update:2002.10.07  担当:Hiroto
滕脩
人物簡介
 滕脩(?〜288)は字を顕先といい、南陽郡西鄂県の人である。呉に仕えて広州刺史となり、その後召還され執金吾となった。広州で郭馬らが反乱を起こすと、使持節・都督広州軍事・鎮南将軍・広州牧に任じられ、討伐へ赴いたが、その間に呉が滅亡したため晋に帰順した。安南将軍に任じられ、そのまま広州牧・持節・都督広州軍事として南方をまかされ、武当侯に封じられた。太康九年(288)卒し、忠侯と諡された。
本文
  滕脩字顯先,南陽西鄂人也。仕呉爲將帥,封西鄂侯。
 滕脩は字を顕先といい、南陽郡西鄂県の人である。呉に仕えて将軍となり、西鄂侯に封じられた。
  孫晧時,代熊睦爲廣州刺史,甚有威惠。徴爲執金吾。廣州部曲督郭馬等爲亂,晧以脩宿有威惠,爲嶺表所伏,以爲使持節、都督廣州軍事、鎭南將軍、廣州牧以討之。未克而王師伐呉,脩率衆赴難。至巴丘而晧已降,乃縞素流悌而還,與廣州刺史閭豐、蒼梧太守王毅各送印綬,詔以脩爲安南將軍,廣州牧、持節、都督如故,封武當侯,加鼓吹,委以南方事。脩在南積年,爲邊夷所附。
 孫晧の時代、熊睦に代わって広州刺史となり、たいへん威厳があり、民に恩恵を施した。召し出されて執金吾となった。広州の部曲督の郭馬らが反乱を起こすと、孫晧は滕脩が以前から威厳があり恩恵を示して嶺南の人々に畏服されていたことから、使持節・都督広州軍事・鎮南将軍・広州牧とし、郭馬らを討伐させた(10)。滕脩が反乱を平定しないうちに、晋軍が呉を攻めたため、滕脩は兵を率いて国難を救うために赴いた。巴丘まで来たところで孫晧がすでに降伏したことを知り、喪服を着て涙を流し、帰還した。滕脩は広州刺史の閭豊、蒼梧太守の王毅とおのおの印綬を送り届けた。武帝は詔勅を下して滕脩を安南将軍とし、広州牧・持節・都督はもとのままで、武当侯に封じ、軍楽隊を与え、南方のことをまかせた。滕脩は長く南方にあり、辺境の異民族が帰服してきた。
  太康九年卒,請葬京師,帝嘉其意,賜墓田一頃,諡曰聲。脩之子並上表曰:「亡父脩羈紲呉壌,爲所驅馳;幸逢開通,沐浴至化,得從俘虜握戎馬之要;未覲聖顔,委南藩之重,實由勳勞少聞天聽故也。年衰疾篤,屡乞骸骨,未蒙垂哀,奄至薨隕。臣承遺意,輿[木親:015851]還都,瞻望雲闕,實懷痛裂。竊聞博士諡脩曰聲,直彰流播,不稱行績,不勝愚情,冒昧聞訴。」帝乃賜諡曰忠。
 太康九年(288)に卒した。都に葬ってほしいと願い出て、武帝はそれを嘉し、墓田一頃を下賜し、声と諡した(11)。滕脩の子の滕並は上表し「亡父の滕脩は呉国で君主の手綱を取り、奔走し努力しました。幸いにも道が開き、沐浴して教化を受け、俘虜を従えて軍事の要を握ることができました。まだ聖顔にまみえないうちに南方守備の重任をまかせられましたが、実に功労によって少しばかり陛下のお耳に聞こえていたためでございます。年老いて病が重くなり、辞職を願い出ましたが、あわれみをかけていただかないうちに、にわかに死去いたしました。臣はその遺志を承り、棺をかついで都へ来ましたが、雲闕を望み見ますと、まことに心が痛み張り裂ける思いでございます。ひそかに聞くところでは、博士は滕脩に声と諡し、ただ世間にあきらかにしただけで、行いと功績は称賛していないとか。愚情にたえないので、道理も考えず申し上げる次第です」といった。武帝はそこで滕脩に忠と諡した。
  並子含,初爲[广臾:009398]冰輕車長史,討蘇峻有功,封夏陽縣開國侯,邑千六百戸,授平南將軍、廣州刺史。在任積年,甚有威惠,卒諡曰戴。含弟子遯,交州刺史。
 滕並の子の滕含は、初め[广臾:009398]冰の軽車長史となり、蘇峻の討伐に功績があり、夏陽県開国侯に封じられ、食邑は千六百戸、平南将軍・広州刺史の官を授けられた。長年その任にあり、大いに威厳と恩恵を示し、卒すると戴と諡された。滕含の弟の子の滕遯は交州刺史となった。
  脩曾孫恬之,龍驤將軍、魏郡太守,戍黎陽,爲[羽隹:028727]遼所執,死之。
 滕脩の曾孫の滕恬之は、龍驤将軍・魏郡太守となり、黎陽を守ったが、[羽隹:028727]遼に捕らえられ殺害された。

更新履歴
2002.10.07:第二版。若干の修正。
1999.04.18:第一版。
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