update:2005.10.01  担当:えちぜん
晉書卷三十三

 列傳第三

鄭沖
人物簡介
 鄭沖(?〜274)は字を文和といい,滎陽郡開封県の人。論語集解の編者の一人としても知られる。貧しい家の出身でありながら、儒教・諸子百家の思想を博く修めた。私欲がなく、生涯にわたり質素な暮らしをしていた。魏の文帝(曹丕)により見出され、曹爽によって官職に引き立てられたのちは、昇進し司空となった。高貴郷公(曹髦)が尚書を研究する際、直接教えるなどして賞賜を賜った。その後司徒となった。常道郷公(曹奐)即位後、太保となり、寿光侯に封ぜられた。武帝(司馬炎)即位後、太傅となり、寿光公に封ぜられた。高齢と病気の為、幾度となく辞職を願い出るが、武帝(司馬炎)の信任厚く、死の前年まで許されなかった。泰始十(274)年、薨去。成と諡された。
本文
  鄭沖字文和,滎陽開封人也,起自寒微,卓爾立操,清恬寡欲,耽玩經史,遂博究儒術及百家之言。有姿望,動必循禮,任眞自守,不要郷曲之譽,由是州郡久不加禮。
 鄭沖は字を文和といい,司州滎陽郡開封県の人である。貧しい家から身を起こし、優れた志を立てて、〔性格は〕清くおだやかで欲も少なく、経書や史書を愛読し(1)、遂に儒教を始め諸子百家の思想を博く修めた。〔儒者としての〕風格があり、振る舞いは必ず礼に従い、ありのまま〔の生活〕を貫き、郷里での名誉(2)を求めなかったので、州や郡では長い間、〔鄭沖を〕招聘しなかった(3)
  及魏文帝爲太子,搜揚側陋,命沖爲文學,累遷尚書郎,出補陳留太守。沖以儒雅爲徳,莅職無幹局之譽,簞食縕袍,不營資産,世以此重之。大將軍曹爽引爲從事中郎,轉散騎常侍、光祿勳。嘉平三年,拜司空。及高貴郷公講尚書,沖執經親授,與侍中鄭小同倶被賞賜。俄轉司徒。常道郷公即位,拜太保,位在三司之上,封壽光侯。沖雖位階台輔,而不預世事。時文帝輔政,平蜀之後,命賈充、羊祜等分定禮儀、律令,皆先諮於沖,然後施行。
 魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)(4)と、身分の低い者から優れた人物を探し出して登用した。〔魏の文帝(曹丕)は〕鄭沖を文学に任命し、続いて尚書郎に転任させ、陳留太守の補佐をさせた。鄭沖は正しい儒学で徳を顕わし、役人になっても仕事ができるという評判はなかった(4)が、粗末な食事や衣服で済まし、財産を殖やすようなこともなかった(5)ので、世間の人は、これ(質素な生活)をもって、彼を優れた人だと思った。大将軍曹爽が〔鄭沖を〕引き立てて従事中郎とし、散騎常侍・光祿勳に転任した(6)。嘉平三(251)年、司空を拝命した(7)。高貴郷公(曹髦)が尚書の研究をした時、鄭沖は経書を手に持って、じかに教え、侍中の鄭小同とともに賞賜を賜った(8)。しばらくして司徒に転任した(9)。常道郷公(曹奐)が即位(260)し、太保を拝命した(10)。その位は三司(太尉・司空・司徒)の上とされ、寿光侯に封ぜられた。鄭沖の官職は宰相であったが、世俗の事には関与しなかった。そのころ文帝(司馬昭)が政治を補佐しており、蜀を平定した(263)のち、賈充・羊祜に礼儀・律令を定めることを命じた。皆、まず鄭沖に相談して、その後に施行した(11) 
  及魏帝告禪,使沖奉策。武帝踐阼,拜太傅,進爵爲公。頃之,司隷李憙,〔六〕中丞侯史光奏沖及何曾、荀顗等以疾病,倶應免官。沖遂不視事,表乞骸骨。優詔不許,遣使申喩。沖固辭,上貂蝉印綬,詔又不許。泰始六年,詔曰:「昔漢祖以知人善任,克平宇宙,推述勳勞,歸美三俊。遂與功臣剖符作誓,藏之宗廟,副在有司,所以明徳庸勳,藩翼王室者也。昔我祖考,遭世多難,攬授英儁,與之斷金,遂濟時務,克定大業。太傅壽光公鄭沖、太保朗陵公何曾、太尉臨淮公荀顗各尚徳依仁,明允篤誠,翼亮先皇,光濟帝業。故司空博陵元公王沈、衞將軍鉅平侯羊祜等才兼文武,忠肅居正,朕甚嘉之。書不云乎:『天秩有禮,五服五章哉!』其爲壽光、朗陵、臨淮、博陵、鉅平國置郎中令,假夫人、世子印綬,食本秩三分之一,皆如郡公侯比。」
 魏帝(曹奐)が禅譲を告げる(265)に際し、鄭沖に禅譲を告げる書を提出させた。武帝(司馬炎)は天子の位に就く(265)と、〔鄭沖を〕太傅に任命し、爵位を進めて〔寿光〕公とした。しばらくして、司隷の李憙(12)と中丞の侯史光(13)は鄭沖・何曾・荀顗らがそれぞれ病気であるので、あわせて官職を罷免すべきであると奏上した。武帝は〔罷免を〕許さなかった。鄭沖は遂に政務を執り行うことが出来なくなり、表(君主に奉る文書)にて辞職を申し入れた。〔しかしながら〕手厚い詔は〔辞職を〕許さず、使者を派遣して〔鄭沖を〕説得した。鄭沖は固辞し、貂蝉の印綬を返上したが、詔はまたしても〔辞職を〕許さなかった。泰始六(270)年、詔して言う。「昔、漢王朝の祖(劉邦)は配下のことを知って、善く政務を任せたので、中国全土を平定できた。〔彼らの〕功績をたたえ、その最も優れた者(張良・蕭何・韓信)を三俊とした(14)。遂に功績のあった家臣と符を割って誓いを立て、これ(その一方の符)を宗廟に保管した。もう一方の符は家臣に預けることで、徳を明らかにし功績ある人を用いたので、〔家臣は〕〔漢〕王朝を守り助けたのだ。昔、亡くなった我が祖父(司馬懿)は、世の中が多難な時に優れた人物を招聘し、彼らと共に金属を断ち切るほどの固い結束(15)でもって、遂にその時の務めを成し遂げ、良く天下の事業を定めた。太傅壽光公鄭沖、太保朗陵公何曾、太尉臨淮公荀顗はそれぞれ徳を高くし仁に従い、誠実にして先皇を助け、帝業を大いに助けた。死んだ司空博陵元公王沈、衞將軍鉅平侯羊祜らは才能が文武を兼ねそなえ、つつしみ深く、私はかれらを大変に気に入っていた。尚書にないだろうか?『天秩有禮,五服五章哉!』(16)と。(天が徳ある者の為に五種類の服装制度を設け、それぞれの徳行を示したように、朕も)寿光・朗陵・臨淮・博陵・鉅平国に郎中令を置き、〔公・侯の〕正妻・跡継ぎに印綬を与え、〔公・侯に与える〕本来の俸給の三分の一を与えるなど、皆郡の公や侯になぞらえるようにせよ。」
  九年,沖又抗表致仕。詔曰:「太傅韞徳深粹,履行高潔,恬遠清虚,確然絶世。艾服王事,六十餘載,忠肅在公,慮不及私。遂應衆舉,歴登三事。仍荷保傅之重,綢繆論道之任,光輔奕世,亮茲天工,迪宣謀猷,弘濟大烈,可謂朝之儁老,衆所具瞻者也。朕昧于政道,庶事未康,挹抑耆訓,導揚厥蒙,庶頼顯徳,緝煕有成。而公屢以年高疾篤,致仕告退。惟從公志,則朕孰與諮謀?譬彼渉川,罔知攸濟。是用未許,迄于累載。而高讓彌篤,至意難違,覽其盛指,俾朕憮然。夫功成弗有,上徳所隆,成人之美,君子與焉。豈必遂朕憑頼之心,以枉大雅進止之度哉!今聽其所執,以壽光公就第,位同保傅,在三司之右。公宜頤精養神,保衞太和,以究遐福。其賜几杖,不朝。古之哲王,欽祗國老,憲行乞言,以彌縫其闕。若朝有大政,皆就諮之。又賜安車駟馬,第一區,錢百萬,絹五百匹,牀帷簟褥,置舍人六人,官騎二十人。以世子徽爲散騎常侍,使常優游定省。祿賜所供,策命儀制,一如舊典而有加焉。」
 〔泰始〕九(273)年、鄭沖はまた辞職を願い出た。詔は「太傅(鄭沖)は徳を修め、とても純粋で、振る舞いは高尚で潔く、我欲がなくさっぱりとしており、明らかに世俗を超越していた。五十歳を過ぎて王室に関することに携わり、六十歳を過ぎてもつつしみ深く公の位にあり、思いは私欲に及ばない。遂に周囲の者の推挙に応じ、三事を歴任した。太保・太傅の重責を担い、論道の任を細かく経営し、代々を大いに助け、ここで天が天下を治める働きを助け、大業の成就を助けた。晋朝の賢老で、衆人に尊敬される者と言うことができる。朕は政道に暗く、諸々のことをまだ安定化させることができない。老人の教訓を採用し、その無知を導き、発揚した。願わくは、〔鄭沖の〕輝かしい徳によって、〔これから進むべき道を〕明るく照らしてくれまいか。しかし、公(鄭沖)はしばしば高齢で病気がちであることを理由に、辞職して引退することを告げた。公(鄭沖)の意志に従えば、朕は誰にはかりごとを相談すればよいのだ?。譬えれば、川を渡ろうとするのに、渡ることができる所を知らないようなものであった。この為に〔辞職を〕許さず、年月を重ね〔今に〕至った。しかし、譲を高くすることはいよいよ篤く、意志は違えがたいところまで至り、その強情な様を見るにつけ、朕はがっかりさせられる。そもそも功績があって財産はなく、その徳が優れていることこの上なく、学問も道徳も兼ね備えた完璧な人物であるとの評判があり、君子の仲間である。朕の寄りかかる心が届いたとして、徳高き人の身の処し方を変えることができようか!今、彼のこだわりを聞き入れ、寿光公の身分のまま、私邸に帰す。位は太保・太傅と同じとし、三司(太尉・司空・司徒)の右にいるものとする。公は精神をやしなって、陰陽の調和した気を保ちまもり、大きな幸いを極めるのがよい。机杖をあたえる。参内しなくてもよい。昔の哲王は国家に貢献した老人を敬い、法令をしく時には赴いて助言を求め、そうすることで不足する部分を修正した。もし、朝議で天下〔国家を左右する〕の政治があれば、皆〔鄭沖のところへ〕行って彼(鄭沖)に相談せよ。四頭だての馬車、邸宅一棟、銭百萬、絹五百匹、ねやのとばりとすのこを下賜する。召使い六人、朝廷の騎兵二十人を配置する。跡継ぎの鄭徽を散騎常侍とし、常にゆったりと親に仕えさせる。秩禄の額や天子が爵位・封土を与える制度は、一旦古い制度と同様とし、〔不足があれば〕加えるものとする。」
  明年薨。帝於朝堂發哀,追贈太傅,賜秘器,朝服,衣一襲,錢三十萬,布帛百匹。諡曰成。咸寧初,有司奏,沖與安平王孚等十二人皆存銘太常,配食于廟。
 明年(泰始十(274)年)薨去した(17)。武帝は朝堂にて喪に服した。死後、太傅を追贈し(18)、〔東園の〕秘器、朝服、衣一襲、銭三十萬、布帛百匹を賜った。成と諡された。咸寧年間(275〜279)の初め、役人が奏上し、鄭沖は安平王司馬孚ら十二人とともに、みな銘に太常と記され、廟に祀られた。
  初,沖與孫邕、曹羲、荀顗、何晏共集論語諸家訓注之善者,記其姓名,因從其義,有不安者輒改易之,名曰論語集解。成,奏之魏朝,于今傳焉。
 その昔、鄭沖は孫邕、曹羲、荀顗、何晏と共に論語に関する諸家の訓注の中で善いものを集め、その姓名を記した。その(論語の説くところの)本義に従って、十分でないところがあればこれを改めたことにより、〔これを〕論語集解と言う。完成後、これ(論語集解)を魏朝に献上し、今に伝わっている(19)
  沖無子,以從子徽爲嗣,位至平原内史。徽卒,子簡嗣。
  鄭沖には男子(息子)が無く、甥の鄭徽を跡継ぎとした。〔鄭徽は〕平原内史の位に至った。鄭徽が死去し、子の鄭簡が跡を継いだ。

更新履歴
2005.10.01:第一版。
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