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update:2021.02.28 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
平原王榦
人物簡介

平原王司馬榦(232〜311)は字を子良といい、宣帝司馬懿と宣穆張皇后の子で、景帝司馬師と文帝司馬昭の実弟である。晋朝が成立すると平原王に封じられた。侍中を長く務め、恵帝司馬衷の復位後には太保になったが、持病のために異常な行動も多かった。永嘉五年(311)正月、洛陽にて薨じた。享年八十。

本文

平原王司馬榦は字を子良という。若くして公子から魏の時代に安陽亭侯に封じられ、しばらくして撫軍中郎将に任命され、平陽郷侯に進爵した。五等爵が創設されると(264)、定陶伯に改封された。武帝が践祚すると(265)、平原王に封じられた。食邑は一万一千三百戸で、駙馬二匹を下賜され、侍中の服を加えられた。咸寧の初めに諸王を〔各自の〕封国に赴かせたが、司馬榦には重い病気があって、情緒不安定で、きわめて純粋で、情欲が少なかったので、特詔によって〔都に〕留めた。太康の末に光禄大夫を拝命し、侍中を加官され、特別に金章紫綬を仮されて、序列は三公に次いだ。恵帝が即位すると(290)、左光禄大夫に昇進し、侍中の官位はもとのままとされた。剣履上殿入朝不趨を許された。

司馬榦は大国の王でありながら、政務は執り行わなかったが、人事異動をする際には必ず才能で選んだ。爵位や俸禄がありながら、自分には〔それらの爵位や俸禄が〕まるでないような様子で、秩禄や布帛はすべて山積みにして腐らせてしまった。長雨が続くと牛車を外に出して露車(幌のない車)を中に入れた。ある者がそのわけを尋ねると答えた。「覆いのないものは中に入れたほうがいい(1)。」朝臣が司馬榦を訪問して、名前を伝えても、〔司馬榦は〕必ず車馬を門外に留めさせて、あるときは一晩中会わないこともあった。天子に拝謁した際、他人との応対は穏和で恭順であり、まったく落ち度はなかった。相次いで愛妾がなくなったが、棺に収めても釘を打たなかった。そして空室に置いておき、何日間か見に行ったり、みだらな行為を行ない(2)、屍が腐壊するとはじめて葬った。

趙王司馬倫は輔政すると、司馬榦を衛将軍に任命した。恵帝が復位すると(301)、また侍中になり、太保を加えられた。斉王司馬冏が趙王司馬倫を打ち破ると、宗族や朝臣はみな牛と酒を持ち寄って司馬冏をねぎらったが、司馬榦だけは百銭を懐に帯び、司馬冏に会うと百銭を出して言った。「趙王が反乱した時、あなたが天下のために挙兵したのはあなたの功績である。いま百銭であなたを祝おう。しかしながら、事態は依然として決着したわけではないから、慎まなければならない。」司馬冏が輔政すると、司馬榦は司馬冏を訪ね、司馬冏は出迎えた。司馬榦は入ると、寝台にあぐらをかき、司馬冏を座らせないで言った。「あなたは白女の子を真似してはいけない(3)」その意味は趙王司馬倫を指していたのである。司馬冏が誅殺されるに及んで、司馬榦は慟哭して、側近に言った。「宗室は日に衰退していて、この子(司馬冏)がもっとも良かったのに、殺されたとなると、今後の行く末は危うい!」

東海王司馬越が興義して洛陽に至ると、司馬榦を訪ねたが、司馬榦は門を閉ざして面会しなかった。司馬越がしばらく車を止めていると、ようやく司馬榦は人を挨拶に遣わして、自分は門のすき間から様子を伺っていた。当時の人々はその意図を理解できず、ある者はこれを病気のせいとし、ある者は隠居と見なしたのだった。永嘉五年(311)に薨じ、享年八十であった。ほどなく劉聡の洛陽寇略があったので、諡号を贈る余裕がなかった。二人の子がいて、嫡男の司馬広は早くに卒した。次男の司馬永は太熙年間(290)に安徳県公に封じられて、散騎常侍となった。二人とも善士であった。争乱に遭い、一門は滅亡した。

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