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update:2021.04.18 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
梁王肜
人物簡介

梁孝王司馬肜(?〜302)は字を子徽といい、宣帝司馬懿と張夫人の子である。晋朝が成立すると、梁王に封じられた。大将軍などの重職を歴任したが、奸臣を臣下にして領国を削られたり、宿怨のあった周処を孤立無援にして死に至らせたり、趙王司馬倫の簒奪に助力したりと、悪行も多かった。趙王司馬倫が簒奪すると丞相に任命され、恵帝が復位すると侍中・太宰・領司徒になった。永寧二年(302)五月、洛陽にて薨じた。

本文

梁孝王司馬肜は字を子徽という。人となりが清潔で慎み深かったが、ほかに才能がなく、公子から平楽亭侯に封じられた(1)。五等爵が創設されると(264)、開平子に改封された。武帝が践祚すると(265)、梁王に封じられ、食邑は五千三百五十八戸だった。領国に赴くと北中郎将に昇進し、鄴城の守備を監督した。

当時は諸王は属官をみずから選んでいたが、司馬肜は汝陰国の上計吏の張蕃を中大夫にした。張蕃はもともとおこないが定まらず、もとの名は張雄といい、妻の劉氏は音楽を理解し、曹爽の〔音楽〕教師となった。張蕃も何晏の家をよく訪ね、姦淫をほしいままにおこなった。何晏が誅殺されると、河間国に流されたが、そこで名前を変えて司馬肜と付き合うようになったのだった。官吏が上奏したので、詔が下されて〔食邑を〕一県を削られた。咸寧年間に、陳国と汝南国南頓県を増封されて次国になった。太康年間に孔洵に代わって監予州軍事となり、平東将軍を加官されて、許昌を鎮守した。しばらくして本官をもって下邳王司馬晃に代わって監青徐州軍事となり、安東将軍に昇進した。

元康のはじめに征西将軍に移り、秦王司馬柬に代わって都督関中軍事・護西戎校尉となった。侍中を加えられ、〔都〕督梁州〔諸軍事〕に昇進した。ほどなく呼び寄せられて衛将軍・録尚書事・行太子太保になり、千兵百騎を賜った。しばらくして征西大将軍に復帰し、趙王司馬倫に代わって関中を鎮め、都督涼雍諸軍事となり、左右の長史と司馬を置いた。さらに西戎校尉を兼任して、好畤に駐屯し、建威将軍周処・振威将軍盧播などを統率して氐族の叛徒・斉万年を六陌に討伐した。司馬肜は周処に宿怨があったので、〔周処に〕進軍を急き立てて周処の背後を断ち、盧播も周処を救援しなかったので、周処は殺害されたのだった。朝廷はこれをとがめた。すぐに〔司馬肜を〕召還して大将軍・尚書令・領軍将軍・録尚書事に任命した。

司馬肜が以前に大会を開いたとき、参軍の王銓に向かって言った。「私の従兄(司馬晃?)は尚書令だが、大肉(2)を食べることはできまい。大肉は本当に難しいのだ。」王銓は言った。「公はここで独りでかんでいるから、難しいのです。」司馬肜は言った。「長史は大肉を誰がなすというのだ?」〔王銓は〕言った。「盧播です。」司馬肜は言った。「あれは家吏だから、隠すだけだ。」王銓は言った。「天下では誰もが家吏なのだから、王法にふさわしくないことが再びおこなわれることを恐れます。」司馬肜はさらに言った。「私は長安にいるのだから、どうしてよくないことができようか!」そこで単衣で補った車の幕を指さして〔自分が〕清廉であることを〔強調〕した。王銓は答えて言った。「朝廷や民衆は公が賢人を推挙して、悪人を遠ざけることを望んでいるのです。それなのに天子を補佐する立場にありながら、衣で車の幕を補って、それで清廉だと思うとは、言い表す言葉がありません。」司馬肜は恥じ入った。

永康のはじめ、趙王司馬倫とともに賈后を廃し、詔によって司馬肜は太宰・守尚書令になり、二万戸に増封となった。趙王司馬倫が輔政すると、星辰に異変があり、占いでは「宰相に不利」ということだった。孫秀は司馬倫に災難があることを恐れて、司徒を廃止して丞相とし、〔その位を〕司馬肜に授け、みだりに高い位を加えて、この星辰の異変に対処しようとした。ある者が言った。「司馬肜は権力がないから、〔勢力が〕増すことはない。」司馬肜は堅く辞退して受けなかった。司馬倫が帝位を簒奪すると(301)、司馬肜を阿衡(3)に任じ、武賁百人と軒懸の楽隊十人を与えた。司馬倫が滅ぶと、詔を下して司馬肜を太宰に任命し、司徒を兼任させ、さらに高密王司馬泰に代えて宗師とした。

永〔寧〕二年(302)に薨じ、汝南文成王司馬亮の旧例にならって葬られた。博士の陳留国の人の蔡克は諡号を論じて言った。「司馬肜は宰相の地位にあり、責任は重大で、皇室の宗族として近くにいて、そのうえ宗師であり、朝廷からは敬慕され、民衆からは仰ぎ見られていました。しかしながら大節に臨んで、簒奪を阻止しようとする志もなく、危難に際して、正義のために命を捨てることもできず、愍懐〔太子〕の廃立の時には諫言の一つすらできず、淮南王の挙兵に際しては勢いに従って義を助けることもできず、趙王司馬倫が簒奪をなしても、身を引いて朝廷を去ることもできませんでした。宋に蕩氏の乱があったとき、華元はおのずから官位に留まることができず、次のように言いました。『君臣の規範は私が司るものだ。君主の一族(4)が卑しくて正しくないということには、私の罪が大きいのだ!(5)』そもそも微少な宋といえども、職務を果たさずに俸禄を食むことを潔しとしない臣がいたのですから、まして帝王の朝廷に無批判迎合主義の宰相がいて、このようなありさまながら名を落とさないというのは、法がどうしてなされているといえましょうか!謹んで『諡法』を鑑みますに『勤めずして名をなすを「霊」という』とあります。司馬肜は義を見て何もしなかったのですから、勤めたということはできないので、「霊」と諡するのがふさわしでしょう。」梁国常侍の孫霖や司馬肜と親しかった人たちは歪曲だと言ったので、〔御史〕台は符を下した。「賈氏の専政や趙王司馬倫の簒奪はすべて天下を押さえつけたので、司馬肜の状況では退くことはできなかった。であるから司馬肜の身を引いて朝廷を去ることができなかったことを責めるのに、義がどうして根拠になるだろうか?」蔡克は再び論じた。「司馬肜は皇室の一族でありながら、国が乱れて正すこともできず、君主が地位を追われても助けることもできなかったので、宰相である資格がありません。だから『春秋』は華元・楽挙(6)を譏って、不臣としているのです(7)。そのうえ賈氏は残酷だったとはいえ呂后には及ばず、〔たとえ呂后ほど残酷だとしても〕王陵は門を閉ざすことができたのであり、趙王司馬倫は無道だったとはいえ殷の紂王には及ばず、〔たとえ殷の紂王ほど無道だとしても〕微子は逃げ去ることができたのです。最近では太尉の陳準が異姓の人であり、そのうえ弟の陳徽(8)と射鉤(9)の関係でしたが、病気と称して位を辞し、偽の朝廷に仕えませんでした(10)。どうして司馬肜が司馬倫の兄と親しいからというだけで立ち去ることができないというのでしょうか?趙盾は君主に諫言しても聞き入れられなかったため、出奔しましたが、〔国境を越えるほど〕遠くに行かなかったので、批判を免れませんでした(11)。まして司馬肜が官位を辞することができずに、偽の君主に臣従したことは言うに及びません。前述したとおり、司馬肜に批判と叱責を加え、広めることで臣下の節義を示し、君主に仕える正道を明らかにすべきです。」そこで朝廷は蔡克の意見に従った。司馬肜の旧臣がたびたび訴えてやむことがなかったので、そのため〔諡号を孝王に〕改めた。

子がなかったので、武陵王司馬澹の子の司馬禧を後継ぎにした。これが懐王である。征虜将軍に任じられたが、司馬澹とともに石勒によって殺害された。元帝の時、西陽王司馬羕の子の司馬悝が司馬肜の後を継いだが、若くして薨じた。これが殤王である。この時懐王(司馬禧)の子の司馬翹が石氏の国より帰国して王位に就いた。これが声王であり、官位は散騎常侍にまで至った。薨じ、子がなかったので、詔を下して武陵威王〔司馬晞〕の子の司馬㻱を司馬翹の後継ぎとした。永安太僕などを歴任したが、父の司馬晞とともに国を除かれて新安郡に配流された(12)薨じ、太元年間に国が復活し、子の司馬龢が王位に就いた。薨じ、子の司馬珍之が王位に就いた。桓玄が簒奪すると、国臣の孔璞は司馬珍之を連れて寿陽郡に避難した。義熙のはじめに帰国し、左衛将軍や太常卿を歴任した。劉裕が姚泓を討伐する際、要請によって諮議参軍になったが、劉裕によって殺害され、国は廃止された。

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