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update:2021.02.08 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
城陽王兆
人物簡介

城陽哀王司馬兆(生没年不詳)は字を千秋といい、文帝司馬昭と文明王皇后の子で、武帝司馬炎と斉王司馬攸の実弟である。享年十で夭逝した。泰始五年(269)11月、城陽王を追封され、哀王と諡された。

本文

城陽哀王司馬兆は字を千秋といい、十歳で夭逝した。武帝(司馬炎)が皇帝になった後、詔して言った(1)。「亡き弟の司馬千秋(司馬兆)は若くして聡明で、早熟な資質であった。不幸にも早世し、先帝(司馬昭)や先后(文明王皇后)はとりわけ哀れんでいたものだった。先后は〔司馬兆の〕後継ぎを立てることを望んでおられたが、ついに実現することができず、常々〔文明王皇后の〕生前の思いを思い返しては、心中は悲しみに包まれていた。皇子の司馬景度(司馬景)(2)を司馬千秋(司馬兆)の後継ぎとするのは、〔古来の〕典礼にはないといっても、近世では行われていることであり、そのうえ先后の本旨に従っていると思われるのである。」そこで司馬兆に領国と諡号を後から加えた。司馬景度が泰始六年(270)に薨じると、〔司馬炎の〕第五子の司馬憲に哀王(司馬兆)の系譜を継がせた。〔司馬憲が〕薨じる(3)と、〔司馬炎の〕第六子の司馬祗を東海王として、哀王の系譜を継がせた。〔司馬祗が〕薨じる(4)と、咸寧の初めに〔司馬炎の〕第十三子の司馬遐を清河王として封じ(5)、司馬兆の系譜を継がせた。

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