update:2005.10.01  担当:解體晉書
晋書巻六十一

 列伝第三十一

周浚 子嵩 謨 従父弟馥
人物簡介
 周浚(?〜二八九)(1)は字を開林といい、周裴の子である。汝南郡の同郷人である史曜を見出すなど鑑識眼に優れ、魏に仕えて尚書郎となった。晋代になると、王渾の下で対呉討伐戦に従い、主力である呉の丞相張悌らを倒した。平呉後には旧呉の人々を慰撫し、その功績により成武侯に封じられた。後に少府に移り、将作大匠を兼ねて王朝の宗廟改築に携わった。さらに王渾に代わって、使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり、就官中に亡くなった。

 周嵩(生没年不詳)は字を仲智といい、周浚の子である。性格は倣岸なところがあり、元帝のもとに参じて奉朝請となると、元帝の即位に反対し、以後関係がこじれることとなり、朝廷の人材を誹謗したかどで処刑されそうになったこともあった。しかし、王敦の乱によって一族の王導らが苦しい立場に置かれた際には、王導らを弁護して窮地を救った。後、王敦の子を貶したことから処刑された。また、敬虔な仏教徒であったという。

 周謨(生没年不詳)は周浚の子である。王敦の死後、兄の周[豈頁:043614]の名誉回復を求めて上疏を奉った。小府・丹陽尹・侍中・中護軍を歴任し、西平侯に封じられた。死後、金紫光禄大夫を追贈された。

 周馥(生没年不詳)は字を祖宣といい、安平太守周[艸豕生:031995]の子で、周浚の従父弟である。人物評価が得意なことから王渾の推薦を受けて、尚書郎となった。清華王覃が上官巳と手を組ませようとした際には、上官巳の小さい器量を見て彼を殺そうとしたが、逆に敗れて逃亡した。上官巳が張方に負けると復帰し、やがて鎮東将軍となって陳敏を討ち、永寧伯に封じられた。永嘉四年(310)には恵帝に遷都を促す上表を奉ったが採用されず、また東海王越と不仲であったことから、元帝の将である甘卓の攻撃を受けて敗れ、憂憤から病を発して亡くなった。

本文
  周浚字開林,汝南安成人也。父裴,〔一〕少府卿。浚性果烈,以才理見知,有人倫鑒識。郷人史曜素微賤,衆所未知,浚獨引之為友,遂以妹妻之,曜竟有名於世。
 周浚の字は開林で、汝南郡安成県の人である。父の周裴は、少府卿であった。周浚は勇敢で気性が激しく、才知と道理に通じていることで名を知られ、人の特性を見分ける能力があった。同郷人の史曜(2)はもともと低い身分であったため、人々は彼のことを知らなかったのだが、周浚一人だけは彼をそばに引き寄せて友人とし、ついに妹を彼に嫁がせた。〔おかげで〕史曜はついに世間に名を知られるようになった。
  浚初不應州郡之辟,後仕魏為尚書郎。累遷御史中丞,拜折衝將軍、揚州刺史,封射陽侯。隨王渾伐呉 ,攻破江西屯戍,與孫晧中軍大戰,斬偽丞相張悌等 首級數千,俘馘萬計,進軍屯于横江。
 周浚は当初から州郡の辟召には応じなかったが、後に魏に仕えて尚書郎となった。昇進を重ねて御史中丞となり、折衝将軍・揚州刺史を拝任し、射陽侯に封ぜられた。王渾の対呉討伐戦に従い、攻めて長江西岸の守備隊を破り、孫晧の中軍と決戦して丞相張悌らの首級数千を斬り、倒したり虜にした敵兵は万を単位に数えるほどであった。軍を進めて横江に駐屯した。
  時聞龍驤將軍王濬既破上方,別駕何[小軍:010857]説浚曰: 「張悌率精鋭之卒,悉呉國 之衆,殄滅於此,呉之朝野莫不震懾。今王龍驤既破武昌,兵威甚盛,順流而下,所向輒克,土崩之勢見矣。竊謂宜速渡江,直指建[業β:039684],大軍卒至,奪其膽氣,可不戰而擒。」浚善其謀,便使白渾。[小軍:010857]曰:「渾闇於事機,而欲慎己免咎,必不我從。」浚固使白之,渾果曰:「受詔但令江北抗衡呉軍,不使輕進。貴州雖武,豈能獨平江東! 今者違命,勝不足多;若其不勝,為罪已重。且詔令龍驤受我節度,但當具君舟楫,一時倶濟耳。」[小軍:010857]曰:「龍驤克萬里之寇,以既濟之功來受節度,未之聞也。且握兵之要,可則奪之,所謂受命不受辭也。今渡江必全克獲,將有何慮? 若疑於不濟,不可謂智;知而不行,不可謂忠,實鄙州上下所以恨恨也。」渾執不聽。居無何而濬至,渾召之不來,乃直指三山,〔二〕孫晧遂降於濬。渾深恨之,而欲與濬爭功。[小軍:010857]牋與浚曰:「書貴克讓,易大謙光,斯古文所詠,道家所崇。前破張悌,呉人失氣,龍驤因之,陷其區宇。論其前後,我實緩師,動則為傷,事則不及。而今方競其功。彼既不呑聲,將虧雍穆之弘,興矜爭之鄙,斯愚情之所不取也。」浚得牋,即諫止渾,渾不能納,遂相表奏。
 当時、龍驤将軍の王濬がすでに〔長江〕上流で敵を破っていると聞こえていた。そこで、別駕の何[小軍:010857]が周浚を説得しようとして言った。「張悌は精鋭の兵隊を率い、呉の国の軍隊を集めていましたが、〔我々が〕ここに彼らを殲滅したため、呉の朝野の人々で震えおののいていない者はおりません。今、王龍驤将軍(王濬)はすでに武昌の地を突破し、軍隊の勢いは盛んで、〔長江の〕流れにしたがって下るわけですから、向うところは全て勝利し、土が崩れ落ちるような勢いが現れることでしょう。私が思いますには、〔我らの部隊が〕速やかに長江を渡り、直ちに建[業β:039684]に向かえば、大軍がにわかにやって来るわけですから、〔呉の人々の〕胆力を奪って、戦わずとも虜にすることが出来るでしょう。」周浚はその考えに賛成し、王渾に申し上げさせようとした。何[小軍:010857]が言った。「王渾は職務の機要に暗く、自己を慎んで咎めを受けないようにしているので、きっと私の意見には従わないでしょう。」周浚はそれでも〔何[小軍:010857]に〕強いて意見を述べさせたが、王渾はついに言った。「詔を受けたが、それはただ長江北岸で呉軍と対峙するだけで、軽々しく進軍させてはならないというものであった。貴方の州(揚州)(3)〔の人々〕は勇武ではあるけれども、どうしてたったひとつ〔の州〕で江東の地を平らげられるだろうか! 今、命令に違えば、勝っても〔命令違反として〕称賛されず、もし勝てなければ、罪は非常に重いことになる。しかも、詔では龍驤将軍(王濬)に私の指示を受けるように言っているのであるから、ただ共に主君と一斉に〔長江を〕渡るようにすべきである。」何[小軍:010857]が言った。「龍驤将軍(王濬)が万里の敵に打ち勝ち、すでに長江を渡るという功績を得た上で、やって来て〔王渾の〕指示を受けるなどということは、聞いたことがありません。それに、軍隊を握っている際の要点は、可能であれば〔機を逃さずに進撃して〕奪うというもので、いわゆる命を受けても辞は受けないということなのです(4)。今、〔我らの部隊が〕長江を渡れば必ず全面的な勝利を得られるに違いありませんのに、いったい何の心配があるのでしょうか? もし迷って渡らないのであれば、智とは言えませんし、〔勝利が〕分かっているのに行わないのであれば、忠とは言えません。本当に我が州の上下の人々が残念に思う理由です。」王渾は意地をはって〔何[小軍:010857]の意見を〕聞き入れなかった。まもなくして王濬がやって来たので、王渾は彼を招いたが、〔王濬は〕来ることなく直ちに三山の地に向かって、孫晧はついに王濬に降伏した。王渾は深くこのことを恨み、王濬と功績を争おうと考えるようになった。何[小軍:010857]は書簡を周浚に送って言った。「尚書では遠慮を貴んでいますし(5)、周易では謙虚を大きなものと見ておりますように(6)、これは古文の称えるものであり、儒家の崇めるものなのです。先に張悌を破った時、呉の人は元気を失いましたが、龍驤将軍(王濬)はそのおかげで呉の地を降すことが出来たのです。その前後の状況を論じまするに、我ら(の王渾将軍)は本当に軍隊の動きが緩慢で、動いた時には傷を受け、仕える時にも(王濬には)及びませんでした。それなのに今は盛んにその功績を競おうとしています。王渾将軍はすでに忍び耐えるつもりはなく、睦まじくするという良い心掛けに欠け、驕って功績を争うというはしたなさを高ぶらせようとしており、これは私の気持ちでは取って欲しくない行動なのです。」周浚は書簡を得ると、ただちに王渾に止めてもらうよう諌めたが、王渾は聞き入れず、ついに〔王濬とお互いの言い分を〕互いに上奏し合うことになった(7)
  浚既濟江,與渾共行呉城壘,綏撫新附,以功進封成武侯,食邑六千戸,賜絹六千匹。明年,移鎮秣陵。時呉初平,屡有逃亡者,頻討平之。賓禮故老,搜求俊乂,甚有威徳,呉人悦服。
 周浚は長江を渡った時、王渾と共に呉の城塁に行き、新しく付き従うことになった民を手懐け、功績により成武侯に進み封じられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜った。翌年、鎮撫地を秣陵に移した。呉が平定された当初、しばしば逃亡する者がいたので、しきりに彼らを討ち平らげた。有徳の老人をもてなし、才徳の優れた人を捜し求めて、非常に威光と恩徳があったため、呉の人は喜んで従うようになった。
  初,呉之未平也,浚在弋陽,南北為互市,而諸將多相襲奪以為功。呉將蔡敏守于[シ眄:017207]中,其兄珪為將在秣陵,與敏書曰:「古者兵交,使在其間,軍國固當舉信義以相高。而聞疆[土易:005194]之上,往往有襲奪互市,甚不可行,弟慎無為小利而忘 大備也。」候者得珪書以呈浚,浚曰:「君子也。」及渡江,求珪,得之,問其本,曰:「汝南人也。」浚戲之曰:「吾固疑呉無君子,而卿果吾郷人。」
 以前、呉がまだ平定されていない時、周浚は弋陽の地にいたが、そこでは〔晋と呉の〕南北の間で交易が行われていた。しかし、諸将の中には交易の市を襲って功績とするものが多く存在した。呉の将である蔡敏は[シ眄:017207]水流域を守っており、その兄の蔡珪は将となって秣陵にいたが、蔡敏に書を送って言った。「古は軍隊を交えていても、使者はその間を行き来していたのであり、軍事と国政は、信義を挙げて高潔さを競い合うようであるべきなのである。しかし、国境の様子を聞くところでは、往々にして交易の市を襲撃しているということであり、これは全く行うべきことではない。弟よ、どうか小さな利益を挙げることで、大きな備えを忘れることの無いようにしなさい。」密偵が蔡珪の書を手に入れて周浚に示したところ、周浚が言った。「君子である。」長江を渡ると、蔡珪を求めて彼を得たので、その本籍地を尋ねたところ、〔蔡珪が〕言った。「汝南郡の人間です。」周浚は彼に冗談で言った。「私はもともと、呉の地には君子などいるはずがないと思っていましたが、貴方はやはり私と同郷の人でした。」
  遷侍中。武帝問浚:「卿宗後生,稱誰為可?」答曰:「臣叔父子恢,稱重臣宗;從父子馥,稱清臣宗。」帝並召用。浚轉少府,以本官領將作大匠。改營宗廟訖,増邑五百戸。後代王渾為使持節、都督揚州諸軍事、安東將軍,卒于位。三子:[豈頁:043614]、嵩、謨。[豈頁:043614]嗣爵,〔三〕別有傳云。
 侍中に移った。武帝が周浚に尋ねた。「貴方の一族の若者で、誰か誉めるに十分な者はいるか?」〔周浚が〕答えて言った。「臣の叔父の子の周恢は、一族の重なる者と称えられますし、従父の子の周馥は、一族の清なる者と称えられます。」武帝は二人とも召し出して登用することにした。周浚は少府に転じ、本官に加えて将作大匠を兼任した。宗廟を改築し終わると、邑五百戸を増やされた。後に、王渾に代わって使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり、就官中に亡くなった。三人の子があり、それは周[豈頁:043614]・周嵩・周謨である。周[豈頁:043614]が〔成武侯の〕爵位を継いでおり(8)、別に伝がある。
  字仲智,狷直果侠,毎以才氣陵物。元帝作相,引為參軍。及帝為晉王,又拜奉朝請。嵩上疏曰:「臣聞取天下者,常以無事。及其有事,不足以取天下。故古之王者,必應天順時,義全而後取,讓成而後得,是以享世長久,重光萬載也。今議者以殿下化流江漢,澤被六州,功濟蒼生,欲推崇尊號。臣謂今梓宮未反,舊京未清,義夫泣血,士女震動;宜深明周公之道,先雪社稷大恥,盡忠言嘉謀之助,以時濟弘仁之功,崇謙謙之美,推後己之誠;然後揖讓以謝天下,誰敢不應,誰敢不從!」由是忤旨,出為新安太守。
 周嵩の字は仲智であり、性格は正直で果断、才能があることから常に人を見下していた。元帝が丞相となると、招かれて参軍となった。元帝が晋王となると(317)、また奉朝請を拝任した。周嵩が上疏して言った。「臣が聞き及びますには、天下を取るとは常に平穏無事であることから決まるそうです。変事がある場合には、天下を取ったと言うには十分ではありません。そのために古の王者は必ず天に応じ時に従い、義を全うして後に取り、謙譲を成して後に得るのです。そのために世を享けることが久しく、光を万年にわたって重ね輝かすことになります。〔ところが〕今の議論をする者は殿下の教化が長江・漢水に渡り、恩沢が六つの州に広がって、功績が人々を救っていることから、〔皇帝の〕尊号を推し奉ろうとしています。臣が思いますには、今〔懐帝や愍帝の〕天子の棺はまだ返ってきておりませんし、旧京(洛陽)はまだ取り戻しておりませんし、義を思う人は血の涙を流し、男女ともに震えおののいております。どうか深く周公(9)の道を明らかにし、まず社稷の大恥を雪ぎ、忠言や良い謀の助けを尽くして、そうして今この時に仁を広める功績を渡らせ、謙譲の美を敬い、自分のことを後回しにする誠を推賞するようにしてください。そうして後に天子の位を譲られて天下に感謝すれば、誰が応じないでしょうか。誰が従わないでしょうか!」この意見により元帝の考えに逆らうことになり、出されて新安太守となった。
  嵩怏怏不悦,臨發,與散騎郎張嶷在侍中戴[辷貌:039198]坐,褒貶朝士,又詆毀[辷貌:039198][辷貌:039198]密表之。帝召嵩入,面責之曰:「卿矜豪傲慢,敢輕忽朝廷,由吾不徳故耳。」嵩跪謝曰:「昔唐虞至聖,四凶在朝。陛下雖聖明御世,亦安能無碌碌之臣乎!」帝怒,收付廷尉。廷尉華恒以嵩大不敬棄市論,嶷以扇和減罪除名。時[豈頁:043614]方貴重,帝隱忍。久之,補廬陵太守,不之職,更拜御史中丞。
 周嵩は怏々として楽しまず、出発に際して、散騎郎の張嶷と侍中の載[辷貌:039198]の坐所にあって、朝廷の士を批評していたが、また載[辷貌:039198]をけなしたので、載[辷貌:039198]は密かにこのことを上表した。元帝は周嵩を呼び出して〔宮中に〕入らせると、面と向かってそのことを責めて言った。「貴方は傲慢で人を侮っており、あえて朝廷を軽んじているが、私に徳が無いからだということであろう。」周嵩はひざまずいて詫びて言った。「その昔、堯や舜(10)は非常に知徳が優れていましたが、〔それでも〕四人の凶悪な人(11)が朝野に存在しました。陛下は聡明で世を治めていますが、またどうして役に立たぬ臣下がいないなどということがありましょうか!」元帝は怒って、〔周嵩を〕捕らえて廷尉に渡した。廷尉の華恒は周嵩の大不敬により、棄市の刑にすべきだと論じ、張嶷は〔周嵩に〕同調していたということで、罪を減らして除名にしようとした。当時、〔周嵩の兄の〕周[豈頁:043614]が非常に重んじられていたので、元帝は〔周嵩の処分を〕我慢していた。しばらくして廬陵太守に任じられたが、職務に向かわなかったので、あらためて御史中丞を拝任した。

  是時帝以王敦勢盛,漸疏忌王導等。嵩上疏曰:
 この時、元帝は王敦の勢いが盛んだったため、次第に王導らを煙たがるようになっていた。周嵩が上疏して言った。

  臣聞明君思隆其道,故賢智之士樂在其朝;忠臣將明其節,故量時而後仕。 樂在其朝,故無過任之譏;將明其節,故無過寵之謗。是以君臣並隆,功格天地。近代以來,徳廢道衰,君懷術以御臣,臣挾利以事君,君臣交利而禍亂相尋,故得失之迹難可詳言。臣請較而明之。
 臣が聞き及びますには、明君はその道を栄えさせようと考え、それゆえに賢人や智者はその朝廷にあることを願うのです。忠臣は節義を明らかにしようとしていますから、時流を考えてから後に出仕するのです。その朝廷にあることを願うが故に、任された範囲を越えようとするような批判はありませんし、その節義を明らかにしようとするがために、寵愛が過ぎるという中傷を受けることも無いのです。こうして君主と臣下はともに栄え、功績は天地に至ります。近代以降、徳は廃れ道は衰え、君主は術を使うことを考えて臣下を統御し、臣下は利益を得ることを思って君主に仕えるようになっています。君主と臣下が利益を得ることを謀るようになって、禍乱が相次いで起こり、それゆえに善悪の事跡は詳しく言うことが難しくなりました。臣としては、しっかりと比較してその事跡を明らかにするように請うものです。

  夫傅説之相高宗,申召之輔宣王,管仲之佐齊桓,衰范之翼晉文,或宗師其道,垂拱受成,委以權重,終致匡主,未有憂其逼己,還為國蠹者也。始田氏擅齊,〔四〕王莽簒漢,皆藉封土之強,假累世之寵,因闇弱之主,資母后之權,樹比周之黨,階絶滅之勢,然後乃能行其私謀,以成簒奪之禍耳。豈遇立功之主,為天人所相,而能運其姦計,以濟其不軌者哉! 光武以王族奮於閭閻,因時之望,收攬英奇,遂續漢業,以美中興之功。及天下既定,頗廢黜功臣者,何哉? 武力之士不達國體,以立一時之功,不可久假以權勢,其興廢之事,亦可見矣。近者三國鼎峙,並以雄略之才,命世之能,皆委頼俊哲,終成功業,貽之後嗣,未有愆失遺方來之恨者也。
 そもそも傅説が高宗の大臣となり(12)、申公・召公が宣王を助け(13)、管仲が斉の桓公の補佐となり(14)、趙衰・范氏が晋の文公を助けた時には(15)、あるいは道を尊んで手本とし、〔君主は〕腕を組んで統治を成し(16)、〔臣下に〕委ねるのに重大な権限をもってして、ついに君主の補佐を任せましたが、いまだ〔強力な権限を持っていることを恃んで〕自分(君主)に迫り、かえって国に害をなす者(17)となったということはありませんでした。初めて田氏が斉をほしいままにし(18)、王莽が漢を簒奪した時には(19)、みな封地の豊かなのにより、何代にもわたる寵愛を恃み、愚かな君主につけこんで、皇太后の権力を利用し、悪事を働く徒党を増やし、国の滅び行く勢いを糸口として、そうした〔条件が整った〕後に自分の計画を実行して、簒奪の禍を成すことが出来ただけなのです。どうして功績を立てた君主の時代にあって、天と人に従われているのにもかかわらず、その良くない計画をめぐらして、人としてあるまじき行為を成し遂げることが出来ましょうか! 光武帝は王族の身から村里より奮い立ち(20)、時勢の望みにしたがって、才知に優れた人を手に収め、ついに漢の業を続けて、中興の功績を麗しくしたのです。〔ところが〕天下がすでに定まるに及んで、しきりに功臣を退けるようになったのは、どうしてなのでしょう? 〔それは〕武力の士は〔天下が定まって後には〕股肱の臣とするに十分ではなく、一時の功績によって久しく権勢を与えるべきではないからなのです。その興廃の要諦は、また〔このことから〕うかがうことが出来ます。最近になって、三国が鼎立し、いずれも雄略の才能や一世に名高い能力によって、みな優れて賢い人に任せ、遂に功業を成して、これを後継ぎに伝えてましたが、誤って将来に恨みを残すようなことはありませんでした。

  今王導、王[广異:009478]等,方之前賢,猶有所後。至於忠素竭誠,義以輔上,共隆洪基,翼成大業,亦昔之亮也。雖陛下乘奕世之徳,有天人之會,割據江東,奄有南極,龍飛海嵎,興復舊物,此亦羣才之明,豈獨陛下之力也。今王業雖建,羯寇未梟,天下蕩蕩,不賓者衆,公私匱竭,倉[广臾:009398]未充,梓宮沈淪,妃后不反,正委賢任能推轂之日也。功業垂就,晉祚方隆,而一旦聽孤臣之言,惑疑似之説,乃更以危為安,以疏易親,放逐舊徳,以佞伍賢,遠虧既往之明,顧傷伊管之交,傾巍巍之望,喪如山之功,將令賢智杜心,義士喪志,近招當時之患,遠遺來世之笑。夫安危在號令,存亡在寄任,以古推今,豈可不寒心而哀歎哉!
 今王導や王[广異:009478]らは、前代の賢人に較べれば、なお劣るところはあります。〔しかしながら〕真心を尽くし、義によって上を補佐し、共に帝王の事業を盛んにして、大業を助けるという観点からすれば、また昔の諸葛亮〔と同じ〕です(21)。陛下は代々の人徳によって、天と人の会う時にあり、江東の地に割拠して、南方を我が物とし、海辺の地に立ち上がって、昔の制度を元のように盛んにしたとは言いましても、これはまた才能を持った臣下たちの明哲さによるものでもあり、どうして陛下御一人の力だと言えましょうか。今、帝王の事業が立てられたとは言っても、羯の賊はまだ清められておらず、天下は乱れたままで、臣服しない者が多く、公も私も欠乏して米倉は満たされず、天子の棺は沈んでしまって、妃や皇后は帰ってきません。〔これは〕まことに賢能の人に任せて事業を成し遂げるべき日です。〔それにもかかわらず〕功業が完成されようとし、晋の福禄が盛んになろうとすると、一朝にして一人の臣下の言のみを聞き、紛らわしい意見に迷って、安全を危険に換え、親しいものを疎遠なものに代えて、徳望のある旧臣を追放し、媚びへつらう者を賢人に並ばせようとしており、〔これは〕遠くへは既に行ったことのあるかのような明哲さを欠き、顧みれば伊尹(22)・管仲の〔君主との〕交わりを損ない、高邁な大望を傾け、山のような〔確かな〕功績を失わせており、賢者や智者には心を閉ざさせ、義士には志を無くさせようとしているのです。〔これでは〕近くは当面の患いを呼び込むことになり、遠くは将来にまで笑いの種を残すことになります。そもそも、安全か危険かは〔皇帝の出す〕号令にあり、存続するか滅ぶかは重要な職責を任せることにあるのです。〔したがって〕古の例から今を考えれば、どうして心を寒くして悲しみ嘆かないでいられましょうか!

  臣兄弟受遇,無彼此之嫌,而臣干犯時諱,觸忤龍鱗者何? 誠念社稷之憂,欲報之於陛下也。古之明王,思聞其過,悟逆旅之言,〔五〕以明成敗之由,故採納愚言,以考虚實,上為宗廟無窮之計,下收億兆元元之命。臣不勝憂憤,竭愚以聞。
 臣の兄弟は礼遇を受けて、誰とも仲違いはしておりません。それなのに臣が時の忌み嫌う意見を犯し、〔あえて〕皇帝陛下の御気持ちに逆らうのは何故でしょうか? 〔それは〕心から社稷の憂いを思い、これを陛下に酬いようと考えるからなのです。古の明王は、その〔自分の〕過ちを聞こうと思い、一時の旅人のような言をも悟り、成功と失敗の理由を明らかにしようと考えたために、愚かな意見でも取り上げてその良否を判断し、上は宗廟窮まることの無い計画を立て、下は民衆の根源の命を収めることになったのです。臣としましては憂い憤ることに我慢できず、愚かな知恵を絞って申し上げました。

  疏奏,帝感悟,故導等獲全。
 上疏が奏上されると、元帝は感じ悟ったため、王導らは身を全うすることが出来た。

  王敦既害[豈頁:043614]而使人弔嵩,嵩曰:「亡兄天下人,為天下人所殺,復何所弔! 」敦甚銜之,懼失人情,故未加害,用為從事中郎。嵩,王應嫂父也,以[豈頁:043614]横遇禍,意恒憤憤,嘗衆中云:「應不宜統兵。」敦密使妖人李脱誣嵩及周莚潛相署置,遂害之。嵩精於事佛,臨刑猶於市誦經云。
 王敦は周[豈頁:043614]を殺害すると、人を遣わして周嵩を弔ったが、周嵩は言った。「亡き兄は天下の人であり、天下の人に殺されたのであるから、またどうして弔うことなどありましょうか!」王敦はこのこと強く根に持ったが、人情を失うことを恐れたために、〔周嵩には〕害を加えず、登用して従事中郎とした。周嵩は王応の兄嫁の父であり(23)、周[豈頁:043614]が不条理な禍に遭ったために、いつも気持ちが穏やかでなく、かつて衆人の中で言った。「王応なんかには、軍隊を統率させるべきではない。」王敦は密かに方術を使う李脱に、周嵩や周莚が互いに職務を与え合ったことを誣告させ、ついに彼らを殺害した。周嵩は仏に仕えることが敬虔で、刑に臨んでもなお、市において御経を唱えていたと言う。
  [豈頁:043614]故,頻居顯職。王敦死後,詔贈戴若思、[言焦:035976]王承等,而未及[豈頁:043614]。時謨為後軍將軍,上疏曰:
 周謨は周[豈頁:043614]のおかげで、しばしば高い官職に就いていた。王敦の死後、詔があって戴若思(淵)(24)[言焦:035976]王承(25)らには〔官号と諡号が〕贈られることになったが、周[豈頁:043614]には贈られなかった。その時周謨は後軍将軍であったが、上疏して言った。
  臣亡兄[豈頁:043614],昔蒙先帝顧眄之施,特垂表啓,以參戎佐,顯居上列,遂管朝政,並與羣后共隆中興,仍典選曹,重蒙寵授,忝位師傅,得與陛下揖讓抗禮,恩結特隆。加以鄙族結婚帝室,義深任重,庶竭股肱,以報所受。凶逆所忌,惡直醜正。身陷極禍,忠不忘君,守死善道,有隕無二。[豈頁:043614]之云亡,誰不痛心,況臣同生,能不哀結!
 臣の亡き兄である周[豈頁:043614]は、昔、先帝(元帝司馬睿)に目を掛けて頂き、特別に御教えを受けて、参謀に仲間入りし、立派な上級の官職に就いていました。ついに朝廷の政治を管掌するようになりますと、他の臣下たちとともに中興を栄えさせ、そうして人材登用の官(吏部)を司るようになりました(26)。幾度も有難い任命を受け、師傅の位をも頂き(27)、陛下(明帝司馬紹)と会釈して対等の交際をさせて頂くというように、御恩を受けることが非常に大きかったものです。さらに加えて、我が一族と皇室とで婚姻関係を結んで頂き(28)、〔我らの〕義は深く任は重いものでしたから、股肱の臣の勤めを尽くし、受けた大恩に酬いようとしました。〔しかしながら〕凶悪な人(王敦)が憎むところは、正直な人を妬み害しようとするものです(29)。〔その結果、周[豈頁:043614]の〕身は最悪の禍に陥ることになりましたが、その忠義は君主を忘れることがありませんでしたし、死をもって善き道を守ったのであり、亡くなった者たちは他にもいましたが、彼ほどの〔忠義を示した〕者はおりません。周[豈頁:043614]が亡くなったと聞いた時、誰が心を痛めないでいられたでしょうか。まして臣は同じ兄弟であり、この悲しみが忘れられるはずもありません!
  王敦無君,由來實久,元惡之甚,古今無二。幸頼陛下聖聰神武,故能摧破凶強,撥亂反正,以寧區宇。前軍事之際,聖恩不遺,取[豈頁:043614]息閔,得充近侍。臣時面啓,欲令閔還襲臣亡父侯爵。時卞壼、[广臾:009398]亮並侍御坐,壼云:「事了當論顯贈。」時未淹久,言猶在耳。至於[言焦:035976]王承、甘卓,已蒙清復,王澄久遠,猶在論議。況[豈頁:043614]忠以衛主,身死王事,雖[禾尤山:008273]紹之不違難,何以過之! 至今不聞復封加贈褒顯之言,不知[豈頁:043614]有餘責,獨負殊恩,為朝廷急於時務,不暇論及? 此臣所以痛心疾首,重用哀歎者也。不勝辛酸,冒陳愚款。
 王敦が君主を戴こうとしない人であるということは、その由来も実に古いものであり、悪事の甚だしさでは古今に二人といません。幸いにも陛下の聡明と武徳のおかげで、凶悪な人を打ち砕き、乱れた世を正しい状態に戻して(30)、国家を安寧にすることが出来ました。先の戦いの際にも、皇帝の恩徳は捨てられることなく、周[豈頁:043614]の息子の周閔を取って側近の官に入れて頂きました。臣は時として面と向かい、周閔に亡き父の侯爵を襲名させて頂きたいと申し上げました。その時、卞壼・[广臾:009398]亮が左右に侍っていましたが、卞壼は「この戦いが終わったら、追贈のことを議論しましょう」と言いました。それから時はいくらも経っていませんから、〔卞壼の〕言葉はなお耳に残っています。[言焦:035976]王承・甘卓(31)などはすでに名誉回復を受けており、王澄はずっと以前の人でありますのに、それでも〔名誉回復するべきかどうかの〕議論が起こっています(32)。まして周[豈頁:043614]は忠義にして君主を守り、自分の身を朝廷のために落としたのですから、あの[禾尤山:008273]紹の悲劇なら劣らないとしても(33)、周[豈頁:043614]の悲劇に過ぎることなどあるでしょうか! 〔それにもかかわらず〕今にいたっても封爵を元に戻し、褒め称える言葉を贈るという話は聞きません。周[豈頁:043614]にその他の問題点があったり、一人だけ大恩に背いたということも聞きませんから、朝廷が日々の職務に忙しかったために議論する暇が無かったということでしょうか? これが臣の心と頭を痛め、幾度も悲しみ嘆く理由なのです。あまりの苦しみに耐えることが出来ず、恐れ多くも私の意見を申し上げました。
  疏奏,不報。謨復重表,然後追贈[豈頁:043614]官。
 この意見は上奏されたが報いられなかった。周謨はまた上表を重ね、その後になって周[豈頁:043614]に官職が追贈された(34)
  謨歴少府、丹楊尹、侍中、中護軍,封西平侯。卒贈金紫光祿大夫,諡曰貞。
 周謨は小府・丹楊尹・侍中・中護軍を歴任し、西平侯に封じられた。亡くなると金紫光禄大夫を贈られ、諡は貞と言った。
  字祖宣,浚從父弟也。父[艸豕生:031995],安平太守.馥少與友人成公簡齊名,倶起家為諸王文學,累遷司徒左西屬。〔六〕司徒王渾表「馥理識清正,兼有才幹,主定九品,檢括精詳。臣委任責成,褒貶允當,請補尚書郎」。許之。稍遷司徒左長史、吏部郎,選舉精密,論望益美。轉御史中丞、侍中,拜徐州刺史,加冠軍將軍、假節。徴為廷尉。
 周馥は字を祖宣といい、周浚の従父弟である。父の周[艸豕生:031995]は安平太守であった。周馥は若い頃から友人の成公簡と名声が等しく、共に起家して諸王の文学となり、昇進を重ねて司徒左西属となった。司徒の王渾が「周馥は為政の見識が廉潔公正な上、才幹もあり、九品を定めることを司って調査も詳細でありました。臣は彼に職務を任せて成果を上げようとしたところ、〔彼の〕毀誉褒貶の評価は適切でもありましたので、どうか尚書郎に補任してやって下さい」と上表し、これを許された。次第に司徒左長史・吏部郎に移ったが、人材登用の方法が正確で詳しいので、優秀だとの声がますます高まった。御史中丞・侍中に転任し、徐州刺史を拝任して、冠軍将軍・仮節を加えられた。中央に召されて廷尉となった。
  惠帝幸[業β:039684],成都王穎以馥守河南尹。陳[目診:023222]、上官巳等奉清河王覃為太子,加馥衛將軍、録尚書,馥辭不受。覃令馥與上官巳合軍,馥以巳小人縱暴,終為國賊,乃共司隸滿奮等謀共除之,謀泄,為巳所襲,奮被害,馥走得免。及巳為張方所敗,召馥還攝河南尹。曁東海王越迎大駕,以馥為中領軍,未就,遷司隸校尉,加散騎常侍、假節,都督諸軍事於[シ黽:018378]池。帝還宮,出為平東將軍、都督揚州諸軍事,代劉準為鎮東將軍,與周[王己:020848]等討陳敏,滅之,以功封永寧伯。
 恵帝が[業β:039684]に移られると(304)、成都王穎は周馥に河南尹を代行させた。陳[目診:023222]・上官巳らは清河王覃を奉じて太子としようとし、周馥に衛将軍・録尚書を加えようとしたが、周馥は辞退して受けなかった。清河王覃は周馥に命令して上官巳と軍を合わせさせようとした。しかし、周馥は上官巳が器量の小さな人物で粗暴でもあるため、最後には国賊になるのではないかと考え、司隷の満奮たちと相談して彼を除こうとしたが、計画が漏れ、上官巳に襲撃されてしまい、満奮は殺害され、周馥は逃亡して免れた。上官巳が張方に破れると、周馥は召され、戻って河南尹を代行した。東海王越が皇帝の車を迎え入れると(306)、周馥を中領軍とし、まだ就かないでいるうちに司隷校尉に移して、散騎常侍・仮節を加え、[シ黽:018378]池において諸々の軍事を統率させた。恵帝が宮廷に帰還すると、〔外任に〕出て平東将軍・都督揚州諸軍事となり、劉準に代わって鎮東将軍となって、周[王己:020848]らと共に陳敏を討ってこれを滅ぼし、功績のために永寧伯に封じられた。
  馥自經世故,毎欲維正朝廷,忠情懇至。以東海王越不盡臣節,毎言論[厂萬:003041]然,越深憚之。馥覩羣賊孔熾,洛陽孤危,乃建策迎天子遷都壽春。永嘉四年,與長史呉思、司馬殷識上書曰:「不圖厄運遂至於此! 戎狄交侵,畿甸危逼。臣輒與祖納、裴憲、華譚、孫惠等三十人伏思大計,僉以殷人有屡遷之事,周王有岐山之徙,方今王都[声殳缶:028167]乏,不可久居,河朔蕭條,[山肴:008206]函險澀,宛都屡敗,江漢多虞,於今平夷,東南為愈。淮揚之地,北阻塗山,南抗靈嶽,名川四帶,有重險之固。是以楚人東遷,遂宅壽春,徐、[丕β:039340]、東海,亦足戍禦。且運漕四通,無患空乏。雖聖上神聰,元輔賢明,居儉守約,用保宗廟,未若相土遷宅,以享永祚。臣謹選精卒三萬,奉迎皇駕。輒檄前北中郎將裴憲行使持節、監豫州諸軍事、東中郎將,風馳即路。荊、湘、江、揚各先運四年米租十五萬斛,布絹各十四萬匹,以供大駕。令王浚、苟晞共平河朔,臣等勠力以啓南路。遷都弭寇,其計並得。皇輿來巡,臣宜轉據江州,以恢王略。知無不為,古人所務,敢竭忠誠,庶報萬分。朝遂夕隕,猶生之願。」
 周馥はいろいろと世間のことを経験して、常に朝廷を正そうと考え、その忠信には真心がこもっていた。東海王越が臣下としての節度を尽くさないために、いつも言論主張が激しく、東海王越は彼を煙たがっていた。周馥は賊党がはびこって、洛陽の地が孤立して危険なので、天子を迎えて寿春の地に遷都するよう建策した。永嘉四年(310)、長史の呉思・司馬の殷識と共に上書して言った。「悲運がここまでに至ってしまうとは、思いもよらぬことでした! 胡族が次々と侵略してきて、王都は危険に迫られています。臣はそこで祖納・裴憲・華譚・孫恵ら三十人と共に天下の計を考えましたところ、皆、殷の人にはしばしば遷都の事例があり(35)、周王には岐山への移住があります(36)。今、王都は孤立しかけて長く住むことは出来ません。〔一方〕河北の地は寂れていますし、[山肴:008206]函の地は険しく、宛城は何度も破られていますし、長江・漢水流域は不安が多いですから、今、蛮夷を平定するには東南の地が優っていると思います。淮水流域や揚州の地は北は塗山に拠り、南は霊嶽に向かい、名川が四方を流れて堅固さをいっそう増しています。そのため、楚の人は東遷し、遂に寿春に住まうようになり、徐・[丕β:039340]・東海もまた要害とするに十分でした。しかも運漕は四方に通じ、〔糧食などの物品が〕欠乏する恐れもありません。天子が聡明で重臣が賢明であったとしても、常につつましやかに正しく身を処して、そうして〔ようやく〕宗廟を守っていくのですから、良い土地を占って都を遷すことで、天からの永久の幸いを享けることに優るものではありません。臣は謹んで精兵三万を選抜し、陛下の御車を御迎えに上がるつもりです。そうして前北中郎将の裴憲に檄を飛ばして使持節・監予州諸軍事・東中郎将を代行させれば、風のように飛んで馳せ参じるでしょう。荊州・湘州・江州・揚州の地には、それぞれ四年分の租米十五万斛と布絹十四万匹を運び出して、陛下のもとに供えさせます。王浚・苟晞には共に河北の地を平定させ、我々は力を尽くして南への道を啓きます。〔そうすれば〕遷都と戦乱を収めること、その計画は二つとも得ることが出来るでしょう。陛下の御車がやって来られましたら、臣を転任させて、江州の地に拠らせ、帝王の計略を広められるようにして下さい。知りては為さざる無しというのは(37)、昔の人が勤め励んだところでありますから、あえて忠誠を尽くし、〔大恩に対して〕いくらかでも報いることが出来るようにと思い〔以上のことを申し上げ〕ました。もし朝に成し遂げることが出来たならば、たとえ夕に死んだとしても、生への願いが遂げられたのと同様〔に嬉しいこと〕です。」
  越與苟晞不協,馥不先白於越,而直上書,越大怒。先是,越召馥及淮南太守裴碩,馥不肯行,而令碩率兵先進。碩貳於馥,乃舉兵稱馥擅命,已奉越密旨圖馥,遂襲之,為馥所敗。碩退保東城,求救於元帝。帝遣揚威將軍甘卓、建威將軍郭逸攻馥于壽春。安豐太守孫惠帥衆應之,使謝[擒−人:012587]為檄。[擒−人:012587],馥之故將也。馥見檄,流涕曰:「必謝[擒−人:012587]之辭。」[擒−人:012587]聞之,遂毀草.旬日而馥衆潰,奔于項,為新蔡王確所拘,憂憤發病卒。
 東海王越は苟晞と不和であったが、周馥は先に東海王越の耳に入れず、いきなり上書したため、東海王越は非常に怒った。以前、東海王越は周馥と淮南太守の裴碩を呼び寄せたが、周馥はその召し出しを断り、裴碩に軍隊を率いさせて先に向かわせた。裴碩は周馥に二心を抱いていたので、挙兵して周馥が勝手に命令を下していると称し、すでに東海王越の密旨を奉って周馥を図ろうと考え、ついに周馥を襲撃したが、敗北させられてしまった。裴碩は退却して東城を守り、救いを元帝に求めた。元帝は揚威将軍の甘卓・建威将軍の郭逸を派遣して周馥を寿春の地に攻撃した。安豊太守の孫恵が衆を率いてこれに応じ、謝[擒−人:012587]に檄を作らせた。謝[擒−人:012587]は周馥の以前の武将である。周馥は檄を見ると涙を流して「きっと謝[擒−人:012587]の文章だろう」と言った。謝[擒−人:012587]はそのことを聞くと、ついに草稿を破り捨ててしまった。十日ほどして周馥の軍勢は潰え、項の地に逃れようとしたが、新蔡王確に捕らえられてしまい、憂い憤って病に陥り亡くなった。
  初,華譚之失廬江也,往壽春依馥,及馥軍敗,歸于元帝。帝問曰:「周祖宣何至於反?」譚對曰:「周馥雖死,天下尚有直言之士。馥見寇賊滋蔓,王威不振,故欲移都以[糸予:027276]國難。方伯不同,遂致其伐。曾不踰時,而京都淪沒。若使從馥之謀,或可後亡也。原情求實,何得為反!」帝曰:「馥位為征鎮,握兵方隅,召而不入,危而不持,亦天下之罪人也。」譚曰:「然。馥振纓中朝,素有俊彦之稱;出據方嶽,實有偏任之重,而高略不舉,往往失和,危而不持,當與天下共受其責。然謂之反,不亦誣乎!」帝意始解。
 以前に、華譚は廬江の地を失うと(38)、寿春にやって来て周馥を頼ったが、周馥の軍勢が敗れると、元帝に帰順した。元帝が尋ねて言った。「周祖宣(祖宣は周馥の字)はどうして反逆するまでに至ったのか?」華譚が答えて言った。「周馥が死んだとはいえ、天下にはまだ直言の士がいます。周馥は反乱の賊軍がはびこって、天子の威が振るわないのを目にしたために、都を移して国難を除こうとしたのです。〔しかしながら〕地方の首長たちは〔周馥の建策に〕同意せず、ついには討伐されることになりました。しかし、それからどれほども無くして、首都は陥落してしまいました。もし周馥の計画に従っていれば、あるいは滅亡を後に延ばすことが出来たかもしれません。その心情を考え、事実を求めたならば、どうして反逆を起こしたなどと言うことが出来ましょうか!」元帝は言った。「周馥は征鎮の位にあり、軍隊を地方で掌握していながら、呼び出しても入朝せず、危険が迫っても持ちこたえることが出来なかったのだから、やはり天下の罪人だろう。」華譚が言った。「おっしゃる通りです。周馥は朝廷に出仕してはもともと優れた才知の評判があり、出でて地方に拠れば非常に重んじられていましたが、有効な計略も出せず、しばしば〔人臣間の〕和を失い、危険が迫っても持ちこたえられなかったのですから、天下とともにその責任を負うべきです。しかしながら、このことを反逆というのであれば、誣告でないと言えるでしょうか!」元帝の気持ちは始めて解けた。
  馥有二子:密、矯。密字泰玄,性虚簡,時人稱為清士,位至尚書郎。矯字正玄,亦有才幹。
 周馥には二人の子があり、それは周密・周矯である。周密の字は泰玄といい、性格は穏やかで寡欲、当時の人は高潔な人だと褒め称えた。位は尚書郎に至った。周矯の字は正玄といい、また才幹があった。

更新履歴
2005.10.01:第一版。
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