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update:2021.03.21 担当:解體晉書
晋書巻六
帝紀第六
元帝
人物簡介

元帝司馬睿(276〜322、在位318〜322)は字を景文といい、琅邪恭王司馬覲と夏侯太妃の子で、宣帝司馬懿の曾孫である。八王の乱による中原の混乱を避けて江南に渡り、永嘉の乱で西晋王朝が亡ぶと、北来貴族と江南豪族の支持を得て東晋王朝を成立させ、太興元年(318)には帝位についた。しかし、軍事の実力者王敦に反旗を翻され、失意のうちに永昌元年(322)閏十一月、建康にて崩じた。享年四十七。

本文

元皇帝は諱を睿、字を景文といい、宣帝の曽孫で琅邪恭王の司馬覲の子である。咸寧二年(276)に洛陽で生まれ、尊貴な輝きをはなち、一室全てが照り映え、敷いておいたわらむしろが刈り取ったばかりのように青々として見えた。成長すると、白毫(1)が左の額に現れ、高い鼻とまゆ骨の浮かび出た相、目には明るい輝きを持ち、振り返れば辺りを輝かすほどであった。十五歳の時に、琅邪王の位を継いだ。若くして良い評判があった。恵帝の時代、王室には何かと事件が多く、元帝は常に恭しくへりくだった態度をして、禍から逃れていた。落ち着いていて賢く、度量もあったが、光り輝く才気の片鱗を表に現すことが無かったため、当時の人はまだ彼の優れた点に気付いていなかった。ただ、侍中の嵇紹だけが元帝を並々ならぬ人物であると思い、ある人にこう言った。「琅邪王の人相は尋常なものではなく、ほとんど人臣たる者の相では無い。」

元康二年(292)、員外散騎常侍に任ぜられた。昇進を重ねて左将軍となり、成都王である司馬穎の討伐に従った。しかし、蕩陰の戦い(304)で敗れると、叔父で東安王の司馬繇は司馬穎に殺されてしまった。元帝は自分にも禍の及ぶことを怖れ、今にも逃げ出そうとしていた。ただ、その夜は月が明るく照らし、警備も厳重であったため、元帝はとても逃げ去ることなど出来そうも無く、ひどく差し迫った状態に陥っていた。ところがしばらくすると、雲が張り出し霧が立ち込めて、辺りを暗闇とし、雷雨が激しく降りつけてきたため、見回りの兵士も警戒の気が弛み、そのため元帝は密かに脱出することが出来た。司馬穎は以前に、各地の関所に命じて、貴人を関外へ出さないよう通達していた。そこで、元帝はすでに河陽に到達していたけれども、渡し場の役人によって留められてしまった。従者の宋典が後からやって来て、元帝の馬を鞭で打ちながら笑って言った。「舎長よ! 政府は貴人の通行を禁じているそうですが、あなたのような人でも〔貴人とされて〕留められましたか!」これを聞いて、役人も通行を許した。洛陽に到着すると、生母(夏侯太妃)を迎えてともに琅邪に帰った。

東海王の司馬越がその兵を下邳の地にまとめると、元帝に輔国将軍の地位を与えた。次いで、平東将軍・監徐州諸軍事を加えられ、下邳を守ることになった。しばらくして、安東将軍・都督揚州諸軍事に転任した。司馬越が、天子の馬車を西に迎えに出ると(2)、元帝を留守居として留めた。永嘉(307〜312)の初め、王導の計略を用いて、初めて建鄴を守ることにした。顧栄を軍司馬に、賀循を参佐に、王敦・王導・周顗・刁協をみな腹心の補佐として、賢人を厚くもてなし、民衆の様子を尋ね見舞ったために、江東の地は心を寄せるようになった。たまたま生母(夏侯太妃)が建鄴で薨じると、元帝は自ら〔太妃の亡骸を引いて〕帰郷して葬った。葬儀が終わって任地に帰ってくると、宣城郡の二万戸を増封され、鎮東大将軍・開府儀同三司を加えられた。司馬越の命を受け、征東将軍の周馥を討ち、これを敗走させた。懐帝が平陽に連れ去られる(311)と、司空の荀藩らは檄を天下に飛ばし、元帝を推して盟主にしようとした。しかし、江州刺史の華軼が従わなかったため、予章内史である周広・前江州刺史の衛展を遣わして華軼を討ち捕えさせた。愍帝が即位する(313)と、左丞相を加えられるようになった。一年余りして、位を丞相・大都督中外諸軍事に進めた。諸将を派遣して江東の地を取り収め、背いた孫弼を宣城に斬り、杜弢を湘州に平らげ、詔を受けて荊・揚の地に大赦を行った。西都(長安)が防ぎ守れなくなるに及んで、元帝は軍を率いて野営し、自ら甲冑を着け、四方に檄を飛ばし、天下の兵を召集して、期日を定めて進撃した。その際、〔天子の命令書である〕玉冊が臨安に現れ、白玉で麒麟を象った神璽が江寧に出現し、その文に「長寿万年」と書かれていた。また、太陽に光の傘がかかることがあり、皆は中興の兆しだと考えた。

建武元年(317)春二月辛巳、平東将軍の宋哲がやって来て、愍帝の詔を伝えて言った。「ひどい困難に巡り会って、皇帝の大権は振るっていない。朕は徳少ないにもかかわらず、帝業を受け継ぐことになったが、天に永久の命を祈って、中興を盛んにすることが出来ず、凶暴な胡族にみだりによからぬ輩を率いさせてしまい、都に押し寄せさせてしまっている。朕は今、身動きの取れぬ城に閉じ込められ(3)、万事を憂慮し、一朝にして崩れ去ってしまうことを恐れている。貴方を丞相と見込んで、事細かに朕の意中を述べ、天子の政務を代行させて、いつかは旧都に拠って、陵廟を修復し、この大いなる恥を雪いでくれ。」

三月、元帝は喪服を着けて郊外に宿り、哀を三日間挙げた(4)。西陽王の司馬羕及び、中央・地方の百官らが尊号を奉ろうとしたが、元帝は許さなかった。司馬羕らは、死をもって固く要請すること、再三に及んだ。すると元帝は悲しみ嘆き、涙を流して言った。「私は罪人である。ただ、人臣としての節を実行して義に死のうとし、天下の恥を雪ぐことをもって、出来ることなら死罪をあがなってもらおうと思っただけである。私はもともと〔単なる〕琅邪王であったのに、どうして諸君らの迫ることが止まないのか!」そこで召使いを呼んで馬車の用意を命じ、今にも琅邪に帰ろうとするのであった。群臣はそのため、むやみに迫るのは止め、魏晋の故事に倣って晋王となるように要請し、元帝はそれを認めた。辛卯、王位につき、大赦して改元した。ただし、その祖父母・父母を殺した者と劉聡・石勒だけは大赦令の対象から外れた。諸参軍たちは奉車都尉の官職を与えられ、掾属たちは駙馬都尉の官職を与えられた。掾属に招聘された者は百余人いて、当時の人はこれを「百六掾」と言った。そして、百官の制度を整備し、宗廟・社稷を建康(5)に立てた。時に、四方は競って瑞兆を上言したため、元帝は言った。「私は、天下の責任を負い、今だ治め鎮めることが出来ないでいるというのに、いったい何の瑞兆があると言うのか?」

丙辰、後継ぎの司馬紹を晋王太子とした。撫軍大将軍・西陽王の司馬羕を太保とし、征南大将軍・漢安侯の王敦を大将軍とし、右将軍の王導を都督中外諸軍事・驃騎将軍とし、左長史の刁協を尚書左僕射とした。王子の宣城公司馬裒を琅邪王に封じた。

六月丙寅、司空・并州刺史・広武侯の劉琨、幽州刺史・左賢王・渤海公の段匹磾、領護烏丸校尉・鎮北将軍の劉翰、単于・広甯公の段辰、遼西公の段眷、冀州刺史・祝阿子の邵続、青州刺史・広饒侯の曹嶷、兗州刺史・定襄侯の劉演、東夷校尉の崔毖、鮮卑大都督の慕容廆ら百八十人が書を奉り、即位を勧めて言った。

「我々はこう聞いております。天が民衆を生み、これを立てさせるのに君主をもってした(6)のは、天地に向かい合い、民衆を治め養わせるためなのです。聖帝や明王はこの道理をわきまえ、天地の祀りをおろそかにしてはいけないことを知っていたために、身を屈して天地を奉りました。また、民衆には君主が不在であってはいけないことを知っていたために、やむをえずして、君主として民衆に臨んだのです(7)。社稷が時に困難に遭えば、宗室諸侯はその傾きを正し、祭祀が廃れるようなことがあれば、宗室の賢人がその祭祀を受け継ぐのです。こうして、高遠な徳風ははるかに広まり、規範は万世に固まるのです。三皇五帝以降、この道理によらなかったものはありません。そこで畏れ多くも考えますところでは、高祖宣皇帝は大いなる天命の基を据えられまして、世祖武皇帝はついに中華の地を定めました。三葉(宣帝・景帝・文帝のこと)は相次いで徳を輝かせ、四聖(武帝のこと)(8)は道を受け継ぎました。恩沢は舜に等しく、世を定めることは周王朝をすら超えるものです。元康(291〜299)より以来、難事がしばしば起こり、永嘉(307〜312)の時には凶気はますます募りました。天子は居場所を失い、蛮夷の地で崩ぜられ、国家の危機は、綴旒のようです(9)。〔しかし幸いにも〕先帝の徳や宗廟の霊の助けを受け、皇帝(愍帝)が再建を受け継がれ、祖先の遺風を十分に教え導くことも出来ました。堯のような明敏さ(10)を備え、賢哲の性をよく体得し、優れた資質は若くして明らかとなりまして、孔子のような知徳(11)は早くから振るっていました。宰相はその大権を補佐し、諸侯はその政治を助け、天下の人は中興の美しき世を思い、民衆は素晴らしき王軍が救出に来てくれることを望んでおりました。しかし思いもよらず、天は禍を下したことを後悔なさらず、大変な飢饉がしきりに起こり、国家は今だに難事を忘れることが出来ず、蛮夷の害はひき続いて起こっております。反逆した胡族の劉曜は、西都(長安)において好き勝手に振る舞い、みだりに良からぬ輩を放して、〔大晋の〕国都を犯し虐げております。我々が表を奉った使者が帰って来て報告するところによれば、西晋朝廷は去年十一月をもって防ぎ得なかったと言い、天子は幽閉され、またもや蛮夷の地に連れ去られました。皇帝の御印たる神器は居場所を失ってさまよい、ますます虐げられるという辱めを受けたのです。我々は常に歴史書を読んで、これを前代のことと見比べていますが、これほどまでに厄運の極まったことは、いまだかつて有りませんでした。かりにも食を得るだけのものを頂いており、血の通っている者ならば、胸を叩いて気も絶えんばかりに、街中で泣き叫ばない者はおりません。ましてや、我々は恩寵を三代に渡って受けており、位は人臣を極めるほどなのですから、なおさらのことです。これを聞くや恐れおののき、心も吹き飛んで、驚き嘆くとともに、感情も一定せず、哀を北方の辺地で挙げて、上下の者みな血の涙を流しているのです。

我々はこう聞いております。明と暗とは代わるがわる用いられ、運命の通不通も互いに等しく、天命が改まりさえしなければ、巡り合わせるものには帰するところがあると言います。あるいは、多難にあたって国家が定まることもありますし、深い憂いにおちいって聡明さを現すこともあるのです。そういうわけで、斉の国に公孫無知の禍が起こって、桓公は春秋五覇の筆頭となり(12)、晋の国に驪姫の難があって、文公は諸侯の会盟を司ったのです(13)。社稷が安らかでなければ、必ずその危機を救おうとする者がありますし、民衆がほとんど絶えようとしていれば、必ずその血統を継ごうとする者がいるのです。そこで畏れ多くも陛下を見ますに、その奥深い徳は神霊にも通じ、その素晴らしい御姿は陰陽をも合わせられ、この重要な時期に応じて、千載一遇の機運をつかもうとされております。御目出度い瑞兆は、天と人の間に兆しておりますし、中興の兆しは、予言書の中にも現れています。畿内の地が失われて以来、その外に広がる地域の秩序も崩れ去り、天下は嘆き憂えて心を寄せるところもありません。夏王朝が羿に遭い(14)、周王朝が犬戎に苦しめられた(15)とは言っても、これほどひどいことは有りませんでした。陛下は江左の地を治められ、旧呉の地は残らず手に入れておられます。徳をもって懐け従わせ、刑をもって背く者を討ち、君王の威を示して従わない者を正し、世の秩序に従って天下に号令なされました。徳化がすでに敷かれるようになれば、全土は心を寄せるようになりますし、節義の風が行き渡れば、遠方の者も朝廷を望み見るようになります。上は百官が順序良く政務を執り行ない、下は四方よりやって来る人々が恭しいさまを示すようになります(16)。その昔、少康の盛んな時代のことは、夏の書では美談として記録されましたし(17)、宣王の中興の時代のことは、周の詩に御目出度い歌として載せられました(18)。ましてや〔陛下におかれましては〕盛んな勲は天にまで届き、清らかな光は海にまで輝いているのですから、万民は仰ぎ見て喜び戴き、名声と教化を加えられて、その召使いにでさえもなろうと願わないような者はおりません! しかも、宣帝の血統は、ただ陛下にのみ通っているのですから、万民はここに心を寄せ、ますますその継承者は二人といないというわけです。大晋帝国の天を祀るには、かならず君主が必要です。そして、晋の祭祀を司る者は、陛下で無くして誰がいるというのですか! そういうわけで、近くには異議のある人はなく、遠くにも違う望みを懐く人はおりません。歌う者で素晴らしい陛下の政治を歌わないものはいませんし、裁判を行う者で陛下の徳を思わない者は無いのです。天地の境はすでに交わり、華夷の情も本当に和らぎました。一角獣や連理の木で御目出度い兆しと言えるものは、すでに百を越えております。朝廷に仕える官吏の仲間、遠い辺境の民衆たちで、相談をしたわけでもないのに〔陛下に即位を勧めようという〕意見を同じくする者が、どうかすると万の単位で数えられるほどもいるのです。そういうわけで、我々はあえて天地の心を推し量り、中華の人々の気持ちに沿いまして、恐れ憚りながらも尊号を奉ろうとしているのです。どうか陛下は舜や禹の公を最上とする心を持たれまして、許由や巣父の節を守ろうという考え(19)を、狭いものだとされ、社稷を務めとなし、小さな節義を先んじることの無いようにして下さい。民衆のことを憂いとなされ、謙譲などというものを我が事とされませんようにして下さい。そして、上は宗廟を慰めてこれを顧みられ、下は天下を潤して彼らが心を寄せるよう努めてください。そうすれば、これはいわゆる、枯れ木に草木を茂らせて花を咲かせ、朽ちた骨に豊かな肌を育むというもので、神も人も安らかさを得られ、無上の喜びとしないものはおりません。

我々はこう聞いております。天子の位は長く空けておくべきでなく、天子の政務は久しく打ち捨てておくべきではないのです。これを一日空けておけば、天子の位はほとんど危ういと言えますし、これを十日余りも打ち捨てておいたならば、あらゆる政治は全て乱れてしまうのです。今、王統の末を継ぐに、災禍の時に当たっており(20)、悪賢い蛮夷は身分もわきまえずに大逆を願って、我が国の隙を伺い、民衆は波のように揺れ動き、心を繋ぐところも無い有様なのですから、どうして帝位を廃して〔彼らに〕哀れみもかけないでなどいられましょうか?陛下はためらわれておられるようですが、それは宗廟にとりましてどうでしょうか? 庶民たちにとってどうだと言うのでしょうか? その昔、晋の恵公が秦の捕虜となると、晋の国は震え驚きました。呂甥・郤乞の二人は相談して、太子の圉を即位させ、外に向かっては敵の野望を断ち、内に向かっては国中の気持ちを結束させようとしたのです。そこでこういいました。『君主を失っても新たに君主を立てれば、群臣は仲睦まじくしていられるのだ。我が国を好んでいたものは喜び近付き、我が国を憎んでいたものは恐れ慎むようになるだろう(21)』前代の事を忘れないでいるのは、後世の国家の宝です。陛下は日月に優るとも劣らないほどの明るさを持たれ、暗いところも照らさないことは有りませんし、深謀遠慮はその心から出だされます。我々臣下一同は、犬馬のようにくだらないものですが、国を憂える心に堪えられず、神も人も安心して暮らせる世への道を待ち望んでいます。そこで、その本心をあまさず述べ、これを〔陛下の〕左右の臣に渡し託しました。我々は、地方の任務をかたじけなくも頂いていたため、長らく遠い地方におり、朝廷に参じ侍ることは出来ませんが、盛大な儀礼が行えるほど栄えた朝廷をともに見ることが出来ましたならば、躍り上がるほどの喜びは、遥か南〔の江南の地〕を望んで極まる事が無いでしょう。」元帝は、情け深い御言葉を出してこれに答えた。

その言葉は劉琨伝に載っている。

石勒の将である石季龍(虎)(22)が、譙城を囲んだが、平西将軍の祖逖がこれを討って敗走させた。己巳、元帝は天下に檄を飛ばして言った。「逆賊の石勒は、河朔の地をほしいままに荒らしまわり、誅罰を逃れること数年、欲望の赴くままに過ごしている。また、その一党である石季龍(虎)と良からぬ輩を派遣して、黄河を越え南に渡り、甚だしい害毒を撒き散らしている。しかし、平西将軍の祖逖は軍を率いてこれを討ち、即座にこれを破った。そこで今、車騎将軍・琅邪王の司馬裒ら九軍に強力な兵士三万を派遣して、水陸四つの道からただちに賊のはびこる地に到って、祖逖の指示を受けさせようと思う。もし石季龍(虎)の首を斬ってさらすことが出来た者には、賞として絹三千匹・金五十斤を与え、県侯に封じて食邑二千戸を与えよう。また、賊の一味であっても、石季龍(虎)の首を斬って送り届けてきた者ならば、賞も封地も先程と同じものを与えるであろう。」

七月、散騎侍郎の朱嵩・尚書郎の顧球が卒した。元帝はこれを悼んで、哀を挙げようとした。すると官僚たちが申し上げるには、もともと尚書郎〔程度の人物〕に哀を挙げた例は無いとのことである。しかし、元帝は言った。「世の中が衰え乱れた弊害で〔彼らは命を短くしたのであり〕、特別に悲しみ傷んでいるのだ。」こうしてついに哀を挙げて、激しく大声で嘆き悲しんだ。丁未、梁王の司馬悝が薨じた。太尉の荀組を司徒とした。山沢の資源を採取する禁令を弛めた(23)

八月甲午、梁王の後継ぎである司馬翹を梁王とした。荊州刺史の第五猗が、賊の首領の杜曾に担ぎ上げられて、ついに杜曾とともに反乱を起こした。

九月戊寅、王敦が武昌太守の趙誘・襄陽太守の朱軌・陵江将軍の黄峻を派遣して、第五猗を討たせたが、その将の杜曾のために敗れ、趙誘らは皆ここに死んだ。石勒が京兆太守の華諝を殺した。梁州刺史の周訪が杜曾を討ち、大いにこれを破った。

十月丁未、琅邪王の司馬裒が薨じた。

十一月甲子、汝南王の子の司馬弼を新蔡王に封じた。丁卯、司空の劉琨を太尉とした。史官を置き、太学を立てた。

この年、揚州に大旱があった。

太興元年(318)春正月戊辰朔、朝廷に臨むも、音楽を演奏しなかった。

三月癸丑、愍帝が崩御したと言う連絡が入り、元帝は喪服を着て庵に入った。 丙辰、百官が尊号を奉った。そこで命令を下して言った。「私は不徳で、災厄の極運に当たって、臣下としての節義を立てることも、正し救うことも出来ていない。そしてそれが、朝晩、睡眠も食事も満足に出来ない理由である。今、宗廟の祀りは断たれ、庶民は心を繋ぐところがなく、中央も地方の官僚もともに、みな正しい政治をもってこれに務めている。それなのにどうして、あえて帝位につくことを断ることなど出来ようか。それゆえ、謹んで定めに従おうと思う。」この日、皇帝の位についた。そして、詔して言った。「昔、我が高祖宣皇帝は、時運に応じて天子の礎を築いた。景皇帝・文皇帝は代々徳を輝かし、その光は中華を覆った。ここにおいて世祖にいたり、天の時に従って、ここに天命を受けた。功は天地に及び、仁は宇宙に広まった。しかし、日照りが和らがず、この大凶を降し、懐帝の世は短く、首都からも連れ去られてしまった。天の禍はなおも次々と起こり、先帝(愍帝)は崩御せられ、社稷を奉ずる者がいなくなってしまった。そこでついに、諸官の人々は下役とも相談し、華と夷、ともに意見のまとまるや、帝位継承の大命を朕の身に任せようとした。私は一人、天命を恐れ畏まり、努めて背くことの無いように思った。そしてついに、南嶽 (24)に登って即位し、祖先の遺命を受けて柴を燃やして印とし、上帝に即位を伝えた。ただ、朕は徳少なくして帝業を受け継ぎ、大川を渡るようなこともすぐには出来ないと思う(25)。そこで、お前たち股肱爪牙の補佐や文武熊羆の臣下を頼りとして、任用して晋室の安寧を助けさせ、また私一人を補佐させようと思う。天下とともに考え、〔いつかやってくる〕大慶を共有しようではないか。」こうして大赦を行い、改元し、文武の臣には位二等を増した。庚午、王の太子である司馬紹を皇太子とした。

壬申、詔して言った。「昔の為政者は、人を動かすのに自らの行いをもってしており、言葉をもってしてはいない。天に応じるのに真心をもってしており、飾り立てることをもってしてはいない。だから、私が清廉で落ち着いていれば、他の人は自ずと身を正すようになるだろう。続いて、その言葉を聞き、行いを見て、功績をもってその品格を明確に定める。功績の称えるべきほどのものがあり、刑罰も公平さを備え、人に恨み訴えられることもなく、職務に長くあっても日ごとに気持ちを新たに入れ換え、官職に意志の弱くて当たった者でも、剛強な者の言葉を和らげ、行いが汚れ濁っていた者でも、名誉を得ようと修め慎む者は、それぞれその名を朕の耳に入れよ。今、官職にある人には、先人の功績を仰ぎ見させ、心を一つに協力し、民衆に寛大にして休息を与え、恩恵を庶民に授ける理由を深く考え、朕の命令に背くことの無いようにさせよ。また、遠近よりの進物は一切これを禁じる。」

夏四月丁丑朔、日食が起こった。大将軍の王敦に江州牧を加え、驃騎将軍の王導を開府儀同三司に進めた。戊寅、初めて招魂の葬礼を禁止した。乙酉、西平の地に地震があった。

五月癸丑、使持節・侍中・都督・太尉・并州刺史・広武侯の劉琨が、段匹磾に殺されてしまった。

六月、日照りがあり、元帝自ら雨乞いを行った。丹楊内史(26)を丹楊尹に改めた。甲申、尚書左僕射の刁協を尚書令とし、平南将軍・曲陵公の荀崧を尚書左僕射とした。庚寅、滎陽太守の李矩を都督司州諸軍事・司州刺史とした。戊戌、皇子の司馬晞を武陵王に封じた。初めて諌鼓謗木(27)を設置した。

秋七月戊申、詔して言った。「王室には事件が多く、悪党どもが暴れまわり、皇帝の大権は地に落ち、天子の政策は覆りそうである。朕は不徳であって帝業を受け継ぎ、朝晩憂い嘆いて、その弊害を改めようと考えている。二千石の県令と県長は、謹んで以前からの天子の教えを奉じて、身を正しく法律に明るくなり、権勢を振るう者を抑え、身寄りの無い者を救済し、正確な人口を計って、農業と養蚕を務め励ませよ。州牧や刺史は互いに監察を行い、私事を顧みて公事を疎かにすることがあってはならない。長吏は、国家に尽くす志を懐きながら推薦されない者や、欲張りで穢れた心を持って財産と権力を頼んで自分のことだけを考える者が、もし居るのに推挙や検挙をしなかったならば、罪人を見逃し、善いことを覆い隠した罪に当たるであろう。もしそういう人が居たのに知らなかった場合は、鑑識眼が無いという咎めを受けるであろう。それゆえ、おのおの慎んで国事に務めよ。」劉聡が死んで、その子の劉粲が位を僭称した。

八月、冀・徐・青の三州で蝗の害が起こった。靳準が劉粲を殺し、自ら漢王と号した。

冬十月癸未、広州刺史の陶侃に平南将軍を加えた。劉曜が赤壁において皇帝位を僭称した。

十一月乙卯、太陽が夜に出て、高さは三丈程もあり、中心に赤と青の傘が出来ていた。新蔡王の司馬弼が薨じた。大将軍の王敦に荊州牧を加えた。庚申、詔して言った。「朕は少ない徳をもって帝業を受け継いだが、上は陰陽を調和させることが出来ず、下は民衆を救い養うことが出来ない。災害がしばしば起こり、禍の兆しはしきりに現われている。壬子・乙卯には、雷のように激しい雨が降るし、おそらくこの天災は天の咎めに違いなく、朕の不徳を表しているのであろう。諸官僚たちは、おのおの意見書を差し出して、詳しく今の政治の長所と短所を述べ、避けて言わないようなことは無いようにしてくれ。朕自らよく見て考えようと思う。」新たに聴訟観(28)を作った。今は亡き帰命侯の孫晧の子である孫璠が謀反を起こしたが、誅を受けた。

十二月、劉聡の生前に将であった王騰・馬忠らが靳準を殺し、伝国の玉璽を劉曜に送った。武昌の地に地震が起こった。丁丑、顕義亭侯の司馬煥を琅邪王に封じた。己卯、琅邪王の司馬煥が薨じた。癸巳、詔して言った。「漢の高祖は大梁を通過する時、信陵君の賢明なのを誉め称え(29)、斉の軍が魯に入ると、柳下恵の墓を修復した(30)。それゆえ、呉の、徳を備え賢明な者で、まだ官職簿に名前を連ねていない者は、詳しく書き連ねて朕の耳に入れよ。」江東の三郡に飢饉が起こったため、使いを遣わして、これを救済した。彭城内史の周撫が、沛国内史を殺して反乱を起こした。

二年(319)春正月丁卯、崇陽陵(文帝の陵墓)が破壊された。元帝は喪服を着け、三日間悲しみ泣いた。冠軍将軍の梁堪・守太常の馬亀らを派遣して、山陵を修復しに行かせた。天子の棺を平陽で迎えようとしたが、果たすことが出来ないまま帰国した。

二月、太山太守の徐龕が周撫を斬って、首を建康に送って来た。

夏四月、龍驤将軍の陳川が、浚儀で反旗を翻し、石勒に降った。太山太守の徐龕が、郡を率いて反乱し、自ら兗州刺史と号して、済・岱の地を荒らしまわった。秦州刺史の陳安が反乱を起こし、劉曜に降った。

五月癸丑、太陽陵(恵帝の陵墓)が破壊された。元帝は喪服を着け、三日間悲しみ泣いた。徐州・揚州と江州西部の諸郡を蝗が襲った。呉郡では飢饉が起こった。平北将軍の祖逖が石勒の将である石季龍(虎)と、浚儀の地で戦闘に及んだが、晋軍は敗北してしまった。壬戌、詔して言った。「天下は衰え疲れ、さらに天災が起こったために、民衆は困窮し、国家財政も同じように乏しくなって、呉郡では飢え死ぬ人が百人あまりも出てしまった。天は民衆を生み、これを立てるのに君主をもってして、明哲な人を選んで君主を補佐させるのであり、良く考えて、この弊害を救わなければならない。その昔、呉起は楚の悼王のために、法律を詳しく調べ、さし当たって必要の無い官職を省き、公族の中で血統の遠い者を除き、その分を将士に増し与えて、富国強兵を成し遂げたという(31)。ましてや、今日の疲弊ぶりは、民衆を困窮させているのだから、なおさらそうしなければならない! そこで、不必要な職務は除き、軍士の留めておく必要の無いものは、みなこれを省くようにせよ。」甲子、梁州刺史の周訪が杜曾と、武当の地において戦闘に及び、杜曾を斬って、第五猗を捕えた。

六月丙子、周訪に安南将軍を加えた。御府(宝物庫係)と諸郡の丞を廃止して、博士員五人を置いた。己亥、太常の賀循に開府儀同三司を加えた。

秋七月乙丑、太常の賀循が卒した。

八月、粛慎(32)が弓矢を献じてきた。徐龕が東莞の地を荒らしまわったので、太子左衛率の羊鑒を征虜将軍として派遣し、徐州刺史の蔡豹をも統率して、徐龕を討たせた。

冬十月、平北将軍の祖逖が、督護の陳超を派遣して、石勒の将である桃豹の陣を襲ったが、陳超は敗れ、陣中で亡くなった。

十一月戊寅、石勒が王位を僭称し、国を趙と号した。

十二月乙亥、大赦し、百官に詔してそれぞれ意見書を奉らせ、あわせて民衆の徭役を軽減した。鮮卑の慕容廆が遼東の地を襲い、東夷校尉・并州刺史の崔毖は高句麗に亡命してしまった。

この年、南陽王の司馬保が祁山において晋王を称した。三呉には大飢饉が起こった。

三年(320)春正月丁酉朔、晋王の司馬保が劉曜の圧迫を受け、桑城に移った。

二月辛未、石勒の将である石季龍(虎)が猒次の地を荒らしまわったため、平北将軍・冀州刺史の邵続がこれを攻撃したが、邵続は敗北し、陣中で亡くなった。

三月、慕容廆が玉璽三組を贈ってきた。

閏月、尚書の周顗を尚書僕射とした。

夏四月壬辰、流れ星が翼・軫の星の辺りを流れた。

五月丙寅、孝懐帝の太子であった司馬詮が、平陽で殺害され、元帝は三日間泣き悲しんだ。庚寅、地震があった。この月、晋王の司馬保が、その属将である張春に殺されてしまった。劉曜が陳安を派遣して張春を攻撃し、これを滅ぼしたが、陳安がそこで劉曜に反旗を翻してしまった。石勒の将である徐龕が、手勢を率いて降伏してきた。

六月、洪水があった。丁酉、盗賊が西中郎将・護羌校尉・涼州刺史・西平公の張寔を殺し、張寔の弟の張茂が継ぎ、平西将軍・涼州刺史となった。

秋七月丁亥、詔して言った。「亡祖父の武王(司馬伷)・亡父の恭王(司馬覲)は、琅邪王として君臨すること四十余年にも及び、恩沢を庶民に加え、その仁愛が死後にも及んで人の心を結び付けていた。朕は天命に応じて、江南の地に帝業の礎を築き、庶民は心を寄せ、子供を背負って江北より渡って来るものもあった。もとの琅邪国の人であって、今この地に居る者は千戸に近く、現在は彼らを懐徳県の僑県に属させ、丹陽郡に統属させている。昔、漢の高祖は沛県を朝見の際に使う湯浴みの町としたし、光武帝もまた南頓の労役を免除した。そこで、〔琅邪国人の〕徭役を優遇するということ、全て漢の故事に倣おうと思う。」祖逖の部将である衛策が、石勒の別働隊を汴水で大いに破った。祖逖に鎮西将軍を加えた。

八月戊午、敬王后の虞氏(33)を奉って、敬皇后とした。辛酉、〔敬皇后の〕位牌を太廟に遷した。辛未、梁州刺史・安南将軍の周訪が卒した。皇太子が、太学で孔子ら儒教の聖人を祭った。湘州刺史の甘卓を安南将軍・梁州刺史とした。

九月、徐龕がまたも反旗を翻し、石勒に降った。

冬十月丙辰、徐州刺史の蔡豹が恐れひるんだために、誅罰を受けた。王敦が武陵内史の向碩を殺した。

四年(321)春二月、徐龕がまたも手勢を率いて降伏してきた。鮮卑の段末波(34)が皇帝の割符と印を贈って来た。庚戌、太廟に告げて、これを〔正式に〕受けた。癸亥、二つの太陽が現われて競い合うように照りつけた(35)

三月、周易・儀礼・春秋公羊伝の博士を置いた。癸酉、平東将軍の曹嶷を安東将軍とした。

夏四月辛亥、元帝が自ら、諸々の裁判を執り行なった。石勒が猒次を攻撃し、これを陥した。撫軍将軍・幽州刺史の段匹磾が石勒のもとで亡くなった。

五月、日照りがあった。庚申、詔して言った。「昔、漢の高祖と光武帝、それに魏の武帝は、みな奴隷を解放して庶民とした。西晋の武帝の時に、涼州が崩壊すると、それぞれ奴婢に没落してしまった者のために、また戸籍に登録し直して庶民に戻した。これは代々の制度である。そこで、中原ではもともと庶民であったが、〔永嘉の〕大難に遭い、揚州の諸郡に移って奴隷となっていた者の身分を解放し、〔課税対象の人を増やして〕租税と力役に備えよ。」

秋七月、洪水があった。甲戌、尚書の戴若思(淵)(36)を征西将軍・都督司兗予并冀雍六州諸軍事・司州刺史として、合肥を守らせた。丹楊尹の劉隗を鎮北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事・青州刺史として、淮陰を守らせた。壬午、驃騎将軍の王導を司空とした。

八月、常山が崩れた。

九月壬寅、鎮西将軍・予州刺史の祖逖が卒した。

冬十月壬午、祖逖の弟で侍中の祖約を平西将軍・予州刺史とした。

十二月、慕容廆を持節・都督幽平二州東夷諸軍事・平州牧とし、遼東郡公に封じた。

永昌元年(322)春正月乙卯、大赦して、改元した。戊辰、大将軍の王敦が武昌の地で挙兵し、劉隗を誅殺することを大義名分とした。龍驤将軍の沈充が、手勢を率いて王敦に応じた。

三月、征西将軍の戴若思(淵)・鎮北将軍の劉隗を呼び戻して、建康を守らせた。司空の王導を前鋒大都督とし、戴若思(淵)を驃騎将軍とし、丹楊の諸郡〔の太守〕には皆、軍号を加えた。僕射の周顗に尚書左僕射を加え、領軍の王邃に尚書右僕射を加えた。太子右衛率の周莚を冠軍将軍として向かわせ、兵三千を率いて沈充を討たせた。甲午、皇子の司馬昱を琅邪王に封じた。劉隗は金城に駐軍し、右将軍の周札は石頭を守り、元帝は自ら鎧を着けて、六軍を郊外にまで率いて行った。平南将軍の陶侃に江州を抑えさせ、安南将軍の甘卓に荊州を抑えさせて、それぞれ軍勢を率い、王敦の後を追撃させた。

四月、王敦の先鋒が石頭を攻撃すると、周札は城門を開いてこれに応じてしまい、奮威将軍の侯礼がここに死んだ。王敦が石頭に拠ると、戴若思(淵)・劉隗は手勢を率いてこれを攻撃し、王導・周顗・郭逸・虞潭らは三道から出撃したが、六軍は敗北してしまった。尚書令の刁協は江乗の地に逃げ出そうとしたが、盗賊に殺されてしまった。鎮北将軍の劉隗は、石勒のもとへ逃走した。元帝は使者を派遣して王敦に言った。「あなたがもし朝廷のことを忘れておらず、ここで戦いを止めるならば、なお天下を二人で共に安らかにしていくことも出来るだろう。もしそうでないのならば、朕は琅邪の地に帰って、あなたの道を妨げないようにするであろう。」辛未、大赦を行った。王敦は、そこで自ら丞相・都督中外諸軍・録尚書事となり、武昌郡公と邑万戸を封じさせた。丙子、驃騎将軍・秣陵侯の戴若思(淵)と尚書左僕射・護軍将軍・武城侯の周顗が王敦に殺された。王敦の将である沈充が呉国を落とし、魏乂が湘州を落とし、呉国内史の張茂)(37)と湘州刺史・譙王の司馬承は、二人とも殺害された。

五月壬申、王敦は太保・西陽王の司馬羕を太宰とし、司空の王導に尚書令を加えた。乙亥、鎮南大将軍の甘卓が襄陽太守の周慮に殺された。蜀の賊である張龍が巴東の地を荒らしまわったので、建平太守の柳純がこれを討って敗走させた。石勒が騎兵を派遣して、河南の地を荒らしまわった。

六月、日照りがあった。

秋七月、王敦が自ら兗州刺史の郗鑒に安北将軍を加えた。石勒の将である石季龍(虎)が太山を攻め落し、守将の徐龕を捕えた。兗州刺史の郗鑒が、鄒山から退いて合肥の地を守るようになった。

八月、王敦はその兄である王含を衛将軍とし、自らは寧益二州都督となった。琅邪太守の孫黙(38)が反旗を翻し、石勒に降った。

冬十月、疫病が起こり、死者は十人に二、三人にも上った。己丑、都督荊梁二州諸軍事・平南将軍・荊州刺史・武陵侯の王廙が卒した。辛卯、下邳内史の王邃を征北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事として、淮陰の地を守らせた。新昌太守の梁碩が挙兵して反乱を起した。建康が濃い霧に覆われ、黒い気が天を蔽い隠し、太陽も月の光も届かなくなった。石勒が襄城・城父を攻め落し、ついに譙を囲んで、祖約の別働隊を破ったため、祖約は退いて寿春に拠るようになった。

十一月、司徒の荀組を太尉とした。己酉、太尉の荀組が薨じた。司徒職を廃し、丞相に併せた。

閏月己丑、元帝が内朝で崩御された。時に年は四十七。建平陵に葬られ、廟号を中宗とした。元帝は、性格が控えめで飾り気が無く、直言を容れ、虚心になって人の意見を聞き、またもてなしていた。初めて江東の地に移ってきた時には、酒ばかり飲んで政務を顧みなかったため、王導は深く考えて諌言した。すると、元帝は〔左右のものに〕酒を進め、〔飲み終わると〕杯を伏せてしまい、以後はついに酒を断った(39)。官僚たちはかつて、太極殿を増築して紅い幕で覆いましょうと奏上したことがあり、その際、元帝は言った。「漢の文帝は意見書を入れるために使う黒い使い古しの袋を集めて、それを垂れ幕に使ったというではないか。」そこでついに、冬には青い布を使い、夏には青いくず布を使って垂れ幕とするようにさせた。貴人を敬ってもてなす時に、官僚たちは雀色の簪を買い与えましょうと言ったが、元帝は無駄遣いだとして許さなかった。寵愛している鄭夫人の衣服でさえ、無地のものであった。母方の従弟である王廙が、母のために家を建てようとしたが、度を越して豪華過ぎるために、涙を流してこれを止めた。そうして、晋室は乱れ、天子の車は居所を失ってさまよっていたが、天命はまだ革まってはおらず、人々は力を合わせて助け合おうと思った。軍隊はしばしば出動したが、江南の首都の近辺から出ることはなく、そこここを攻め取りはしたけれども、それはわずかに呉楚の地を守りきっただけであった。ついに、上下〔の先祖の霊と民衆〕はともに侮り辱められたので、〔元帝は〕憂い憤って詫びを告げたのであった。敬いへりくだるという徳は十分であったけれども、猛々しく武を振るうという才略が足りなかったのである。

その昔、秦の時、運気を占う者が言った。「五百年の後の金陵(建康の雅名)に、天子の運気があります。」そのため始皇帝は、東方に巡遊した際に、この言葉を嫌って、その地を改めて秣陵と言うようにし、北の山を掘り崩してその地の運気を断とうとした。孫権が帝号を称するようになると、これは自分のことであろうと言った。しかし、孫盛は始皇帝から孫氏に至るまで四百三十七年であり、その年数を考えると、まだ〔予言の五百年に〕達していないと思った。元帝が長江を渡った時こそ、その五百二十六年目であり、本当のあの予言に言う人はここにいたのである。咸寧(275〜279)の初め、風が太社に吹きつけて、木が折れ、太社の中に青い気が立ち込めたことがあり、占い師は東莞の地に皇帝が現れる兆しだろうと思った。このため、〔武帝は〕東莞王を琅邪に移し封じたが、それこそが〔元帝の祖父の〕武王(司馬伷)なのであった。呉が滅びる際には、王濬がまず建鄴に至り、孫晧の降伏を容れたが、玉璽は遠く琅邪の地に渡った。これは天の意志による事柄であり、また中興の兆しを現わしたのである。太安(302〜303)の際に、童謡として「五馬がいかだで江を渡ると、一馬が化して龍となる」と歌われていた。永嘉年間(307〜312)に、歳・鎮・熒惑・太白の星が斗・牛の間に集まったことがあった。見識のある人は呉越の地に王者が現れる兆しだろうと思った。するとこの年、西晋の王室が覆り滅び、元帝は西陽・汝南・南頓・彭城の五王と、江南に渡ることが出来、そうして元帝はついに帝位に登ったのであった。

その昔、玄石図という書物に「牛が馬の後を継ぐ」という予言が書かれていた。そのため宣帝は激しく牛氏を嫌い、ついに二つの酒樽を作り、それぞれ一つの口を持たせ、そこに酒を貯めた。宣帝がまず問題の無い方〔の樽から注いだ酒〕を飲み、それから〔もう一方の樽から注いだ〕毒酒の方を飲ませ、その将であった牛金を毒殺してしまった(40)。しかし、〔元帝の父の〕恭王(司馬覲)の妃であった夏侯氏がついに下級役人の牛氏と密通して、元帝を生んだ(41)のであり、また予言の通りであった。

史臣が言う。晋の司馬氏は思いがけなくも、中原より追い出され、五胡が強力となって七帝の太廟も尊さを損ない、天をもしのぐかのように蛮夷が中華と肩を並べてしまうようになれば、庶民はかつての〔晋の〕徳を懐かしむものであろう。その昔、光武帝は数郡をもとに名を成したが、元帝もまた一州をもとに帝位に望んだのであり、どうして、武帝・宣帝の余風がなお琅邪に行き渡り、文帝・景帝の垂れた仁が南頓にまでかぐわしく伝わっていたと言えようか。これは言って見れば、天の時には遅れを取ったが、人々の動きには先んじたものである。兆しが明らかとなって帝号を献ぜられると、この高い覆いは日陰を作り、星や北斗が瑞祥を現せば、金陵(建康の雅名)は喜びの意を表した。陶侃は三州の軍隊をまとめて、京畿の外にあって〔守備に努めて〕安んじさせ、王導は天下を二分する計画を立てて、元帝は江東の地に君臨することが出来た。あるいは、晋軍はまだ振るわなかったが、遠い地に住む人の心は懐き慕い、首を朝日のごとき主君の地に向けて、天子の位につくことを仰ぎ願っていたこともあったが、元帝はなお六度辞退して即位せず、七度目にも断ろうとしたがついにそうは出来なかった。くず布を垂れ幕とし、刑罰の適用を慎重にして人々を純朴にし、前代までの事蹟の良否を深く考え、中興を光り輝かせたのである。その昔は、個人の家に兵隊を養うことはなく、大臣も威権を振るうことはなかったというのは、帝王としての普遍の制度だとして、股肱の臣にも教え諭したのである。しかし、中宗は強勢を誇る臣下を操縦することが出来ず、中央の軍隊が弱まってからというもの、長安・洛陽の地にある胡族の羯が、互いに激しく戦塵を撒き散らして抗争するようになってしまった。再び六月の馬車(42)の音を聞くことは出来ないとはいっても、鴻雁の歌(43)にも遥かに遠く、国を受け継いでどれほどもなく倒れてしまうとは、なんと哀しいことではないか!

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