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晋書巻五十七
列伝第二十七
羅憲 兄子尚
人物簡介

羅憲(?〜270)は字を令則といい、襄陽郡の人で、蜀の広漢太守であった羅蒙の子である。蜀の巴東太守となり、蜀滅亡時には永安城を守備し、機に乗じて侵攻してきた呉軍を防いだ。陵江将軍・監巴東軍事・使持節を加えられ、武陵太守となった。泰始六年(270)卒した。安南将軍を追贈され、西鄂侯を追封され、烈侯と諡された。

羅尚(?〜310)は字を敬之といい、一名を仲、字を敬真という。羅憲の兄で牂柯太守となった羅式の子である。趙廞が蜀で反乱を起こすと、仮節・平西将軍・益州刺史・西戎校尉に任命された。趙廞が李特に敗れ、李特が蜀に割拠すると、これと戦った。当初は劣勢であったが救援を得て李特を撃破して斬った。しかし、李特の子の李雄が攻撃してくると敗れ、まもなく卒した。

本文

羅憲は字を令則といい、襄陽郡の人である。父の羅蒙は蜀の広漢太守となった。羅憲は十三歳で巧みに文章を書き、若いころから有名であった。譙周に師事し、譙周の門人は「子貢である」と称した(1)。性格は正直で誠実、厳格で、士を待遇して飽きることがなく、財を軽んじて施しを好み、生業をはからなかった。蜀に仕えて太子舎人・宣信校尉となった。再度呉に使いし、呉の人々に称賛された。

当時、黄皓が政治の実権をあずかり、多くの人々が黄皓に追従していたが、羅憲だけは孤高を保っていた。黄皓は怒り、羅憲を巴東太守に左遷した。当時、大将軍の閻宇(2)が巴東を都督しており、羅憲を領軍に任じ、閻宇の副将とした。魏が蜀を攻めると、閻宇を西に召還し、羅憲が永安城を守備した。成都が敗北すると、城中は乱れ、長江周辺の県の長吏たちはみな城を棄てて逃走したが、羅憲が〔城中を〕混乱させる者を一人斬ると、民衆は落ち着いた。劉禅が降伏したのを知ると、配下を率いて都亭で三日間喪に服した。呉は蜀が敗北したと聞くと、将軍の盛憲を派遣して西上させ、表向きは救援にかこつけて、実際は羅憲を襲撃するつもりであった。羅憲は「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のような密接な関係なのに、わが国の危難に同情することもなく、利を求めている。わしはどうして降虜になどなれようか!」といい、〔晋に〕帰順した。そこで鎧を繕い、城壁を修復し、兵糧を集め、節義を説いて激励したところ、兵士はみな命令に従った。鍾会と鄧艾が死ぬと(3)、すべての城に主がいなくなった。呉はさらに歩協を西へ向かわせたが、羅憲はそれを大いに破った。孫休は怒り、さらに陸抗を派遣して歩協を助けさせた。羅憲は防戦して一年がたったが、救援は到着せず、城中の者の大半は病気にかかっていた。ある人が、南方の牂柯、北方の上庸に走り、身の安全を保つべきだと勧めた。羅憲は「そもそも人の主たる者は、民衆の仰ぎ慕うものである。たとえ守りきることができないからといって、せっぱつまって見棄てるようなことは、君子たる者のすることではない。ここで命を終えよう」といった。たまたま荊州刺史の胡烈らが救援に来たため、陸抗は退却した。羅憲は陵江将軍・監巴東軍事・使持節を加官され、武陵太守を兼任した。

泰始の初めに入朝した(4)。詔勅にいう、「羅憲は忠烈果敢で、策略・才能がある。鼓吹を与えよう」と。さらに山玄玉と佩剣を賜った。泰始六年(270)に卒し、使持節・安南将軍・武陵太守を追贈され、西鄂侯を追封され(5)、烈と諡された。

昔、羅憲が華林園での宴席に出席した際(6)、武帝は詔勅を下して蜀の大臣の子弟について質問した。その後先輩たちのうち官職を授けて用いるべき者について下問があった際、羅憲は蜀郡の常忌・杜軫らを推薦したが、みな西国のよい人材であり、武帝はみな召し出して任用した。

子の羅襲は、給事中や陵江将軍を歴任し、父の部曲を統率し、広漢太守にまでなった。兄の子が羅尚である。

羅尚は字を敬之といい、一名を仲という(7)。父の羅式は、牂柯太守となった。羅尚は若くして父を失い、叔父の羅憲をたよった。羅尚は文章に巧みであった。荊州刺史の王戎は羅尚と劉喬を参軍とし、二人に軍事を任せた。羅尚は太康の末に梁州刺史となった。

趙廞が蜀で反乱を起こすと(8)、羅尚は上表して「趙廞にはすぐれた才能があるわけではなく、成功しないに決まっています。日を数えて敗北の知らせを聞くだけです」といった。そこで羅尚を仮節・平西将軍・益州刺史・西戎校尉とした。羅尚は貪婪な性格で決断力に乏しく、蜀の人々は「羅尚に愛されるのは、心が邪悪な者かそうでなければへつらう者で、羅尚に憎まれるのは、まごころを持った者かそうでなければ正しい者である。富は魯・衛のようで、家は市場をなしている。貪婪なことは山犬や狼のごときで、極まることがないのである」といい、また「蜀の賊はまだよいが、羅尚はわれわれを殺す。平西将軍というが、かえってさらに禍をなしている」ともいった。

当時、李特もまた蜀において兵を挙げ、蜀を攻めて趙廞を殺害した。李特はさらに羅尚を成都に攻め、羅尚は退却して江陽を保持した。当初、羅尚は四方の地方長官に援軍を求め、荊州刺史の宗岱が建平太守の孫阜を率いて救援に来て、江州に宿営していた。宗岱・孫阜の軍は勢い盛んで、賊軍に脅かされていた多くの人々は奮い立った。羅尚はそこで兵曹従事の任鋭に偽りの投降をさせ、城外に出して密かに〔村々に〕宣告させて期日を定め、ともに李特を攻撃して大破し、李特を斬り、首を洛陽に送った。李特の子の李雄は〔大都督・大将軍・益州牧を〕僭称して郫城を都とした。羅尚は将軍の隗伯を派遣して李雄を攻撃したが、勝つことができなかった。羅尚はほどなく卒し(9)、李雄はその結果蜀を占拠して自分のものとしたのである。

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