update:2002.09.14  担当:菅原 大介
 平原王[幹−干+木:015257]
人物簡介
 平原王司馬[幹−干+木:015257](二三二〜三一一)は字を子良といい、宣帝司馬懿と宣穆張皇后の子で、景帝司馬師と文帝司馬昭の実弟である。晋朝が成立すると平原王に封じられた。侍中を長く務め、恵帝司馬衷の復位後には太保になったが、持病のために異常な行動も多かった。永嘉五年(三一一)正月、洛陽にて薨じた。享年八十。
本文
  平原王[幹−干+木:015257]字子良。少以公子魏時封安陽亭侯,稍遷撫軍中郎將,進爵平陽郷侯。五等建,改封定陶伯。武帝踐[β乍:041594],封平原王,邑萬一千三百戸,給鼓吹、[馬付:044677]馬二匹,加侍中之服。咸寧初,遣諸王之国,[幹−干+木:015257]有篤疾,性理不恒,而頗清虚靜退,簡於情欲,故特詔留之。太康末,拜光祿大夫,加侍中,特假金章紫綬,班次三司。惠帝即位,進左光祿大夫,侍中如故,劍履上殿,入朝不趨。
 平原王司馬[幹−干+木:015257]は字を子良という。若くして公子から魏の時代に安陽亭侯に封じられ、しばらくして撫軍中郎将に任命され、平陽郷侯に進爵した。五等爵が創設されると(二六四)、定陶伯に改封された。武帝が践祚すると(二六五)、平原王に封じられた。食邑は一万一千三百戸で、鼓吹と[馬付:044677]馬二匹を下賜され、侍中の服を加えられた。咸寧の初めに諸王を〔各自の〕封国に赴かせたが、司馬[幹−干+木:015257]には重い病気があって、情緒不安定で、きわめて純粋で、情欲が少なかったので、特詔によって〔都に〕留めた。太康の末に光禄大夫を拝命し、侍中を加官され、特別に金章紫綬を仮されて、序列は三公に次いだ。恵帝が即位すると(二九〇)、左光禄大夫に昇進し、侍中の官位はもとのままとされた。剣履上殿と入朝不趨を許された。
  [幹−干+木:015257]雖王大国,不事其務,有所調補,必以才能。雖有爵祿,若不在己,秩奉布帛,皆露積腐爛。陰雨則出犢車而内露車,或問其故,對曰:「露者宜内也。」朝士造之,雖通姓名,必令立車馬於門外,或終夕不見。時有得覲,與人物酬接,亦恂恂恭遜,初無闕失。前後愛妾死,既斂,輒不釘棺,置後空室中,數日一發視,或行淫穢,須其尸壞乃葬之。
 司馬[幹−干+木:015257]は大国の王でありながら、政務は執り行わなかったが、人事異動をする際には必ず才能で選んだ。爵位や俸禄がありながら、自分には〔それらの爵位や俸禄が〕まるでないような様子で、秩禄や布帛はすべて山積みにして腐らせてしまった。長雨が続くと牛車を外に出して露車(幌のない車)を中に入れた。ある者がそのわけを尋ねると答えた。「覆いのないものは中に入れたほうがいい(1)。」朝臣が司馬[幹−干+木:015257]を訪問して、名前を伝えても、〔司馬[幹−干+木:015257]は〕必ず車馬を門外に留めさせて、あるときは一晩中会わないこともあった。天子に拝謁した際、他人との応対は穏和で恭順であり、まったく落ち度はなかった。相次いで愛妾がなくなったが、棺に収めても釘を打たなかった。そして空室に置いておき、何日間か見に行ったり、みだらな行為を行ない(2)、屍が腐壊するとはじめて葬った。
  趙王倫輔政,以[幹−干+木:015257]爲衞將軍。惠帝反正,復爲侍中,加太保。齊王冏之平趙王倫也,宗室朝士皆以牛酒勞冏,[幹−干+木:015257]獨懷百錢,見冏出之,曰:「趙王逆亂,汝能義舉,是汝之功,今以百錢賀汝。雖然,大勢難居,不可不愼。」冏既輔政,[幹−干+木:015257]詣之,冏出迎拜。[幹−干+木:015257]入,踞其牀,不命冏座,語之曰:「汝勿效白女兒。」其意指倫也。及冏誅,[幹−干+木:015257]哭之慟,謂左右曰:「宗室日衰,唯此兒最可,而復害之,從今殆矣!」
 趙王司馬倫は輔政すると、司馬[幹−干+木:015257]を衛将軍に任命した。恵帝が復位すると(三〇一)、また侍中になり、太保を加えられた。斉王司馬冏が趙王司馬倫を打ち破ると、宗族や朝臣はみな牛と酒を持ち寄って司馬冏をねぎらったが、司馬[幹−干+木:015257]だけは百銭を懐に帯び、司馬冏に会うと百銭を出して言った。「趙王が反乱した時、あなたが天下のために挙兵したのはあなたの功績である。いま百銭であなたを祝おう。しかしながら、事態は依然として決着したわけではないから、慎まなければならない。」司馬冏が輔政すると、司馬[幹−干+木:015257]は司馬冏を訪ね、司馬冏は出迎えた。司馬[幹−干+木:015257]は入ると、寝台にあぐらをかき、司馬冏を座らせないで言った。「あなたは白女の子を真似してはいけない(3)」その意味は趙王司馬倫を指していたのである。司馬冏が誅殺されるに及んで、司馬[幹−干+木:015257]は慟哭して、側近に言った。「宗室は日に衰退していて、この子(司馬冏)がもっとも良かったのに、殺されたとなると、今後の行く末は危うい!」
  東海王越興義,至洛陽,往視[幹−干+木:015257][幹−干+木:015257]閉門不通。越駐車良久,[幹−干+木:015257]乃使人謝遣,而自於門間[門規:041467]之。當時莫能測其意,或謂之有疾,或以爲晦迹焉。永嘉五年薨,時年八十。會劉聰寇洛,不遑贈謚。有二子,世子廣早卒,次子永以太熙中封安徳縣公,散騎常侍,皆爲善士。遇難,合門堙滅。
 東海王司馬越が興義して洛陽に至ると、司馬[幹−干+木:015257]を訪ねたが、司馬[幹−干+木:015257]は門を閉ざして面会しなかった。司馬越がしばらく車を止めていると、ようやく司馬[幹−干+木:015257]は人を挨拶に遣わして、自分は門のすき間から様子を伺っていた。当時の人々はその意図を理解できず、ある者はこれを病気のせいとし、ある者は隠居と見なしたのだった。永嘉五年(三一一)に薨じ、享年八十であった。ほどなく劉聡の洛陽寇略があったので、諡号を贈る余裕がなかった。二人の子がいて、嫡男の司馬広は早くに卒した。次男の司馬永は太熙元年(二九〇)に安徳県公に封じられて、散騎常侍となった。二人とも善士であった。争乱に遭い、一門は滅亡した。

更新履歴
2002.09.14:第三版。人物簡介追加と若干の修正。
1999.11.24:第二版。大幅に修正。
1999.04.25:第一版。
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