update:2002.09.19  担当:解體晉書
晋書巻六

 帝紀第六

元帝
人物簡介
 元帝司馬睿(二七六〜三二二、在位三一八〜三二二)は字を景文といい、琅邪恭王司馬覲と夏侯太妃の子で、宣帝司馬懿の曾孫である。八王の乱による中原の混乱を避けて江南に渡り、永嘉の乱で西晋王朝が亡ぶと、北来貴族と江南豪族の支持を得て東晋王朝を成立させ、太興元年(三一八)には帝位についた。しかし、軍事の実力者王敦に反旗を翻され、失意のうちに永昌元年(三二二)閏十一月、建康にて崩じた。享年四十七。
本文
  元皇帝諱睿,字景文,宣帝曾孫,琅邪恭王覲之子也。咸寧二年生於洛陽,有神光之異,一室盡明,所藉蛍如始刈。及長,白豪生於日角之左,隆準龍顏,目有精曜,顧眄[火韋:019189]如也。年十五,嗣位琅邪王。幼有令問。及惠皇之際,王室多故,帝毎恭儉退讓,以免於禍。沈敏有度量,不顯灼然之跡,故時人未之識焉。惟侍中[禾尤山:008273]紹異之,謂人曰:「琅邪王毛骨非常,殆非人臣之相也。」
 元皇帝は諱を睿、字を景文といい、宣帝の曽孫で琅邪恭王の司馬覲の子である。咸寧二年(二七六)に洛陽で生まれ、尊貴な輝きをはなち、一室全てが照り映え、敷いておいたわらむしろが刈り取ったばかりのように青々として見えた。成長すると、白毫(1)が左の額に現れ、高い鼻とまゆ骨の浮かび出た相、目には明るい輝きを持ち、振り返れば辺りを輝かすほどであった。十五歳の時に、琅邪王の位を継いだ。若くして良い評判があった。恵帝の時代、王室には何かと事件が多く、元帝は常に恭しくへりくだった態度をして、禍から逃れていた。落ち着いていて賢く、度量もあったが、光り輝く才気の片鱗を表に現すことが無かったため、当時の人はまだ彼の優れた点に気付いていなかった。ただ、侍中の[禾尤山:008273]紹だけが元帝を並々ならぬ人物であると思い、ある人にこう言った。「琅邪王の人相は尋常なものではなく、ほとんど人臣たる者の相では無い。」
  元康二年,拜員外散騎常侍。累遷左將軍,從討成都王穎。蕩陰之敗也,叔父東安王[徭系:027856]爲穎所害。帝懼禍及,將出奔。其夜月正明,而禁衞嚴警,帝無由得去,甚窘迫。有頃,雲霧晦冥,雷雨暴至,徼者皆弛,因得潛出。穎先令諸關無得出貴人,帝既至河陽,爲津吏所止。從者宋典後來,以策鞭帝馬而笑曰:「舍長!官禁貴人,汝亦被拘邪!」吏乃聽過。至洛陽,迎太妃倶歸國。
 元康二年(二九二)、員外散騎常侍に任ぜられた。昇進を重ねて左将軍となり、成都王である司馬穎の討伐に従った。しかし、蕩陰の戦い(三〇四)で敗れると、叔父で東安王の司馬[徭系:027856]は司馬穎に殺されてしまった。元帝は自分にも禍の及ぶことを怖れ、今にも逃げ出そうとしていた。ただ、その夜は月が明るく照らし、警備も厳重であったため、元帝はとても逃げ去ることなど出来そうも無く、ひどく差し迫った状態に陥っていた。ところがしばらくすると、雲が張り出し霧が立ち込めて、辺りを暗闇とし、雷雨が激しく降りつけてきたため、見回りの兵士も警戒の気が弛み、そのため元帝は密かに脱出することが出来た。司馬穎は以前に、各地の関所に命じて、貴人を関外へ出さないよう通達していた。そこで、元帝はすでに河陽に到達していたけれども、渡し場の役人によって留められてしまった。従者の宋典が後からやって来て、元帝の馬を鞭で打ちながら笑って言った。「舎長よ! 政府は貴人の通行を禁じているそうですが、あなたのような人でも〔貴人とされて〕留められましたか!」これを聞いて、役人も通行を許した。洛陽に到着すると、生母(夏侯太妃)を迎えてともに琅邪に帰った。
  東海王越之收兵下[丕β:039340]也,假帝輔國將軍。尋加平東將軍、監徐州諸軍事,鎭下[丕β:039340]。俄遷安東將軍、都督揚州諸軍事。越西迎大駕,留帝居守。永嘉初,用王導計,始鎭建[業β:039684],以顧榮爲軍司馬,賀循爲參佐,王敦、王導、周[豈頁:043614][一刀:001846]協並爲腹心股肱,賓禮名賢,存問風俗,江東歸心焉。屬太妃薨于國,自表奔喪,葬畢,還鎭,増封宣城郡二萬戸,加鎭東大將軍、開府儀同三司。受越命,討征東將軍周馥,走之。及懷帝蒙塵于平陽,司空荀藩等移檄天下,推帝爲盟主。江州刺史華軼不從,使豫章内史周廣、前江州刺史衞展討禽之。愍帝即位,加左丞相。歳餘,進位丞相、大都督中外諸軍事。遣諸將分定江東,斬叛者孫弼于宣城,平杜[弓屮又:009748]于湘州,承制赦荊揚。及西都不守,帝出師露次,躬[才環:012813]甲冑,移檄四方,徴天下之兵,剋日進討。于時有玉冊見於臨安,白玉麒麟神璽出於江寧,其文曰「長壽萬年」,日有重暈,皆以爲中興之象焉。
 東海王の司馬越がその兵を下[丕β:039340]の地にまとめると、元帝に輔国将軍の地位を与えた。次いで、平東将軍・監徐州諸軍事を加えられ、下[丕β:039340]を守ることになった。しばらくして、安東将軍・都督揚州諸軍事に転任した。司馬越が、天子の馬車を西に迎えに出ると(2)、元帝を留守居として留めた。永嘉(三〇七〜三一二)の初め、王導の計略を用いて、初めて建[業β:039684]を守ることにした。顧栄を軍司馬に、賀循を参佐に、王敦・王導・周[豈頁:043614][一刀:001846]協をみな腹心の補佐として、賢人を厚くもてなし、民衆の様子を尋ね見舞ったために、江東の地は心を寄せるようになった。たまたま生母(夏侯太妃)が建[業β:039684]薨じると、元帝は自ら〔太妃の亡骸を引いて〕帰郷して葬った。葬儀が終わって任地に帰ってくると、宣城郡の二万戸を増封され、鎮東大将軍・開府儀同三司を加えられた。司馬越の命を受け、征東将軍の周馥を討ち、これを敗走させた。懐帝が平陽に連れ去られる(三一一)と、司空の荀藩らは檄を天下に飛ばし、元帝を推して盟主にしようとした。しかし、江州刺史の華軼が従わなかったため、予章内史である周広・前江州刺史の衛展を遣わして華軼を討ち捕えさせた。愍帝が即位する(三一三)と、左丞相を加えられるようになった。一年余りして、位を丞相・大都督中外諸軍事に進めた。諸将を派遣して江東の地を取り収め、背いた孫弼を宣城に斬り、杜[弓屮又:009748]を湘州に平らげ、詔を受けて荊・揚の地に大赦を行った。西都(長安)が防ぎ守れなくなるに及んで、元帝は軍を率いて野営し、自ら甲冑を着け、四方に檄を飛ばし、天下の兵を召集して、期日を定めて進撃した。その際、〔天子の命令書である〕玉冊が臨安に現れ、白玉で麒麟を象った神璽が江寧に出現し、その文に「長寿万年」と書かれていた。また、太陽に光の傘がかかることがあり、皆は中興の兆しだと考えた。
  建武元年春二月辛巳,平東將軍宋哲至,宣愍帝詔曰:「遭運[辷屯:038747]否,皇綱不振。朕以寡徳,奉承洪緒,不能祈天永命,紹隆中興,至使凶胡敢帥犬羊,逼迫京輦。朕今幽塞窮城,憂慮萬端,恐一旦崩潰。卿指詣丞相,具宣朕意,使攝萬機,時據舊都,修復陵廟,以雪大恥。」
 建武元年(三一七)春二月辛巳、平東将軍の宋哲がやって来て、愍帝の詔を伝えて言った。「ひどい困難に巡り会って、皇帝の大権は振るっていない。朕は徳少ないにもかかわらず、帝業を受け継ぐことになったが、天に永久の命を祈って、中興を盛んにすることが出来ず、凶暴な胡族にみだりによからぬ輩を率いさせてしまい、都に押し寄せさせてしまっている。朕は今、身動きの取れぬ城に閉じ込められ(3)、万事を憂慮し、一朝にして崩れ去ってしまうことを恐れている。貴方を丞相と見込んで、事細かに朕の意中を述べ、天子の政務を代行させて、いつかは旧都に拠って、陵廟を修復し、この大いなる恥を雪いでくれ。」
  三月,帝素服出次,舉哀三日。西陽王[羊永:057378]及群僚參佐州征牧守等上尊號,帝不許。[羊永:057378]等以死固請,至於再三。帝慨然流涕曰:「孤,罪人也,惟有蹈節死義,以雪天下之恥,庶贖[金夫:040213]鉞之誅。吾本琅邪王,諸賢見逼不已!」乃呼私奴命駕,將反國。群臣乃不敢逼,請依魏晉故事爲晉王,許之。辛卯,即王位,大赦,改元。其殺祖父母、父母,及劉聰、石勒,不從此令。諸參軍拜奉車都尉,掾屬[馬付:044677]馬都尉。辟掾屬百餘人,時人謂之「百六掾」。乃備百官,立宗廟社稷於建康。時四方競上符瑞,帝曰:「孤負四海之責,未能思愆,何徴祥之有?」
 三月、元帝は喪服を着けて郊外に宿り、哀を三日間挙げた(4)。西陽王の司馬[羊永:057378]及び、中央・地方の百官らが尊号を奉ろうとしたが、元帝は許さなかった。司馬[羊永:057378]らは、死をもって固く要請すること、再三に及んだ。すると元帝は悲しみ嘆き、涙を流して言った。「私は罪人である。ただ、人臣としての節を実行して義に死のうとし、天下の恥を雪ぐことをもって、出来ることなら死罪をあがなってもらおうと思っただけである。私はもともと〔単なる〕琅邪王であったのに、どうして諸君らの迫ることが止まないのか!」そこで召使いを呼んで馬車の用意を命じ、今にも琅邪に帰ろうとするのであった。群臣はそのため、むやみに迫るのは止め、魏晋の故事に倣って晋王となるように要請し、元帝はそれを認めた。辛卯、王位につき、大赦して改元した。ただし、その祖父母・父母を殺した者と劉聡・石勒だけは大赦令の対象から外れた。諸参軍たちは奉車都尉の官職を与えられ、掾属たちは[馬付:044677]馬都尉の官職を与えられた。掾属に招聘された者は百余人いて、当時の人はこれを「百六掾」と言った。そして、百官の制度を整備し、宗廟・社稷を建康(5)に立てた。時に、四方は競って瑞兆を上言したため、元帝は言った。「私は、天下の責任を負い、今だ治め鎮めることが出来ないでいるというのに、いったい何の瑞兆があると言うのか?」
丙辰,立世子紹爲晉王太子。〔一〕以撫軍大將軍、西陽王[羊永:057378]爲太保,征南大將軍、漢安侯王敦爲大將軍,右將軍王導都督中外諸軍事、驃騎將軍,左長史[一刀:001846] 協爲尚書左僕射。封王子宣城公[亠臼衣:034299]爲琅邪王。
 丙辰、後継ぎの司馬紹を晋王太子とした。撫軍大将軍・西陽王の司馬[羊永:057378]を太保とし、征南大将軍・漢安侯の王敦を大将軍とし、右将軍の王導を都督中外諸軍事・驃騎将軍とし、左長史の[一刀:001846]協を尚書左僕射とした。王子の宣城公司馬[亠臼衣:034299]を琅邪王に封じた。
  六月丙寅,司空、并州刺史、廣武侯劉[王昆:021065],幽州刺史、左賢王、渤海公段匹[石單:024495],領護烏丸校尉、鎭北將軍劉翰,單于、廣[密冉:007255]公段辰,遼西公段眷,冀州刺史、祝阿子邵續,青州刺史、廣饒侯曹嶷,[亠兌:001375]州刺史、定襄侯劉演,東夷校尉崔[比必:016750],鮮卑大都督慕容[广鬼:009429]等一百八十人上書勸進,曰:
 六月丙寅、司空・并州刺史・広武侯の劉[王昆:021065]、幽州刺史・左賢王・渤海公の段匹[石單:024495]、領護烏丸校尉・鎮北将軍の劉翰、単于・広[密冉:007255]公の段辰、遼西公の段眷、冀州刺史・祝阿子の邵続、青州刺史・広饒侯の曹嶷、[亠兌:001375]州刺史・定襄侯の劉演、東夷校尉の崔[比必:016750]、鮮卑大都督の慕容[广鬼:009429]ら百八十人が書を奉り、即位を勧めて言った。
  臣聞天生蒸民,樹之以君,所以對越天地,司牧黎元。聖帝明王監其若此,知天地不可以乏饗,故屈其身以奉之;知蒸黎不可以無主,故不得已而臨之。社稷時難,則戚藩定其傾;郊廟或替,則宗哲纂其祀。是以弘振遐風,式固萬世,三五以降,靡不由之。伏惟高祖宣皇帝肇基景命,世祖武皇帝遂造區夏,三葉重光,四聖繼軌,惠澤[イ牟:000597]於有虞,卜世過於周氏。自元康以來,艱難繁興,永嘉之際,氛[厂萬:003041]彌昏,宸極失御,登遐醜裔,國家之危,有若綴旒。頼先后之徳、宗廟之靈,皇帝嗣建,舊物克甄。誕授欽明,服膺聰哲,玉質幼彰,金聲夙振。冢宰攝其綱,百辟輔其政,四海想中興之美,群生懷來蘇之望。不圖天不悔禍,大災荐臻,國未忘難,寇害尋興。逆胡劉曜,縱逸西都,敢肆犬羊,陵虐天邑。臣奉表使還,乃承西朝以去年十一月不守,主上幽劫,復沈虜庭,神器流離,更辱荒逆。臣毎覽史籍,觀之前載,厄運之極,古今未有。苟在食土之毛,含血之類,莫不叩心絶氣,行號巷哭。況臣等荷寵三世,位廁鼎司,聞問震惶,精爽飛越,且驚且[小宛:010771],五情無主,舉哀朔垂,上下泣血。
「我々はこう聞いております。天が民衆を生み、これを立てさせるのに君主をもってした(6)のは、天地に向かい合い、民衆を治め養わせるためなのです。聖帝や明王はこの道理をわきまえ、天地の祀りをおろそかにしてはいけないことを知っていたために、身を屈して天地を奉りました。また、民衆には君主が不在であってはいけないことを知っていたために、やむをえずして、君主として民衆に臨んだのです(7)。社稷が時に困難に遭えば、宗室諸侯はその傾きを正し、祭祀が廃れるようなことがあれば、宗室の賢人がその祭祀を受け継ぐのです。こうして、高遠な徳風ははるかに広まり、規範は万世に固まるのです。三皇五帝以降、この道理によらなかったものはありません。そこで畏れ多くも考えますところでは、高祖宣皇帝は大いなる天命の基を据えられまして、世祖武皇帝はついに中華の地を定めました。三葉(宣帝・景帝・文帝のこと)は相次いで徳を輝かせ、四聖(武帝のこと)(8)は道を受け継ぎました。恩沢は舜に等しく、世を定めることは周王朝をすら超えるものです。元康(二九一〜二九九)より以来、難事がしばしば起こり、永嘉(三〇七〜三一二)の時には凶気はますます募りました。天子は居場所を失い、蛮夷の地で崩ぜられ、国家の危機は、綴旒のようです(9)。〔しかし幸いにも〕先帝の徳や宗廟の霊の助けを受け、皇帝(愍帝)が再建を受け継がれ、祖先の遺風を十分に教え導くことも出来ました。堯のような明敏さ(10)を備え、賢哲の性をよく体得し、優れた資質は若くして明らかとなりまして、孔子のような知徳(11)は早くから振るっていました。宰相はその大権を補佐し、諸侯はその政治を助け、天下の人は中興の美しき世を思い、民衆は素晴らしき王軍が救出に来てくれることを望んでおりました。しかし思いもよらず、天は禍を下したことを後悔なさらず、大変な飢饉がしきりに起こり、国家は今だに難事を忘れることが出来ず、蛮夷の害はひき続いて起こっております。反逆した胡族の劉曜は、西都(長安)において好き勝手に振る舞い、みだりに良からぬ輩を放して、〔大晋の〕国都を犯し虐げております。我々が表を奉った使者が帰って来て報告するところによれば、西晋朝廷は去年十一月をもって防ぎ得なかったと言い、天子は幽閉され、またもや蛮夷の地に連れ去られました。皇帝の御印たる神器は居場所を失ってさまよい、ますます虐げられるという辱めを受けたのです。我々は常に歴史書を読んで、これを前代のことと見比べていますが、これほどまでに厄運の極まったことは、いまだかつて有りませんでした。かりにも食を得るだけのものを頂いており、血の通っている者ならば、胸を叩いて気も絶えんばかりに、街中で泣き叫ばない者はおりません。ましてや、我々は恩寵を三代に渡って受けており、位は人臣を極めるほどなのですから、なおさらのことです。これを聞くや恐れおののき、心も吹き飛んで、驚き嘆くとともに、感情も一定せず、哀を北方の辺地で挙げて、上下の者みな血の涙を流しているのです。
  臣聞昏明迭用,否泰相濟,天命無改,暦數有歸。或多難以固邦國,或殷憂以啓聖明。是以齊有無知之禍,而小白爲五伯之長;晉有麗姫之難,而重耳以主諸侯之盟。社稷靡安,必將有以扶其危;黔首幾絶,必將有以繼其緒。伏惟陛下,玄徳通于神明,聖姿合于兩儀,應命世之期,紹千載之運。符瑞之表,天人有徴;中興之兆,圖讖垂典。自京畿隕喪,九服崩離,天下囂然,無所歸懷,雖有夏之遭夷[羽廾:028625],宗姫之離犬戎,蔑以過之。陛下撫征江左,奄有舊呉,柔服以徳,伐叛以刑,抗明威以攝不類,杖大順以號宇内。純化既敷,則率土宅心;義風既暢,則遐方企踵。百揆時敘于上,四門穆穆于下。昔少康之隆,夏訓以爲美談;宣王中興,周詩以爲休詠。況茂勳格于皇天,清暉光于四海,蒼生[禺頁:043599]然,莫不欣戴,聲教所加,願爲臣妾者哉!且宣皇之胤,惟有陛下,億兆攸歸,曾無與二。天祚大晉,必將有主,主晉祀者,非陛下而誰!是以邇無異言,遠無異望,謳歌者無不吟諷徽猷,獄訟者無不思于聖徳。天地之際既交,華夷之情允洽。一角之獸,連理之木,以爲休徴者,蓋有百數。冠帶之倫,要荒之衆,不謀同辭者,動以萬計。是以臣等敢考天地之心,因函夏之趣,昧死上尊號。願陛下存舜禹至公之情,狹由巣抗矯之節;以社稷爲務,不以小行爲先;以黔首爲憂,不以克讓爲事;上慰宗廟乃顧之懷,下釋普天傾首之勤。則所謂生繁華于枯[艸夷:030952],育豐肌于朽骨,神人獲安,無不幸甚。
 我々はこう聞いております。明と暗とは代わるがわる用いられ、運命の通不通も互いに等しく、天命が改まりさえしなければ、巡り合わせるものには帰するところがあると言います。あるいは、多難にあたって国家が定まることもありますし、深い憂いにおちいって聡明さを現すこともあるのです。そういうわけで、斉の国に公孫無知の禍が起こって、桓公は春秋五覇の筆頭となり(12)、晋の国に驪姫の難があって、文公は諸侯の会盟を司ったのです(13)。社稷が安らかでなければ、必ずその危機を救おうとする者がありますし、民衆がほとんど絶えようとしていれば、必ずその血統を継ごうとする者がいるのです。そこで畏れ多くも陛下を見ますに、その奥深い徳は神霊にも通じ、その素晴らしい御姿は陰陽をも合わせられ、この重要な時期に応じて、千載一遇の機運をつかもうとされております。御目出度い瑞兆は、天と人の間に兆しておりますし、中興の兆しは、予言書の中にも現れています。畿内の地が失われて以来、その外に広がる地域の秩序も崩れ去り、天下は嘆き憂えて心を寄せるところもありません。夏王朝が[羽廾:028625]に遭い(14)、周王朝が犬戎に苦しめられた(15)とは言っても、これほどひどいことは有りませんでした。陛下は江左の地を治められ、旧呉の地は残らず手に入れておられます。徳をもって懐け従わせ、刑をもって背く者を討ち、君王の威を示して従わない者を正し、世の秩序に従って天下に号令なされました。徳化がすでに敷かれるようになれば、全土は心を寄せるようになりますし、節義の風が行き渡れば、遠方の者も朝廷を望み見るようになります。上は百官が順序良く政務を執り行ない、下は四方よりやって来る人々が恭しいさまを示すようになります(16)。その昔、少康の盛んな時代のことは、夏の書では美談として記録されましたし(17)、宣王の中興の時代のことは、周の詩に御目出度い歌として載せられました(18)。ましてや〔陛下におかれましては〕盛んな勲は天にまで届き、清らかな光は海にまで輝いているのですから、万民は仰ぎ見て喜び戴き、名声と教化を加えられて、その召使いにでさえもなろうと願わないような者はおりません! しかも、宣帝の血統は、ただ陛下にのみ通っているのですから、万民はここに心を寄せ、ますますその継承者は二人といないというわけです。大晋帝国の天を祀るには、かならず君主が必要です。そして、晋の祭祀を司る者は、陛下で無くして誰がいるというのですか! そういうわけで、近くには異議のある人はなく、遠くにも違う望みを懐く人はおりません。歌う者で素晴らしい陛下の政治を歌わないものはいませんし、裁判を行う者で陛下の徳を思わない者は無いのです。天地の境はすでに交わり、華夷の情も本当に和らぎました。一角獣や連理の木で御目出度い兆しと言えるものは、すでに百を越えております。朝廷に仕える官吏の仲間、遠い辺境の民衆たちで、相談をしたわけでもないのに〔陛下に即位を勧めようという〕意見を同じくする者が、どうかすると万の単位で数えられるほどもいるのです。そういうわけで、我々はあえて天地の心を推し量り、中華の人々の気持ちに沿いまして、恐れ憚りながらも尊号を奉ろうとしているのです。どうか陛下は舜や禹の公を最上とする心を持たれまして、許由や巣父の節を守ろうという考え(19)を、狭いものだとされ、社稷を務めとなし、小さな節義を先んじることの無いようにして下さい。民衆のことを憂いとなされ、謙譲などというものを我が事とされませんようにして下さい。そして、上は宗廟を慰めてこれを顧みられ、下は天下を潤して彼らが心を寄せるよう努めてください。そうすれば、これはいわゆる、枯れ木に草木を茂らせて花を咲かせ、朽ちた骨に豊かな肌を育むというもので、神も人も安らかさを得られ、無上の喜びとしないものはおりません。
  臣聞尊位不可久虚,萬機不可久曠。虚之一日,則尊位以殆;曠之浹辰,則萬機以亂。方今踵百王之季,當陽九之會,狡寇窺[穴兪:025582],伺國瑕隙,黎元波蕩,無所繋心,安可廢而不恤哉?陛下雖欲逡巡,其若宗廟何?其若百姓何?昔者惠公虜秦,晉國震駭,呂郤之謀,欲立子圉,外以絶敵人之志,内以固闔境之情。故曰「喪君有君,群臣輯睦,好我者勸,惡我者懼」。前事之不忘,後代之元龜也。陛下明並日月,無幽不燭,深謀遠猷,出自胸懷。不勝犬馬憂國之情,遲睹人神開泰之路,是以陳其乃誠,布之執事。臣等忝于方任,久在遐外,不得陪列闕庭,與睹盛禮,踊躍之懷,南望罔極。
 我々はこう聞いております。天子の位は長く空けておくべきでなく、天子の政務は久しく打ち捨てておくべきではないのです。これを一日空けておけば、天子の位はほとんど危ういと言えますし、これを十日余りも打ち捨てておいたならば、あらゆる政治は全て乱れてしまうのです。今、王統の末を継ぐに、災禍の時に当たっており(20)、悪賢い蛮夷は身分もわきまえずに大逆を願って、我が国の隙を伺い、民衆は波のように揺れ動き、心を繋ぐところも無い有様なのですから、どうして帝位を廃して〔彼らに〕哀れみもかけないでなどいられましょうか? 陛下はためらわれておられるようですが、それは宗廟にとりましてどうでしょうか? 庶民たちにとってどうだと言うのでしょうか? その昔、晋の恵公が秦の捕虜となると、晋の国は震え驚きました。呂甥・郤乞の二人は相談して、太子の圉を即位させ、外に向かっては敵の野望を断ち、内に向かっては国中の気持ちを結束させようとしたのです。そこでこういいました。『君主を失っても新たに君主を立てれば、群臣は仲睦まじくしていられるのだ。我が国を好んでいたものは喜び近付き、我が国を憎んでいたものは恐れ慎むようになるだろう(21)』前代の事を忘れないでいるのは、後世の国家の宝です。陛下は日月に優るとも劣らないほどの明るさを持たれ、暗いところも照らさないことは有りませんし、深謀遠慮はその心から出だされます。我々臣下一同は、犬馬のようにくだらないものですが、国を憂える心に堪えられず、神も人も安心して暮らせる世への道を待ち望んでいます。そこで、その本心をあまさず述べ、これを〔陛下の〕左右の臣に渡し託しました。我々は、地方の任務をかたじけなくも頂いていたため、長らく遠い地方におり、朝廷に参じ侍ることは出来ませんが、盛大な儀礼が行えるほど栄えた朝廷をともに見ることが出来ましたならば、躍り上がるほどの喜びは、遥か南〔の江南の地〕を望んで極まる事が無いでしょう。」元帝は、情け深い御言葉を出してこれに答えた。
  帝優令答之,語在[王昆:021065]傳。
その言葉は劉[王昆:021065]伝に載っている。
  石勒將石季龍圍[言焦:035976]城,平西將軍祖逖撃走之。己巳,帝傳檄天下曰:「逆賊石勒,肆虐河朔,逋誅歴載,游魂縱逸。復遣凶黨石季龍犬羊之衆,越河南渡,縱其鴆毒。平西將軍祖逖帥衆討撃,應時潰散。今遣車騎將軍、琅邪王[亠臼衣:034299]等九軍,鋭卒三萬,水陸四道,逕造賊場,受逖節度。有能梟季龍首者,賞絹三千匹,金五十斤,封縣侯,食邑二千戸。又賊黨能梟送季龍首,封賞亦同之。」
 石勒の将である石季龍(虎)(22)が、[言焦:035976]城を囲んだが、平西将軍の祖逖がこれを討って敗走させた。己巳、元帝は天下に檄を飛ばして言った。「逆賊の石勒は、河朔の地をほしいままに荒らしまわり、誅罰を逃れること数年、欲望の赴くままに過ごしている。また、その一党である石季龍(虎)と良からぬ輩を派遣して、黄河を越え南に渡り、甚だしい害毒を撒き散らしている。しかし、平西将軍の祖逖は軍を率いてこれを討ち、即座にこれを破った。そこで今、車騎将軍・琅邪王の司馬[亠臼衣:034299]ら九軍に強力な兵士三万を派遣して、水陸四つの道からただちに賊のはびこる地に到って、祖逖の指示を受けさせようと思う。もし石季龍(虎)の首を斬ってさらすことが出来た者には、賞として絹三千匹・金五十斤を与え、県侯に封じて食邑二千戸を与えよう。また、賊の一味であっても、石季龍(虎)の首を斬って送り届けてきた者ならば、賞も封地も先程と同じものを与えるであろう。」
  七月,散騎侍郎朱嵩、尚書郎顧球卒,帝痛之,將爲舉哀。有司奏,舊尚書郎不在舉哀之例。帝曰:「衰亂之弊,特相痛悼。」於是遂舉哀,哭之甚慟。丁未,梁王[小里:010678]薨。以太尉荀組爲司徒。弛山澤之禁。
 七月、散騎侍郎の朱嵩・尚書郎の顧球が卒した。元帝はこれを悼んで、哀を挙げようとした。すると官僚たちが申し上げるには、もともと尚書郎〔程度の人物〕に哀を挙げた例は無いとのことである。しかし、元帝は言った。「世の中が衰え乱れた弊害で〔彼らは命を短くしたのであり〕、特別に悲しみ傷んでいるのだ。」こうしてついに哀を挙げて、激しく大声で嘆き悲しんだ。丁未、梁王の司馬[小里:010678]薨じた。太尉の荀組を司徒とした。山沢の資源を採取する禁令を弛めた(23)
  八月甲午,封梁王世子翹爲梁王。荊州刺史第五猗爲賊帥杜曾所推,遂與曾同反。
 八月甲午、梁王の後継ぎである司馬翹を梁王とした。荊州刺史の第五猗が、賊の首領の杜曾に担ぎ上げられて、ついに杜曾とともに反乱を起こした。
  九月戊寅,王敦使武昌太守趙誘、襄陽太守朱軌、陵江將軍黄峻討猗,爲其將杜曾所敗,誘等皆死之。石勒害京兆太守華[言胥:035702]。梁州刺史周訪討杜曾,大破之。
 九月戊寅、王敦が武昌太守の趙誘・襄陽太守の朱軌・陵江将軍の黄峻を派遣して、第五猗を討たせたが、その将の杜曾のために敗れ、趙誘らは皆ここに死んだ。石勒が京兆太守の華[言胥:035702]を殺した。梁州刺史の周訪が杜曾を討ち、大いにこれを破った。
  十月丁未,琅邪王[亠臼衣:034299]薨。
 十月丁未、琅邪王の司馬[亠臼衣:034299]薨じた。
  十一月甲子,封汝南王子弼爲新蔡王。丁卯,以司空劉[王昆:021065]爲太尉。置史官,立太學。
 十一月甲子、汝南王の子の司馬弼を新蔡王に封じた。丁卯、司空の劉[王昆:021065]を太尉とした。史官を置き、太学を立てた。
  是歳,揚州大旱。
 この年、揚州に大旱があった。
  太興元年春正月戊申朔,臨朝,懸而不樂。
 太興元年(三一八)春正月戊辰朔、朝廷に臨むも、音楽を演奏しなかった。
  三月癸丑,愍帝崩問至,帝斬[糸衰:027761]居廬。丙辰,百僚上尊號。令曰:「孤以不徳,當厄運之極,臣節未立,匡救未舉,夙夜所以忘寢食也。今宗廟廢絶,億兆無係,群官庶尹,咸勉之以大政,亦何敢辭,輒敬從所執。」是日,即皇帝位。詔曰:「昔我高祖宣皇帝誕應期運,廓開皇基。景、文皇帝奕世重光,緝熙諸夏。爰曁世祖,應天順時,受茲明命。功格天地,仁濟宇宙。昊天不融,降此鞠凶,懷帝短世,越去王都。天禍荐臻,大行皇帝崩[歹且:016408],社稷無奉。肆群后三司六事之人,疇咨庶尹,至于華戎,致輯大命于朕躬。予一人畏天之威,用弗敢違。遂登壇南嶽,〔二〕受終文祖,焚柴頒瑞,告類上帝。惟朕寡徳,纉我洪緒,若渉大川,罔知攸濟。惟爾股肱爪牙之佐,文武熊羆之臣,用能弼寧晉室,輔余一人。思與萬國,共同休慶。」於是大赦,改元,文武増位二等。庚午,立王太子紹爲皇太子。
 三月癸丑、愍帝が崩御したと言う連絡が入り、元帝は喪服を着て庵に入った。 丙辰、百官が尊号を奉った。そこで命令を下して言った。「私は不徳で、災厄の極運に当たって、臣下としての節義を立てることも、正し救うことも出来ていない。そしてそれが、朝晩、睡眠も食事も満足に出来ない理由である。今、宗廟の祀りは断たれ、庶民は心を繋ぐところがなく、中央も地方の官僚もともに、みな正しい政治をもってこれに務めている。それなのにどうして、あえて帝位につくことを断ることなど出来ようか。それゆえ、謹んで定めに従おうと思う。」この日、皇帝の位についた。そして、詔して言った。「昔、我が高祖宣皇帝は、時運に応じて天子の礎を築いた。景皇帝・文皇帝は代々徳を輝かし、その光は中華を覆った。ここにおいて世祖にいたり、天の時に従って、ここに天命を受けた。功は天地に及び、仁は宇宙に広まった。しかし、日照りが和らがず、この大凶を降し、懐帝の世は短く、首都からも連れ去られてしまった。天の禍はなおも次々と起こり、先帝(愍帝)は崩御せられ、社稷を奉ずる者がいなくなってしまった。そこでついに、諸官の人々は下役とも相談し、華と夷、ともに意見のまとまるや、帝位継承の大命を朕の身に任せようとした。私は一人、天命を恐れ畏まり、努めて背くことの無いように思った。そしてついに、南嶽 (24)に登って即位し、祖先の遺命を受けて柴を燃やして印とし、上帝に即位を伝えた。ただ、朕は徳少なくして帝業を受け継ぎ、大川を渡るようなこともすぐには出来ないと思う(25)。そこで、お前たち股肱爪牙の補佐や文武熊羆の臣下を頼りとして、任用して晋室の安寧を助けさせ、また私一人を補佐させようと思う。天下とともに考え、〔いつかやってくる〕大慶を共有しようではないか。」こうして大赦を行い、改元し、文武の臣には位二等を増した。庚午、王の太子である司馬紹を皇太子とした。
  壬申,詔曰:「昔之爲政者,動人以行不以言,應天以實不以文,故我清靜而人自正。其次聽言觀行,明試以功。其有政績可述,刑獄得中,人無怨訟,久而日新,及當官軟弱,茹柔吐剛,行身穢濁,修飾時譽者,各以名聞。令在事之人,仰鑒前烈,同心戮力,深思所以寛衆息役,惠益百姓,無廢朕命。遠近禮贄,一切斷之。」
 壬申、詔して言った。「昔の為政者は、人を動かすのに自らの行いをもってしており、言葉をもってしてはいない。天に応じるのに真心をもってしており、飾り立てることをもってしてはいない。だから、私が清廉で落ち着いていれば、他の人は自ずと身を正すようになるだろう。続いて、その言葉を聞き、行いを見て、功績をもってその品格を明確に定める。功績の称えるべきほどのものがあり、刑罰も公平さを備え、人に恨み訴えられることもなく、職務に長くあっても日ごとに気持ちを新たに入れ換え、官職に意志の弱くて当たった者でも、剛強な者の言葉を和らげ、行いが汚れ濁っていた者でも、名誉を得ようと修め慎む者は、それぞれその名を朕の耳に入れよ。今、官職にある人には、先人の功績を仰ぎ見させ、心を一つに協力し、民衆に寛大にして休息を与え、恩恵を庶民に授ける理由を深く考え、朕の命令に背くことの無いようにさせよ。また、遠近よりの進物は一切これを禁じる。」
  夏四月丁丑朔,日有食之。加大將軍王敦江州牧,進驃騎將軍王導開府儀同三司。戊寅,初禁招魂葬。乙酉,西平地震。
 夏四月丁丑朔、日食が起こった。大将軍の王敦に江州牧を加え、驃騎将軍の王導を開府儀同三司に進めた。戊寅、初めて招魂の葬礼を禁止した。乙酉、西平の地に地震があった。
  五月癸丑,使持節、侍中、都督、太尉、并州刺史、廣武侯劉[王昆:021065]爲段匹[石單:024495]所害。
 五月癸丑、使持節・侍中・都督・太尉・并州刺史・広武侯の劉[王昆:021065]が、段匹[石單:024495]に殺されてしまった。
  六月,旱,帝親[樗−木:042212]。改丹楊内史爲丹楊尹。甲申,以尚書左僕射[一刀:001846]協爲尚書令,平南將軍、曲陵公荀[山松:008209]爲尚書左僕射。庚寅,以[榮水:018026]陽太守李矩爲都督司州諸軍事、司州刺史。戊戌,封皇子晞爲武陵王。初置諫鼓謗木。
 六月、日照りがあり、元帝自ら雨乞いを行った。丹楊内史(26)を丹楊尹に改めた。甲申、尚書左僕射の[一刀:001846]協を尚書令とし、平南将軍・曲陵公の荀[山松:008209]を尚書左僕射とした。庚寅、[榮水:018026]陽太守の李矩を都督司州諸軍事・司州刺史とした。戊戌、皇子の司馬晞を武陵王に封じた。初めて諌鼓謗木(27)を設置した。
  秋七月戊申,詔曰:「王室多故,姦凶肆暴,皇綱弛墜,顛覆大猷。朕以不徳,統承洪緒,夙夜憂危,思改其弊。二千石令長當祗奉舊憲,正身明法,抑齊豪強,存恤孤獨,隱實戸口,勸課農桑。州牧刺史當互相檢察,不得顧私虧公。長吏有志在奉公而不見進用者,有貪[小林:010785]穢濁而以財勢自安者,若有不舉,當受故縱蔽善之罪,有而不知,當受闇塞之責。各明愼奉行。」劉聰死,其子粲嗣僞位。
 秋七月戊申、詔して言った。「王室には事件が多く、悪党どもが暴れまわり、皇帝の大権は地に落ち、天子の政策は覆りそうである。朕は不徳であって帝業を受け継ぎ、朝晩憂い嘆いて、その弊害を改めようと考えている。二千石の県令と県長は、謹んで以前からの天子の教えを奉じて、身を正しく法律に明るくなり、権勢を振るう者を抑え、身寄りの無い者を救済し、正確な人口を計って、農業と養蚕を務め励ませよ。州牧や刺史は互いに監察を行い、私事を顧みて公事を疎かにすることがあってはならない。長吏は、国家に尽くす志を懐きながら推薦されない者や、欲張りで穢れた心を持って財産と権力を頼んで自分のことだけを考える者が、もし居るのに推挙や検挙をしなかったならば、罪人を見逃し、善いことを覆い隠した罪に当たるであろう。もしそういう人が居たのに知らなかった場合は、鑑識眼が無いという咎めを受けるであろう。それゆえ、おのおの慎んで国事に務めよ。」劉聡が死んで、その子の劉粲が位を僭称した。
  八月,冀、徐、青三州蝗。[革斤:042728]準弑劉粲,自號漢王。
 八月、冀・徐・青の三州で蝗の害が起こった。[革斤:042728]準が劉粲を殺し、自ら漢王と号した。
  冬十月癸未,加廣州刺史陶侃平南將軍。劉曜僭即皇帝位于赤壁。
 冬十月癸未、広州刺史の陶侃に平南将軍を加えた。劉曜が赤壁において皇帝位を僭称した。
  十一月乙卯,日夜出,高三丈,中有赤青珥。新蔡王弼薨。〔三〕加大將軍王敦荊州牧。庚申,詔曰:「朕以寡徳,纂承洪緒,上不能調和陰陽,下不能濟育群生,災異屡興,咎徴仍見。壬子、乙卯,雷震暴雨,蓋天災譴戒,所以彰朕之不徳也。群公卿士,其各上封事,具陳得失,無有所諱,將親覽焉。」新作聽訟觀。故歸命侯孫皓子[王番:021247]謀反,伏誅。
 十一月乙卯、太陽が夜に出て、高さは三丈程もあり、中心に赤と青の傘が出来ていた。新蔡王の司馬弼が薨じた。大将軍の王敦に荊州牧を加えた。庚申、詔して言った。「朕は少ない徳をもって帝業を受け継いだが、上は陰陽を調和させることが出来ず、下は民衆を救い養うことが出来ない。災害がしばしば起こり、禍の兆しはしきりに現われている。壬子・乙卯には、雷のように激しい雨が降るし、おそらくこの天災は天の咎めに違いなく、朕の不徳を表しているのであろう。諸官僚たちは、おのおの意見書を差し出して、詳しく今の政治の長所と短所を述べ、避けて言わないようなことは無いようにしてくれ。朕自らよく見て考えようと思う。」新たに聴訟観(28)を作った。今は亡き帰命侯の孫晧の子である孫[王番:021247]が謀反を起こしたが、誅を受けた。
  十二月,劉聰故將王騰、馬忠等誅[革斤:042728]準,送傳國璽於劉曜。武昌地震。丁丑,封顯義亭侯煥爲琅邪王。〔四〕己卯,琅邪王煥薨。癸巳,詔曰:「漢高經大梁,美無忌之賢;齊師入魯,修柳下惠之墓。其呉之高徳名賢或未旌録者,具條列以聞。」江東三郡饑,遣使振給之。彭城内史周撫殺沛國内史周默以反。
 十二月、劉聡の生前に将であった王騰・馬忠らが[革斤:042728]準を殺し、伝国の玉璽を劉曜に送った。武昌の地に地震が起こった。丁丑、顕義亭侯の司馬煥を琅邪王に封じた。己卯、琅邪王の司馬煥が薨じた。癸巳、詔して言った。「漢の高祖は大梁を通過する時、信陵君の賢明なのを誉め称え(29)、斉の軍が魯に入ると、柳下恵の墓を修復した(30)。それゆえ、呉の、徳を備え賢明な者で、まだ官職簿に名前を連ねていない者は、詳しく書き連ねて朕の耳に入れよ。」江東の三郡に飢饉が起こったため、使いを遣わして、これを救済した。彭城内史の周撫が、沛国内史を殺して反乱を起こした。
  二年春正月丁卯,崇陽陵毀,帝素服哭三日;使冠軍將軍梁堪、守太常馬龜等修復山陵。迎梓宮于平陽,不克而還。
 二年(三一九)春正月丁卯、崇陽陵(文帝の陵墓)が破壊された。元帝は喪服を着け、三日間悲しみ泣いた。冠軍将軍の梁堪・守太常の馬亀らを派遣して、山陵を修復しに行かせた。天子の棺を平陽で迎えようとしたが、果たすことが出来ないまま帰国した。
  二月,太山太守徐龕斬周撫,傳首京師。
 二月、太山太守の徐龕が周撫を斬って、首を建康に送って来た。
  夏四月,龍驤將軍陳川以浚儀叛,降于石勒。太山太守徐龕以郡叛,自號[亠兌:001375]州刺史,寇濟岱。秦州刺史陳安叛,降于劉曜。
 夏四月、龍驤将軍の陳川が、浚儀で反旗を翻し、石勒に降った。太山太守の徐龕が、郡を率いて反乱し、自ら[亠兌:001375]州刺史と号して、済・岱の地を荒らしまわった。秦州刺史の陳安が反乱を起こし、劉曜に降った。
  五月癸丑,太陽陵毀,帝素服哭三日。徐楊及江西諸郡蝗。呉郡大饑。平北將軍祖逖及石勒將石季龍戰于浚儀,王師敗績。壬戌,詔曰:「天下凋弊,加以災荒,百姓困窮,國用並匱,呉郡饑人死者百數。天生蒸黎而樹之以君,選建明哲以左右之,當深思以救其弊。昔呉起爲楚悼王明法審令,捐不急之官,除廢公族疏遠,以附益將士,而國富兵強。況今日之弊,百姓凋困邪!且當去非急之務,非軍士所須者皆省之。」甲子,梁州刺史周訪及杜曾戰于武當,斬之,禽第五猗。
 五月癸丑、太陽陵(恵帝の陵墓)が破壊された。元帝は喪服を着け、三日間悲しみ泣いた。徐州・揚州と江州西部の諸郡を蝗が襲った。呉郡では飢饉が起こった。平北将軍の祖逖が石勒の将である石季龍(虎)と、浚儀の地で戦闘に及んだが、晋軍は敗北してしまった。壬戌、詔して言った。「天下は衰え疲れ、さらに天災が起こったために、民衆は困窮し、国家財政も同じように乏しくなって、呉郡では飢え死ぬ人が百人あまりも出てしまった。天は民衆を生み、これを立てるのに君主をもってして、明哲な人を選んで君主を補佐させるのであり、良く考えて、この弊害を救わなければならない。その昔、呉起は楚の悼王のために、法律を詳しく調べ、さし当たって必要の無い官職を省き、公族の中で血統の遠い者を除き、その分を将士に増し与えて、富国強兵を成し遂げたという(31)。ましてや、今日の疲弊ぶりは、民衆を困窮させているのだから、なおさらそうしなければならない! そこで、不必要な職務は除き、軍士の留めておく必要の無いものは、みなこれを省くようにせよ。」甲子、梁州刺史の周訪が杜曾と、武当の地において戦闘に及び、杜曾を斬って、第五猗を捕えた。
  六月丙子,加周訪安南將軍。罷御府及諸郡丞,置博士員五人。己亥,加太常賀循開府儀同三司。
 六月丙子、周訪に安南将軍を加えた。御府(宝物庫係)と諸郡の丞を廃止して、博士員五人を置いた。己亥、太常の賀循に開府儀同三司を加えた。
  秋七月乙丑,太常賀循卒。
 秋七月乙丑、太常の賀循が卒した。
  八月,肅愼獻[木苦:056048]矢石[奴石:024111]。徐龕寇東莞,遣太子左衞率羊鑒行征虜將軍,統徐州刺史蔡豹討之。
 八月、粛慎(32)が弓矢を献じてきた。徐龕が東莞の地を荒らしまわったので、太子左衛率の羊鑒を征虜将軍として派遣し、徐州刺史の蔡豹をも統率して、徐龕を討たせた。
  冬十月,平北將軍祖逖使督護陳超襲石勒將桃豹,超敗,沒於陣。
 冬十月、平北将軍の祖逖が、督護の陳超を派遣して、石勒の将である桃豹の陣を襲ったが、陳超は敗れ、陣中で亡くなった。
  十一月戊寅,石勒僭即王位,〔五〕國號趙。
 十一月戊寅、石勒が王位を僭称し、国を趙と号した。
  十二月乙亥,大赦,詔百官各上封事,并省衆役。鮮卑慕容[广鬼:009429]襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔[比必:016750]高句驪。
 十二月乙亥、大赦し、百官に詔してそれぞれ意見書を奉らせ、あわせて民衆の徭役を軽減した。鮮卑の慕容[广鬼:009429]が遼東の地を襲い、東夷校尉・并州刺史の崔[比必:016750]は高句麗に亡命してしまった。
  是歳,南陽王保稱晉王于祁山。三呉大饑。
 この年、南陽王の司馬保が祈山において晋王を称した。三呉には大飢饉が起こった。
  三年春正月丁酉朔,晉王保爲劉曜所逼,遷于桑城。
 三年(三二〇)春正月丁酉朔、晋王の司馬保が劉曜の圧迫を受け、桑城に移った。
  二月辛未,石勒將石季龍寇[日月犬:020482]次,平北將軍、冀州刺史邵續撃之,續敗,沒於陣。
 二月辛未、石勒の将である石季龍(虎)が[日月犬:020482]次の地を荒らしまわったため、平北将軍・冀州刺史の邵続がこれを攻撃したが、邵続は敗北し、陣中で亡くなった。
  三月,慕容[广鬼:009429]奉送玉璽三紐。
 三月、慕容[广鬼:009429]が玉璽三組を贈ってきた。
  閏月,以尚書周[豈頁:043614]爲尚書僕射。
 閏月、尚書の周[豈頁:043614]を尚書僕射とした。
  夏四月壬辰,枉矢流于翼軫。
 夏四月壬辰、流れ星が翼・軫の星の辺りを流れた。
  五月丙寅,孝懷帝太子詮遇害于平陽,帝三日哭。庚寅,地震。是月,晉王保爲其將張春所害。劉曜使陳安攻春,滅之,安因叛曜。石勒將徐龕帥衆來降。
 五月丙寅、孝懐帝の太子であった司馬詮が、平陽で殺害され、元帝は三日間泣き悲しんだ。庚寅、地震があった。この月、晋王の司馬保が、その属将である張春に殺されてしまった。劉曜が陳安を派遣して張春を攻撃し、これを滅ぼしたが、陳安がそこで劉曜に反旗を翻してしまった。石勒の将である徐龕が、手勢を率いて降伏してきた。
  六月,大水。丁酉,盜殺西中郎將、護羌校尉、涼州刺史、西平公張寔,寔弟茂嗣,領平西將軍、涼州刺史。
 六月、洪水があった。丁酉、盗賊が西中郎将・護羌校尉・涼州刺史・西平公の張寔を殺し、張寔の弟の張茂が継ぎ、平西将軍・涼州刺史となった。
  秋七月丁亥,詔曰:「先公武王、先考恭王臨君琅邪四十餘年,惠澤加于百姓,遺愛結于人情。朕應天符,創基江表,兆庶宅心,繦負子來。琅邪國人在此者近有千戸,今立爲懷徳縣,統丹楊郡。昔漢高祖以沛爲湯沐邑,光武亦復南頓,優復之科一依漢氏故事。」祖逖部將衞策大破石勒別軍於[シ卞:017165]水。加逖爲鎭西將軍。
 秋七月丁亥、詔して言った。「亡祖父の武王(司馬[イ由:000479])・亡父の恭王(司馬覲)は、琅邪王として君臨すること四十余年にも及び、恩沢を庶民に加え、その仁愛が死後にも及んで人の心を結び付けていた。朕は天命に応じて、江南の地に帝業の礎を築き、庶民は心を寄せ、子供を背負って江北より渡って来るものもあった。もとの琅邪国の人であって、今この地に居る者は千戸に近く、現在は彼らを懐徳県の僑県に属させ、丹陽郡に統属させている。昔、漢の高祖は沛県を朝見の際に使う湯浴みの町としたし、光武帝もまた南頓の労役を免除した。そこで、〔琅邪国人の〕徭役を優遇するということ、全て漢の故事に倣おうと思う。」祖逖の部将である衛策が、石勒の別働隊を[シ卞:017165]水で大いに破った。祖逖に鎮西将軍を加えた。
  八月戊午,尊敬王后虞氏爲敬皇后。辛酉,遷神主于太廟。辛未,〔六〕梁州刺史、安南將軍周訪卒。皇太子釋奠於太學。以湘州刺史甘卓爲安南將軍、梁州刺史。
 八月戊午、敬王后の虞氏(33)を奉って、敬皇后とした。辛酉、〔敬皇后の〕位牌を太廟に遷した。辛未、梁州刺史・安南将軍の周訪が卒した。皇太子が、太学で孔子ら儒教の聖人を祭った。湘州刺史の甘卓を安南将軍・梁州刺史とした。
  九月,徐龕又叛,降于石勒。
 九月、徐龕がまたも反旗を翻し、石勒に降った。
  冬十月丙辰,徐州刺史蔡豹以畏懦伏誅。王敦殺武陵内史向碩。
 冬十月丙辰、徐州刺史の蔡豹が恐れひるんだために、誅罰を受けた。王敦が武陵内史の向碩を殺した。
  四年春二月,徐龕又帥衆來降。鮮卑末波奉送皇帝信璽。庚戌,告於太廟,乃受之。癸亥,日鬥。
 四年(三二一)春二月、徐龕がまたも手勢を率いて降伏してきた。鮮卑の段末波(34)が皇帝の割符と印を贈って来た。庚戌、太廟に告げて、これを〔正式に〕受けた。癸亥、二つの太陽が現われて競い合うように照りつけた(35)
  三月,置周易、儀禮、公羊博士。癸酉,以平東將軍曹嶷爲安東將軍。
 三月、周易・儀礼・春秋公羊伝の博士を置いた。癸酉、平東将軍の曹嶷を安東将軍とした。
  夏四月辛亥,帝親覽庶獄。石勒攻[日月犬:020482]次,陷之。撫軍將軍、幽州刺史段匹[石單:024495]沒于勒。
 夏四月辛亥、元帝が自ら、諸々の裁判を執り行なった。石勒が[日月犬:020482]次を攻撃し、これを陥した。撫軍将軍・幽州刺史の段匹[石單:024495]が石勒のもとで亡くなった。
  五月,旱。庚申,詔曰:「昔漢二祖及魏武皆免良人,武帝時,涼州覆敗,諸爲奴婢亦皆復籍,此累代成規也。其免中州良人遭難爲揚州諸郡僮客者,以備征役。」
 五月、日照りがあった。庚申、詔して言った。「昔、漢の高祖と光武帝、それに魏の武帝は、みな奴隷を解放して庶民とした。西晋の武帝の時に、涼州が崩壊すると、それぞれ奴婢に没落してしまった者のために、また戸籍に登録し直して庶民に戻した。これは代々の制度である。そこで、中原ではもともと庶民であったが、〔永嘉の〕大難に遭い、揚州の諸郡に移って奴隷となっていた者の身分を解放し、〔課税対象の人を増やして〕租税と力役に備えよ。」
  秋七月,大水。甲戌,以尚書戴若思爲征西將軍、都督司[亠兌:001375]豫并冀雍六州諸事、司州刺史,鎭合肥;丹楊尹劉隗爲鎭北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事、青州刺史,鎭淮陰。壬午,以驃騎將軍王導爲司空。
 秋七月、洪水があった。甲戌、尚書の戴若思(淵)(36)を征西将軍・都督司[亠兌:001375]予并冀雍六州諸軍事・司州刺史として、合肥を守らせた。丹楊尹の劉隗を鎮北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事・青州刺史として、淮陰を守らせた。壬午、驃騎将軍の王導を司空とした。
  八月,常山崩。
 八月、常山が崩れた。
  九月壬寅,鎭西將軍、豫州刺史祖逖卒。
 九月壬寅、鎮西将軍・予州刺史の祖逖が卒した。
  冬十月壬午,以逖弟侍中約爲平西將軍、豫州刺史。
 冬十月壬午、祖逖の弟で侍中の祖約を平西将軍・予州刺史とした。
  十二月,以慕容[广鬼:009429]爲持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
 十二月、慕容[广鬼:009429]を持節・都督幽平二州東夷諸軍事・平州牧とし、遼東郡公に封じた。
  永昌元年春正月乙卯,大赦,改元。戊辰,大將軍王敦舉兵於武昌,以誅劉隗爲名,龍驤將軍沈充帥衆應之。
 永昌元年(三二二)春正月乙卯、大赦して、改元した。戊辰、大将軍の王敦が武昌の地で挙兵し、劉隗を誅殺することを大義名分とした。龍驤将軍の沈充が、手勢を率いて王敦に応じた。
  三月,徴征西將軍戴若思、鎭北將軍劉隗還衞京都。以司空王導爲前鋒大都督,以戴若思爲驃騎將軍,丹楊諸郡皆加軍號。加僕射周[豈頁:043614]尚書左僕射,領軍王邃尚書右僕射。以太子右衞率周莚行冠軍將軍,〔七〕統兵三千討沈充。甲午,封皇子[日立:013862]爲琅邪王。〔八〕劉隗軍於金城,右將軍周札守石頭,帝親被甲徇六師於郊外。遣平南將軍陶侃領江州,安南將軍甘卓領荊州,各帥所統以躡敦後。
 三月、征西将軍の戴若思(淵)・鎮北将軍の劉隗を呼び戻して、建康を守らせた。司空の王導を前鋒大都督とし、戴若思(淵)を驃騎将軍とし、丹楊の諸郡〔の太守〕には皆、軍号を加えた。僕射の周[豈頁:043614]に尚書左僕射を加え、領軍の王邃に尚書右僕射を加えた。太子右衛率の周莚を冠軍将軍として向かわせ、兵三千を率いて沈充を討たせた。甲午、皇子の司馬[日立:013862]を琅邪王に封じた。劉隗は金城に駐軍し、右将軍の周札は石頭を守り、元帝は自ら鎧を着けて、六軍を郊外にまで率いて行った。平南将軍の陶侃に江州を抑えさせ、安南将軍の甘卓に荊州を抑えさせて、それぞれ軍勢を率い、王敦の後を追撃させた。
  四月,敦前鋒攻石頭,周札開城門應之,奮威將軍侯禮死之。敦據石頭,戴若思、劉隗帥衆攻之,王導、周[豈頁:043614]、郭逸、虞潭等三道出戰,六軍敗績。尚書令[一刀:001846] 協奔於江乘,爲賊所害。鎭北將軍劉隗奔于石勒。帝遣使謂敦曰:「公若不忘本朝,于此息兵,則天下尚可共安也。如其不然,朕當歸于琅邪,以避賢路。」辛未,大赦。敦乃自爲丞相、都督中外諸軍、録尚書事,封武昌郡公,邑萬戸。丙子,驃騎將軍、秣陵侯戴若思,尚書左僕射、護軍將軍、武城侯周[豈頁:043614]爲敦所害。敦將沈充陷呉國,魏乂陷湘州,呉國内史張茂、〔九〕〔九〕湘州刺史、[言焦:035976]王承並遇害。〔一〇〕
 四月、王敦の先鋒が石頭を攻撃すると、周札は城門を開いてこれに応じてしまい、奮威将軍の侯礼がここに死んだ。王敦が石頭に拠ると、戴若思(淵)・劉隗は手勢を率いてこれを攻撃し、王導・周[豈頁:043614]・郭逸・虞潭らは三道から出撃したが、六軍は敗北してしまった。尚書令の[一刀:001846]協は江乗の地に逃げ出そうとしたが、盗賊に殺されてしまった。鎮北将軍の劉隗は、石勒のもとへ逃走した。元帝は使者を派遣して王敦に言った。「あなたがもし朝廷のことを忘れておらず、ここで戦いを止めるならば、なお天下を二人で共に安らかにしていくことも出来るだろう。もしそうでないのならば、朕は琅邪の地に帰って、あなたの道を妨げないようにするであろう。」辛未、大赦を行った。王敦は、そこで自ら丞相・都督中外諸軍・録尚書事となり、武昌郡公と邑万戸を封じさせた。丙子、驃騎将軍・秣陵侯の戴若思(淵)と尚書左僕射・護軍将軍・武城侯の周[豈頁:043614]が王敦に殺された。王敦の将である沈充が呉国を落とし、魏乂が湘州を落とし、呉国内史の張茂)(37)と湘州刺史・[言焦:035976]王の司馬承は、二人とも殺害された。
  五月壬申,敦以太保、西陽王[羊永:057378]爲太宰,加司空王導尚書令。乙亥,鎭南大將軍甘卓爲襄陽太守周慮所害。蜀賊張龍寇巴東,建平太守柳純撃走之。石勒遣騎寇河南。
 五月壬申、王敦は太保・西陽王の司馬[羊永:057378]を太宰とし、司空の王導に尚書令を加えた。乙亥、鎮南大将軍の甘卓が襄陽太守の周慮に殺された。蜀の賊である張龍が巴東の地を荒らしまわったので、建平太守の柳純がこれを討って敗走させた。石勒が騎兵を派遣して、河南の地を荒らしまわった。
  六月。旱。
 六月、日照りがあった。
  秋七月,王敦自加[亠兌:001375]州刺史[希β:039413]鑒爲安北將軍。石勒將石季龍攻陷太山,執守將徐龕。[亠兌:001375]州刺史[希β:039413]鑒自鄒山退守合肥。
 秋七月、王敦が自ら[亠兌:001375]州刺史の[希β:039413]鑒に安北将軍を加えた。石勒の将である石季龍(虎)が太山を攻め落し、守将の徐龕を捕えた。[亠兌:001375]州刺史の[希β:039413]鑒が、鄒山から退いて合肥の地を守るようになった。
  八月,敦以其兄含爲衞將軍,自領寧、益二州都督。琅邪太守孫默叛,降于石勒。
 八月、王敦はその兄である王含を衛将軍とし、自らは寧益二州都督となった。琅邪太守の孫黙(38)が反旗を翻し、石勒に降った。
  冬十月,大疫,死者十二三。己丑,都督荊梁二州諸軍事、平南將軍、荊州刺史、武陵侯王[广異:009478]卒。辛卯,以下[丕β:039340]内史王邃爲征北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事,鎭淮陰。新昌太守梁碩起兵反。京師大霧,黒氣蔽天,日月無光。石勒攻陷襄城、城父,遂圍[言焦:035976],破祖約別軍,約退據壽春。
 冬十月、疫病が起こり、死者は十人に二、三人にも上った。己丑、都督荊梁二州諸軍事・平南将軍・荊州刺史・武陵侯の王[广異:009478]卒した。辛卯、下[丕β:039340]内史の王邃を征北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事として、淮陰の地を守らせた。新昌太守の梁碩が挙兵して反乱を起した。建康が濃い霧に覆われ、黒い気が天を蔽い隠し、太陽も月の光も届かなくなった。石勒が襄城・城父を攻め落し、ついに[言焦:035976]を囲んで、祖約の別働隊を破ったため、祖約は退いて寿春に拠るようになった。
  十一月,以司徒荀組爲太尉。己酉,〔一一〕太尉荀組薨。罷司徒,并丞相。
 十一月、司徒の荀組を太尉とした。己酉、太尉の荀組が薨じた。司徒職を廃し、丞相に併せた。
  閏月己丑,帝崩于内殿,時年四十七,葬建平陵,廟號中宗。帝性簡儉沖素,容納直言,虚己待物。初鎭江東,頗以酒廢事,王導深以爲言,帝命酌,引觴覆之,於此遂絶。有司嘗奏太極殿廣室施絳帳,帝曰:「漢文集上書[白十:022684]嚢爲帷。」遂令冬施青布,夏施青[糸束:027480]帷帳。將拜貴人,有司請市雀釵,帝以煩費不許。所幸鄭夫人衣無文綵。從母弟王[广異:009478]爲母立屋過制,流涕止之。然晉室遘紛,皇輿播越,天命未改,人謀協贊。元戎屡動,不出江畿,經略區區,僅全呉楚。終于下陵上辱,憂憤告謝。恭儉之徳雖充,雄武之量不足。
 閏月己丑、元帝が内朝で崩御された。時に年は四十七。建平陵に葬られ、廟号を中宗とした。元帝は、性格が控えめで飾り気が無く、直言を容れ、虚心になって人の意見を聞き、またもてなしていた。初めて江東の地に移ってきた時には、酒ばかり飲んで政務を顧みなかったため、王導は深く考えて諌言した。すると、元帝は〔左右のものに〕酒を進め、〔飲み終わると〕杯を伏せてしまい、以後はついに酒を断った(39)。官僚たちはかつて、太極殿を増築して紅い幕で覆いましょうと奏上したことがあり、その際、元帝は言った。「漢の文帝は意見書を入れるために使う黒い使い古しの袋を集めて、それを垂れ幕に使ったというではないか。」そこでついに、冬には青い布を使い、夏には青いくず布を使って垂れ幕とするようにさせた。貴人を敬ってもてなす時に、官僚たちは雀色の簪を買い与えましょうと言ったが、元帝は無駄遣いだとして許さなかった。寵愛している鄭夫人の衣服でさえ、無地のものであった。母方の従弟である王[广異:009478]が、母のために家を建てようとしたが、度を越して豪華過ぎるために、涙を流してこれを止めた。そうして、晋室は乱れ、天子の車は居所を失ってさまよっていたが、天命はまだ革まってはおらず、人々は力を合わせて助け合おうと思った。軍隊はしばしば出動したが、江南の首都の近辺から出ることはなく、そこここを攻め取りはしたけれども、それはわずかに呉楚の地を守りきっただけであった。ついに、上下〔の先祖の霊と民衆〕はともに侮り辱められたので、〔元帝は〕憂い憤って詫びを告げたのであった。敬いへりくだるという徳は十分であったけれども、猛々しく武を振るうという才略が足りなかったのである。
  始秦時望氣者云「五百年後金陵有天子氣」,故始皇東遊以厭之,改其地曰秣陵,塹北山以絶其勢。及孫權之稱號,自謂當之。孫盛以爲始皇逮于孫氏四百三十七載,考其暦數,猶爲未及;元帝之渡江也,乃五百二十六年,真人之應在于此矣。咸寧初,風吹太社樹折,社中有青氣,占者以爲東莞有帝者之祥。由是徙封東莞王於琅邪,即武王也。及呉之亡,王濬實先至建[業β:039684],而皓之降款,遠歸璽於琅邪。天意人事,又符中興之兆。太安之際,童謠云:「五馬浮渡江,一馬化爲龍。」及永嘉中,歳、鎭、[榮火:019304]惑、太白聚斗、牛之間,識者以爲呉越之地當興王者。是歳,王室淪覆,帝與西陽、汝南、南頓、彭城五王獲濟,而帝竟登大位焉。
 その昔、秦の時、運気を占う者が言った。「五百年の後の金陵(建康の雅名)に、天子の運気があります。」そのため始皇帝は、東方に巡遊した際に、この言葉を嫌って、その地を改めて秣陵と言うようにし、北の山を掘り崩してその地の運気を断とうとした。孫権が帝号を称するようになると、これは自分のことであろうと言った。しかし、孫盛は始皇帝から孫氏に至るまで四百三十七年であり、その年数を考えると、まだ〔予言の五百年に〕達していないと思った。元帝が長江を渡った時こそ、その五百二十六年目であり、本当のあの予言に言う人はここにいたのである。咸寧(二七五〜二七九)の初め、風が太社に吹きつけて、木が折れ、太社の中に青い気が立ち込めたことがあり、占い師は東莞の地に皇帝が現れる兆しだろうと思った。このため、〔武帝は〕東莞王を琅邪に移し封じたが、それこそが〔元帝の祖父の〕武王(司馬[イ由:000479])なのであった。呉が滅びる際には、王濬がまず建[業β:039684]に至り、孫晧の降伏を容れたが、玉璽は遠く琅邪の地に渡った。これは天の意志による事柄であり、また中興の兆しを現わしたのである。太安(三〇二〜三〇三)の際に、童謡として「五馬がいかだで江を渡ると、一馬が化して龍となる」と歌われていた。永嘉年間(三〇七〜三一二)に、歳・鎮・[榮火:019304]惑・太白の星が斗・牛の間に集まったことがあった。見識のある人は呉越の地に王者が現れる兆しだろうと思った。するとこの年、西晋の王室が覆り滅び、元帝は西陽・汝南・南頓・彭城の五王と、江南に渡ることが出来、そうして元帝はついに帝位に登ったのであった。
  初,玄石圖有「牛繼馬後」,故宣帝深忌牛氏,遂爲二[木盍:015295],共一口,以貯酒焉,帝先飲佳者,而以毒酒鴆其將牛金。而恭王妃夏侯氏竟通小吏牛氏而生元帝,亦有符云。
 その昔、玄石図という書物に「牛が馬の後を継ぐ」という予言が書かれていた。そのため宣帝は激しく牛氏を嫌い、ついに二つの酒樽を作り、それぞれ一つの口を持たせ、そこに酒を貯めた。宣帝がまず問題の無い方〔の樽から注いだ酒〕を飲み、それから〔もう一方の樽から注いだ〕毒酒の方を飲ませ、その将であった牛金を毒殺してしまった(40)。しかし、〔元帝の父の〕恭王(司馬覲)の妃であった夏侯氏がついに下級役人の牛氏と密通して、元帝を生んだ(41)のであり、また予言の通りであった。
  史臣曰:晉氏不虞,自中流外,五胡扛鼎,七廟[隋忝:041895]尊,滔天方駕,則民懷其舊徳者矣。昔光武以數郡加名,元皇以一州臨極,豈武宣餘化猶暢于琅邪,文景垂仁傳芳于南頓,所謂後乎天時,先諸人事者也。馳章獻號,高蓋成陰,星斗呈祥,金陵表慶。陶士行擁三州之旅,郢外以安;王茂弘爲分陝之計,江東可立。或高旌未拂,而遐心斯偃,迴首朝陽,仰希乾棟,帝猶六讓不居,七辭而不免也。布帳[糸束:027480]帷,詳刑簡化,抑揚前軌,光啓中興。古者私家不蓄甲兵,大臣不爲威福,王之常制,以訓股肱。中宗失馭強臣,自亡齊斧,兩京胡羯,風埃相望。雖復六月之駕無聞,而鴻雁之歌方遠,享國無幾,哀哉!
 史臣が言う。晋の司馬氏は思いがけなくも、中原より追い出され、五胡が強力となって七帝の太廟も尊さを損ない、天をもしのぐかのように蛮夷が中華と肩を並べてしまうようになれば、庶民はかつての〔晋の〕徳を懐かしむものであろう。その昔、光武帝は数郡をもとに名を成したが、元帝もまた一州をもとに帝位に望んだのであり、どうして、武帝・宣帝の余風がなお琅邪に行き渡り、文帝・景帝の垂れた仁が南頓にまでかぐわしく伝わっていたと言えようか。これは言って見れば、天の時には遅れを取ったが、人々の動きには先んじたものである。兆しが明らかとなって帝号を献ぜられると、この高い覆いは日陰を作り、星や北斗が瑞祥を現せば、金陵(建康の雅名)は喜びの意を表した。陶侃は三州の軍隊をまとめて、京畿の外にあって〔守備に努めて〕安んじさせ、王導は天下を二分する計画を立てて、元帝は江東の地に君臨することが出来た。あるいは、晋軍はまだ振るわなかったが、遠い地に住む人の心は懐き慕い、首を朝日のごとき主君の地に向けて、天子の位につくことを仰ぎ願っていたこともあったが、元帝はなお六度辞退して即位せず、七度目にも断ろうとしたがついにそうは出来なかった。くず布を垂れ幕とし、刑罰の適用を慎重にして人々を純朴にし、前代までの事蹟の良否を深く考え、中興を光り輝かせたのである。その昔は、個人の家に兵隊を養うことはなく、大臣も威権を振るうことはなかったというのは、帝王としての普遍の制度だとして、股肱の臣にも教え諭したのである。しかし、中宗は強勢を誇る臣下を操縦することが出来ず、中央の軍隊が弱まってからというもの、長安・洛陽の地にある胡族の羯が、互いに激しく戦塵を撒き散らして抗争するようになってしまった。再び六月の馬車(42)の音を聞くことは出来ないとはいっても、鴻雁の歌(43)にも遥かに遠く、国を受け継いでどれほどもなく倒れてしまうとは、なんと哀しいことではないか!

更新履歴
2002.09.19:第一版。
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