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update:2021.01.25 担当:えちぜん
晋書巻三十三
列伝第三
鄭沖
人物簡介

鄭沖(?〜274)は字を文和といい,滎陽郡開封県の人。論語集解の編者の一人としても知られる。貧しい家の出身でありながら、儒教・諸子百家の思想を博く修めた。私欲がなく、生涯にわたり質素な暮らしをしていた。魏の文帝(曹丕)により見出され、曹爽によって官職に引き立てられたのちは、昇進し司空となった。高貴郷公(曹髦)が尚書を研究する際、直接教えるなどして賞賜を賜った。その後司徒となった。常道郷公(曹奐)即位後、太保となり、寿光侯に封ぜられた。武帝(司馬炎)即位後、太傅となり、寿光公に封ぜられた。高齢と病気のため、幾度となく辞職を願い出るが、武帝(司馬炎)の信任厚く、死の前年まで許されなかった。泰始十年(274)、薨じた。成と諡された。

本文

鄭沖は字を文和といい,司州滎陽郡開封県の人である。貧しい家から身を起こし、優れた志を立てて、〔性格は〕清くおだやかで欲も少なく、経書や史書を愛読し(1)、遂に儒教を始め諸子百家の思想を博く修めた。〔儒者としての〕風格があり、振る舞いは必ず礼に従い、ありのまま〔の生活〕を貫き、郷里での名誉(2)を求めなかったので、州や郡では長い間、〔鄭沖を〕招聘しなかった(3)

魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)(4)と、身分の低い者から優れた人物を探し出して登用した。〔魏の文帝(曹丕)は〕鄭沖を文学に任命し、続いて尚書郎に転任させ、陳留太守の補佐をさせた。鄭沖は正しい儒学で徳を顕わし、役人になっても仕事ができるという評判はなかった(5)が、粗末な食事や衣服で済まし、財産を殖やすようなこともなかった(6)ので、世間の人は、これ(質素な生活)をもって、彼を優れた人だと思った。大将軍曹爽が〔鄭沖を〕引き立てて従事中郎とし、散騎常侍・光禄勲に転任した(7)。嘉平三年(251)、司空を拝命した(8)。高貴郷公(曹髦)が尚書の研究をした時、鄭沖は経書を手に持って、じかに教え、侍中の鄭小同とともに賞賜を賜った(9)。しばらくして司徒に転任した(10)。常道郷公(曹奐)が即位(260)し、太保を拝命した(11)。その位は三司(太尉・司空・司徒)の上とされ、寿光侯に封ぜられた。鄭沖の官職は宰相であったが、世俗の事には関与しなかった。そのころ文帝(司馬昭)が政治を補佐しており、蜀を平定した(263)のち、賈充・羊祜に礼儀・律令を定めることを命じた。皆、まず鄭沖に相談して、その後に施行した(12)

魏帝(曹奐)が禅譲を告げる(265)に際し、鄭沖に禅譲を告げる書を提出させた。武帝(司馬炎)は天子の位に就く(265)と、〔鄭沖を〕太傅に任命し、進爵して〔寿光〕公とした。しばらくして、司隷の李憙(13)と中丞の侯史光(14)は鄭沖・何曾・荀顗らがそれぞれ病気であるので、あわせて官職を罷免すべきであると奏上した。武帝は〔罷免を〕許さなかった。鄭沖は遂に政務を執り行うことが出来なくなり、表(君主に奉る文書)にて辞職を申し入れた。〔しかしながら〕手厚い詔は〔辞職を〕許さず、使者を派遣して〔鄭沖を〕説得した。鄭沖は固辞し、貂蝉の印綬を返上したが、詔はまたしても〔辞職を〕許さなかった。泰始六年(270)、詔して言う。「昔、漢王朝の祖(劉邦)は配下のことを知って、善く政務を任せたので、中国全土を平定できた。〔彼らの〕功績をたたえ、その最も優れた者(張良・蕭何・韓信)を三俊とした(15)。遂に功績のあった家臣と符を割って誓いを立て、これ(その一方の符)を宗廟に保管した。もう一方の符は家臣に預けることで、徳を明らかにし功績ある人を用いたので、〔家臣は〕〔漢〕王朝を守り助けたのだ。昔、亡くなった我が祖父(司馬懿)は、世の中が多難な時に優れた人物を招聘し、彼らと共に金属を断ち切るほどの固い結束(16)でもって、遂にその時の務めを成し遂げ、良く天下の事業を定めた。太傅壽光公鄭沖、太保朗陵公何曾、太尉臨淮公荀顗はそれぞれ徳を高くし仁に従い、誠実にして先皇を助け、帝業を大いに助けた。死んだ司空博陵元公王沈、衛将軍鉅平侯羊祜らは才能が文武を兼ねそなえ、つつしみ深く、私はかれらを大変に気に入っていた。尚書にないだろうか?『天秩有禮,五服五章哉!』(17)と。(天が徳ある者の為に五種類の服装制度を設け、それぞれの徳行を示したように、朕も)寿光・朗陵・臨淮・博陵・鉅平国に郎中令を置き、〔公・侯の〕正妻・跡継ぎに印綬を与え、〔公・侯に与える〕本来の俸給の三分の一を与えるなど、皆郡の公や侯になぞらえるようにせよ。」

〔泰始〕九年(273)、鄭沖はまた辞職を願い出た。詔は「太傅(鄭沖)は徳を修め、とても純粋で、振る舞いは高尚で潔く、我欲がなくさっぱりとしており、明らかに世俗を超越していた。五十歳を過ぎて王室に関することに携わり、六十歳を過ぎてもつつしみ深く公の位にあり、思いは私欲に及ばない。遂に周囲の者の推挙に応じ、三事を歴任した。太保・太傅の重責を担い、論道の任を細かく経営し、代々を大いに助け、ここで天が天下を治める働きを助け、大業の成就を助けた。晋朝の賢老で、衆人に尊敬される者と言うことができる。朕は政道に暗く、諸々のことをまだ安定化させることができない。老人の教訓を採用し、その無知を導き、発揚した。願わくは、〔鄭沖の〕輝かしい徳によって、〔これから進むべき道を〕明るく照らしてくれまいか。しかし、公(鄭沖)はしばしば高齢で病気がちであることを理由に、辞職して引退することを告げた。公(鄭沖)の意志に従えば、朕は誰にはかりごとを相談すればよいのだ?。譬えれば、川を渡ろうとするのに、渡ることができる所を知らないようなものであった。この為に〔辞職を〕許さず、年月を重ね〔今に〕至った。しかし、譲を高くすることはいよいよ篤く、意志は違えがたいところまで至り、その強情な様を見るにつけ、朕はがっかりさせられる。そもそも功績があって財産はなく、その徳が優れていることこの上なく、学問も道徳も兼ね備えた完璧な人物であるとの評判があり、君子の仲間である。朕の寄りかかる心が届いたとして、徳高き人の身の処し方を変えることができようか!今、彼のこだわりを聞き入れ、寿光公の身分のまま、私邸に帰す。位は太保・太傅と同じとし、三司(太尉・司空・司徒)の右にいるものとする。公は精神をやしなって、陰陽の調和した気を保ちまもり、大きな幸いを極めるのがよい。机杖をあたえる。参内しなくてもよい。昔の哲王は国家に貢献した老人を敬い、法令をしく時には赴いて助言を求め、そうすることで不足する部分を修正した。もし、朝議で天下〔国家を左右する〕の政治があれば、皆〔鄭沖のところへ〕行って彼(鄭沖)に相談せよ。四頭だての馬車、邸宅一棟、銭百萬、絹五百匹、ねやのとばりとすのこを下賜する。召使い六人、朝廷の騎兵二十人を配置する。跡継ぎの鄭徽を散騎常侍とし、常にゆったりと親に仕えさせる。秩禄の額や天子が爵位・封土を与える制度は、一旦古い制度と同様とし、〔不足があれば〕加えるものとする。」

明年(泰始十年(274))薨じた(18)。武帝は朝堂にて喪に服した。死後、太傅を追贈し(19)、〔東園の〕秘器、朝服、衣一襲、銭三十萬、布帛百匹を賜った。成と諡された。咸寧年間(275〜279)の初め、役人が奏上し、鄭沖は安平王司馬孚ら十二人とともに、みな銘に太常と記され、廟に祀られた。

その昔、鄭沖は孫邕、曹羲、荀顗、何晏と共に論語に関する諸家の訓注の中で善いものを集め、その姓名を記した。その(論語の説くところの)本義に従って、十分でないところがあればこれを改めたことにより、〔これを〕論語集解と言う。完成後、これ(論語集解)を魏朝に献上し、今に伝わっている(20)

鄭沖には男子(息子)が無く、甥の鄭徽を跡継ぎとした。〔鄭徽は〕平原内史の位に至った。鄭徽が卒し、子の鄭簡が跡を継いだ。

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