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update:2021.01.31 担当:解體晉書
晋書巻六十一
列伝第三十一
周浚 子嵩 従父弟馥
人物簡介

周浚(?〜289?)は字を開林といい、汝南郡安成県の人である。周裴の子。汝南郡の同郷人である史曜を見出すなど鑑識眼に優れ、魏に仕えて尚書郎となった。晋代になると、王渾の下で対呉討伐戦に従い、主力である呉の丞相の張悌らを倒した。平呉後には旧呉の人々を慰撫し、その功績により成武侯に封じられた。後に少府に移り、将作大匠を兼ねて王朝の宗廟改築に携わった。さらに王渾に代わって、使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり、就官中に卒した。

周嵩(?〜324)は字を仲智といい、周浚の子である。性格は倣岸なところがあり、元帝のもとに参じて奉朝請となると、元帝の即位に反対し、以後関係がこじれることとなり、朝廷の人材を誹謗したかどで処刑されそうになったこともあった。しかし、王敦の乱によって一族の王導らが苦しい立場に置かれた際には、王導らを弁護して窮地を救った。太寧二年(324)、王敦の養子を貶したことから処刑された。敬虔な仏教徒であったという。

周謨(生没年不詳)は周浚の子である。王敦の死後、兄の周顗の名誉回復を求めて上疏を奉った。小府・丹陽尹・侍中・中護軍を歴任し、西平侯に封じられた。死後、金紫光禄大夫を追贈された。

周馥(?〜311)は字を祖宣といい、安平太守の周蕤の子で、周浚の従父弟である。人物評価が得意なことから王渾の推薦を受けて、尚書郎となった。清華王司馬覃が上官巳と手を組ませようとした際には、上官巳の小さい器量を見て彼を殺そうとしたが、逆に敗れて逃亡した。上官巳が張方に負けると復帰し、やがて鎮東将軍となって陳敏を討ち、永寧伯に封じられた。永嘉四年(310)には恵帝に遷都を促す上表を奉ったが採用されず、また東海王司馬越と不仲であったことから、永嘉五年(311)、元帝の将である甘卓の攻撃を受けて敗れ、憂憤から病を発して卒した。

本文

周浚は字を開林といい、汝南郡安成県の人である。父の周裴は、少府卿であった。周浚は勇敢で気性が激しく、才知と道理に通じていることで名を知られ、人の特性を見分ける能力があった。同郷人の史曜(1)はもともと低い身分であったため、人々は彼のことを知らなかったのだが、周浚一人だけは彼をそばに引き寄せて友人とし、ついに妹を彼に嫁がせた。〔おかげで〕史曜はついに世間に名を知られるようになった。

周浚は当初から州郡の辟召には応じなかったが、後に魏に仕えて尚書郎となった。昇進を重ねて御史中丞となり、折衝将軍・揚州刺史を拝任し、射陽侯に封ぜられた。王渾の対呉討伐戦に従い、攻めて長江西岸の守備隊を破り、孫晧の中軍と決戦して丞相の張悌らの首級数千を斬り、倒したり虜にした敵兵は万を単位に数えるほどであった。軍を進めて横江に駐屯した。

当時、龍驤将軍の王濬がすでに〔長江〕上流で敵を破っていると聞こえていた。そこで、別駕の何惲が周浚を説得しようとして言った。「張悌は精鋭の兵隊を率い、呉の国の軍隊を集めていましたが、〔我々が〕ここに彼らを殲滅したため、呉の朝野の人々で震えおののいていない者はおりません。今、王龍驤将軍(王濬)はすでに武昌の地を突破し、軍隊の勢いは盛んで、〔長江の〕流れにしたがって下るわけですから、向うところは全て勝利し、土が崩れ落ちるような勢いが現れることでしょう。私が思いますには、〔我らの部隊が〕速やかに長江を渡り、直ちに建鄴に向かえば、大軍がにわかにやって来るわけですから、〔呉の人々の〕胆力を奪って、戦わずとも虜にすることが出来るでしょう。」周浚はその考えに賛成し、王渾に申し上げさせようとした。何惲が言った。「王渾は職務の機要に暗く、自己を慎んで咎めを受けないようにしているので、きっと私の意見には従わないでしょう。」周浚はそれでも〔何惲に〕強いて意見を述べさせたが、王渾はついに言った。「詔を受けたが、それはただ長江北岸で呉軍と対峙するだけで、軽々しく進軍させてはならないというものであった。貴方の州(揚州)(2)〔の人々〕は勇武ではあるけれども、どうしてたったひとつ〔の州〕で江東の地を平らげられるだろうか!今、命令に違えば、勝っても〔命令違反として〕称賛されず、もし勝てなければ、罪は非常に重いことになる。しかも、詔では龍驤将軍(王濬)に私の指示を受けるように言っているのであるから、ただ共に主君と一斉に〔長江を〕渡るようにすべきである。」何惲が言った。「龍驤将軍(王濬)が万里の敵に打ち勝ち、すでに長江を渡るという功績を得た上で、やって来て〔王渾の〕指示を受けるなどということは、聞いたことがありません。それに、軍隊を握っている際の要点は、可能であれば〔機を逃さずに進撃して〕奪うというもので、いわゆる命を受けても辞は受けないということなのです(3)。今、〔我らの部隊が〕長江を渡れば必ず全面的な勝利を得られるに違いありませんのに、いったい何の心配があるのでしょうか? もし迷って渡らないのであれば、智とは言えませんし、〔勝利が〕分かっているのに行わないのであれば、忠とは言えません。本当に我が州の上下の人々が残念に思う理由です。」王渾は意地をはって〔何惲の意見を〕聞き入れなかった。まもなくして王濬がやって来たので、王渾は彼を招いたが、〔王濬は〕来ることなく直ちに三山の地に向かって、孫晧はついに王濬に降伏した。王渾は深くこのことを恨み、王濬と功績を争おうと考えるようになった。何惲は書簡を周浚に送って言った。「尚書では遠慮を貴んでいますし(4)、周易では謙虚を大きなものと見ておりますように(5)、これは古文の称えるものであり、儒家の崇めるものなのです。先に張悌を破った時、呉の人は元気を失いましたが、龍驤将軍(王濬)はそのおかげで呉の地を降すことが出来たのです。その前後の状況を論じまするに、我ら〔の王渾将軍〕は本当に軍隊の動きが緩慢で、動いた時には傷を受け、仕える時にも〔王濬には〕及びませんでした。それなのに今は盛んにその功績を競おうとしています。王渾将軍はすでに忍び耐えるつもりはなく、睦まじくするという良い心掛けに欠け、驕って功績を争うというはしたなさを高ぶらせようとしており、これは私の気持ちでは取って欲しくない行動なのです。」周浚は書簡を得ると、ただちに王渾に止めてもらうよう諌めたが、王渾は聞き入れず、ついに〔王濬とお互いの言い分を〕互いに上奏し合うことになった(6)

周浚は長江を渡った時、王渾と共に呉の城塁に行き、新しく付き従うことになった民を手懐け、功績により成武侯に進み封じられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜った。翌年(281)、鎮撫地を秣陵に移した。呉が平定された当初、しばしば逃亡する者がいたので、しきりに彼らを討ち平らげた。有徳の老人をもてなし、才徳の優れた人を捜し求めて、非常に威光と恩徳があったため、呉の人は喜んで従うようになった。

以前、呉がまだ平定されていない時、周浚は弋陽の地にいたが、そこでは〔晋と呉の〕南北の間で交易が行われていた。しかし、諸将の中には交易の市を襲って功績とするものが多く存在した。呉の将である蔡敏は沔水流域を守っており、その兄の蔡珪は将となって秣陵にいたが、蔡敏に書を送って言った。「古は軍隊を交えていても、使者はその間を行き来していたのであり、軍事と国政は、信義を挙げて高潔さを競い合うようであるべきなのである。しかし、国境の様子を聞くところでは、往々にして交易の市を襲撃しているということであり、これは全く行うべきことではない。弟よ、どうか小さな利益を挙げることで、大きな備えを忘れることの無いようにしなさい。」密偵が蔡珪の書を手に入れて周浚に示したところ、周浚が言った。「君子である。」長江を渡ると、蔡珪を求めて彼を得たので、その本籍地を尋ねたところ、〔蔡珪が〕言った。「汝南郡の人間です。」周浚は彼に冗談で言った。「私はもともと、呉の地には君子などいるはずがないと思っていましたが、貴方はやはり私と同郷の人でした。」

侍中に移った。武帝が周浚に尋ねた。「貴方の一族の若者で、誰か誉めるに十分な者はいるか?」〔周浚が〕答えて言った。「臣の叔父の子の周恢は、一族の重なる者と称えられますし、従父の子の周馥は、一族の清なる者と称えられます。」武帝は二人とも召し出して登用することにした。周浚は少府に転じ、本官に加えて将作大匠を兼任した。宗廟を改築し終わると、邑五百戸を増やされた。後に、王渾に代わって使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり、就官中に卒した(7)。三人の子があり、それは周顗・周嵩・周謨である。周顗が〔成武侯の〕爵位を継いでおり(8)、別に伝がある。

周嵩は字を仲智といい、性格は正直で果断、才能があることから常に人を見下していた。元帝が丞相となると、招かれて参軍となった。元帝が晋王となると(317)、また奉朝請を拝任した。周嵩が上疏して言った。「臣が聞き及びますには、天下を取るとは常に平穏無事であることから決まるそうです。変事がある場合には、天下を取ったと言うには十分ではありません。そのために古の王者は必ず天に応じ時に従い、義を全うして後に取り、謙譲を成して後に得るのです。そのために世を享けることが久しく、光を万年にわたって重ね輝かすことになります。〔ところが〕今の議論をする者は殿下の教化が長江・漢水に渡り、恩沢が六つの州に広がって、功績が人々を救っていることから、〔皇帝の〕尊号を推し奉ろうとしています。臣が思いますには、今〔懐帝や愍帝の〕天子の棺はまだ返ってきておりませんし、旧京(洛陽)はまだ取り戻しておりませんし、義を思う人は血の涙を流し、男女ともに震えおののいております。どうか深く周公(9)の道を明らかにし、まず社稷の大恥を雪ぎ、忠言や良い謀の助けを尽くして、そうして今この時に仁を広める功績を渡らせ、謙譲の美を敬い、自分のことを後回しにする誠を推賞するようにしてください。そうして後に天子の位を譲られて天下に感謝すれば、誰が応じないでしょうか。誰が従わないでしょうか!」この意見により元帝の考えに逆らうことになり、出されて新安太守となった。

周嵩は怏々として楽しまず、出発に際して、散騎郎の張嶷と侍中の載邈の坐所にあって、朝廷の士を批評していたが、また載邈をけなしたので、載邈は密かにこのことを上表した。元帝は周嵩を呼び出して〔宮中に〕入らせると、面と向かってそのことを責めて言った。「貴方は傲慢で人を侮っており、あえて朝廷を軽んじているが、私に徳が無いからだということであろう。」周嵩はひざまずいて詫びて言った。「その昔、堯や舜(10)は非常に知徳が優れていましたが、〔それでも〕四人の凶悪な人(11)が朝野に存在しました。陛下は聡明で世を治めていますが、またどうして役に立たぬ臣下がいないなどということがありましょうか!」元帝は怒って、〔周嵩を〕捕らえて廷尉に渡した。廷尉の華恒は周嵩の大不敬により、棄市の刑にすべきだと論じ、張嶷は〔周嵩に〕同調していたということで、罪を減らして除名にしようとした。当時、〔周嵩の兄の〕周顗が非常に重んじられていたので、元帝は〔周嵩の処分を〕我慢していた。しばらくして廬陵太守に任じられたが、職務に向かわなかったので、あらためて御史中丞を拝任した。

この時、元帝は王敦の勢いが盛んだったため、次第に王導らを煙たがるようになっていた。周嵩が上疏して言った。

臣が聞き及びますには、明君はその道を栄えさせようと考え、それゆえに賢人や智者はその朝廷にあることを願うのです。忠臣は節義を明らかにしようとしていますから、時流を考えてから後に出仕するのです。その朝廷にあることを願うが故に、任された範囲を越えようとするような批判はありませんし、その節義を明らかにしようとするがために、寵愛が過ぎるという中傷を受けることも無いのです。こうして君主と臣下はともに栄え、功績は天地に至ります。近代以降、徳は廃れ道は衰え、君主は術を使うことを考えて臣下を統御し、臣下は利益を得ることを思って君主に仕えるようになっています。君主と臣下が利益を得ることを謀るようになって、禍乱が相次いで起こり、それゆえに善悪の事跡は詳しく言うことが難しくなりました。臣としては、しっかりと比較してその事跡を明らかにするように請うものです。

そもそも傅説が高宗の大臣となり(12)、申公・召公が宣王を助け(13)、管仲が斉の桓公の補佐となり(14)、趙衰・范氏が晋の文公を助けた時には(15)、あるいは道を尊んで手本とし、〔君主は〕腕を組んで統治を成し(16)、〔臣下に〕委ねるのに重大な権限をもってして、ついに君主の補佐を任せましたが、いまだ〔強力な権限を持っていることを恃んで〕自分(君主)に迫り、かえって国に害をなす者(17)となったということはありませんでした。初めて田氏が斉をほしいままにし(18)、王莽が漢を簒奪した時には(19)、みな封地の豊かなのにより、何代にもわたる寵愛を恃み、愚かな君主につけこんで、皇太后の権力を利用し、悪事を働く徒党を増やし、国の滅び行く勢いを糸口として、そうした〔条件が整った〕後に自分の計画を実行して、簒奪の禍を成すことが出来ただけなのです。どうして功績を立てた君主の時代にあって、天と人に従われているのにもかかわらず、その良くない計画をめぐらして、人としてあるまじき行為を成し遂げることが出来ましょうか!光武帝は王族の身から村里より奮い立ち(20)、時勢の望みにしたがって、才知に優れた人を手に収め、ついに漢の業を続けて、中興の功績を麗しくしたのです。〔ところが〕天下がすでに定まるに及んで、しきりに功臣を退けるようになったのは、どうしてなのでしょう? 〔それは〕武力の士は〔天下が定まって後には〕股肱の臣とするに十分ではなく、一時の功績によって久しく権勢を与えるべきではないからなのです。その興廃の要諦は、また〔このことから〕うかがうことが出来ます。最近になって、三国が鼎立し、いずれも雄略の才能や一世に名高い能力によって、みな優れて賢い人に任せ、遂に功業を成して、これを後継ぎに伝えてましたが、誤って将来に恨みを残すようなことはありませんでした。

今王導や王廙らは、前代の賢人に較べれば、なお劣るところはあります。〔しかしながら〕真心を尽くし、義によって上を補佐し、共に帝王の事業を盛んにして、大業を助けるという観点からすれば、また昔の諸葛亮〔と同じ〕です(21)。陛下は代々の人徳によって、天と人の会う時にあり、江東の地に割拠して、南方を我が物とし、海辺の地に立ち上がって、昔の制度を元のように盛んにしたとは言いましても、これはまた才能を持った臣下たちの明哲さによるものでもあり、どうして陛下御一人の力だと言えましょうか。今、帝王の事業が立てられたとは言っても、羯の賊はまだ清められておらず、天下は乱れたままで、臣服しない者が多く、公も私も欠乏して米倉は満たされず、天子の棺は沈んでしまって、妃や皇后は帰ってきません。〔これは〕まことに賢能の人に任せて事業を成し遂げるべき日です。〔それにもかかわらず〕功業が完成されようとし、晋の福禄が盛んになろうとすると、一朝にして一人の臣下の言のみを聞き、紛らわしい意見に迷って、安全を危険に換え、親しいものを疎遠なものに代えて、徳望のある旧臣を追放し、媚びへつらう者を賢人に並ばせようとしており、〔これは〕遠くへは既に行ったことのあるかのような明哲さを欠き、顧みれば伊尹(22)・管仲の〔君主との〕交わりを損ない、高邁な大望を傾け、山のような〔確かな〕功績を失わせており、賢者や智者には心を閉ざさせ、義士には志を無くさせようとしているのです。〔これでは〕近くは当面の患いを呼び込むことになり、遠くは将来にまで笑いの種を残すことになります。そもそも、安全か危険かは〔皇帝の出す〕号令にあり、存続するか滅ぶかは重要な職責を任せることにあるのです。〔したがって〕古の例から今を考えれば、どうして心を寒くして悲しみ嘆かないでいられましょうか!

臣の兄弟は礼遇を受けて、誰とも仲違いはしておりません。それなのに臣が時の忌み嫌う意見を犯し、〔あえて〕皇帝陛下の御気持ちに逆らうのは何故でしょうか?〔それは〕心から社稷の憂いを思い、これを陛下に酬いようと考えるからなのです。古の明王は、その〔自分の〕過ちを聞こうと思い、一時の旅人のような言をも悟り、成功と失敗の理由を明らかにしようと考えたために、愚かな意見でも取り上げてその良否を判断し、上は宗廟窮まることの無い計画を立て、下は民衆の根源の命を収めることになったのです。臣としましては憂い憤ることに我慢できず、愚かな知恵を絞って申し上げました。

上疏が奏上されると、元帝は感じ悟ったため、王導らは身を全うすることが出来た。

王敦は周顗を殺害すると、人を遣わして周嵩を弔ったが、周嵩は言った。「亡き兄は天下の人であり、天下の人に殺されたのであるから、またどうして弔うことなどありましょうか!」王敦はこのこと強く根に持ったが、人情を失うことを恐れたために、〔周嵩には〕害を加えず、登用して従事中郎とした。周嵩は王応の兄嫁の父であり(23)、周顗が不条理な禍に遭ったために、いつも気持ちが穏やかでなく、かつて衆人の中で言った。「王応なんかには、軍隊を統率させるべきではない。」王敦は密かに方術を使う李脱に、周嵩や周莚が互いに職務を与え合ったことを誣告させ、ついに彼らを殺害した(24)。周嵩は仏に仕えることが敬虔で、刑に臨んでもなお、市において御経を唱えていたと言う。

周謨は周顗のおかげで、しばしば高い官職に就いていた。王敦の死後、詔があって戴若思(淵)(25)・譙王司馬承(26)らには〔官号と諡号が〕贈られることになったが、周顗には贈られなかった。その時周謨は後軍将軍であったが、上疏して言った。

臣の亡き兄である周顗は、昔、先帝(元帝司馬睿)に目を掛けて頂き、特別に御教えを受けて、参謀に仲間入りし、立派な上級の官職に就いていました。ついに朝廷の政治を管掌するようになりますと、他の臣下たちとともに中興を栄えさせ、そうして人材登用の官(吏部)を司るようになりました(27)。幾度も有難い任命を受け、師傅の位をも頂き(28)、陛下(明帝司馬紹)と会釈して対等の交際をさせて頂くというように、御恩を受けることが非常に大きかったものです。さらに加えて、我が一族と皇室とで婚姻関係を結んで頂き(29)、〔我らの〕義は深く任は重いものでしたから、股肱の臣の勤めを尽くし、受けた大恩に酬いようとしました。〔しかしながら〕凶悪な人(王敦)が憎むところは、正直な人を妬み害しようとするものです(30)。〔その結果、周顗の〕身は最悪の禍に陥ることになりましたが、その忠義は君主を忘れることがありませんでしたし、死をもって善き道を守ったのであり、亡くなった者たちは他にもいましたが、彼ほどの〔忠義を示した〕者はおりません。周顗が亡くなったと聞いた時、誰が心を痛めないでいられたでしょうか。まして臣は同じ兄弟であり、この悲しみが忘れられるはずもありません!

王敦が君主を戴こうとしない人であるということは、その由来も実に古いものであり、悪事の甚だしさでは古今に二人といません。幸いにも陛下の聡明と武徳のおかげで、凶悪な人を打ち砕き、乱れた世を正しい状態に戻して(31)、国家を安寧にすることが出来ました。先の戦いの際にも、皇帝の恩徳は捨てられることなく、周顗の息子の周閔を取って側近の官に入れて頂きました。臣は時として面と向かい、周閔に亡き父の侯爵を襲名させて頂きたいと申し上げました。その時、卞壼・庾亮が左右に侍っていましたが、卞壼は「この戦いが終わったら、追贈のことを議論しましょう」と言いました。それから時はいくらも経っていませんから、〔卞壼の〕言葉はなお耳に残っています。譙王承・甘卓(32)などはすでに名誉回復を受けており、王澄はずっと以前の人でありますのに、それでも〔名誉回復するべきかどうかの〕議論が起こっています(33)。まして周顗は忠義にして君主を守り、自分の身を朝廷のために落としたのですから、あの嵇紹の悲劇なら劣らないとしても(34)、周顗の悲劇に過ぎることなどあるでしょうか!〔それにもかかわらず〕今にいたっても封爵を元に戻し、褒め称える言葉を贈るという話は聞きません。周顗にその他の問題点があったり、一人だけ大恩に背いたということも聞きませんから、朝廷が日々の職務に忙しかったために議論する暇が無かったということでしょうか? これが臣の心と頭を痛め、幾度も悲しみ嘆く理由なのです。あまりの苦しみに耐えることが出来ず、恐れ多くも私の意見を申し上げました。

この意見は上奏されたが報いられなかった。周謨はまた上表を重ね、その後になって周顗に官職が追贈された(35)

周謨は小府・丹楊尹・侍中・中護軍を歴任し、西平侯に封じられた。卒すると金紫光禄大夫を贈られ、諡は貞と言った。

周馥は字を祖宣といい、周浚の従父弟である。父の周蕤は安平太守であった。周馥は若い頃から友人の成公簡と名声が等しく、共に起家して諸王の文学となり、昇進を重ねて司徒左西属となった。司徒の王渾が「周馥は為政の見識が廉潔公正な上、才幹もあり、九品を定めることを司って調査も詳細でありました。臣は彼に職務を任せて成果を上げようとしたところ、〔彼の〕毀誉褒貶の評価は適切でもありましたので、どうか尚書郎に補任してやって下さい」と上表し、これを許された。次第に司徒左長史・吏部郎に移ったが、人材登用の方法が正確で詳しいので、優秀だとの声がますます高まった。御史中丞・侍中に転任し、徐州刺史を拝任して、冠軍将軍・仮節を加えられた。中央に召されて廷尉となった。

恵帝が鄴に移られると(304)、成都王穎は周馥に河南尹を代行させた。陳眕・上官巳らは清河王覃を奉じて太子としようとし、周馥に衛将軍・録尚書を加えようとしたが、周馥は辞退して受けなかった。清河王覃は周馥に命令して上官巳と軍を合わせさせようとした。しかし、周馥は上官巳が器量の小さな人物で粗暴でもあるため、最後には国賊になるのではないかと考え、司隷の満奮たちと相談して彼を除こうとしたが、計画が漏れ、上官巳に襲撃されてしまい、満奮は殺害され、周馥は逃亡して免れた。上官巳が張方に破れると、周馥は召され、戻って河南尹を代行した。東海王司馬越が皇帝の車を迎え入れると(306)、周馥を中領軍とし、まだ就かないでいるうちに司隷校尉に移して、散騎常侍・仮節を加え、澠池において諸々の軍事を統率させた。恵帝が宮廷に帰還すると、〔外任に〕出て平東将軍・都督揚州諸軍事となり、劉準に代わって鎮東将軍となって、周玘らと共に陳敏を討ってこれを滅ぼし、功績のために永寧伯に封じられた。

周馥はいろいろと世間のことを経験して、常に朝廷を正そうと考え、その忠信には真心がこもっていた。東海王司馬越が臣下としての節度を尽くさないために、いつも言論主張が激しく、東海王司馬越は彼を煙たがっていた。周馥は賊党がはびこって、洛陽の地が孤立して危険なので、天子を迎えて寿春の地に遷都するよう建策した。永嘉四年(310)、長史の呉思・司馬の殷識と共に上書して言った。「悲運がここまでに至ってしまうとは、思いもよらぬことでした! 胡族が次々と侵略してきて、王都は危険に迫られています。臣はそこで祖納・裴憲・華譚・孫恵ら三十人と共に天下の計を考えましたところ、皆、殷の人にはしばしば遷都の事例があり(36)、周王には岐山への移住があります(37)。今、王都は孤立しかけて長く住むことは出来ません。〔一方〕河北の地は寂れていますし、崤函の地は険しく、宛城は何度も破られていますし、長江・漢水流域は不安が多いですから、今、蛮夷を平定するには東南の地が優っていると思います。淮水流域や揚州の地は北は塗山に拠り、南は霊嶽に向かい、名川が四方を流れて堅固さをいっそう増しています。そのため、楚の人は東遷し、遂に寿春に住まうようになり、徐・邳・東海もまた要害とするに十分でした。しかも運漕は四方に通じ、〔糧食などの物品が〕欠乏する恐れもありません。天子が聡明で重臣が賢明であったとしても、常につつましやかに正しく身を処して、そうして〔ようやく〕宗廟を守っていくのですから、良い土地を占って都を遷すことで、天からの永久の幸いを享けることに優るものではありません。臣は謹んで精兵三万を選抜し、陛下の御車を御迎えに上がるつもりです。そうして前北中郎将の裴憲に檄を飛ばして使持節・監予州諸軍事・東中郎将を代行させれば、風のように飛んで馳せ参じるでしょう。荊州・湘州・江州・揚州の地には、それぞれ四年分の租米十五万斛と布絹十四万匹を運び出して、陛下のもとに供えさせます。王浚・苟晞には共に河北の地を平定させ、我々は力を尽くして南への道を啓きます。〔そうすれば〕遷都と戦乱を収めること、その計画は二つとも得ることが出来るでしょう。陛下の御車がやって来られましたら、臣を転任させて、江州の地に拠らせ、帝王の計略を広められるようにして下さい。知りては為さざる無しというのは(38)、昔の人が勤め励んだところでありますから、あえて忠誠を尽くし、〔大恩に対して〕いくらかでも報いることが出来るようにと思い〔以上のことを申し上げ〕ました。もし朝に成し遂げることが出来たならば、たとえ夕に死んだとしても、生への願いが遂げられたのと同様〔に嬉しいこと〕です。」

東海王司馬越は苟晞と不和であったが、周馥は先に東海王司馬越の耳に入れず、いきなり上書したため、東海王司馬越は非常に怒った。以前、東海王司馬越は周馥と淮南太守の裴碩を呼び寄せたが、周馥はその召し出しを断り、裴碩に軍隊を率いさせて先に向かわせた。裴碩は周馥に二心を抱いていたので、挙兵して周馥が勝手に命令を下していると称し、すでに東海王司馬越の密旨を奉って周馥を図ろうと考え、ついに周馥を襲撃したが、敗北させられてしまった。裴碩は退却して東城を守り、救いを元帝に求めた。元帝は揚威将軍の甘卓・建威将軍の郭逸を派遣して周馥を寿春の地に攻撃した。安豊太守の孫恵が衆を率いてこれに応じ、謝摛に檄を作らせた。謝摛は周馥の以前の武将である。周馥は檄を見ると涙を流して「きっと謝摛の文章だろう」と言った。謝摛はそのことを聞くと、ついに草稿を破り捨ててしまった。十日ほどして周馥の軍勢は潰え、項の地に逃れようとしたが、新蔡王司馬確に捕らえられてしまい、憂い憤って病に陥り卒した(39)

以前に、華譚は廬江の地を失うと(40)、寿春にやって来て周馥を頼ったが、周馥の軍勢が敗れると、元帝に帰順した。元帝が尋ねて言った。「周祖宣(周馥)はどうして反逆するまでに至ったのか?」華譚が答えて言った。「周馥が死んだとはいえ、天下にはまだ直言の士がいます。周馥は反乱の賊軍がはびこって、天子の威が振るわないのを目にしたために、都を移して国難を除こうとしたのです。〔しかしながら〕地方の首長たちは〔周馥の建策に〕同意せず、ついには討伐されることになりました。しかし、それからどれほども無くして、首都は陥落してしまいました。もし周馥の計画に従っていれば、あるいは滅亡を後に延ばすことが出来たかもしれません。その心情を考え、事実を求めたならば、どうして反逆を起こしたなどと言うことが出来ましょうか!」元帝は言った。「周馥は征鎮の位にあり、軍隊を地方で掌握していながら、呼び出しても入朝せず、危険が迫っても持ちこたえることが出来なかったのだから、やはり天下の罪人だろう。」華譚が言った。「おっしゃる通りです。周馥は朝廷に出仕してはもともと優れた才知の評判があり、出でて地方に拠れば非常に重んじられていましたが、有効な計略も出せず、しばしば〔人臣間の〕和を失い、危険が迫っても持ちこたえられなかったのですから、天下とともにその責任を負うべきです。しかしながら、このことを反逆というのであれば、誣告でないと言えるでしょうか!」元帝の気持ちは始めて解けた。

周馥には二人の子があり、それは周密・周矯である。周密は字を泰玄といい、性格は穏やかで寡欲、当時の人は高潔な人だと褒め称えた。位は尚書郎に至った。周矯は字を正玄といい、また才幹があった。

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