いていった、「昔から私は魏王室より代々の手厚い待遇を受け、先帝(曹叡)は崩じられる際、遺詔を託された。私はまた重大な任務をかたじけのうしたが、役に立つことを進言し否とすべきものを却けるということができなかった。大臣高官諸君、遠く古くから伝わるしきたりを思いやり、社稷をまもるに充分な計画を立て、たとえ玉体にそむこうとも、宗廟の祭祀を絶やさないようにしようぞ。」そして使者に節を持たせ〔斉王を〕護送させ、河内の重門にとどめ、郭懐・袁信らを誅殺した。

この日、群臣と誰を皇帝に擁立するかを話し合った。帝はいった、「まさに今、天地は治まっておらず、蜀・呉の二国が覇権を争っており、四海を治める人物は、徳行が高く、ものの道理をよく知っていなくてはならない。彭城王の曹拠は、太祖(曹操)の子であり、その賢は、仁徳聖徳にすぐれ、明らかで誠があり、その年齢は皇室の中でもっとも年長である。天子の位は非常に重いものであり、その〔曹拠の優れた〕才能を得ることができなかったならば、天地四方を治めることはできない。〔よって曹拠を皇帝として擁立すべきである。〕」そこで群臣とともに皇太后に奏上した。皇太后は彭城王が先帝(曹叡)の叔父であることから、皇統を継ぐ順序として正しくない(17)、つまり烈祖(明帝・曹叡)の血筋が長くあとを受け継ぐことにならないとし〔難色を示し〕た。東海定王(曹霖)は明帝の弟であったが、〔皇太后は〕その息子の高貴郷公曹髦を皇帝に立てようとした。帝は強く反対したがかなわず、皇太后の命令にしたがい、使者を遣わして高貴郷公を元城に迎え、皇帝に立てて、元号を改め正元とした。天子は印綬を受け取ることをかろんじ、〔おごりたかぶって〕足の挙げ方が高かったので、帝はそのことを聞いて曹髦〔が天子の器でないこと〕を心配した。いよいよ群臣一同に謁見しようというとき、帝は天子に戒めていった、「そもそも聖王は始めを重んじ、根本を正し最初を敬うというのは昔の人が注意しておこなったことです。明日は群臣が集まりますが、みなが陛下の威儀にみちたお姿を仰ぎ見ようとし、大臣は陛下の玉音をお聴きしようとしているのです。『詩経』にいわれております、『民に対して接するに軽佻でなく、〔君子は〕これを手本とする(18)』と、また『易経』には、『なにか言ったとしてそれが善言であるならば、千里の外にいる人々までもこれに応じ和す(繋辞上)』といわれております。貴賎に伴う礼法は充分に備わっていると申しましても、それでもさらに慎みの態度を重ね、四海の者が陛下を敬慕して仰ぎ見る姿を副えなくてはなりません。」

癸巳の日(19)、天子は詔を出していった、「朕は、建国の基礎を築く君主は必ず股肱の臣を必要とし、また体制を守るものは輔弼の臣の輔佐に頼る、と聞く。それゆえに文王・武王は呂尚(太公望)・召公の天命を受け〔文王・武王が天下を治めるのを輔け〕た功績をあきらかにし、宣王は仲山甫の尽力により中興の業を成し遂げることとなった(20)。大将軍(司馬師)は代々立派な徳行を行い、臨機応変に〔魏王朝を〕輔佐してきた。天が危難を降し給うのにあい、帝室は難事が多く、斉王は政を見るも法典に従い行うということをしなかった。公(司馬師)は正義を行い忠節を貫き、中華を安寧にし、法律を全国に施行し、あらゆる政務を統括している。国内では賊徒の暴虐をくじき、国外では奸悪なるものを鎮め、昼食をとる暇がないほど身をやつして働き(21)、朝早くから夜遅くまで苦労している。有徳の評判は天地にまで高くかがやき、勲功は四方に及んでいる。大問題について深く考えをめぐらし、良策を首唱し、臨機応変の処置で社稷を安定させ、朕が身を立てるのをたすけ、〔そのために〕宗廟は安んじられ、万民は〔司馬師が〕頼りになるので喜んでいる。〔その功績は〕伊尹が殷王朝をたすけ治め、周公旦が周王朝を安んじたことでさえも、上をゆくものではない(22)。朕は非常にそのことを嬉しくおもう。徳のさかんなるものは位高く、功績の大きいものは俸禄が多いというのは、今も昔も変わらぬことである。よって〔司馬師の〕位を進めて相国とし、邑九千戸を加増して以前と合わせて四万戸とし、大都督・仮黄鉞に昇進させ、入朝不趨奏事不名剣履上殿を許す。銭五百万、帛五千匹を下賜し、その大功を明らかにする。」帝は相国の位だけは固辞して就かなかった。

また上書して天子を戒めていった、「荊山の璞玉(玉の原石)は美しいけれども、みがかなければ宝玉とはならず、顔回・冉求の才能があったとしても(23)、学ぶことをしなければその力量はひろがりません。孔子がいっております、『自分は生まれながらにして道理を知っていた聖人でもなんでもない、ただ古の聖人の学を好み一生懸命これを求めたものにすぎない(『論語』述而篇)』と。黄帝以来の五代の帝を仰ぎ見ますに、天命にのっとらなかったことはなく、顓頊は緑図に学問を受け、帝嚳は柏招に人の道を尋ねました(24)。周の成王の頃に至って、周公旦・呂尚らが補佐したので、経書の読誦と解釈を学び、その意味を明らかにすることができ(25)、〔万民は〕人のふみおこなうべき道に落ちつき仕事を楽しむことが出来ました。そうであってこそ、上においては君主の道が明らかになり、下においては万民がしたがうのです。刑罰を用いないでの隆盛は、全くそういうことによって達成されるのであります。よろしく先王が下問なさった例におならいになり、書物の意義を読み究めたことをしばしば政庁に伝え聞かせ、古の聖賢の訓戒の言葉を日毎に側においてくださいませ。」あるとき天子は派手な飾りを装っていたが、帝はまた諌めていった、「即位にともない改元し、初めて政務をお執りになるにあたり、どうか飾り立てることのない奥ゆかしさを貴んでください。」〔天子は〕敬意を払うと同時にその言をいれ〔派手な装いをやめ〕た。

十一月、白気が空を横切った(26)

二年(255)春正月、呉楚の分野で彗星が現れ、西北の空いっぱいに尾を引いた。

鎮東大将軍毌丘倹・揚州刺史文欽は兵を挙げて反乱し、皇太后の令旨を偽造して郡や国に檄文を送り、城の西門の外に祭壇を築き誓いを立て、それぞれ四人の子を呉へ人質にして、救援をたのんだ。二月、毌丘倹と文欽は六万の軍勢を率いて淮水を渡り西へ進軍した。帝が大臣たちと会議して征討の方策を謀ったところ、朝廷には諸将を遣わしてこれを討伐させるべきという意見が多かったが、王粛及び尚書傅嘏・中書侍郎鍾会らは帝が自ら討伐に当たるよう勧めた。戊午の日、帝は中軍の歩兵騎兵合わせて十余万を率いてこれを征討した。通常の行程の倍の速度で進軍し、三方に兵を召集し、陳留・許昌の郊外に集結した。

〔閏正月〕甲申の日、[シ隱:018717]橋に陣をかまえたところ、毌丘倹の武将史招・李続らが相次いで降伏してきた。毌丘倹・文欽が項城に移ると、帝は荊州刺史王基に軍を進め南頓を占拠させて、毌丘倹へせまらせた。帝は塁壁を高く深くし、東方の諸軍の集結を待った。諸将は進軍して城を攻めることを願ったが、帝はいった、「諸君はその一を知ってはいるが、まだ二を知らない。淮南の将士にはもともと謀反の心はなかったのだ。その上しかも毌丘倹・文欽は縦横家のやり方にならおうとし、蘇秦・張儀(戦国時代の縦横家)の説を学び、遠方も近隣も必ず反乱に応ずるといっていた。しかるに事を起こした日には、淮北が従わず、史招・李続らは前後して瓦解した。内外が叛き、必ず敗れるであろうことは自明であるが、追いつめられた獣は闘わんとするから、速戦することはなおさら彼らの望むところである。必ず勝つとはいえ、負傷者もまた多くなる。かつ毌丘倹らは将士をだましたぶらかし、あらゆることで嘘をついているが、しばらくのあいだ持久戦に持ち込めば、いつわっていたことが自然と露呈してしまう、つまり戦わずともこれに勝てるのである。〔従ってこちらから攻めることは控えるべきである。〕」そして諸葛誕に豫州の諸軍を督させ安風から寿春へ向かわせ、征東将軍胡遵には青州・徐州の諸軍を譙・宋の方面へ出撃させ、毌丘倹らの退路を絶った。

帝は汝陽に駐屯し、兗州刺史鄧艾に太山(泰山)の諸軍を率いて楽嘉に進駐させ、弱いと見せかけて敵を誘った。文欽が軍を進め、まさに鄧艾を攻撃しようというとき、帝はひそかに軍に枚を含ませ、楽嘉へ至り、文欽軍と遭遇した。文欽の子である文鴦は、年は十八で、勇敢さは全軍随一であったが、文欽にいった、「敵のまだ落ち着いていないうちに、城郭に登り鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげてください、敵を攻撃すれば撃ち破ることができます。」そしてひそかに軍を進め、三度〔魏軍を〕さわがしたが文欽はそれに応じることができず、文鴦は退き、ともに兵を引き東へ向かった。帝は諸将に向かっていった、「文欽は逃走するだろう。」精鋭に命じてこれを追撃させた。諸将はみないった、「文欽は古参の大将、文鴦は若いが意気盛んであり、軍を引いて城内にこもっても、まだ利を失うことはなく、絶対に逃げないであろう。」帝はいった、「一たび鼓を打てば意気が揚がり、二たび鼓を打てば気は衰え、三たび鼓を打てば意気は尽きる。文鴦は三度鼓を打ち鳴らし〔出撃し〕たが、文欽は応じず、その勢いはすでに失われている。逃げないとしたら、〔敵は〕一体何をあてに抗戦するというのだ。」文欽がまさに逃げようとするとき、文鴦はいった、「先に敵の勢いをくじかなければ、逃げ切ることは出来ません。」そして勇敢な騎兵十余騎とともに〔魏軍の〕先鋒を撃ち破り陣をおとし、向かうところの敵はみな薙ぎ倒され、その上で〔文欽らは〕退却した。帝は左長史の司馬璉に近衛の騎兵八千騎を率いてこれを追撃させ、将軍の楽 綝らに歩兵を率いてその後詰とさせた。沙陽に到着し、次々に文欽の陣をおとし、弩や矢を雨のように降らせたので、文欽は楯で身を覆いながら馬を走らせ逃げた。おおいに文欽の軍を破り、兵士たちはみな武器を捨て降伏し、文欽父子は麾下とともに撤退して項を守った。毌丘倹は文欽が敗れたと聞くと、人々を棄てて夜中のうちに淮南へ逃走した。安風津都尉が毌丘倹を追ってこれを斬り、都へ首級を送った(27)。文欽はとうとう呉へ逃亡し、淮南は平定された。

もともと、帝は目に悪性の瘤があったので、医者にこれを切り取らせた。文鴦が攻め寄せると、〔それを聞いた帝は〕驚いた拍子に目玉が出てしまった。全軍が恐慌を来すのを懼れ、これを布団でおおいかくしたところ、痛みが激しく、布団を噛んでボロボロにしてしまったが、側近たちに〔帝の病のことを〕知る者はなかった。閏〔正〕月には病は重くなり、文帝(司馬昭)に諸軍を統率させた。辛亥の日(28日)、許昌において崩じた。四十八歳であった。

二月、帝の亡骸が許昌から〔洛陽へ〕到着し、天子は喪服姿で告別式に臨み、詔していった、「公(司馬師)は世を救い国を安んじた勲、禍を鎮めた功績があり、その上王事に殉じて死んだので、よろしく特別に礼を加えるべきである。大臣に〔死後の加礼の〕制度について議論させよ。」所管の役人が相談し、その忠義は社稷を安んじ、功績は天下に知れわたっていることから、宜しく霍光の故事にならうべしとしたので、大司馬の位を大将軍に冠し、邑五万戸を加増し、諡して武公といった。文帝(司馬昭)が上表して辞していった、「私の亡き父(司馬懿)はどうしても丞相・相国・九命の礼をお受けせず(28)、亡き兄(司馬師)は相国の位をお受しませんでしたが、それは本当に太祖(曹操)のことを常々一段上に見なしていたからであります(29)。よって今、二祖(曹操・曹丕)と同じに諡をされることは(30)、必ず〔父と兄の〕つつしみおそれるところでありましょう。昔、蕭何・張良・霍光らはみな朝廷を輔佐した功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。もし文・武を諡としていただくならば、どうか蕭何らの例にならい〔文・武の諡号に一字を〕付け加えてくださいますように。」詔してこれを許し、諡して忠武〔公〕といった。晋が建国されると(264)、追尊して景王といわれた。武帝(司馬炎)が受禅すると(265)、上尊して景皇帝と号し、陵墓を峻平〔陵〕と名付け、廟号を世宗とした。

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