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update:2021.04.17 担当:永一 直人
晋書巻九十六
列伝第六十六
涼武昭王李玄盛后尹氏
人物簡介

西涼の武昭王李玄盛(李暠)の后の尹氏(生没年不詳)、天水郡冀県の人である。幼くして学問を好み、弁舌清らかで志をかたく守っていた。はじめ扶風郡の馬元正と結婚し、馬元正の死後に李玄盛の後妻となった。前妻の子をかわいがるようすは自分の生んだ子をも越えていた。李玄盛の創業にあたって、はかりごとや経略について力添えすることが多かった。李玄盛が薨じて、子の李士業(李歆)が位を継ぐと、太后となった。李士業が北涼の沮渠蒙遜を攻めようとすると、諫めたが聞き入れられず、李士業は沮渠蒙遜に滅ぼされた。沮渠蒙遜から褒められ、むすめは沮渠蒙遜の子の沮渠茂虔(沮渠牧犍)の妻となった。後に伊吾に移住して卒した。享年七十五。

本文

〔西〕涼の武昭王李玄盛(李暠)の后の尹氏は、天水郡冀県の人である。幼くして学問を好み、弁舌清らかで志をかたく守っていた。はじめ扶風郡の馬元正にとついだが、馬元正が卒すると、李玄盛の後妻となった。再婚であったため、三年間もの言わなかった。前妻の子をかわいがるようすは自分の生んだ子をも越えていた。李玄盛が〔西涼を〕創業するにあたって、はかりごとや経略について力添えすることが多く、このため西州の諺に「李氏と尹氏は敦煌の王である」といった。

李玄盛が薨ずると、子の李士業(李歆)が位を継ぎ、〔尹氏は〕尊ばれて太后となった。李士業は〔北涼の〕沮渠蒙遜を攻めようとしたが、尹氏は李士業に「おまえが新しく建てた国は、土地は手狭で人口は少ないので、やすんじるには土地と人を守って、失うのをおそれなくてはなりません。どうして軽はずみなことをするのですか。分不相応な願いは望むものではありません。沮渠蒙遜は勇武にたけ、用兵をよくしており、おまえはかれの敵ではありません。わたしがみるに、沮渠蒙遜はここ数年来というもの兼併の志をいだいており、なおかつ天の時節と人事の流れはかれに帰そうとしているようです。しかし今は〔我が〕国は小さいですが、政治をおこなえば満たされます。満足を知るものは辱められない(1)というのが、道家による明白な戒めです。そのうえ先王が薨去なさるにのぞんで、おまえたちに兵戦をできるかぎり慎み、時を待って動くよう、懇切丁寧に遺命なさいました。お言葉はまだ耳に残っており、どうしてこのことを忘れることができましょうか!徳政につとめおさめて、隣国を観察しながら力を蓄えるしかありません。沮渠氏がもしみだらで粗暴となれば、人々はおまえに帰順してくるでしょう。おまえがもし徳をうち立てることがなければ、遠からずして沮渠氏に仕えることになるでしょう。おまえが出兵をおこなえば、ただ軍隊が敗れるだけでなく、国もまた滅びるでしょう」といった。士業は従わなかったので、やはり沮渠蒙遜のために滅ぼされた。

尹氏は姑臧にやってくると、沮渠蒙遜が引見して彼女をねぎらったので、「李氏は胡のために滅ぼされてしまうのに、また何の言うことを知りましょうか!」と答えていった。ある人が彼女を諫めて「母子の命は人の手にかかっているというのに、どうしておごり高ぶったふるまいをするのですか!国が敗れたうえに子孫が皆殺しにされるのを、どうしてひとり悲しまないのですか?」といった。尹氏は「国の興亡や子孫の死生は、すじみちだてて大きく分かれるのです。どうして凡人の死と同じように、児女の悲しみを起こしましょう!わたしは一婦人で、死ぬことも滅ぶこともできません。どうして斧鉞にかかり命を落とすのをはばかって、臣下の妾となることを求めましょうか!もしわたしを殺すというなら、わたしはそのように願うものです」といった。沮渠蒙遜は彼女を褒めて殺さず、子の沮渠茂虔(沮渠牧犍)のために彼女のむすめを妻としてめあわせた。魏氏(拓跋氏)が武威公主(太武帝の妹)を沮渠茂虔にめあわせると、尹氏とむすめは酒泉にうつり住んだ。その後まもなくむすめが亡くなると、むすめの遺体を撫でて泣くことなく、「おまえは死ぬのが遅かった」といった。沮渠無諱がときに酒泉を鎮めていたが、いつも尹氏に「后のお孫たちは伊吾におられるが、后は行くことができないのか?」といっていた。尹氏はその言葉の意図をつかめず、「子孫はさすらい歩き、醜いえびすに身を託しています。老年は命の余すところ、ここで死を迎えるべきでしょう。匈奴の幽霊になることはできません」と答えていった。唐突にひそかに伊吾に逃れたので、沮渠無諱は騎兵をつかわして彼女を追わせた。尹氏は使者に「沮渠氏は酒泉でわたしが北に帰るのをお許しになったのに、どうして追ってきたのですか?あなたがわたしの首を斬って帰るのでなければ、もどりませんよ」といった。使者はあえて帰るように強要しなかった。享年七十五で、伊吾で卒した

史臣がいう:そもそも霜の繁く〔雪の〕降るように節義は〔さかんで〕あり(2)、強い心を明らかにしていたものが、後代にはしぼんでいった。時にあってはとめどなく流れ、徳を高くして正しさを顕彰されるのを待っているのは、かの君子でないか、あるいはまた婦人であるか。晋の政治が夷狄にうちひしがれてからというもの、教化の手本を立てるものもまれであり、落ち着きはなくなり、品行にはそむき、おたがい急いで卑俗になり、劉石をもってこれに敷き、苻姚をもって水に投ずるようである(3)。三月胡に歌い、ただ争ってうわべのつくろいを新たにするのを見るだけだ。ひとたび漢の時代を去ると、なんともいにしえを恋いうる情もかすかである。馬を走らせて土ぼこりが舞い(戦乱が巻き起こり)、名教は脱け落ち、頽廃や放縦や忘恩や謀反は、このとき極まった。そのような状態にいたって恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め、道韞(王凝之の妻謝氏)が孫恩に向き合い、荀氏のむすめ(荀灌)が重囲の中の危急を解き、張氏の妻(張茂の妻陸氏)が強賊に対して怨みを報いた。帝位を僭称した苻登の后(毛氏)は死んでも再嫁せず、偽朝の呂纂の妃(楊氏)は命を捨てて惜しまず、宗氏(賈渾の妻)や辛氏(梁緯の妻)は情欲にさからって早死にし、王氏(王広のむすめ)や靳氏(靳康のむすめ)は節を守って終りに就いた。これみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないか。〔彼女らは〕天の川がそびえ立ち、葉が高いところにつくように、ゆったりとすぐれた評判があった。幽谷の節操が垂れ下がっているのを奮い立たせ、もとより引いて恥じることなく、男をならべて梁(はり)に引っかけて顧みることなく、剣をならべてあるべきところに落ちつくようであり、普通でないやりかたで風格を整えるようであった。千年のあいだも称揚すべきであろうか。

賛に言う。女性が守るべき礼を勧め、女性として守るべききまりにおとなしく従う。〔孝、友、睦、婣、任、恤の〕六つの行い(4)に従いながら、ここで〔婦徳・婦言・婦容・婦功の〕四つの徳を(5)明らかにする。言動がきよらかで、人柄は風や霜のようにおごそかであり、よい評判は国々に流れる。朱色の筆が祖先の教えを書き残し(6)、清々しい人柄は食い違うことがない。

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